第百三十幕 朱の少女
「さて、帰るか」
「・・・はい」
抱えられていた悠子は、鬼討師の背に移された。大鹿の背に掴まり、悠子は腰を下ろす。
悠子が乗ったのを確認した鬼討師は、大鹿に下へ降りるよう促した。
大鹿は鬼討師の言葉を受けて、滑るように下り始め、直達がいる場所へ向かっていく。
「ありがとうございます。二度も助けていただいて」
背中越しに声をかければ、鬼討師は気にするなという風に言った。
「こっちは君に助けられた。お互い様だ」
「・・・それでも、ありがとうございます」
自分の力では、彼を憎しみから解放することはできなかっただろうから。
悠子は、両手に力を込めた。
――分かってはいる。
自分が荒御魂に『断風』を使わない限り、こんな事は何度でも起こる。
けれど、それでも。
悠子は、ぐっと顔を上げ、鬼討師の肩越しから星々の輝く紺碧の空を見つめる。
幾度、心が揺れようと、この気持ちは変わらない。
――鈿女の記憶を視てから、なお、その気持ちは強くなった。
頬を撫でる冷たい風を感じながら、悠子は、花びらとなって自然に還ったあの男が、いつか人として生まれ変わり、彼の愛した妻や子の魂を持つ者に出会えることを願った。
「もうすぐ着くぞ」
鬼討師の言葉通り、真下には電灯の明かりに照らされたノイエスワンダーランドが見えた。
しかし、中央付近には、不自然に明かりが途切れた場所がある。それは、ぼろぼろになった観覧車だった。その周辺には、多くの人がおり、彼らの近くには薄ぼんやりとした、まるで蛍のようなか弱い光が輝いている。その光は、悠子――岩長が自らの血に宿る炎で浄化させた兵士達だった。岩長が出した炎は、すでに鎮火していた。
彼らも一様にウズメに対する怒りや憎しみを抱いていたが、炎で浄化できたということは、炎に包まれたという事実に驚き、一瞬負の感情を忘れたからか、または霊本人の意思がさほど強くなかったからか、それとも根底に別の感情――家族に会いたい、故郷に帰りたいという想いがあったために、理性ある人の姿に戻ったと考えられる。
逆を言えば、あの炎は霊本人の意思が強ければ強いほど、効くことはない。
(高天原に送らなければ――)
身体のだるさは変わらないが、最後までやり遂げなければ。これは、鈿女の巫子としての責任だ。
だが、あの数。五十人ほどはいるだろうか。
体調が万全ならどうということはないが、そうでない今、あの数の兵士――和御魂を高天原に送ることができるだろうか。
不安が頭を擡げた時、見たことのない映像が脳裏に浮かんだ。
鏡のように澄んだ湖面に顔を寄せる一人の少女の姿があった。
日に焼けたような褐色の肌に、夕日のように鮮やかな朱色の髪を腰まで伸ばしている。黄水晶に似た柔らかな檸檬色をした瞳は、湖面に射す陽の光を反射し、きらきらと輝いていた。年は、悠子より少し下、十五歳くらいだろうか。淡い若草色の袷に、赤の下地に白の唐草模様を描いた帯を締めている。
『加具土!』
少女の名だろうか。少年の声でそう呼ばれた彼女は、声をかけられた方向へ振り向く。
その時、少女と目が合ったように悠子には思えた。
――檸檬色の瞳に吸い込まれる。
瞳の奥にあったのは、嬉しさと楽しさ。寂しさと悲しみ。そして、諦め。正と負の感情が入り混じったものだった。それは、悠子の胸に、矢のように真っ直ぐ突き刺さった。
そして、悠子は思い出す。自らの魂に眠る神の力を。
彩慶が地面に下りる。
それを確認した暁は、悠子を先に降ろそうと振り向いた。
「――っ!!」
目に飛び込んできた悠子の姿に、暁は思わず息を呑んだ。
肥えた土のような褐色の肌、夕日のように鮮やかな朱色の髪。瞳は黄水晶に似た柔らかな檸檬色だった。年は十代前半くらいだろうか。整った顔立ちではないが、背筋は一本の芯が入ったかのようにぴんと伸び、瞳には熾火のような光を宿している。その氣は、日だまりのような、全てを包み込む温かさがあった。それは、親しみやすさを感じさせるものだったが、一瞥されただけでも、意識を持っていかれるような、神々しさと力強さがあった。
(誰だ――)
氣だけは、暁が観覧車で助けた少女そのものなのに、明らかに違う。いや、先ほども姿は違っていたが、それでも、違うと言い切れた。
先ほどの姿が人間だとすれば、今、この目立つ容姿に幼い姿は――。
(――神)
そう言い表すのがしっくりくる。
少女は彩慶から降りる。衣擦れの音も足音もさせず、地面に着くと、滑るように歩き始めた。
彼女は観覧車近くの広場に足を止めた。人々が遠巻きに朱色の少女を見つめている。彼らだけでなく、その近くに佇む兵士の霊達も同じように少女を見つめていた。
トンッ。
足音が広場に響く。少女は右足の爪先を上げ、リズミカルに地面を叩き始めた。
トンッ、トンッ、トンッ、トンッ。
そして、両腕を胸元に掲げ、その姿勢を維持したまま、少女は舞う。
トンッ、トンッ、トンッ、トンッ。
片足で地面を叩き、舞うたびに、少女の若草色の裾と、赤と白の帯の端がふわふわと揺れる。同時に、少女の周りを青白い光が包み始め、また、兵士の霊達の周りにも現れ始める。
すっと息を吸い、少女は謡い始めた。
『・・・目覚めよ、天之常立。天つ風を吹かせ、和御魂の導きとなせ。我が言霊を楔とし、岩天戸を開きたまえ』
その声は良く通り、鈴の音のように凛とした声だった。
彼女が謡い終えた直後、息もできないような強風が吹いた。その強さに、人々は小さく悲鳴を上げ、ぼろぼろとなった観覧車の部品がガラガラと嫌な音をたてて転がる。
まるで見えない壁を鼻先に突きつけられたような感覚に、暁は思わず顔を背けた。
しばらくして、風が止み、顔を上げる。すると、緑の匂いを強く含んだ清涼な空気が辺りを包み、空はところどころにあった雲が取り払われ、満天の星が輝いていた。
『さぁ、皆さん。風に乗って。高天原へ行きましょう。もう、ここに囚われ、縛られる必要はありません』
少女が兵士達に促すように言えば、どこからともなく風が真下から吹き、驚き、目を見開く兵士達を上へ上へと押し上げた。
兵士達は次々と夜空へ、星空の向こうへ消えていく。
直の真後ろにいた兵士は、どこかほっとした、安らかな表情を浮かべながら風に乗り、夜空へ消えていった。
『これで、もう大丈夫』
安心させるような、力強い言葉が少女の口から零れる。
「あ、ありがとう」
誰かは分からないが、霊達を祓ってくれたのだ。悪い子ではないだろう。そう思った直は礼を言った。すると、少女は嬉しそうに笑みを浮かべる。
「ね、ねぇ、私と同じくらい、十七、八歳くらいの女の子を知らない?髪が長くて、ピンク色のブラウスを着てて、ベージュ色のスカンツを穿いてるんだけど」
別の姿をした悠子が空へ飛ばされてから、その姿を見ていない。その後にやってきた大鹿の姿は確認したが、そこに悠子の姿はなく、代わりにこの少女の姿があった。
なにか彼女なら知っているのではないかと、直は尋ねる。
『・・・・・・・』
少女から笑みが消え、どこか虚ろな表情になったかと思うと、ぐらり、と少女の体が傾ぎ、直の方に寄りかかってきた。
「え?ちょっ!」
慌てて少女の肩を掴めば、少女の姿が砂嵐のようにぶれ、探していた悠子の姿になった。
顔色は青ざめ、だらりと垂れた右腕は、何度も何かを刺したように穴が開き、血にまみれていた。
「悠子!!」
少女が悠子であったことに驚きながら、目を見開き、直は叫ぶ。
「悠子、しっかりして!!ねぇ!!」
声をかけ、肩を揺するが、悠子の目は閉じられたままぴくりともしなかった。
「・・・・終わったわね」
双眼鏡を覗いたまま、丘の上で一部始終を見ていた安奈がぽつりと呟く。その声は、どこか不満気だ。
「不満そうだな」
「えぇ。こうも簡単に彼らを送れるなんて思わなかったわ。それに、あの子の――加具土の姿を見たから余計にね」
安奈は、双眼鏡を顔から離す。それを掴む手に力が籠り、ギリッと双眼鏡の軋む音がした。
加具土に対する安奈の憎しみの深さを垣間見て、龍は思わず喉をごくりと鳴らした。
「・・・これからどうする?」
怖々と肩の上から言葉をかければ、安奈は間髪入れずに答えた。
「撤収よ」
振り返り、安奈は、背後に佇む春樹、穂積、梅花にも告げる。
「余計なのが来る前にここを出るわよ」
警察が来たら、せっかくの計画が台無しになる。
春樹と、その肩に乗っている梅花が頷く。だが、穂積は双眼鏡を外さず、そこから動こうとしなかった。聞く気のない穂積の様子に、春樹が深々とため息をつく。
「おい、行くぞ」
動かない穂積を春樹が襟首を掴み、無理やり引っ張っていく。携帯電話のライトで足元を照らしながら丘を降りていく彼らを一瞥してから、安奈はポケットから携帯電話を取り出し、グローリアの番号を呼び出すと、発信のボタンを押した。
数回のコール音の後、グローリアが出た。
「もっし、も~しっ!」
跳ねるような高い声が耳に届く。その高い声に混ざって、ざわざわと木立の擦れる音と、人のうめき声のようなものが聞こえた。どうやら首尾よく終えたらしい。
「グローリア、撤収よ」
「りょーかいっ!」
返事を聞いた安奈は携帯電話の電源を切った。
「行くわよ」
「おう」
龍に声をかけ、安奈は春樹達の後を追った。