第百二十八幕 赤い手の怪
「な、なにっ!?」
「・・・・・っ!!」
照明が落ち、次の瞬間、激しい揺れがゴンドラを襲った。
直が座席にしがみついて悲鳴を上げる。その肩を歩が掴み、支えると、外から感じる強烈な負の氣に鋭い視線を投げた。
「きゃっ!!」
「くっ!!」
ぐらぐらと傾ぐゴンドラに、楓の体が座席から離れ、浩一にぶつかる。
「ご、ごめんなさいっ!」
慌てて離れようとしたが、揺れは収まる気配を見せない。
「捕まってろ!」
すると、左手で座席の淵を握りしめていた浩一は、右腕で楓を支えるように抱き締めた。
「・・・・っ!」
楓は、思わず息を呑んだ。
この緊急事態というのに、不謹慎だ。それに、彼は自分を振ったではないか。そう思うが、鼓動は激しく脈打ち、顔が熱くなるのを感じていた。
ゴンドラの揺れに、悠子はたたらを踏む。慌てて、座席を掴んだ。
「っ!!」
そして、ゴンドラの外から怒りや憎しみという負の氣が漂うことに、驚きと困惑を覚えた。しかもその氣はどんどん強くなっている。
(一体、どこから――?)
氣の出所を探ろうとするが、それをする前にゴンドラが再び激しく揺れ、メキッという音とともに、悠子の背中側にある座席部分が大きくへこむ。それを見て、悠子は大きく目を見開いた。
「っ!!」
楓達が乗り込むのを見送り、近くのベンチに座り、観覧車を見つめていた理御は、頭の上から怒りや憎しみという負の氣が漂っているのを感じ取り、頭上を仰いだ。
次の瞬間、観覧車が不規則な動きをし始めた。
ゴンドラが大きく揺れ、刹那、メキメキと音をたてて縮み始めた。観覧車の金具やゴンドラの一部が剥がれ、ばらばらと地面に落ちてくる。
「いやぁっ!!」
「大ちゃんっ、お父さん!!」
行列をつくった人々がざわめくなか、若い女性の悲鳴と母親らしき人物が子供と父親の名を叫ぶ。
「離れろ!早く!!」
行列をつくる人々の波をかき分け、彼らに離れるよう叫ぶと、理御は観覧車の係員――上を向いて固まったままだった――の胸ぐらを掴んだ。
「おい、客を全員避難させろ!!」
「はっ、はいっ!!」
係員――二十代ほどのまだ年若い青年――は、慌てて駆け出し、並んでいる人々に大声で非難するように呼びかけた。
そうしている内にも、ゴンドラの金具や一部が次々と落ちてくる。ゴンドラは、当初の大きさが分からないほど細くなっていた。このままでは乗客の命が危ない。
空を飛べない理御は巨大化して、ゴンドラの中にいる乗客を救出するしかない。
一カ月前の事件の事もあり、巨大化すれば客がパニックを起こす危険性もあるが、背に腹
は代えられない。理御は目を閉じ、自身の妖力を解放した。
瞬く間に、理御の身体が変形し、しばらくして観覧車を超すような巨内なコブラに似た大蛇に変身していた。
ゴンドラの変形は、上の方が進みが速かった。理御は、下から聞こえる悲鳴とも叫び声ともつかぬ声を聞きながら、鱗がびっしりと生える身体を波打たせ、天辺のゴンドラから首を伸ばし、ゴンドラの観覧車を繋いでいる鉄骨に歯をたて食いちぎる。この大蛇の姿なら、鉄でもダイヤモンドでも噛み砕くことができるのだ。
バキバキッ、メリメリメリ。
凄まじい音をたてて、ゴンドラが観覧車から離れた。すると、キィキィと耳障りな音をたてていたゴンドラの動きが止まる。
(これなら!!)
理御は、ゴンドラを空間の空いた広場に注意深く降ろす。そうしている間にも観覧車は大きく不規則に揺れ、ゴンドラは縮まっていく。
焦りは禁物だ。時間はかかるが、救助の人間が来るまで少しずつやっていくしかない。陽燕も来れば少しは楽になるだろうが。
理御は腹をすえて救助にとりかかった。
人々が悲鳴を上げ、出入り口の方へ駆けていく。その中を陽燕は逆走する形で走っていた。
女を探し、あちこちを駆けずりまわっていたが、多くの入場者がいるなか、顔だけを頼りに探すのは容易な事ではなかった。
アトラクションゾーンで女を探していると、怒りと憎しみに溢れた氣が頭上を通り過ぎるのを陽燕は感じた。
「っ!!」
その氣が行きつく先を見れば、それは観覧車だった。大きく不規則に揺れ、ゴンドラがメキメキと音をたてて縮んでいく。そこには多くの人の氣と、楓達の氣も感じられた。
「くそっ!!」
女を探している場合ではない。陽燕は全速力で観覧車のあるノイエスタウンへ向かった。
「くっ!!」
ゴンドラが縮む速度は緩むことなく進み、浩一と楓の肩幅くらいの隙間しかなくなっていた。
このままでは圧死する。だが、窓もドアも潰れ、外に出ることはもはや不可能だった。
浩一は、楓の肩を掴み、包み込むように抱き締める。
(頼む。誰でもいい。――助けてくれ!!)
祈るような思いで、狭まるゴンドラを見つめていると、バキッという何かが折れる音ともに、ゴンドラが大きく揺れた。
ぐらりと体全体が浮くような嫌な揺れを感じながら、浩一は、楓を抱きしめたまま、最悪を想定して、ぎゅっと目を瞑る。しばらくして、真下からドンッという衝撃を感じた。続いて、金属が剥がれるようなキィキィという嫌な音が頭の上から響く。
いよいよだと思い、体を固まらせていたが、何も起こらない。むしろ、ゴンドラの動きも止まったように感じられた。
目を開けてみれば、メキメキという金属がひしゃげる音も聞こえず、ただ、窓もドアも潰れ、意味のなさなくなった狭い空間が広がるだけだった。
キィッと頭上から音がし、顔を上げる。見れば、天井に人一人が通れそうな穴が開いており、そこから闇に染まった空が覗いていた。
「大丈夫か!?」
すると、見も知らぬ男が穴からひょっこりと顔を出した。肩からは鮮やかなオレンジ色が垣間見えた。
「待ってろ!今引っ張り上げる!」
男は顔をひっこめ、しばらくすると、白く太いロープが頭上から降りてきた。助かったのだと心底安堵しつつ、浩一はそのロープを手に取り、楓の方に押しやった。
「七海、先に行け」
「え、でも・・・」
「いいから」
躊躇うそぶりを見せる楓に、浩一は強く言い放った。
揺れのせいもあるのか、楓の顔は青白い。明かりがなくともそれとわかるのだがら、よほどだろう。先に行かせた方がいい。浩一はそう判断した。
「・・・はい」
有無を言わせぬ浩一の口調に何を言っても譲らないと悟ったのか、楓がロープを手に取った。
楓が縄を掴むのを確かめ、浩一は開いた天井から顔を出している男に向かって叫んだ。
「お願いします!!」
その声に男が返事を返した。
「わかった!!みんな、引けー!!」
オーエス、オーエスという掛け声とともに、ロープが引っ張られ、楓の体が上へ上へと上げられていく。
「は、早瀬さん!なるべく上は見ないでくださいっ!」
すると、上ずった声を上げ、顔を赤くしながら懇願するような眼差しで、楓が浩一を見た。目の前にひらひらと水玉のワンピースが揺れる。
「・・っ、悪い!」
浩一は慌てて背を向けた。
「もうっ!何なのよ、一体!!」
メキメキと音をたてながら、ゴンドラ内が圧縮されるように縮んでいく。
涙声になりながら叫ぶ直を支えながら、歩は桜香を呼んだ。
「桜香っ!!」
間髪入れずに桜香が現れる。その姿は小さな猫だ。
「は~い、呼んだ~?って何これっ!?」
のんきな調子で現れた桜香だったが、歩達の状況を見て、すっとんきょうな声を上げた。
「説明してるひまはない!桜香、ちょっと痛いだろうが我慢しろ!執行形態!!」
「えぇっ!!」
縮んでいくゴンドラ内で桜香を巨大化させたら、どうなるか。結論からいえば、桜香の体が挟まれる。縮んでいくままなら、桜香の体に傷がつくだろう。
見えた結果に桜香が思わずといった風に叫ぶ。
次の瞬間、桜香の体は巨大化し、灰色の体が狭いゴンドラに溢れた。
「桜香っ!光針波っ!!」
桜香とゴンドラの隙間から歩は叫んだ。
「もう、むちゃくちゃよ!」
声を荒げながら、桜香がゴンドラのドア側に口を向け、言霊を叫んだ。
「光針波!!」
桜香の口から巨大な光線が迸り、ドアに直撃した。ドアに大きな穴が開き、生ぬるい熱風が歩の顔を叩く。
「吉沢!桜香の首にしがみつけ!ここから出るぞ!!」
「うん!」
桜香の体に乗り込み、その首に直がしがみついたのを確かめると、歩も同じように桜香の首に右腕を絡め、左手で直の体を支えた。
「いいぞ、桜香!行けっ!!」
歩の言葉とともに、桜香はゴンドラから抜け出る。そして、空を蹴り、観覧車から離れた。
顔を上げ、周囲を見渡してみれば、外はすでに日が沈み、紺色の空に覆われていた。
ギイィィィッ。
何かが軋むような嫌な金属音が耳を打つ。観覧車を見れば、十ほどのゴンドラが見えない手に潰されるかのように、メキメキと音をたて、ゆっくりと細まっていく。
(まずい!中には人が――!!)
焦りを覚えるなか、その横で、巨大な大蛇が縮みゆくゴンドラを繋いでいる鉄骨から引きはがしているのを見た。妖のようで、ゴンドラにいる人々を救助しているらしい。
歩も習いたかったが、直を乗せたままでは救助は難しい。桜香が乗せられる人数は、最低四人。歩が先導者として乗り込んだままとなると、助けられる人数も限られてしまう。
すばやく視線を走らせ、ノイエスタウンにある施設で降りられそうな場所を探す。
すると、すぐそばに風見鶏のある平らな屋根のある家が見えた。
「吉沢、あそこにいったん降ろすぞ。桜香、あの風見鶏の屋根だ」
「わかった」
桜香は空を蹴り、歩の言った風見鶏のある屋根に向かった。
揺れは時間が経つにつれ、激しく、大きくなった。そして、メキメキと音をたてて、ゴンドラが縮んでいく。
外へ出ることもかなわず、悠子はゴンドラの隅へ隅へと追いやられていく。
このままでは潰されてしまう――!!
命の危機を感じたその時、縮むゴンドラの隙間から一枚のピンクの花びらが入ってきた。
「え?」
この園内に花が咲いているとして、この高さから花びらが舞い上がるなんてどう考えてもおかしい。戸惑う悠子の目に、その隙間から次々と花びらが入ってくる。
赤、白、黄、オレンジ、紫、ピンク、黄緑、青。
まるで、雨のように花びらはゴンドラ内に降り注ぐ。かなりの量になった花びらは、刹那、巨大な手に変わり、狭まったゴンドラのドア部分を力を込めて押し始めた。メキメキ、バリバリという音が鳴り響き、やがてドア部分がガコンと勢いよく外れた。
狭まっているとはいえ、支えともなっていた側面が外れ、ゴンドラは大きく右に傾ぐ。
「うわっ!」
掴まる部分など座席の背もたれしかない。それに爪をたてようにもスペースがなく、掴むことなどできはしない。必然、悠子の体が宙を舞った。
――落ちる!!
そう思った時、誰かに右腕をぐいっと掴まれ、勢いよく持ち上げられたかと思うと、温かな白い毛並に顔ごと突っ伏していた。
顔を上げれば、目の前に耳をピンとたてた犬の首が見えた。
「颯、その子を避難させろ。終わったら、戻れ」
低い声で紡がれる『颯』という名に、悠子はハッと我に返る。
「了解した」
かつてよく聞いたその声に、悠子は泣きそうになる。達騎が記憶を消してしまったため、彼の霊威である『颯』の存在はなかったことにされていたが、別の誰かの霊威となっていたらしい。
「瑠璃は俺と来い」
「わかったわ」
颯の妹である瑠璃はどうなったのだろうか。それが頭に過った時、再び低い声が瑠璃の名を呼ぶ。横を向けば、そこに空中を漂う瑠璃がいた。その山査子のように赤い瞳は、真っ直ぐ声をかけた人物に向けられている。
悠子は颯の背に手をつき、体を支えると、瑠璃の視線の先にある、颯と彼女の相棒らしい鬼討師の姿を目にした。
その鬼討師は、立派な角をもつ鹿の霊威の背に乗った、四十代ほどの小柄な男だった。ワイシャツに黒ズボンというラフな格好だが、背筋は真っ直ぐに伸び、抜身の短刀を思わせる鋭く尖った氣を発していた。
鼻が冬でもないのに赤く染まり、茶色のそばかすが頬の辺りに散らばっている。
鋭い眼光は、観覧車に向けられていた。
(――達騎くん?)
達騎がここにいるはずもなく、氣さえ彼のものとは一致しない別人だというのに、悠子の頭に浮かんだのは、達騎の顔だった。それくらい男の顔は達騎に似ていた。
「行くぞ」
男は瑠璃を引き連れ、メキメキと音をたて続ける次のゴンドラへ向かっていった。
「あ、あの!ありがとうございます!!」
お礼を忘れていたことを思いだし、悠子は慌てて男の背に声を投げた。
男は振り返ることなく、ゴンドラへ飛んでいった。
聞こえていることを願いながら、悠子は、ふと上の方へ視線を向ける。頂点にあったゴンドラの多くは跡形もなく消えていた。
背に寒気がひた走り、悠子は顔を青ざめさせた。
「っ!」
自分のことでいっぱいいっぱいだったが、他の人達はどうしたのだろう。直や楓、浩一や歩は。
「あの、他の人達はっ!」
地上へと降りている颯に悠子が問いかける。
「あぁ。天辺付近の、潰れる進み具合が速いところはもう救助が終わってる。反対側もあの大蛇がゴンドラを引き剥がしてくれた。あとは、下の方の進み具合が遅いところだけだ」
(大蛇?)
悠子が観覧車の反対側を見れば、颯の言う通り、巨大なコブラに似た大蛇が鉄骨を引き剥がし、ゴンドラを地面へと置いているのが目に映った。そこから少し離れたところには、幾人もの人々が集まっている。避難している人々だろうか。
おそらく、あれがそうなのだろう。必死な氣を醸し出す大蛇に、悠子は頭が下がった。
「・・・そうですか」
大方救助が終わっているのはよかったが、下のゴンドラの人達がまだなのは心配だ。それに、直達の安否も気にかかる。
その時だった。悠子達の脇をものすごい速さで横切るものがいた。
それは、桜香の背に乗った歩だった。
「堯村くん!?」
おそらく救助に行ったのだろう。桜香は脇目もふらず、観覧車へ向かっていく。歩が無事ということは直も無事だろう。自力で脱出したのか、または助けられたのかは分からない。だが、とにかく何事もなかったことに安堵する。けれど、救出しに行ったということは、直を避難させたということだろう。彼女がいるのは、観覧車のそばの、避難した人達がいる広場だろうか。それとも――。
悠子は周囲へ視線を走らせる。すると、明かりが灯るタウンの家々――その中にある風見鶏のある屋根の上に、直が不安そうな顔をしながら立っていた。
(直ちゃん!)
直の姿を目にして、無事でいることにほっとしながら、悠子は颯に言った。
「颯さん、あの風見鶏のある屋根に行ってもらってもいいですか」
「わかった」
颯が答え、直のいる風見鶏のある家に下りていく。
「直ちゃん!」
声を上げれば、直が悠子に気づき、安堵した表情を浮かべた。
屋根の上に下り立った颯の背から降りた悠子は、直の元へ駆け寄った。直も同じように駆け寄ってくる。
「直ちゃん!!」
「悠子!!」
顔を見合わせた悠子は、直の様子をざっと見る。大きな怪我はしていないようだ。
「よかった。大丈夫?怪我はない?」
念のため、聞いてみる。
「私は平気。悠子は?」
逆に真剣な表情で聞き返され、悠子は心配をかけていたことに気付く。――自分の事になると、どうも投げやりになっていけない。
「私も平気だよ。さっ、颯さんに乗って下に下りよう。楓ちゃんや早瀬くんの事も心配だし・・・」
「・・・そうね」
頷きながらも、直の表情は晴れない。この状況で明るくなれというのは無理な話だが、直の目線が観覧車の方を向いていることに気付いた悠子は、直が歩のことを気にしているのだと察した。
「堯村くんのことが心配?」
そう声をかければ、直はびくりと肩を揺らし、悠子を見た。一拍置いた後、直は口を開く。「・・・私、あいつにまだ『ありがとう』って言ってないの。戻ってきたら、言わなくちゃ」
心配だと口にはしなかったが、観覧車を見つめる瞳は不安そうに揺らめいていた。
「そうだね。でも、ここにずっといるわけにはいかないから、下に下りよう。全部終わったら、下から堯村くんに声をかけよう。桜香さんも一緒だからすぐに見つけられると思うよ」
日は沈んだといえど、異常気象のせいか気温は昼間とあまり変わりない。すでに、悠子の背は、汗で服が貼り付いて気持ち悪いことこの上なかった。
味わったことのない恐怖と、極度の緊張と不安を強いられ、直は自身が思っている以上に疲弊しているはずだ。休息も取れない屋根の上にいるのは、体によくない。下手をしたら熱中症になってしまう可能性だってある。
急いで楓や浩一の安否を確認し、合流して避難しなければ。
「っ!!」
半ば焦りを覚えながら、直を見ていた悠子は、怒りと憎しみといった負の氣がさらに大きく膨れ上がったことに気が付き、勢いよく振り返った。その根源は観覧車の方からだった。
ゴンドラ内にいた時も、そして外に出た現在でも強く感じていたが、さらに強い。
「ギャアァァァッ!!」
突如、ゴンドラ内の人々の救助をしていた大蛇が激しい叫び声を上げた。
大蛇は巨大な体を大きく揺らす。頭を前後に揺らしたかと思うと、次は尾を振り、幾ばくも経たないうちに下半身をくねらせる。まるで身悶えているようなその動作に、悠子は目を皿のようにして、大蛇を見つめた。
全身深い緑色の鱗に染まった大蛇の体全体に、赤い斑点のようなものが見える。よくよく見れば、赤い斑点は徐々に増えているようだった。
すると、大蛇は、今度は頭を観覧車の鉄骨に叩きつけ始めた。それは、大蛇自身を傷つけるだけでなく、未だゴンドラ内にいる人間や歩達など救助に向かっている人間、観覧車の下に一端避難している人々を危険にさらす行為だった。
このままでは――!!
悠子が歯噛みしていると、雨が降っているわけでも、雷雲が渦巻いているわけでもないのに、大蛇の頭に、突如雷が落ちた。
ドオォンッ。
地面から突き上がってくるような衝撃とともに、強烈な光と轟音が周囲に溢れる。
ビリビリとした振動を感じながら目を瞬かせ、どうにか視界をはっきりさせれば、光は徐々に薄れていき、光の中心にいた大蛇の体の周りには、電流がバチバチと音をたてて溜まっているのが見えた。大蛇は口から煙を吐き出すと、凄まじい音とともに地面に倒れる。
辺りには、雷が落ちた時に似た鈍く低い音が響いた。
(陽燕さん・・・)
そして、大蛇の近くに陽燕の氣を感じた悠子は、彼が大蛇の動きを止めたのだと察したのだった。
悠子は振り返り、目を見開き、固まっている直に強く告げた。
「直ちゃん、下に下りよう」
「・・・あれは半分冗談だったんだがな」
苦しみ、悶え、果ては周りの人間に危害を加えそうになった理御を、陽燕は抱え上げた。
その姿は、人の姿に戻っていた。けれど、体全体にまるでホラー映画のような赤い手の跡が所狭しとついている。
この手が理御を苦しめたのだ。
ぐっと奥歯を噛み締め、陽燕は観覧車の向こうにいる、白字に『RESCUE』と書かれたオレンジ色の上着を身に着けた救助隊の方へ歩き出した。
息はある。理御を園内の救助隊に預け、自分は残るゴンドラ内の人々の救助を――。
そう頭を巡らした瞬間、右足に鋭い激痛が走った。立っていられず、陽燕は左膝をつき、どうにか地面に倒れ込むのを防いだ。
理御に何事もないことを確認しながら、痛みを感じた右足を見ようと顔を振り向かせた。
すると、そこには、陽燕と同じように赤い手の跡がジーンズに貼りついていた。
「なんだ――がはっ!!」
なぜ理御と同じものが。困惑する陽燕だったが、突如、誰かに首を絞められたような息苦しさを感じ、肺の中から全てを出すような息を吐き出した。それを皮切りに、次々と体全体に軋むような痛みが走る。
「ぐっ、くそっ!!」
理御を運びたいが、痛みで意識が飛びそうだった。じりじりと、亀のような遅さで陽燕は前へ前へと進んでいく。
「ぎゃあぁぁっ!!」
「痛い、痛い、痛い!!」
「なんで、こんなっ、ちくしょうっ!!」
「お願いっ!やめてっ!!」
絶叫に悲痛な涙声、そして懇願する声。
霞む視界に見えたのは、救助隊や救助された人、野次馬など、観覧車の近くにいた人間が苦しげに蹲り、または転げまわっていた。あるいは信じられないという顔をしながら、拳や足を振り上げ、あるいは手に持った物―カバンなど―でまわりの人間を傷つけている光景だった。
(なんなんだ、これは――!)
異様な光景に、陽燕は戦慄する。自分が今体験しているものと関係しているのだと頭の中ではわかっているが、その原因がわからない。氣を探り、それを探ろうにも強烈な痛みと息苦しさのために、気絶している理御を支え、意識を保つことだけで精いっぱいだった。
時間は少し遡る。それは、悠子が直と屋根の上で再会していた時のことだった。
「師匠っ、彩慶さん、瑠璃さん!!」
直を屋根の上に避難させた後、桜香に乗り、観覧車へと向かった歩は、そこに見知った顔と二匹の霊威を見つけ、声を上げた。
師匠と呼ばれた男は、歩の姿を見ると、「お前もいたのか」と呟き、左腕の中にいる子供を歩へと手渡した。
「ん」
「え、あ、はい」
受け取り、抱え上げる。気絶しているのか、瞼は閉じられたままだ。子供特有の高い体温が歩の腕を包み、どこかほっとさせた。
救助した子供だろう。三つ編みをした三歳ほどの女の子で、髪型が直に似ているとぼんやりと思った。
男の右腕に支えられ、母親だろう女性が同じように気を失い、瞼を閉じている。また、彼の後ろには、恐縮するようにカップルらしい二十代ほどの女性と男性が乗っていた。左横にいる瑠璃の背には、三人の男――大学生くらいの年齢だった――が全員気を失っているらしく、うつ伏せのまま乗せられていた。
気絶している男性と女性とで扱いがだいぶ違うように見えるが、気にしたら負けだ。というより、気絶した人間を支えるには、氣を纏わせ、運びやすくしたところで骨が折れる。それを見越してのことだろう。多分。
――断言できないのは、師である草壁暁は、助けた相手が男性である場合、彼らをぞんざいに扱うことが多いからだ。暁曰く、『野郎に気をつかっても仕方ないだろう』ということらしい。
バキバキバキッ。メリメリメリッ。
金属が悲鳴を上げるような音に顔を上げれば、底辺にあったゴンドラが潰れるところだった。
「お前が来てくれたのはありがたい。この子らを桜香の背に乗せろ」
暁の言葉とともに、観覧車の中心である柱に 赤、白、黄、オレンジ、紫、ピンク、黄緑、青など、様々な色の花びらが集まり、巨大な手の形になったものが貼り付いていた。この花びらの手は、暁の霊威である彩慶の術だ。彼の力は花びらを出現させ、操ること。見た目は美しいが、侮ってはいけない。彩慶が本気を出せば、花びら一枚でも刃物のように切れ味の鋭い武器になるのだ。
花びらの手――花掌――と呼ばれるその二つの手の中には、泣きながらも意識はしっかりとある中学生くらいの二人の少女がいた。
「花掌を出したまま移動しようかと思ったが、お前が来たなら話は早い」
「わ、わかりました」
歩が頷くと、暁が「彩慶」と名を呼ぶ。彩慶は首を縦に振った。すると、花掌が動き、二人の少女を暁の後ろに座らせる。
「他はあの大蛇がやってくれた。後で礼を言わなけりゃならねえな」
見れば、ずりずりと音を鳴らし、コブラに似た青色の大蛇が最後のゴンドラを口に咥え、運んでいるところだった。ゴンドラは完全に潰れておらず、そこからは人の氣が感じられた。
「下に下りるぞ。園内の救助隊が来てる。とっととこいつらを降ろさねえとな」
歩が視線を下に向ければ、白字に『RESCUE』と書かれたオレンジ色の上着を着た団体が救急箱や毛布、担架を持って動き回っているのが目に入った。
「あ、あの・・・!」
ふいに、小さいが覇気のある声が耳を打った。振り向けば、歩の背に乗るポーニーテールの少女が目を赤くさせながら、暁を見ていた。
「助けてくれてありがとうございましたっ!」
頭を下げる少女を暁は一瞥する。
「鬼討師として当然のことだ。それに、まだ終わってねえだろ」
「え?」
暁の言葉に少女が戸惑うような声を上げる。
「真っ直ぐ家に帰って、家族を安心させてやれ。それをやらねぇうちは終わったとはいえねぇだろう」
鋭い眼差しを少女に向けるが、その声音は温かいものだった。
少女の目に再び涙が浮かぶ。
「っ、はいっ!」
鼻をすすりながら、少女は頷いた。
「なんだ、その顔は」
師匠は相変わらずだなと思いながら、二人のやり取りを見ていた歩は、思い切り眉を寄せた暁と目が合った。
「いえ、お礼くらい素直に受け取ったらいいんじゃないかと思って」
「受け取るか受け取らないかは個人の自由だろう」
「そりゃそうですけど、印象が違うでしょう。ただでさえ勘違いされやすいんですから師匠は」
生まれもった鋭い目つきと口の悪さにより、暁の第一印象はすこぶる悪い。正論だが、オブラートに包まないその言い方は時に諍いに発展した。歩も修行時代にその現場に出くわし、止めに入ったこともある。
暁は鼻を鳴らし、肩をすくめた。
「別にそう思いたい奴はそう思わせておけばいい。一々、人の顔色を窺ってたら鬼討師なんぞできるか」
「・・・・・」
にべもなく言い切られ、それ以上、歩は何も言えなかった。
(晶子さん、俺にはまだ難しいです・・・)
彼の妻、晶子は、暁の信念とも在り方ともいえる固い殻を少しだけ柔らかくすることのできる唯一の人だった。暁とは真逆の穏やかでおっとりとした彼女は、けれど芯の強い人だった。病で倒れて亡くなるまで、彼は鬼討師の妻であり、暁の妻であり続けた。
棘々しさの中にある柔らかい部分を晶子は見つけ、そして両方愛したのだろう。
「・・・あー。じゃ、下に行きましょうか」
弟子とはいえ、強く言えない自分に少々情けなさを感じながら、歩は促した。
刹那。
怒りと憎しみが溢れ出た負の氣がさらに大きく膨れ上がった。
「っ!!」
「っ!!」
歩は全身に緊張をみなぎらせる。暁の方も鋭い眼差しで周囲を窺っていた。
「ギャアァァァッ!!」
突如、ゴンドラ内の人々の救助をしていた大蛇が激しい叫び声を上げた。
大蛇は巨大な体を大きく揺らし、頭を前後に揺らしたかと思うと、次は尾を振り、幾ばくも経たないうちに下半身をくねらせた。
大蛇をよく見ると、赤い斑点のようなものが体に浮き始めている。それは、次々と増えているようだった。すると、幾ばくもしないうちに、大蛇は頭を観覧車の鉄骨に叩きつけ始めた。
その動きは激しく、一歩間違えれば観覧車を壊せそうな勢いだった。
「歩、下がるぞ!!」
「はい!!」
暁の言葉に歩は返事を返し、桜香を後ろへ下がらせる。暁も自身と瑠璃を下がらせる。
「ここは危険だ!他の奴らも後ろへ下がらせる!!手伝え!!」
「分かりました!!」
観覧車のそば付近を見れば、救助隊や救助された人々、野次馬が慌てふためくように離れていく。しかし、好奇心を刺激された者や恐怖で固まってしまった者も何人かいた。
「お・・」
上から、彼らに避難するよう叫ぼうとした時、暁の言葉が被さった。
「彩慶!あいつらの足元目掛けて風花刀を叩き込め!!」
「了解」
「えぇっ!?」
止める間もなく、彩慶は、暁の言葉通りに固まったまま動かない人々の足元に花の刃――風花刀――を放った。赤、白、黄、オレンジ、紫、ピンク、黄緑、青。様々な色の花が彩慶の口から発射される。それは、まるで弾丸のように地面を抉った。
それに驚いた人々が慌てふためきながら、観覧車のそばを離れていった。
「師匠!いくらなんでもやり過ぎですよ!」
「大声上げて、ちんたらやってられるか!人の命がかかってんだ!」
そう言われればぐうの音も出ない。だが、こんな脅すような真似をして、周りの人間は鬼討師だと思ってくれるだろうか。そんな不安が歩の頭を掠めたのだった。
暁の後ろに座るカップルと歩の後ろに座る女子中学生を一瞥すれば、彼らは一様に顔を強張らせていた。
(言わんこっちゃない・・・)
歩は、重いため息が出そうになるのを寸でのところで耐えた。
その時だった。
大蛇の頭に、雷が落ちた。
ドオォンッ。
地面から突き上がってくるような衝撃とともに、強烈な光と轟音が周囲に溢れる。
ビリビリとした振動とキィンという耳鳴りを感じながら、歩は目を瞬かせた。光は徐々に薄れていき、光の中心にいた大蛇の体の周りには、電流がバチバチと音をたてて溜まっているのが見えた。大蛇は口から煙を吐き出すと、凄まじい音とともに地面に倒れた。
辺りには、雷が落ちた時に似た鈍く低い音が響いた。
誰かが雷を落としたのか。ひとまず、観覧車が壊れるなどという大惨事にならなかったことに安堵しながら、前を向く。
あと数メートルで地面に桜香の足がつくという時だった。
「いぃっ!!」
「ぐぅっ!!」
「がぁっ!!」
突如、桜香、瑠璃、彩慶がまるで喉が潰れたかのような声を上げた。
「いたいいたいいたい!!やめてぇっ!!」
「かっ、はっ、息が・・・!」
「・・・・・・!!」
桜香が泣き叫び、瑠璃が掠れ、苦しげに呻く。そして、彩慶は声こそ上げないものの、空中で蛇行し始めた。
「桜香!!」
尋常でない桜香を見渡し、痛がる原因を探ろうと頭や体を見る。すると、灰色の体全体にいくつもの赤い手が見えた。それは、『薔薇と鏡の迷宮』で見た手と同じだった。
斜め前にいる彩慶、その後ろのいる瑠璃を見れば、同じように赤い手が体全体を覆っている。
三匹の様子から、この赤い手が痛みや息苦しさの原因だろうが、肝心の持ち主の姿が視えない。妖だろうが霊だろうが普段は視えるはずなのに、なぜ。ただ、怒りや憎しみなどの負の氣は爆発的に感じられる。しかし、視えなければ氣で攻撃もできない。
暁も気づいているのだろう。目つきをさらに鋭くし、視線をあちこちに飛ばしながら周囲を見回している。
「・・・ぐっ!!」
その痛みは突然やってきた。体全体が軋むような痛みと、息ができるようでできないという中途半端な息苦しさが歩を襲う。自身の腕を見れば、赤い手がべっとりと貼りついていた。腕の中にいる少女を見やる。――彼女に赤い手はついていなかった。
その事にほっとしながらも、少女を落とさないよう、痛みと息苦しさに耐えるのは容易なことではなかった。
「く、くるしいっ・・・!」
「いたいっ・・・!」
歩の背後から擦れた声が聞こえる。どうやら彼女達にも赤い手は襲いかかっているようだ。
「歩、ぜったい、離す、なよ・・・」
低く擦れていたが、有無を言わせぬ暁の声が耳を打つ。目だけを暁に向ければ、全身を赤い手に染め上げ、気絶した母親を抱えながら、それでも瞳に浮かぶ光―闘志―を失わない暁がいた。
救助隊に助けられた楓は、浩一とともに、悠子や歩、直を人ごみのなかで探していた。歩なら鬼討師の力で脱出しているかもしれない。一人で乗った悠子も歩に助けられているかもしれない。そう思い、救助された人々の回りや、興味本位で見に来た野次馬の中を回っていたが、いくら歩き回っても三人の姿が見えない。不安が楓の胸を覆い、浩一を見れば、彼の表情にも焦りが見えた。
その時だった。
「ギャアァァァッ!!」
突然、ゴンドラ内の人々の救助をしていた大蛇が激しい叫び声を上げた。
「っ!!」
驚き、顔を向ければ、大蛇が巨大な体を大きく揺らしているのが見えた。頭を前後に揺らしたかと思うと、次は尾を振り、幾ばくも経たないうちに下半身をくねら、身悶るような動作を始めた。
全身深い緑色の鱗に染まった大蛇の体には、赤い手のような跡が見えた。目を凝らしてみれば、赤い斑点は徐々に増えているようだった。
ガンッ、ガンッ、ガンッ。
しばらくして、大蛇は、頭を観覧車の鉄骨に叩きつけ始めた。観覧車が激しく揺れ、ボルトや金属の欠片がばらばらと音をたてて、地面に落ちる。大蛇の動きは止まる様子がなく、やがて観覧車がギィギィと嫌な音はたてはじめた。
「七海、離れるぞ!!」
浩一に手を取られ、楓は半ば引きずられるようにして走り出した。足を動かしながら、楓は後ろを振り返る。大蛇は、苦しそうな呻き声を上げながら、頭を鉄骨に叩き続けていた。
刹那。
ドオォンッ。
強烈な稲光とともに、地面を突き上げるような衝撃と、激しい轟音が響いた。
「ひゃっ!!」
その衝撃のために、楓はたたらを踏み、勢い余って膝から転げ落ちた。手を握っていたため、浩一も同じように転んでしまう。
『ご、ごめんなさいっ!』
そう口に出したが、楓は自分の声が聞こえていないことに気が付いた。聴覚を元に戻そうと、唾を飲み込む。膝をつき、体勢を立て直した浩一が心配そうに楓を見つめていた。
「・・・いじょうぶか?」
「はい。もう大丈夫です」
口の動きと語尾が聞き取れたため、浩一が何を言っているのか聞き取ることができた。
「早瀬さんは大丈夫ですか?すいません。転んでしまって・・・」
「それは平気だ。・・・それにしてもすごかったな」
「はい・・・」
振り返れば、大蛇の動きが止まっていた。バチバチと電流が周りに帯電している。
大蛇の口から煙が吐き出され、やがて凄まじい音をたてて、大蛇が倒れた。
すると、大蛇の体が瞬く間に縮み、人の姿になった。――大蛇の正体は妖だったようだ。
雷が落ちたことに驚き、悲鳴や泣き声、あるいは怒りの声を上げる人々のなかを、倒れた大蛇に駆けよっていくひとつの背中があった。
「陽燕さん・・・!?」
どうしてと思う間もなく、陽燕が倒れた大蛇の腕を掴んで、その体を担ぐ。
遠目だったが、人となった大蛇のその青い髪に楓は目を見開いた。
「理御さんっ!!」
まさか、あの大蛇が理御だったとは。大蛇に変身できるといっていたが、楓は変身したところを見たことがなかった。自分と浩一を助けてくれたのも彼だったのだ。そして、あの雷は陽燕が出したものだろう。暴走する理御を止めるために。
「どうした?」
不思議そうな声を上げるか浩一に、楓は振り返り、勢いよく言葉を連ねた。
「あそこに陽燕さんと理御さんがいるんです!!」
二人のところへ行こうと駆け出したその時だった。
「うっ!」
耐えがたい痛みと息ができるようでできない中途半端な息苦しさに襲われ、楓は思わず蹲った。
「ぐっ!」
浩一も苦しげに呻き、蹲る。その体には、『薔薇と鏡の迷宮』で見た赤い手がびっしりとついていた。楓も視線を自分の体に向ければ、同じように赤い手が貼り付いていた。
周囲には、呻く声や「痛い!!」という悲鳴や、「やめてくれ!!」、「手が止まらない!!」「足が!!」など涙混じりに叫ぶ声が聞こえる。
痛みと息苦しさに耐えながら、目だけをどうにか向けた楓は、自分と同じように蹲る人々と、手や足を相手に振り上げ、傷つける人々の姿を見た。
同時刻、痛みと息苦しさに耐えながら、地面に滑るように落ちてきた彩慶、瑠璃、桜香の姿があったことに気づくことはなかった。
颯の背に乗り、悠子と直は観覧車のそば近くまで来ていた。
その時、浩一、楓の氣を感じ、無事だったのだと安堵したのもつかの間、ひどく弱弱しくなっていることに気づき、驚いた。そこには、浩一と楓だけでなく、多くの人々が蹲り、または転げまわり、相手を傷つけるといった異様な光景が広がっていた。
「楓ちゃん、早瀬くん!!」
二人に駆け寄れば、体にはいくつもの赤い手が現れていた。彼らだけではない。蹲り、うめき声を上げるオレンジの上着を着た救助隊や毛布を肩にかけ、救助された人々、そして、野次馬など、多くの人々の体に赤い手が貼り付いていた。そして、手や足、鞄を振り上げ、涙を流しながら、相手を傷つけている人の中にも赤い手はあった。その手は、『薔薇と鏡の迷宮』で見たものと同じだった。
(なぜ――)
だが、そこを疑問に思っているひまはない。この赤い手がどこから来るのかその原因を探らなければ、彼らを救う事などできない。
「楓、コウ、しっかり!!」
「しっかりしろ!!」
直が楓と浩一の背をさすりながら叫ぶ。その涙混じりの声と叱咤する声を聞きながら、悠子は周囲の氣を探った。
周囲には、怒りと憎しみで溢れた氣が、ゴンドラにいた時や、屋根の上にいた時よりも充満しており、立っているだけでも気分が悪くなるほどだった。
(・・・視えないっ、どうして!?)
氣は確かに感じられるが、それを発してる人物、あるいは妖、霊の姿が視えなかった。
こんなことは初めてだった。自分の調子が悪いのかとも思ったが、であるならば、氣を感じにくくなるはずだ。病気など、その時の体調で氣の感知がうまくいかない時もある。
「う・・・っ!」
「ぐあっ!」
すると、直と颯の苦しそうな声が耳に響いた。
後ろを振り返れば、全身赤い手に染まった直と颯が体を震わせ、地面に蹲っていた。
「直ちゃん、颯さん!!」
(どうしよう!?どうすればいい!?)
悠子はパニックになりながらも、必死に頭を動かす。
連絡手段は手元にない。携帯電話の入ったバッグは、片側が外れたゴンドラにあるか、おそらく落ちてしまっただろう。直や浩一、楓の周りを見回したが、三人ともバッグは持っていなかった。おそらく救出された時に落としたのだろう。
(そうだ!!)
悠子は、助けてくれた鬼討師と歩のことを思い出した。彼らなら、この状況を救う手段を持っているのでは。
「みんな、待ってて!!助けを呼んでくるから!!」
直達に声をかけ、悠子は、鬼討師と歩の氣が感じる方向へ全速力で駆け出した。