第百二十三幕 巡るⅣ
悠子は、ジェラートの最後の一口を直が食べたのを見計らい、口を開いた。
「ねぇ、直ちゃん。次はこれに行ってみようってみんなで話してたんだけど」
ノイエス・ワンダーランドのマップを広げ、悠子は『鏡と薔薇の迷宮』と書かれた文字と絵を指さした。
「迷路?」
もぐもぐとジェラートを咀嚼しながら、直は、悠子が指さした文字と絵を見る。
「うん。たくさん食べた後だから、あんまり激しいアトラクションは乗らないほうがいいと思って。これなら、考えながら歩くから、激しい動きもないし。どう?」
この迷路を選んだのは、口にした通りの意味もあるが、直と歩の仲を進展させるのが目的だ。これで直が別のものにしようと言えば、考え直さなければならない。
内心、どきどきしながら直の返答を待っていると、直は小さく頷いた。
「おもしろそうね。いいんじゃない?私、巨大迷路って入ったことないのよね」
興味が湧いたのか目を輝かせる直に、悠子は心の中で思わずガッツポーズをした。
「よかった。じゃ、さっそく行こう」
それをおくびにも出さず、悠子はにこりと笑った。
『鏡と薔薇の迷宮』は、アトラクションゾーンの端にあった。
歩く道も茶色に染めたアスファルトから、年季のはいった石畳に変わり、その上に海外の宮殿を思わせるような豪奢な建物が立っていた。
壁面は檸檬色で、いくつもある四角い窓は白石で縁取られており、唐草や星型、薔薇などの模様が彫られ、細かな装飾がほどこされている。円形状のバルコニーには、造花なのか本物の花なのかはわからないが、黄、赤、桃、白などカラフルな薔薇が、葉の生い茂る蔓とともに絡まっていた。
長さのある白の屋根には、風雨にさらされたガーゴイルがこちらを睨むように見つめている。エントランス前には灰白色の階段があり、扉は、重厚感のある茶褐色をした木製の扉だった。全体的に西洋風だが、窓の縁取りが中東系の模様であるためか、どちらの系統も混ざった建物に見える。
「この中に迷路があるのね」
直が確認するように言う。
「かなり力が入ってるな。遊園地にあるとは思えない」
浩一が呆れとも感嘆ともつかない声を上げた。
「そうですね。まるで外国の観光地に来たみたいです」
浩一の言を受けて、楓がこくりと頷く。実際、『迷宮』の周りには色とりどりの花が咲き乱れた花壇と、白鳥の嘴から水が流れ出ている小さな噴水があった。ここだけ切り取れば、遊園地の一角とは思えず、観光場所の一つと見ることもできた。
「やるからには徹底的にやるっていう主義なのかねぇ。ご苦労なこった」
顎をさすりながら、感心したように歩が建物を見上げる。
思い思いの感想を聞きながら、悠子はマップを広げ、迷宮に関する説明を読んだ。
「・・・えっと、この迷宮は早くて三十分、長くて一時間かかるって」
悠子の言葉に直が目を見開く。
「へぇ。けっこうかかるのね」
「迷ったら、出られないとかないよな?」
歩が不安げに眉を寄せた。
「遊園地なのよ?そんなことあるわけないでしょ!それに、迷宮は攻略してこそなんぼでしょ!弱気にならない!」
弱腰の歩に直が背中をバシンと叩いた。
「いてっ」
思ったより力が強かったのか、歩が小さく呻いた。
波模様の装飾を施された取っ手を取り、扉を開けた悠子達は、建物の中に入る。
「うわぁ・・・」
目の前に広がった光景に悠子は驚き、思わず声を上げた。
建物内は、足元が赤い絨毯で敷き詰められている以外、左右の壁と天上は全て鏡になっていた。鏡の上下には、薔薇と蔓の絵が白い線で描かれ、華やかさを演出していた。
この薔薇の絵が『鏡と薔薇の迷宮』という名前の由来なのだろう。
「すごいな・・・」
「キレイねぇ」
「おー」
「まるでアリスの世界ですね」
浩一、直、歩、楓の順に感嘆の声が上がる。
しかし、ここで立ち止まっているわけにもいかない。ひとまず先に進まなければ。
奥を見れば、左右に道が分かれている。悠子は、奥を指さし、後ろを振り返った。
「直ちゃん、堯村くん。どっちに行った方がいいかな?」
二人の仲を進展させるため。当初の目的を遂げるために、悠子は直と歩に声をかけた。
「あ、あぁ。う~ん、そうだな」
悠子に話かけられ、驚いたように目を見開いた歩だが、目的を思い出したのか顎に手をやり、目を左右に走らせる。
「・・・左か?」
「右ね!」
考えた末、ぽつりと呟いた歩の声とすっぱりと言い切った直の声が重なった。互いに違う回答をしたことで、歩と直が互いに顔を見合わせる。
「なんで左?」
「いや、感覚的に。吉沢は?」
「私も勘」
選んだ道は違えど、二人とも感覚で選んだと言う。ある意味、仲がいいのかもしれない。
「じゃ、じゃぁ、どうする?右に行く?左に行く?」
どちらかに決めなければ、先には進めない。二人の主張を慮って、悠子が聞く。浩一と楓は二人の様子を窺うように見つめていた。
「なら、じゃんけんっていうのはどう?勝った方の方向に行くの。負けたほうは恨みっこなし!」
直がパンッと手を叩き、名案というように目を輝かせた。
「いいぜ」
構わないというように、歩が頷く。
「それじゃいくわよ。せーの、じゃんけん」
ぽんっという掛け声とともに、歩と直の手がじゃんけんの形をつくった。出た形は、歩はグー、直がチョキだった。勝敗は、歩の勝ちだった。
「俺の勝ちだな」
「あ~あ、負けた!でも、次は負けないわよ!」
どことなく誇らしげな歩と、残念な顔をしながらも次の勝負に賭ける直。楽しげな雰囲気が二人の間に漂う。
(いい傾向、いい傾向)
内心、うんうんと頷いていると、浩一と楓の二人と目が合った。思わず、ふふっと笑みが零れる。すると、二人もつられるように笑った。
迷路に二つの道が現れ、歩と直が互いに違う道を選ぶたびに、二人はじゃんけんをした。
歩が負けることも直が勝つことも、またその逆もあった。それを何度か繰り返しながら、悠子達は奥へ奥へと進んでいたが、一向に出口がみえない。
「・・・迷ったか?」
「そう思いたくはありませんが・・・」
「う~ん、いったん引き返して違う道にいってみる?」
浩一が呟き、楓が困ったように眉を寄せ、悠子は首をひねりながら、別の方法を提案してみる。
「そうね。悠子の言う通り、引き返して、堯村が選んだ道に行ってみましょう」
今いる場所は、直が選んだ左の道から進んできた。
出口がみえないことが直も気がかりだったのか、自分の選んだ道ではなく、歩が選んだ道に行こうと悠子の考えに賛同する。
「いいのか?俺の選んだ道が出口に近いかなんてわからないぞ?」
自信のなさか、あるいは直の心境を思ってか、歩が尋ねるが直は首を横に振った。
「私の道だってそうだとは限らないもの。それに可能性がないわけじゃない。さっ、行くわよ」
自分の選んだ道に後ろ髪を引かれることなく、直が颯爽と歩き出す。悠子達はその後を慌ててついていった。
「あの、ここ、さっき来ませんでした?」
歩の選んだ右の道へ進んだ悠子達だったが、再び、左右二つの道に分かれた場所へ出た。そこに、楓の不安げな声が響く。
「え?」
悠子が楓を見れば、楓が天井を指さした。鏡になった天上に、悠子達の姿が水面のように映し出されているのが見える。
「あの鏡の真ん中、ハートマークが見えるでしょう?あれ、私達が左の道に入ったときも見たような気がしたんです」
目を凝らせば、天井に設置された鏡の中央に、白い線で描かれたハートマークが見えた。ハートの周囲には、蔦のような模様も描かれていた。
「ハートマーク?あ、ほんとだ。全然気が付かなかった・・・」
直が訝しげに楓の指さす方を見れば、ハートマークが分かったのか、小さく目を見開いた。
「七海の言う通りなら、俺達はぐるぐると回っていたことになる。もう一度、左に行ってみるか?」
浩一が左側を親指で示した。
「うん、そうだね」
反対する通りはなかった。悠子は頷く。
「オッケー」
「あぁ」
直と歩も了承し、悠子達は再び左の道へ向かった。
「・・・まさか、左の道もぐるぐる回っていたなんて」
直が呆然と呟く。
悠子達の頭上には、さきほどと同じようにハートマークの鏡があった。
「右も左もぐるぐる回るっていうことは、出口がないってことになる。そんなことありえるのか?迷宮っていっても、アトラクションだ。本当に出られないわけじゃないだろ?」
歩が顎に手を当て、天井の鏡を睨む。
「隠し扉があるとか?」
「忍者屋敷かよ」
突拍子もない浩一の言葉に、歩は呆れたように肩をすくめた。
「昔、戦で逃げられるように隠し扉をつくった貴族の館があるって聞いたことがある。この迷宮がそれを模したものなら、あるいは」
「その可能性はあるってことですね」
浩一が至極真面目な顔で周囲を見回せば、楓が浩一の言葉を引き継ぐように呟いた。
「隠し扉か・・・」
悠子も上下左右を見回すが、扉らしきものは見つからない。反則かもしれないが、今まで訪れた客の氣を辿り、扉を探すというもの手かもしれない。
「・・・・しっ!」
「もしっ!」
そんな事を考えていた悠子の耳に、何かが聞こえた。
「ん?」
小さかったので、空耳かと思い、聞き流していると、
「もしもしっ!!」
「うわっ!」
大音量の声が背後から響き、悠子は驚いて体を飛び上がらせた。恐る恐る振り向けば、赤い絨毯の上に、掌サイズの小人が二人いた。
二人ともなぜかカンフー服を着ており、黒のズボンは共通だが、一人は深緑色の上着を、一人は赤色の上着を着ていた。顔立ちは子供のように幼いが、服の色と顔立ちから深緑色の方は少年、赤色の方は少女だと悠子は検討をつけた。
(コロボックル?)
葦原で小人といえば、コロボックルしかいない。だが、衣装は中華風なので何ともいえない。中国には、鶴国と呼ばれる小人がいると聞いたことがあるが、彼らがそうなのかはわからなかった。
悠子が内心首をひねっていると、深緑色の上着を着た小人――髪を伸ばし、一つにくくって三つ編みにしている――が顔立ちの割に、低く渋みのある声(直に聞けばイケメン声と言うかもしれない)を上げた。
「驚かせてすみません。私の名は龍。彼女は梅花。この迷宮で案内役をしております」
龍が頭を下げれば、梅花と呼ばれた小人もこわごわと頭を下げた。彼女の二つにしたお団子が小さく揺れる。
「案内役?」
悠子は訝しげに眉を寄せた。マップには案内役がいるとは書いていなかった気がする。口から零れ出た言葉に龍は頷いて答えた。
「迷われ、この迷宮から出られない冒険者の方々に出口までの案内をサポートするのが私達の仕事です」
「み、道はこの下にありますっ!」
鈴のようなかわいらしい声を上ずらせ、緊張のためか顔を赤くさせながら、梅花が言う。
「えっ、道!?下って、どのへん!?」
道があると分かり、直は絨毯に膝をつき、梅花に勢いよく迫った。それに驚いたのか、梅花が小さな体を飛び上がらせる。彼女を庇うように龍が梅花の前に立った。
「くわしい場所は言えません。それでは攻略したとはいえませんから。ですが、確実に道はこの下にありますよ」
にこりと音をたてるように、龍は笑みを浮かべた。
「下、下、下」
直は顎に手を当て、赤い絨毯の上を舐めるように見つめながら、歩く。
「う~ん。扉があるようには見えないんですが」
「そうだな・・・」
同じように下を見つめながら楓が呟く。浩一も視線を下に向けながら、頷いた。
「全く、これじゃほんとに忍者屋敷だ」
歩は膝と手をついて蹲り、絨毯に顔を近づけ、ぶつぶつと呟く。けれど、その目は、何も見逃しはしないという強い決意に満ち溢れていた。
「・・・・・」
悠子は、足元の赤い絨毯を足で叩く。聞こえる音の違いで扉があるかないか分かるかもしれないと思ったのだ。
位置を変え、何度か叩き続けるが、絨毯の厚みのせいかくぐもって聞こえ、全て同じに聞こえる。
(これじゃ、分からないか・・・)
思わずため息を吐く。
仕方ない。反則かもしれないが、ここから出るためだ。
悠子は目を閉じ、氣を探る。下に扉があるというなら、今まで訪れた客の氣が残っているはずだ。それを追うと、ちょうど左右の道が伸びる中央部分に、膨大な氣が感じられた。
(あそこだ)
目を開け、悠子は迷うことなく、そこへ向かう。そして、膝をつき、赤い絨毯を剥した。
「あ・・・!」
声を上げたのは、誰だったか。
赤い絨毯の下には、取っ手のついた扉があった。扉は、人ひとりが入れるだけの大きさで、作りは木製だった。
「あったー!」
直の歓喜の声が響く。
「ほんとにあった・・・」
「ありましたねぇ」
「引っぺがさないと扉が見つからないって仕組みは、アトラクション側としてはどうなんだ?」
唖然とした歩に、感心したような声を上げる楓。アトラクションの内装を破壊ではないが、動かすという仕組みに、ノイエス・ワンダーランド側のことを思う浩一。
「開けるよ」
四者四様の反応を耳に入れながら、悠子は扉の取っ手に手をかけた。
ギィッという軋む音が響き、扉が開く。
むっとした熱気が顔に当たった。ということは、この先は冷房が効いてないということになる。
「階段?」
扉の下には、コンクリート製の階段が連なり、奥へ奥へと繋がっていた。
階段の最後の段からは、同じようなコンクリートでできた道が見え、足元の辺りに設置されたライトが白く光り、階段とその先の道を薄ぼんやりと照らしていた。
「ここを降りれば、あとは道なりに行くだけです。無事、出口に着きますよ」
いつの間にか、龍が悠子の左肩に乗り、説明をしてくれた。右肩には、梅花が乗っている。目を向ければ、口元をきゅっと結びながら、梅花はぴょこんと頭を下げた。
「よし、行くわよ!」
直が腕を上げ、先頭をきって階段を降りていく。その後ろを歩、浩一、楓、最後に悠子の順に降りていった。
カンカンと音をたてて降りれば、扉の前で感じた熱気がさらに濃くなり、体にまとわりつくような熱気が悠子を包んだ。歩くたびに、熱気がさらに重く感じられる。
「かなり熱いですね」
楓が麦わら帽子を団扇の代わりにしながら、胸元を仰ぐ。
「ここは冷房が効いてないみたいだな」
浩一が額の汗を拭いながら、周囲を見回した。
「下手したら熱中症になるな」
「なら、さっさと出ちゃいましょ。出たら、何か飲んで、あ、ケーキでも食べる?」
嫌そうに眉を顰める歩に、直が明るく言った。
「・・・よく食べれるな」
「ほら、甘い物は別腹っていうから」
歩が、若干呆れを含んだ声を上げると、直は悪びれる様子もなく言い切った。
聞こえてくる直の言葉に、(気持ちは分かるけど・・・)と苦笑しながら、悠子も歩く。
その時だった。
背中から、体を貫かれるような殺気を感じ取り、悠子は勢いよく振り返った。
だが、そこには、閉じた扉の隙間から漏れる薄明りに、ひっそりと照らされた階段があるだけで誰もいなかった。
(・・・気のせい?)
「どうかしましたか?」
龍が不思議に思ったのか、声をかけてきた。悠子は軽く首を振る。
「ううん。気のせいだったみたい」
半分は自分に言い聞かせながら、悠子は前を向き、先を歩いている直達の後を追いかけた。
「あ、光が見える」
しばらく歩き、声を上げたのは直だった。
「ほら」
直が正面を指し示す。その指の先には、遠目だが確かに扉のようなものがあり、閉じられた隙間から外の光が漏れ出していた。
「あぁ、あれです。あれが出口です。皆様、お疲れ様でした。迷宮を無事攻略できましたね」
龍があの扉が出口だと説明し、労いの言葉をかけた。
「意外と長かったな」
腰に手を当て、浩一が小さく息を吐く。
「直さんが言ったように、何か飲みたいですね」
楓が麦わら帽子を被り直し、遠くに見える扉を見つめた。
「同感」
「そうだね。何か買って飲もう」
歩が疲れた顔をして頷き、悠子も賛成の声を上げる。
「なら、カフェに入りましょ!涼しいし、私、ケーキ食べたい!ちょっと覗いたんだけど、生チョコのケーキがおいしそうだったの!それからレモネード!」
直が嬉々として、手を上げる。
「レモネードですか。いいですね~」
「俺はサイダーかな」
「俺、メロンソーダ。アイスのったやつ」
「私はアイスティーにしようかな」
出口が近いからか、気持ちが軽くなり、皆、口々に飲みたいものを言う。
『・・・・メ』
『・・・・サン』
あと五十歩ほどで、出口へ着くという時、くぐもった、男かも女かもわからない低い唸りのような声が悠子の耳に突き刺さった。同時に、階段を降りた直後に感じた殺気が体を貫く。
「・・・・!!」
振り返れば、薄ぼんやりと白く光るコンクリート打ちの壁や天井から、まるで這い出るように、血のように赤い手形がいくつも現れた。
ペタペタペタペタペタペタペタペタペタ。
まるで壁や天井に貼りつくような音をたてながら、手は天上も壁も赤く塗りつぶしていく。
「ひっ!!」
直が引きつった声を上げる。
「・・・・・!!」
「・・・・・!!」
「・・・・・!!」
歩、浩一、楓は声こそ上げないものの、体を固まらせ、天井と壁を見つめているだろうことが、氣を感じて分かった。
感じ取った殺気は弱まることなく、悠子に届く。
そのせいか、まるでサウナのように暑苦しい熱気に包まれていたというのに、今は巨大な冷凍庫か、極寒の地に放り込まれたかのような寒々しさを感じていた。
殺気は、まるで大木に絡まる蔓のようにしっかりと悠子の体に絡みつき、神経を体全体に張り巡らさなければ、一歩も動けないほどの凄まじいものだった。
「・・・へ」
口を開くが、うまく声が出ない。危険が迫っている。声を出さなければ、四人は動けない。
悠子は震える右手に力を込めて動かし、勢いよく左腕に爪を立てた。えぐってもいいと思うほどの力で力を込める。鈍い痛みを感じ、絡みついた殺気が若干和らいだ。
「・・・出口へ、早く!!」
前を見据えたまま、悠子は叫んだ。
悠子の声に、直、歩、浩一、楓がハッとしたように駆け出す。
「二人とも、しっかり捕まってて!!」
肩にいる龍と梅花に声をかけ、悠子も全速力で走り出した。
『・・・・メェッ!!』
『・・・サン!!・・・・サンゾッ!!』
単語なのかも分からない言葉の羅列が、悠子の耳を打つ。しかし、その端々には抑えきれないほどの怒りと憎しみが感じられた。走っているので距離は遠のいたと思うのだが、ペタペタという音は変わらず聞こえていた。むしろさらに近づいているように聞こえる。
言葉を発しているのが赤い手の持ち主であることは分かるが、何をそれほどまでに怒っているのか分からなかった。そして、赤い手が荒御魂なのか妖なのかもわからない。
力があれば、『白蓮』で防ぐことも、『鏡月』で視ることもできるが、それをすることもできない。ただ必死に逃げるしかなかった。
「りゃっ!!」
直が声を上げ、勢いよく扉を開ける。外の光が悠子の目に突き刺さった。
直、歩、浩一、楓の順に外に出る。楓の背中を追いかけ、悠子も外へ出ようとした。
しかし。
「うあっ!!」
足元を何かに掴まれ、引っ張られた。その勢いで、石畳に強かに顎を打つ。振り向けば、赤い手が悠子の足首を掴んでいた。腕は見えない。
けれど、引っ張られる感覚を悠子は感じていた。
「悠子さん!」
楓が振り向き、手を伸ばす。その手を悠子はしっかりと掴んだ。
「鈴原、しっかり捕まってろ!引っ張り上げるぞ!」
浩一が叫ぶ。見れば、楓の腕を浩一が、浩一の腕を直が掴んでいた。直の隣には、歩がおり、その横に執行形態状態の桜香がいた。
「行くわよ!せ~の!!」
「桜香!!」
「光針波・ミニミニバージョン!!」
直が合図の言葉を放つ。同時に歩が桜香を呼び、桜香は少し気の抜ける術名を大真面目に言い放った。
桜香の口から金色の針のようなものが現れ、悠子の背後へ発射される。その直後、足首にかかっていた力が緩んでいくのが分かった。
悠子は三人に引っ張られ、外に出ることができた。
直、楓、浩一が座り込み、荒く息を吐く音が響く。歩が額の汗を拭うような仕草をし、ふうっと小さく息をついた。
三人と同じくしゃがみこんだ悠子は、細かく震える右腕を左手で掴み、押さえると、ゆっくりと後ろを振り向いた。
開け放たれた扉の奥は暗闇に沈んでいたが、感じていた凄まじいほどの殺気は消えていた。
安堵の息を吐くと、引き攣れたような痛みを左腕に感じた。目線を腕に向ければ、よほど強く爪をたてたのか、左腕から血が滲み出していた。
じりじりと残暑に近い熱風が、悠子の冷えた体をじわりと温める。
目を閉じれば、園内を回る人々の笑い声やパレードの華やかな音楽が聞こえ、迷路から出たのだと確実に感じることができた。
「・・・みんな、ありがとう」
直達がいなければ、赤い手に引きずり込まれていたかもしれない。
悠子は心を込めて礼を言った。
直が顔を俯かせながら、右手を上げ、気にするなとでもいうように小さく振る。
「タイミングがうまくいってよかった・・・」
「・・・そうだな」
「はい・・・」
吐息混じりに浩一が同意し、楓がぐったりとした顔をしながら頷く。
「桜香、お前なぁ!あの技名はなんだよ?思い切り脱力しそうだったぞ!?」
「仕方ないでしょ!!いきなり呼び出されて、小さい技出せって言われたって困るわよ!あんただって知ってるでしょ!!私の技はおおざっぱだって!!小さい技が出せただけでも感謝しなさい!名前なんて二の次よ!!」
疲れた顔で座りこむ直、浩一、楓の隣では、重い空気を吹き飛ばすためなのか、それともただの素なのか、歩と桜香が悠子を助けた時に出た技名のことで言い合っていた。
「申し訳ございません、皆様!!」
すると、空気を切り裂くように、龍の声が響いた。
両肩に龍と梅花がいないことに気付いた悠子が辺りを見回すと、悠子達に向かい合うように龍と梅花が石畳に膝をつき、額をつけるような勢いで頭を下げていた。
「ちょ、どうしたのよ?」
二人の様子に驚く直の言葉にかぶせるように、龍は続けた。
「あれは、訪れたお客様に楽しんでいただけるよう行った演出なのでございます!あまり怖がらせないようにと伝えたのですが、つい熱が入ってしまったようで・・・!」
「え、演出ぅっ!?」
「・・・・・」
直が叫び、楓が目を丸くする。
「それにしては、真に迫っていたがな」
「怖がらせるんじゃ、お化け屋敷と同じじゃねぇか。差別化できてねぇぞ」
浩一が眉を寄せ、歩が首を傾げる。
(あれが、演出・・・?)
あの殺気は本物だった。本当に演出なのだろうか。
訝しげに、悠子は頭を下げる龍を見つめる。顔が見えないせいか、彼が本当の事を言っているのか、それとも嘘なのか判断がつかない。口調では、嘘を言っているようには見えないが。
「怖がらせてしまって申し訳ありませんでした。お礼といってはなんですが、これを」
龍は頭を上げ、懐から何かを取り出した。
それは、ノイエス・ワンダーランドの食事・商品割引券だった。レストランやカフェなど食事をした時やおみやげを買う時に店員に見せると、通常の値段より割り引いてくれるものだ。
「これだけで皆様の心の傷が癒えるとは思えませんが、気持ちとして受け取ってくだい!」
龍が再び頭を下げながら、割引券を差出す。
「気持ちは嬉しいけど、それ、タダじゃないんでしょ?それに、私達だけもらうのも悪いわ」
直が両手を前に出し、横に振る。すると、龍が顔を上げた。
「それは問題ありません!これは無料です!それに、訪れたお客様全てにお渡ししているので心配はございません!」
「え、そうなの?なら、もらおうかな」
目を瞬かせ、直は立ち上がると、割引券に手を伸ばした。
「ねぇ、私、思いっきり術出しちゃったんだけど。床とか穴だらけになってるかも。それって弁償になるの?」
桜香が恐る恐る龍に尋ねた。直に割引券を渡した龍は、首を勢いよく振った。
「まさか。そんなことはございません!これは、やり過ぎたスタッフの責任です!修理は私達が行うので心配ありません!」
「そう。なら、よかった」
ほっと桜香は息をついた。
「仕事熱心なのはかまわないが、相手の事も考えてくれよ」
「私もそう思います。しばらくは夢に出そうですね・・・」
立ち上がり、ズボンの埃をはたきながら、浩一が苦言を呈した。同じように立ち上がった楓も頷き、遠い目をする。
「俺もやり過ぎだと思うぜ。何事にも限度ってもんがある」
腕を組み、歩は厳しい目で龍を見据えた。
「ごもっともなお言葉。スタッフにもそう伝えておきます」
龍と梅花が示し合わせたように頷いた。
悠子も、正座をしたままの二人を見る。
真剣な眼差しで、龍と梅花は浩一、楓、歩の言葉を聞いている。その表情は、嘘をついているようには見えなかった。
気持ちを落ち着かせるため、悠子は長く息を吐く。
凄まじい殺気を感じたために、かなり神経質になっているのが自分でもわかる。
よくよく考えてみれば、彼らが嘘をついて得になることなど何もない。
なら、これは本当に演出なのだろう。多少、やり過ぎの感はあるが。
「・・・・そうしてくれるとありがたいです。この演出のせいで、この『鏡と薔薇の迷宮』に人が来なくなるのは、あまりにも惜しいですから」
「そうね。迷路はけっこう楽しめたし、あれを除外すればもっといいと思うわ」
ため息交じりに悠子が言えば、直も大きく頷いた。
「ご忠告と思いやりのある言葉、ありがとうございます。真摯に受け止め、改善に努めてまいります」
悠子と直の言葉に、龍と梅花は丁寧に頭を下げたのだった。