第百二十一幕 巡るⅡ
飲み物を飲み終え、人心地がついたところで、悠子達は再びアトラクション制覇に挑んだ。
悠子達が向かったのは、お化け屋敷だった。
薄緑色の洋館の姿をしたそれは、壁にところどころヒビが入り、枯れ、茶色く濁った蔦に洋館の半分が覆われていた。入り口である重厚な扉(ドアノッカーがライオンの顔だった)からは、閉め切られているにも関わらず、「ギャーー!!」、「いやぁーーッ!!」、「うおぉぉぉっーー!!」などといった凄まじい悲鳴が聞こえてくる。
その悲鳴があまりに大きく、かつ真に迫っていたため、悠子達は思わず足を止めた。
空は雲一つない青空で、訪れている人々の楽しげな笑い声や、さりげなく流れている園内の穏やかなBGMが聞こえているにも関わらず、洋館の周りだけは今にも濃い雲に覆われ、雷が落ちてきそうな暗い雰囲気が漂っていた。
「何か、すごいですね・・・」
「うん・・・」
「あぁ、あれは本気の悲鳴だったな・・・」
「おぉ・・・」
楓の言葉に悠子は頷き、浩一と歩が呆然とした表情で洋館を見上げた。
「それでこそよ!怖くなきゃ面白くないわ!さ、行くわよ、みんな!」
そんな四人を尻目に、好奇心で目を爛々と輝かせながら、直は意気揚々と扉に手をかけた。
洋館の中は、ぽつぽつと等間隔に今にも消えそうなライトが足元を照らしているだけだった。明かりがないよりましだが、外と比べれば暗く、しかも遠くから悲鳴とおぼしき叫び声が聞こえてくるので、嫌がおうにも恐怖は増す。しかも、冷房がきいているのか、室内はかなりひんやりとしていて、むき出しの腕に鳥肌がたつほどだった。
木製の床は、歩くたびにぎしぎしと音がなり、閉め切られているはずの窓は風が当たっているかのようにガタガタと鳴った。これは録音かもしれない、と悠子は思う。
お化け屋敷は入るのも、初めての経験だ。けれど、巫子の依頼で、五十年前に自殺した女生徒が憑いているという旧校舎を訪れたこともある悠子にとっては、あまり怖さを感じなかった。むしろ、旧校舎の方が怒りや憎しみの負の感情に覆われており、何が来るかわからない恐怖と張りつめた緊張感に満ちていた。
それと比べるなら、この洋館に負の感情は少ない。観客も怖がっているとはいえ、楽しんでいるところもあるし、お化け役もそれを分かって怖がらせている。恐怖の度合いでいえば、軽いほうだろう。だが、それは悠子の主観だ。直達はどうなのだろう。
そんなことをぼんやりと考えながら、薄暗い館内を進んでいると、どこからともなく、くすくすと少女のような笑い声が聞こえてきた。
ここは、廊下だ。左側は窓だけで、右側に部屋はいくつかあるが、木製のドアが全て閉め切られている。
ならば、この声は前からだ。
悠子は、目線を前方に向ける。足元を照らしていたライトは不自然に途切れ、そこは光の射さない暗闇に覆われていた。
その時、悠子は先頭を歩いていた直が後ろに下がり、自分の横に立っていることに気が付いた。
くすくすくすくすくすくすくす。くす。
軽やかな少女の笑い声がこだまする。だが、それは唐突に終わりを告げた。
「ねぇ、わたしの首、しらない?」
舌足らずな声が聞こえた瞬間、闇に柔らかい光が差しこむ。舞台のスポットライトのように照らされ、目の前に立っていたのは、自身の首を抱えた幼い少女だった。水色のワンピースに白いエプロン姿の彼女は、澄んだ青い瞳をぱちりと開き、その幼さには似つかない艶やかな唇を開き、言葉を繰り返した。
「ねぇ、わたしの首、しらない?」
突然の出現に動揺した悠子だったが、巫子としての性か、彼女の正体を見極めようと冷静に氣を探っていた。そして、気が付いた。
(あ、デュラハン・・・)
ヂュラハンは、アイルランドに住む首のない妖精だ。葦原でなら、妖と言い換えてもいいだろう。その能力は相手の死期が分かるというもので、そのためか、あまり他者と交流を持たない。それが、葦原の、しかもお化け屋敷で働いているとは意外だった。
少女のように幼く見えるが、実年齢はかなり上だろう。
昨今、外国の妖達が葦原を訪れ、永住するものも多くいる。彼女もその中の一人かもしれない。
「いやあぁぁぁぁぁっ!!」
お化け役のデュラハンの境遇を想像し、昨今の葦原の現状を鑑みていると、直の悲鳴が悠子の鼓膜を揺さぶった。耳元で叫ばれ、キーンと脳天に響く。
突如、がしっと右腕を掴まれ、目をそちらに向ければ、涙目になった直が必死の形相を浮かべていた。
「逃げるわよ!!」
そして、悠子の腕を掴んだまま、脱兎のごとく走り出した。
「ちょ、直ちゃん!?」
直に引っ張られ、あやうく転びそうになりながら、悠子は後ろを振り向く。
楓や浩一は大丈夫だろうか。ついてきているだろうか。
自分は冷静に見ていたが、二人は慣れていないはずだ。歩は鬼討師としてこういう場に慣れているから大丈夫だろが。
だが、悠子の心配をよそに二人はしっかりと悠子達の後をついていた。それでも顔は強張っていたが。そして、しんがりとなった歩の顔を悠子は見た。
(あれ・・・?)
慣れている、はずの歩の顔は、楓や浩一同様強張っていた。足元を照らすライトが復活し、その光を浴びて、青白くも見える。まるでジェットコースターに乗った後のようだった。
「いやあぁぁぁっ!来ないでー!!」
「直ちゃん、落ち着ついて!!楓ちゃん、大丈夫!?気をしっかりもって!」
「・・・・・・」
「堯村、服を引っ張るな!置いていきやしないから!!ほら、ちゃんと走れ!!」
「・・・・!!」
それからが大変だった。
洋館をモチーフとしているからか、西洋や米国などの妖精、モンスター(葦原でいうと妖)がお化け役として現れた。
お化け役が怖がらせるたびに直は悲鳴を上げ、走り出す。次々と現れる彼らに、楓もとうとう許容量を超えたのか、表情が強張ったまま視線があらぬ方向を向き、悠子が手を引かなければ走ることもできなかった。
頼みの綱は歩、のはずだったが、彼は浩一の服の裾を掴み、浩一に引っ張られながら、どうにか後をついてきていた。
悠子は直をなだめ、楓の手を取りながら。浩一は歩を引っ張り、叱咤しながら。どうにかゴールにまでたどり着くことができた。だが、外に出ても彼らに言葉はなかった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
雲一つない青い空がまぶしい。冷房で冷え切った体には、蒸し暑い熱気も今は心地よかった。
(疲れた・・・)
大きく息を吐き、後ろを振り向けば、直、楓、歩がガクリと肩を落とし、項垂れていた。
浩一は、伸びた服の裾を掴み、ため息をついている。その空気は、洋館に入る時と比べ、重い。
「・・・あー、直ちゃん、楓ちゃん、堯村くん、大丈夫?」
何ともいえない雰囲気を和らげようと、悠子は声をかける。
「怖かった。ほんとに怖かった・・・」
「・・・・お化け屋敷なんて、もう行きません」
「もうだめだ。ジェットコースタ―の次はお化け屋敷・・・。俺、もう立ち直れない・・・」
反応はしてくれたが、悠子の声は聞こえていないようだった。
背中に重石を背負っているかのような三人をどうにか立ち直らせようと、悠子は言葉を連ねた。
「ねぇ、次はどこに行く?メリーゴーランド?それともコーヒーカップ?あ、ちょっと早いけどお昼ご飯にする?」
時刻は十一時。ランチには早いが、お昼時は込むだろう。早めに行けば、レストランに並ぶことなく座れて、ゆっくりと食事ができるかもしれない。
その言葉にゆらりと反応を示したのは、楓だった。まだ、顔は強張っていたが、洋館を出ることができた安堵からか、ほんの少し苦笑交じりの笑みが浮かんでいる。
「・・・そうですね。体も冷えていることですし、少しお腹にいれたほうがいいかもしれません」
楓の言葉を聞き、直もようようと頷く。よほど怖かったのだろう。目が少し赤かかった。
「そうね。十二時過ぎたら込むだろうし。早めに食べて、それからまた回りましょ」
まだ涙声だったが、洋館にいた時より、声は明るい。
「・・・・・・」
しかし、回復した二人とは逆に、歩は沈んだままだった。歩の背負う重々しい空気に言葉をかけられず、悠子が逡巡していると、隣にいた浩一が、まるでしっかりしろとでもいうように、歩の背中をドンと勢いよく叩いた。
「俺もそう思う。そうと決まればとっとと行こう。ほら、行くぞ、堯村」
そう言い、背中を丸め、意気消沈している歩の首根っこを掴む。だが、そうされても歩はぴくりともしない。そんな彼に構わず、浩一は歩を掴んだまま、ずるずると引きずったまま歩き始めた。人一人を引っ張っているので、姿勢がぶれてもいいはずだが、浩一の足はふらつくこともなく、淀みない。さすが柔道部といえばいいのか。
直と楓、悠子の前を通り過ぎた浩一は、ピタリと足を止め、そして怪訝そうな顔で振り返った。
「行かないのか、昼」
浩一の行動に目を見開きながら固まっていた悠子は、その言葉にハッとし、慌てて頷いた。
「あ、うん。そうだね!それじゃ、行こうか!」
笑みを浮かべながら、悠子は直と楓を促す。
歩き出す三人を見た浩一も歩の首根っこを掴んだまま、歩き出した。
前を行く二人を見ながら、悠子は苦笑する。
(なんだか、早瀬くんの堯村くんの扱いが雑になってきたような・・・)
クラスメイトとして、友達として仲よく話しているのを見たことはあったが、浩一が歩を世話することはなかったように思う。二人とも勉強も運動も同じくらいできていたから、互いが互いを頼るところを見たことがなかった。
親密になったといえばいいのか、気心がしれてきたということなのだろうか。
あまり目にしない(というか、歩の場合それが顕著だ。まさか、ジェットコースーターだけでなく、お化け屋敷も駄目とは意外だった)二人の姿に、悠子は小さく驚きと新鮮さを感じていた。
(・・・達騎くんがいればまた違ったかな?)
今の歩を見たら、達騎は「何してるんだ」と呆れた顔をするに違いない。そう思いながら、悠子は目を細める。そして、自嘲気味に笑った。
――あぁ、また思い出している。
分かっていた。そんな事をしても無意味だということは。思い出しても、針で突くような痛みと荒野に吹きすさぶ風のような荒涼とした寂しさを感じるだけだというのに、それでも悠子は止められない。
達騎がここにいたら。達騎ならどうするか。
彼らの記憶に達騎がいなくとも、そう想像することを止められなかった。感傷といえばそれまでだが、悠子の中には、直と浩一の幼馴染で、悠子と楓のクラスメイトで、歩の喧嘩友達で、みちるの息子で、猿田彦の巫子の『草壁達騎』の記憶がある。
口にはしない。けれど、「もし」、「たられば」の未来を想像することくらいは許して欲しかった。
達騎が鵺を追いかけず、普通の高校生として生きる未来を。
達騎が鵺を追いかけ、けれど警察に自首することなく、「はじめまして」から始まる未来を。
そんな未来を夢想しても、「今」の達騎になりえないことは分かっている。
それでも、達騎が彼らといたことをなかったことにしたくなかった。それが悠子の頭の中のことだけだとしても。
(・・・私が忘れたくないのかもしれない)
待つと決めたとはいえ、十年は長い。再会するとき、達騎は立派な男性になっているだろう。
写真すら忘却帳の影響でない今、覚えていられるのは、今の達騎の姿だけだ。
繰り返し、繰り返し思い出して、達騎はここにいるのだと自分が確認したいだけだのかもしれない。
(――だって、私は待つことしかできない)
その思いに、黒々としたものが混じっていることに悠子は気が付いた。
達騎は今までの自分を捨てることを選んだ。悠子が思い出せたのは、たまたま「楔」をしていたからで、もし何もしていなかったら、達騎の事を思い出すこともなく、鵺に関しては警察に任せ、普段通り高校生活を送っていただろう。
悠子が思い出さなければ、(唐沢以外)誰にも思い出されることなく、運が悪ければ、そのまま命を散らしていたかもしれない。もし、そうなっていたら達騎が死んだことすら知らず、悠子は日常を送り続けていたことになる。
思い出さなかった場合を想像して、悠子は背筋を凍らせた。洋館にいたときよりも鋭い悪寒が体中を駆け巡る。
同時に、血だまりの中に沈む達騎を思い出してしまい、それを振り払おうと、悠子は勢いよく首を横に振った。
(どうして――)
悠子は、拳をぎゅっと握る。
皆に、忘れられたままでよかったというのか。いくら復讐のためとはいえ、自分を捨てるなんて、どうしてそう簡単にできたのか。簡単に切り捨てられるほど、自分達は必要ない存在だったのか。
怒りとも悲しみともつかない感情が沸々と湧いてくる。達騎を探そうと躍起になっていた時も、彼の目の前で啖呵を切った時もこんな感情は浮かんでこなかった。
「悠子!」
「どうしました?」
直と楓に声をかけられ、悠子は我に返った。顔を上げれば、直と楓が不思議そうな顔で悠子を見、浩一は歩を抱えたまま、立ち止まっている。
「あ、ごめん!今、行くね!」
――いけない。せっかく遊びに来たのに。
胸に浮かんだ感情に蓋をし、悠子は笑みを浮かべ、直達に駆け寄った。