第百二十幕 巡るⅠ
季節は十月。本来なら冷たい風が吹き始め、冬が近づいてくる気配を感じる頃だが、今年はいつまで経っても残暑が残り、木々からは未だに蝉の鳴き声が響いていた。
バスに乗って三十分ほどで、悠子達は、ノイエス・ワンダーランドに着いた。バスのタラップから降りると、朝方だというのに、蒸し暑い空気が悠子の肌をくすぐった。隣接する森からは、真夏と同様に蝉が勢いよく鳴いている。
ノイエス・ワンダーランドの正門前には、悠子達のように早めに行こうと考えた人達が大勢列を成していた。
「ふぁ~」
あまりの多さに、悠子は思わず声を上げる。
「さすがノイワンね」
直が感心したように呟いた。
最後尾に続く列に並び、悠子達は正門が開くのを待った。時計を見れば、時刻は八時五十分。あと、十分だ。
「まず、どこへ行きますか?」
「そうねー」
楓の問いに、直がリュックを漁りながら答える。そして、中から三枚に折れたチラシを取り出し、広げた。それは、ノイエス・ワンダーランドのマップだった。
「ジェットコースターは鉄板よね。それからメリーゴーランドに観覧車。あ、コーヒーカップもあるわ」
「・・・お化け屋敷もあるんだね」
メリーゴーランドとジェットコースターの間に挟まれて、傘お化けや一つ目小僧、ろくろ首などが飛び出して描かれた日本家屋のイラストがあった。
妖が当たり前にいる世界で、お化け屋敷とは何とも不思議な感覚だった。
「けっこう本格的らしいわよ。怖くて、夢に出るくらいだってブログに書いてた人もいたわ」
直がネットの情報を口にする。
(まさか、出てくるお化けってみんな妖なんじゃ・・・)
そんな事を思いながら、悠子はマップを眺めた。
今いる正門から入ると、目の前には大きな広場があり、円形の噴水がある。噴水の左右には、ノイエスワンダーランドのグッズや土産物が売っている煉瓦風の建物があり、その噴水の向こうには大きな通りがある。その通りは三つ又に分かれていて、右側はジェットコースターなどがあるアトラクションゾーン、左側がレストランや休憩所があるグルメゾーン、中央はランドマークにもなっている観覧車とホーリィとグレイス、そのほかの仲間たちが住むという設定の家があり、架空の小さな町『ノイエスタウン』が観覧車を取り囲むように存在するファンタジーゾーンがあった。
三つ又の道の突き当りは、全て繋がっており、どの道からも回ることができる。
「アトラクションゾーンは全部回りたいわね」
「じゃあ、最初はここだな」
浩一がアトラクションゾーンを指さす。
「アトラクションで一番人気なのから行ったほうがいいんじゃないか?並ぶだろ?」
歩の言葉に直が頷く。
「そうなのよね。調べたんだけど、一番人気なのがジェットコースターだったわ。長いと六十分くらい並ぶって」
「じゃあ、一番人気のジェットコースターから回ります?」
「そうね。初めにジェットコース―ターに乗って、それからお化け屋敷っていう具合に順番に回りましょうか。目指すはアトラクション制覇よ!」
「おうっ!」
腕を持ち上げ、直は人差し指を空に向ける。やる気に満ち溢れている直に合わせるように、四人は拳を上げた。
時刻は九時になり、ノイエス・ワンダーランドの、どこかのセレブの屋敷にあるような、モスグリーン色の立派な正門が開いた。
我先にと駆ける人や、ぞろぞろと連れだって歩く人の群れの後を、チケットを持ちながら、悠子達は園内へと入っていった。
ノイエス・ワンダーランドのジェットコースターは、一気に降下し、ぐるりと一周するだけの簡素なものだったが、観覧車と比較するくらい大きかった。景色を見る余裕さえあれば、降下する直前に花野市にある華苑山が見える。
早めに動いたためか、ジェットコースターの待ち時間は十五分だった。
これなら待てる、とガッツポーズをして、直は待ち時間を利用して、携帯電話のカメラで周囲の様子を撮りはじめた。直に触発され、悠子も楓も写真を撮る。互いの姿を交互に撮り合ったりもした。
「あ、堯村くん、早瀬くんも一緒に撮る?」
悠子が所在無げに佇む歩と浩一に声をかける。あわよくば、楓と浩一、直と歩が一緒に写っている写真が撮れればいいと思ったのだ。
「え、いいのか?」
歩が期待に満ちた目をし、浩一が少し驚いたように目を見開く。
「せっかくみんなで来たんだし、一緒に撮ろうよ。私が撮ってあげる。みんな、携帯貸して」
自分の携帯電話をしまい、両手を広げる悠子に、直が不満そうな声を上げた。
「ちょっと待って。悠子が撮ったんじゃ意味ないじゃない」
誰かに頼もうか、と辺りを見回す直に、悠子は首を振り、口調を強めた。
「大丈夫!時間はたくさんあるんだから!ほら、早くしないと順番回ってきて、みんなの分撮れなくなっちゃうよ!」
早く早く、と皆をせかし、四人の携帯電話をさらうように受け取る。
それでも直は不満げで、残りの三人は戸惑いの表情を浮かべていた。「さ、並んで」と有無を言わさず悠子が言うと、直は小さくため息を吐き、仕方ないという顔をしながら、歩、浩一、楓はおずおずと横一列に並んだ。
その順は、図らずも、直、歩、浩一、楓の並びだった。
内心、やった!とガッツポーズをしながら、悠子は、まずは歩の携帯電話をかざす。カメラ機能を使い、携帯電話をカメラ画面にした。
「それじゃ、撮るよ。みんな、笑って~!」
直は未だ眉を寄せていたが、悠子が考えを変えるつもりはないと分かったのか、それを振り払うかのように満面の笑みでピースをし、歩は直が隣ということでやや緊張した笑みを浮かべた。浩一は少し苦笑を零しつつも、目に柔らかな光を宿らせながら携帯電話の方を向き、楓は照れの混じった笑みを浮かべながら、小さくピースをした。
写真を撮り終え、五分ほどした後、悠子達の順番が回ってきた。
ゴトゴトと音を鳴らしながら、コースターがやってくる。
それは、マスコットキャラクター、ホーリィを模したかわいらしいものだった。
係員に促され、悠子達はコースターに乗る。先頭は直と歩、その後ろに楓と浩一、そして、その後ろに悠子という順だった。
頭にグレイスの顔を模した帽子をのせた女性の係員の指示に従って、身体を固定するベルトをし、荷物を膝の上に置く。
少し、どきどきした。巫子の仕事のときに、空を飛んだり、上から落ちたりしたことはあったが、こういう乗り物に乗るのは始めてだったからだ。
しばらくして、コースターに乗った全ての乗客の安全が確認されると、女性係員が「では、発車します!」と合図した。
その合図とともに、悠子達の乗ったコースターは、ゴトゴトと揺れながら進み始める。
乗客たちのはしゃぐ声が響く中、コースターは降下する場所まで来ると、ピタリと止まった。
そして、前方に広がる外の景色を眺めるひまもなく、一気に急降下した。
「うぐっ」
ジェットコースター近くのベンチに座り、吐くまではいかないまでも、青白い顔をしながら、歩が口元を掌で覆った。
「堯村、大丈夫か?」
覇気もなく、背中を丸めた歩を、浩一が心配そうに見つめる。
「何か飲み物でも買ってきましょうか?ポカリスエットとか・・・」
楓も心配そうに歩の方を見ながら、飲み物の提案をした。それに歩がこくりと頷く。
「じゃあ、私、飲み物買ってくるよ。そうだ、みんなの分も買ってこようか?」
思いついた案に、我ながらいい考えだと独りごちる。
「なら私も行くわ。悠子ひとりじゃ、全員分の飲み物持ってこれないでしょ」
「私も行きます」
直が言い、楓も声を上げた。それもそうだと思った悠子は頷き、浩一の方を向いた。
「早瀬くんは何がいい?」
浩一が少し考えるように間を開ける。
「・・・じゃぁ、ウーロン茶で」
ウーロン茶、と小さく口の中で呟き、次に歩に視線を向ける。
「堯村くんは?ポカリスエット?」
楓が口にした商品名を言えば、歩は「頼む」と蚊の鳴くような声で呟いた。
「鈴原」
浩一が腕を伸ばし、悠子の前に掌を向けた。そこには、数枚の硬貨があった。
「代金だ。百五十円」
硬貨を見れば、確かにその数だった。自分が払おうと思った悠子は、目を瞬かせる。
「え、いいよ?私が払うから」
首を横に振れば、浩一は小さく眉を寄せ、息を吐いた。
「買いに行ってもらうんだ。代金を払うのは当たり前だろう。もしかして、全員分、払おうと思ってるんじゃないんだろうな」
「・・な、なんでわかったの?」
浩一に考えている事を当てられ、若干動揺する。
「えぇ!?そんなつもりだったの、悠子!?」
直が驚いて声を上げる。
「悠子さん、そんなことしなくていいんですよ」
楓が窘めるように言った。
「そうよ!あ、堯村、あんたは後でいいわ。私が払うから。代金は、体調がよくなったら渡して」
青白い顔をしながら、のろのろとした動作で、バッグから財布を取り出そうとしている歩に、直はぴしゃりと言い放った。
肩を揺らして動きを止めた歩は、直を見る。直の真剣な顔を見て、諦めたのか納得したのか、歩はバッグの取り出し口からゆっくりと手を引き抜き、チャックを締めると、バッグを膝の上に置いた。肩を丸め、じっとバッグに視線を落とすその表情は、親に叱られた子供のようで、おかしいやら微笑ましいやらで、口元に笑みが浮かびそうになるのを、悠子は必死にこらえていた。
歩のその様子を浩一が何ともいえない表情で見ていたが、悠子の方に視線を向けた時にはその表情は消えていた。
「俺は、堯村を見てる。悪いが、後は頼んだ」
そう言って、硬貨ののった掌をずいっと突きつける。
「・・うん。それじゃ、お願いします」
受け取るまで引くことはないと直感した悠子は、軽く頭を下げ、飲み物の代金を受け取った。
浩一と歩に見送られ、悠子達は自動販売機を探した。
マップには、ご丁寧に自動販売機の場所も描かれており、探して園内をぐるぐると回ることはなかった。
「あ、あった」
浩一と歩が座っているところから、四十歩ほどいったところに自動販売機があった。
取り出し口のスペースには、笑みを浮かべたホーリィとグレイスが描かれている。
「えっと、ウーロン茶は・・・」
浩一からもらった代金を入れ、ウーロン茶を探す。飲み物のサンプルは二段あり、一段目は緑茶、紅茶、コーヒーなどのお茶系統、二段目がジュースや炭酸などのジュース系統だった。
アルミ缶に入ったウーロン茶を見つけ出し、悠子はそのボタンを押す。
ガコンッと音がして、ウーロン茶が現れた。ついで、自分の分も買う。
取り出し口から現れた緑茶を取り出し、悠子は後ろを振り返った。
「直ちゃん、楓ちゃん、いいよ~」
自動販売機を見た瞬間、競うかのように先に入れてしまったことに、若干の申し訳なさを感じながら、二人に声をかける。
だが、反応がない。直と楓のいる方に体を反転させ、向かい合う。そこには、なぜか涙をぽろぽろと流す直がいた。楓も驚いたように目を見開き、固まっている。
「うぇっ、え!?直ちゃん、どうしたの!?どこか痛いの!?」
「直さん・・・」
歩に対し、叱るように言い放っていた直と今、声を上げずに涙を流している直。その経緯が分からず、悠子は混乱した。楓も心配そうに直を見つめる。
結果、変な声を上げてしまい、それでも悠子は直の顔を覘き込んだ。
「・・・ごめん。ちょっと・・・」
言葉を詰まらせながら、直は零れる涙を拳で拭う。そして、吹っ切るように「ははっ」と軽く笑った。
「もう、いやね~。最近、涙もろくなっちゃったみたい。気にしないで何でもないから!」
手をパタパタと振り、直は自動販売機へ向かう。その背中は、悠子と楓に追及されるのを拒んでいるように見えた。
悠子は楓と顔を見合わせる。
「・・・後で聞こうか」
「そうですね・・・」
楓が頷き、ワンピースの裾を揺らしながら、自動販売機へ向かった。
その頃、三人を見送った浩一は、沈んだまま、浮き上がってこない歩に視線を投げた。
背中を丸め、俯く歩は、ズーンという重い効果音が聞こえてくるほど悲壮に見えた。
「そんなに落ち込むな、堯村。初めて乗ったんだろう?慣れてないだろうし、気持ち悪くなるのも無理はないさ」
正直、鬼討師である歩ならジェットコースターのスピードなど問題ではないと浩一は思っていた。霊威の背に乗ることも多いだろうから、速いスピードにも慣れていると思ったのだ。ちなみに、ジェットコースタ―に乗るのが初めてだと知ったのは、ノイエス・ワンダーランド行のバスの中でだった。
「・・・引かれた。絶対引かれた・・・。ジェットコースターに乗っただけで体調悪くなるなんて、どんだけ俺はひ弱なんだ・・・」
しかし、浩一の慰めの言葉など聞いておらず、歩は自分の非弱さについて嘆き、直に嫌われたと、ますます気分を落ち込ませていた。
直を知る浩一からすれば、そんなことはないと分かっていた。代金を払おうとした歩に対し、強い口調で止めてはいたが、嫌がっているそぶりはなかったからだ。歩の分を自分が払うと言っていたから、むしろ歩を気にかけているようにも見えた。
浩一は、ふうっと小さく息を吐いた。
(・・・まったく、面倒臭い)
直が絡むと、比較的喜怒哀楽をはっきりと顔に出す歩が、さらに表情豊かになる(悪い意味で)。消極的で否定的な言葉が口をついて出て、思い込みが激しくなるのだ。
好きになった人の前では、かっこつけたいと思う歩の気持ちも分からなくはないが、それで本心を隠していては意味がない。どこかで綻びが出て、歩自身が壊れてしまってはどうしようもないだろうに。
「落ち着け。そんな事で直は引いたりしない。あいつは、嫌いな奴ははっきり嫌いと口にするからな。だから、そう落ち込むな」
歩の肩をぽんぽんと叩き、再度、慰めの言葉を口にする。
「お前は慣れてるよな。ジェットコースター」
じっとりという音が見えるような瞳で浩一を見る歩に、浩一は苦笑した。
「俺が子供の頃、じいちゃんとばあちゃんに連れられて、何回か乗ったことがあるからな。でも、あんな大きいのじゃなくて、小さくて小回りの利くやつだったけど。それでも、けっこうスピード出てたな」
浩一がよく祖父母と訪れていたのは、ノイエス・ワンダーランドのような最新型の遊園地ではなく、古めかしいアトラクションが軒を連ねた小さな遊園地だった。けれど、アトラクションも豊富で充実していたし、子供心に楽しかったことを覚えている。
「子供の頃って・・・。お前のじいさんとばあさんていくつだよ」
歩は、疑うような目で浩一を見る。確かに、じいさんばあさんと聞けば、そもそもジェットコースターに乗れるのかと疑問に思うのも無理はない。
「あー。俺が、六歳か七歳の時は、確か四十七だったか。今は五十七かな?おおざっぱに言えば六十にはなるんだろうけど」
「若っ!!」
記憶を遡らせ、祖父と祖母の年齢を口にする。その年齢があまりに若いことに驚いたのか、歩は目をカッと見開き、叫んだ。
「まぁ、ばあちゃんは母さんを二十歳の時に生んで、母さんも俺を二十歳の時に生んだらしいから。そりゃぁ、若くもなるよなあ」
昨今は晩婚も多い。五十か六十代で孫がいる世代など、そう多くはないだろう。
「あ、そういえば直と一緒に行ったこともあったな・・・」
遊園地で思い出した。小学五年か六年の頃に行った覚えがあった。直は小回りの利く、スピードの速いコースターがいたく気に入り、浩一を連れ回して、何度も乗ったのだ。それは、比較的慣れていた浩一をへろへろにさせるほどの回数だった。
「なんだとぉっ!?」
刹那、先ほどのしおらしい(というよりは暗い)態度はどこへやら、歩が突如、いきり立った声を上げ、浩一の胸元を掴んだ。
「お前、吉沢と二人っきりで遊園地行ったのか!?あぁっ!?」
『二人っきり』という言葉を強調し、歩は浩一を揺さぶった。その顔は怒りか、衝撃のためか赤くなっており、胸元を掴む手は、先ほどまで青ざめ、沈んでいた人物とは思えないほど強かった。息苦しさを感じながら、浩一は必死に弁明する。
「こ、子供の頃だって!幼馴染だし、近所の子供と一緒に遊ぶ感覚だよ!それに、俺は直のことを姉貴みたいに思うことはあっても、恋愛対象としては見てないっ!」
幼馴染に対する心象を、他人に言うのはかなり勇気がいったが、仕方がない。そうしなければ歩は浩一と直の仲を誤解するだろう。ややこしい事になり、拗れ、巻き込まれてはたまらない。
「・・・そうか」
浩一の言葉に嘘はないと分かったのか、歩は浩一の襟から手を離した。Vネックの襟首が強い力で掴まれたことで、かなり伸びていた。みっともない服装になってしまい、浩一は腰に巻いていた紺のシャツを外すと、長い袖を首元で縛ってよれた襟首を隠し、シャツを背中に背負う格好に変えた。多少暑いが、背に腹は代えられない。
「あ、悪い・・・」
納得して頭が冷えたのか、歩は自分のしたことに気づき、小さく謝った。
「気にするな。嫉妬するほど直のことを思ってくれてるんなら、俺も安心だ」
年は同じだか、周りを引っ張るほどのエネルギーを持った直を浩一は幼い頃から頼ってばかりいた。同級生や上級生にいじめられた時も、近所の犬に追いかけられたときも、仲の良い友達とかくれんぼをしていて、鬼役の子に帰る時間になっても見つけてもらえず、泣きながら隠れていたところを直に見つけてもらったときも。
一人っ子だった浩一は、自分に姉がいたらこんな感じなのだろうかと考えた。
中学になってからは背も伸び、柔道もするようになり、心身ともに強くなったせいか、昔のように泣くことはなくなったが、その頃の思い出が強すぎるせいか、浩一にとって直は自分を救い上げてくれるヒーローであり、姉だった。
その彼女を助け、守ってくれた歩には感謝してもしきれない。つまり、たとえ直が絡むと途端に面倒臭くなる歩を、浩一は買っていた。できれば、二人が結ばれ、幸せになってほしいと思う。
「なっ!しっ、嫉妬って!そんなんじゃ・・・!」
歩は、嫉妬という言葉に大きく反応する。目は泳ぎ、頬はリンゴのように赤い。直のことを好きだと全身で言っているようなものだ。浩一は苦笑する。
(これで、こうなんだから、告白するときはどうするんだか)
一抹の不安を覚えたのだった。
物の数分で、直がグレープジュースとポカリスエットを、楓がミルクティーを買い終えた。
「直ちゃん」
その足で浩一達の元へ向かおうとする直に、悠子は静かに、だがはっきりと直の名を呼んだ。直が悠子の方を向く。
「何?」
表情は平静さを装っているが、その瞳には、怯えのようなものがちらついていた。
「どうして泣いていたか聞いてもいい?」
せっかく遊びに来ているのだから、帰りにでも聞こうと思っていた。けれど、何かを隠したまま遊ぶことは本当に楽しいだろうか。
浩一と歩には悪いが、少し待ってもらおう。
「ほんとにたいしたことないのよ?」
「直ちゃん」
ぎこちなく笑う直に、悠子は窘めるように、けれど優しく言った。
「無理して笑わなくていいから。それとも言うのは辛い?」
唇を引き結び、口の端を上げようとして、直は失敗した。くしゃりと、顔を歪ませる。
「っ、ずるいなぁ。その言い方」
はぁっ、と何かを吐き出すように直は息を吐いた。
「堯村の、あの青白い顔を見たときに、あいつが学校で血まみれになりながら戦ってたこと思い出しちゃって。堯村の前では耐えてたんだけど。離れたから、もう大丈夫だと思ったら自然と涙が出ちゃってたのよ」
自嘲気味に笑う直に、悠子は、ハっと胸をつかれた。
明るく、普段通りにふるまっているが、戦いに巻き込まれ、異能力者に襲われかけたのだ。幸い怪我をすることなく、戦いに巻き込まれる前と同じように登校できているが、心まで同じではない。
直は言っていた。血を流す歩を見て死んでしまうのではないかと思ったと。
平穏な日常が戻ってきたとはいえ、一カ月やそこらでその時の衝撃や恐怖を受けた心が癒えるわけではない。
巫子としての仕事柄、悠子は戦いに慣れている。多少の怪我も恐怖にも耐性があった。
だが、直や楓は違う。彼女らは、戦いとは無縁だ。
アフターフォローも巫子の仕事の内だ。再会してから、まったくの普段通りだったので、大丈夫だと思ってしまったのだ。
(全然、大丈夫じゃない・・・)
自分は、一体何を見ていたのだろう。親友でもある彼女らの事を慮ることもせず、自分の事や達騎の事を考えていた。
力を込めて拳を握り、ぎゅっと唇を引き結ぶ。そして、直と楓の方を見ながら口を開いた。
「・・・ごめんね。私、何も見えてなかった」
すると、二人はぎょっとしたように目を見開いた。
「そっ、そんな、謝る必要なんてないわよ!私が勝手に泣いただけだし!」
首をぶんぶんと振りながら、直が言う。
「でも、直ちゃん、ちゃんと泣いた?」
「え?」
直が目を瞬かせる。『ちゃんと泣いた?』という言葉に引っ掛かりを覚えたのだろう。困惑した顔をしていた。
「ちゃんと、とは?」
楓も意外そうな表情で、悠子の言葉の意味を問う。
「辛いとか、苦しいとか、悲しいとか、そういう気持ちを吐き出すように泣いたかなって。耐えるように泣くのは、逆にストレスを溜めちゃうから」
「・・・そう言われるとどうだったかな」
直が首をひねり、考え込むように目線を下に向けた。悠子はそんな直に、明るい声でアドバイスをした。
「泣きたい時は、思いっきり泣いたほうがいいよ。精神的にも楽になるから」
直はう~ん、と唸っていたが、やがて諦めたかのように「だめだ!」と呟いた。
そして、悠子に向かって、いたずらっ子のように小さく舌を出した。
「ちょっと思い出せないけど。・・・でも、今度から泣きたい時は悠子のアドバイスを参考にしてみる」
真剣な表情で悠子を見る直に、悠子は頷き、楓の方を向いた。
「楓ちゃんも無理しちゃだめだよ。辛い時は辛い、悲しい時は悲しいって言ってね」
「・・・はい」
楓が穏やかに微笑み、頷いた。
話もまとまり、悠子達は浩一と歩が待っているベンチに向かって歩き出した。
直を先頭に歩いていると、楓が悠子の隣にやってきた。
「・・・あの、『泣く』で思い出したんですけど、悠子さんも大丈夫ですか?」
おずおずとした様子で、けれど瞳に強い光を灯した楓に尋ねられ、悠子は口をぽかんと開けた。
「え」
「悠子さんも、ちゃんと泣いていますか?」
逆に聞かれ、悠子はとっさに言葉が出なかった。
――泣く。
悠子は思い返す。泣いたことはいくつかあった。
達騎のことを皆が忘れてしまったことが悲しくて泣き、死にかけた達騎が無事に戻ってきたことに嬉しくて泣いた。
ただ、気持ちを吐き出して泣いたかと問われると、自信がない。
「・・・うん、ちゃんと泣いてるよ」
一瞬、逡巡したが、それをおくびに出すことなく、悠子はフッと笑って見せた。心配をかけるわけにはいかない。ただでさえ、夏休み中に不安がらせてしまったのだから。
「それなら、よかったです」
悠子の小さな嘘に気付くことなく、楓がほっとしたように笑った。
言われっぱなしは性に合わない。歩は話題を変えようと、口を開いた。
「そういえば、よく出かける許可が下りたな。事件に巻き込まれて、まだ一カ月くらいしか経ってないだろ」
浩一から、事件に巻き込まれたために、祖父母――家族がかなり心配し、しばらく外出は控えろと言われたと言っていたのを思い出したからだ。
歩は、直の誘いもあって一も二もなく飛びついた。自身の親は自分に関心がないから除外するが、兄達はたいそう心配し(駆はにやついていたが)、もし何かあったら、すぐ連絡をいれろと言ってくれた。――いい兄をもったと歩は思った(駆は除外する)。
「あぁ。でも、直がせっかく誘ってくれたし、ずっと家に閉じこもってるのも息が詰まるからな。そう思って、説得した。何かあったらすぐ連絡するとはいってある」
説得した、と聞き、歩は意外に思った。
「へぇ、根性あるじゃん。まぁ、誘拐された次の日に、もう学校に来てたもんな、お前」
楓と一緒に誘拐され、銃で足を撃たれたと聞いた。
楓の人魚の力で事なきを得たが、その衝撃は計り知れない。トラウマになっていてもおかしくなかった。
一日休むのかと思っていたが、通常通りに登校してきたので、歩はひどく驚いたのを覚えている。
「普通、誘拐されたりとか、銃で撃たれたりとかしたら、精神的にどうにかなりそうなもんだろうに。今回も事も合わせると、かなり参ってるんじゃないのか?今更だけど、大丈夫か?」
夏休み中に、妖に襲われかけたこともそうだ。何でもないような顔をしているが、実際はどうなのだろう。いくら、巫子、鬼討師、妖のいる世界とはいえ、浩一は一般人。戦いの場とは無縁の人間だ。
浩一は、少し考え込むように腕を組むと、しばらくして口を開いた。
「・・・まぁ、確かにびっくりしたし、痛かったが、七海を助けることで頭が一杯で恐怖とかそんなもんどっかに飛んでた。それに、鈴原がいたからな。必ず助けてくれると信じてたよ。それに、今回も七海のボディーガードの、――陽燕さんと沙矢さんが助けてくれたからな。・・・俺は、守られていただけだ」
――『守られていた』。
その言葉に、憮然としたものを感じ取り、歩は「おや」と片眉を上げた。顔を見れば、浩一は一点を睨むように見つめている。二つの事件を思い起こしているのだろうか。
「守られるのは嫌いか?」
すると、浩一はハッとしたような顔をし、歩に顔を向けた。
「能力のない自分がくやしい。そんなところか?」
歩が浩一の思いを代弁すれば、浩一はバツが悪そうに顔を背けた。
「悪い。・・・お前のことを信用してないわけじゃない」
「別に疑っちゃいねぇよ。まっ、そうだよな。周りの人間が何かしら能力をもって貢献してるのに、見てることしかできないってのは辛いよな」
同意すれば、浩一は首を緩く振る。
「わかってはいるんだ。七海にも言った。能力を使わなくたってできることはあるって。・・・それでも、能力があれば、自分の周りにいる大切な人達だけでも守れるかもしれない。それなら、家族や友達を悲しませることはないと思うと、何も持たない自分が無性に悔しくなる」
前回や今回の事件で祖父母に心配をかけてしまったことに、思うことがあるのだろう。
真っ直ぐな奴だな、と歩は思った。諦めるでも、ふてくされるわけでもない。ただ、悔しいと歯噛みし、それでも前を見る。普通なら、恐怖で立ちすくむか、能力の差を歴然と感じ、諦めるだろうに。子供の頃は泣き虫だったと暴露してくれたが、意外と肝が据わっている。
歩はふっと小さく笑った。
――楓はいい目をもっている。
そんなことを思った。
「何も持たないからいいってこともあるかもしれないぜ?」
「なに?」
訝しげに眉を上げる浩一に、歩は続けた。
「能力があるってことは、本人の意思があろうとなかろうと、戦いに駆り出される。あるいは、巻き込まれることも多い。俺や鈴原、巻き込まれるっていうなら七海がそれだな。そう言う風な生活を毎日してるとな、こう、朝飯食って、授業受けて、放課後になって、友達と騒ぐっていうなんでもない日常がひどく尊く見えるんだよ。そういう日常を一緒に送ってくれる奴がいるってだけでほっとするんだ。お前は悔しいと言うが、お前やそう言う奴がいるだけで、俺や鈴原、七海は安心できるんだよ。だから、何も持たないとかいうなよ。お前はもう十分もってるんだ。俺達の能力に匹敵するだけの大切なもんをな」
(――そういうお前の存在が、その心根が、七海が惹かれた理由なのかもな)
ふっと小さく笑い、歩は浩一の胸元に人差し指を突きつけた。
浩一は目を丸くし、歩を見る。
「そう、か。もう俺はもっているのか・・・」
一人、納得したように頷き、浩一は満たされたように笑った。
「ありがとう、堯村。お前がいてくれてよかった」
「・・・お、おう」
さわやかな微笑みと言われ慣れない言葉に、歩は口元をひきつらせるのを寸でのところで耐えた。
(お前っ、その顔と言葉は七海に向けて言えっ!!)
歩の思いなど露知らず、悠子達が戻ってくるまで、浩一がその表情を崩すことはなかった。