第百十六幕 約束
「ま、待って!!」
思いもよらない言葉に、悠子は慌て、腕を掲げる達騎の前に立ちふさがった。
「く、達騎くん、どうして・・・!?」
草壁、と呼びそうになったのを寸でのところで堪え、悠子は達騎を見つめた。
命喰鳥の命を奪ったのが達騎だということが判明し、驚きながらも、どこか納得している自分がいた。心の片隅で達騎なのではないかと思っていたのかもしれない。
「どうしても何も、本当のことだ。お前だって、俺が命喰鳥を殺さなければ、一つ目入道に殺されかけたりしなかった。しかも、あの映像が放映されたことで、お前の顔は知られちまったし、勘違いした奴らが襲ってくることだってあるだろう。お前はもっと怒っていいんだぜ」
腕を下ろし、達騎は悠子を見た。
「そんなこと・・・」
達騎の言うことは一理あるが、一つ目入道に潰されかけた自分を助けてくれたのも達騎だ。怒る理由がない。責めることもできなかった。
それに、癪だと口にしていたが、自惚れていいなら、まるで自分を助けるために言っているように聞こえた。
「・・・私は、気にしないよ。もし、そうなったとしても、誤解だっていえばいいんだし、大丈夫だよ」
すると、達騎は大きく眉を寄せた。
「俺は、お前を少し買い被っていたみたいだな」
「え?」
「誰も殺さないと決め、鵺を殺させないと止めにきたお前が、俺の罪を見逃すのか?」
厳しい眼差しを向ける達騎を、悠子は茫然と見つめる。
「・・・・・」
確かに達騎の言う通りだ。多くの人間の命を直接的にせよ、間接的にせよ、奪ったのは鵺も命喰鳥も同じだ。
積もり積もった鵺の殺意と、怒りのまま、命喰鳥を殺したこと。どちらも殺意であることは変わらない。そして、何かが違えば、達騎は鵺と命喰鳥達、どちらか片方ではなく、二つの種族の命を奪っていたかもしれないのだ。
達騎と悠子の間に重苦しい空気が漂うなか、口を開いたのはみちるだった。
「それなら、私達巫子だってそうよ。人を殺した妖は、問答無用で根や高天原に送るわ。あなたが罪に問われるなら、私達だって罪に問われることになる」
「それは巫子だからだろう。暗黙の了解っていうやつだ。だが、俺はただの一般人だ。・・・もう人じゃないが」
達騎は自嘲ぎみに唇を上げる。みちるが不満そうに眉を顰めた。そんなみちるを一瞥した後、達騎は悠子を見た。
「これは、俺のけじめだ。怒りのままに任せて命喰鳥を殺さなければ、鵺の大馬鹿野郎に利用されることも、お前が巻き込まれることもなかった。大変なのは、おそらくこれからだろう。俺がやったと言えば、多少、世論はお前から逸れるだろうが。・・・本当にすまなかった」
達騎が神妙な顔で頭を下げる。
「・・・・・」
達騎の前では大丈夫だと言ったが、しかし、不安は大きかった。血にまみれた自分。命喰鳥の死体。妖をないがしろにする人間の存在を強調するような鵺の演説。それらがテレビで流れてしまい、自分の力でどうにかできる範囲を超えていたからだ。
「俺は、罪を償う。それで、お前の未来が守れるかどうかわからないが、それでもやらないよりはましだ。俺は俺ができることをする」
顔を上げ、しっかりとした口調で達騎が言った。その目は、強い決意に満ちていた。
唇をきゅっと結び、悠子は俯く。
「・・・ごめんなさい。達騎くんは私のこと、たくさん助けてくれたのに。私、何もできない・・・」
絞り出すように声を上げた。
輪音タワー前での戦闘のときも、タワーの中でも、悠子は達騎に助けられた。
それだけではない。仕事の依頼や騒動に巻き込まれたときも、偶然か必然か、居合わせた達騎に助けられることも何度かあった。
そして、今。達騎が人生の岐路に立たされているというのに何もできない。そんな自分が情けなかった。
『一緒に帰ろう』と言った言葉を現実のものにできない自分にも腹がたった。
「お前が謝る必要はねえよ。助けられたのは俺もだ」
「え・・・」
意外な言葉に顔を上げれば、達騎は右手を上げ、その手首を左手の人差し指で示した。
「お前、心界で俺にブレスレットをくれただろう。それが俺の命を救ってくれた。最終的には、良心の力でここに戻ってきたが、お前のブレスレットがなければ、俺はここにはいない」
両手を下ろし、達騎は笑った。
「何もできない、なんてことはねえよ。仕事や騒動で居合わせた時だって、お前には何度も助けられた。それに、心界のことで、お前には一生返せない恩を受けた。これ以上、助けてもらったら罰があたる」
「達騎くん・・・」
達騎の言葉に、悠子は瞳を潤ませる。
達騎の優しさに胸を震わせ、同時に己の不甲斐なさが情けなくも悲しい。様々な感情が入り乱れ、気を抜けば涙が零れてしまいそうだった。
小さく、息を吐く。ここで泣いても達騎を困らせてしまうだけだ。
達騎の決意は固い。なら、自分ができることはなんだろう。泣く以外に、謝る以外に、できることは。
その時、ある考えが降ってきた。
悠子は、潤む目元を拳で拭い、真っ直ぐに達騎を見た。
「・・・わかった。達騎くんが決めたなら、私はあなたの意思を尊重する」
そして、すっと息を吐き、できるだけ明るい声を出した。
「私、待ってるから。あの町で、達騎くんが帰ってくるのずっと待ってるから」
一緒に帰ることはできない。けれど、達騎が戻ってくるのを待つことはできる。そう思った悠子は、口元を上げ、にこりと笑った。
達騎の顔を見るのは、今日で最後になるかもしれない。彼が最後に見た自分の顔が、涙に濡れたものになるのは嫌だった。
今生の別れではない。また、いつか会うために。だからこそ、悠子は達騎を笑顔で送り出したかった。
達騎は驚いたように目を見開き、軽く眉を顰めた。
「俺を待ってたって、いい事なんかないぜ?それより、自分の人生を大事にしろよ」
「もちろん、大事にするよ。その上で、待つつもりだから」
はっきりと言えば、達騎の眉間の皺がさらに深くなった。
「罪を償うあなたに私ができることは、待つことくらいだから。私は、私にできることをする。あなたと同じように、ね」
首を軽く傾げ、上目使いに達騎を見れば、達騎は苦虫を噛み潰した表情を浮かべた。
「諦めなさい。一度決めたら、ひかないのはあいつ譲りよ」
すると、みちるが親指を拓人に向けた。拓人は「そうだな」と言い、肩をすくめる。
「いいんすか、それで。あんたは鈴原の父親でしょう」
達騎が拓人に非難めいた眼差しを向ける。しかし、拓人は気にするそぶりも見せず、
「悠子が選んだことだ。悠子に任せるよ」とにべもない。
達騎は、がしがしと後頭部を掻き、はぁっと息を吐いた。
「わかった、わかったよ!お前の好きにしろ!」
「うん、そうする」
達騎の了承を得るまでもなく、悠子はそうするつもりだった。笑みを浮かべて即答すると、達騎は何とも言えない顔をしたのだった。
「あー、取り込み中のところ悪いが、ちょっといいか?」
真治が大きな体を揺すりながら、達騎に近付く。
「君の言ったことが本当なら、もろもろの調査をして逮捕ということになるが、いいか?自首扱いにはなるだろうが」
「・・・あぁ、構わない」
淡々と頷く達騎に、真治は眉を顰め、むうっと唇を引き結んだ。記憶はなくとも、若い達騎が妖を殺したことに、思うところがあるのだろう。しかし、真治はそれ以上何も言わなかった。
別れが近いことを悟った悠子は、すっと右手を差し出した。
「達騎くん」
達騎が悠子を見る。
その時、ふいに、悠子は、夏祭りに達騎の手を握り返したことを思い出した。
あの時、達騎の方から握手を求めてきたが、その時からすでに鵺を追う事を決めていたのだろう。皆から自分の記憶を消し、ただ一人復讐の旅に出る決意を固めていたのだ。
テレビで鵺が脱獄したというニュースを聞いて、悠子が何かしら聞いてくるのは予想していたのだろう。普段通りの自分を演じることで、気付かれないようにしていたのだと今ならわかる。当時、そんなことなど露知らず、悠子は、ただ達騎の言葉をそのまま素直に受け止めていたのだから。夏祭りに誘ったのも、最後の思い出作りのためだったのだろう。
あの夏祭りの握手は、達騎にとって、さよならの意味を含んでいた。この握手も別れを意味するが、後ろ向きなものではない。再び会うため、再会のための握手だ。
達騎を見つめ、悠子は言った。
「また会えるその日まで」
すると、達騎は小さく息を吐いた。
「まったく、お前はたいした奴だよ」
観念したような表情を浮かべ、達騎も左手を差出す。悠子はその手を握った。
「それじゃ、また」
「あぁ、またな」
達騎も手を握り返す。名残惜しげに二人の手が離れていった。
真治と多くの警察官に囲まれながら、鵺が踊り場の階段を降りていき、その後ろを数人の警察官に囲まれた達騎が続く。
彼らの後姿を見送りながら、悠子は思った。
戦いは終わった。けれど、これは始まりに過ぎない。
悪意を持った妖達の暴動で、良心という糸で繋がっていた人と妖の関係に亀裂が走った。現世で平和に暮らす妖達の立場が悪くなり、『狭間』の交流にも支障がでるかもしれない。
そして、鈿女の巫子の時期当主となるはずだった、鈴原竜士。
彼が逮捕されれば、鈿女の巫子の信頼も地に落ちるだろう。前のように信用され、頼られることは少なくなるかもしれない。
――この現世も、巫子の世界も大きく変わる。そして、悠子の世界も。
禁忌である『神降ろし』を行ったことで、現当主であり、祖母の律から何かしら言われるだろう。もしかしたら、巫子をやめろと告げられるかもしれない。
だが、それでも生きていくしかないのだ。何があろうとも。どんなに苦しくとも。
生温くも、強い風が悠子の頬を叩く。その風は、まるでこれからの未来を暗示しているかのようだった。
「あら、本当に捕まっちゃったのね~」
輪音タワーの向かい、商社ビルの屋上に明るい声が響く。
その声の主は、双眼鏡を両目に当て、タワーの展望台で警察官に囲まれながら歩いている鵺を見つめていた。
「まぁ、すっきりした顔しちゃって。よっほど感化されたのね~。あの子に」
感心と呆れが入り混じった声音を零すと同時に、双眼鏡を離す。
薄紫のアイシャドーを瞼に施し、唇にはうっすらと紅をさした中性的な顔立ちの男の姿が露わになった。
男―茉理―は金色に染めた長い髪を翻すと、背後にいる人物に声をかけた。
「で、あんた達はどうするの?」
そこにいたのは、巻き毛の髪を肩に流し、腕を組んだ女―カサンドラ―と、長い髪を首元でくくり、淡々とした表情を浮かべる男―輝―だった。
二人が仕事を終え、集合場所であった輪音タワーへ向かうと、現場はすでに警察関係者と医療関係者に埋め尽くされていたという。近づくこともままならず、とりあえず、近くの商社ビルの屋上で様子を窺っていれば、鵺が警察に手錠をかけられているところだった。
集合場所が輪音タワーであることを知っていた茉理も屋上へ登り、そこでカサンドラと輝に出会ったのだ。二人のことは鵺から少し話を聞いていた。情報を探らせるにはうってつけの人材だと。
カサンドラは、組んでいた腕を解き、風で煽られた巻き髪を右手で払う。
「どうもしないわ。また別の仕事を受けるだけよ」
「同じく」
輝も即答し、大きく頷く。
「そう・・・」
二人の様子に、茉理は空いた左手を頬に添える。そして、いい事を思いついたというように小さく口元に笑みを浮かべた。
「ねぇ、ならあたしと組まない?」
「あなたと?」
カサンドラが片眉を上げる。輝は値踏みするかのように、じっと茉理を見た。
「そ。あたしの願いは、この世界の住人に怒りを、恐怖を、絶望を叩きつけること。そして、少しずつ少しずつ、水が岩を削るように細く長く続けること。あんた達の仕事はその手伝い。情報収集や工作活動をしてもらうわ。衣食住は保証するし、バレずに活動するのがあたしの信条だから、今回みたいにあぶれることもない。どうかしら?いい物件だと思うけど」
茉理は両手を広げ、にんまりと笑む。二人の様子からして、鵺に心酔しているわけでもなさそうだ。感情ではなく、仕事にプライドや楽しみを見出している人間だと見当をつけた。
茉理の願いを叶えるには、三人増えたとはいえ、まだ人手不足だ。仲間は多いほうがいい。
しばらくして、カサンドラが口を開いた。
「いいわ。組みましょう。話を聞く限り、色々な仕事があるみたいだし。腕がなるわ。・・・あなたはどうするの?」
カサンドラは、隣に立つ輝に視線を向けた。
「・・・そうだな。ここで惚けていても、意味はない。あんたと組むなら、あぶれることもないというし、いいだろう。その仕事、受けよう」
輝も瞳に強い光を宿し、頷いた。両者の言葉に、茉理はふふっと笑う。
「歓迎するわ。二人とも。じゃ、他の子達も紹介するわね。ついてきて」
茉理は紫のパンプスを鳴らしながら、二人を促し、商社ビルを後にした。