第百十五幕 けじめ
――それは、悠子達が戻る数分前のことだった。
禍々しい氣を発する黒い塊の前で、拓人、みちる、精霊王、葉扇はそれを睨みつけまま、動くことができないでいた。
「悩んでても埒が明かないわ!この人数なら、この塊をどうにかできるでしょ!」
そう言って、みちるは槍―陽光翡翠―を片手で持ちながら、塊に向けて振り上げようとする。
互いの自己紹介はすでに終えていた。自分と達騎、そしてあの二人――精霊王と葉扇がいれば、この塊をどうにかできるかもしれない。そう思ったのだ。
「早まるな!返り討ちにあったらどうする?この塊の正体がわからない以上、無闇に攻撃を加えるのは危険だ!」
拓人が声を上げ、真剣な眼差しでみちるを見据える。
「それは覚悟の上よ!悠子ちゃんと達騎が飲み込まれたのよ?一刻も早く助け出さないと!あんただって、そう思ってるでしょ!?」
娘が危険にさらされているのだ。
自分以上に助けたいと思っているだろうに、この男は!
みちるは、内心憤った。
冷静に対処しようとするのは巫子として当然だが、あまりに平然と装われては、逆に腹立たしくなってくる。
「二人とも落ち着いてください」
「そうだ!焦ってもいいことなんてない!」
精霊王が穏やかな声で、葉扇が噛んで含めるように宥める。
「みちるさんの気持ちも拓人さんの気持ちもわかります。なら、返り討ちにならないために確実に防御を施し、あの塊に攻撃を与えるというのはどうでしょう」
それは、拓人とみちるの考えを尊重したものだった。
自分達よりも遥かに長く生きているが、見た目は年若い精霊王に諭され、槍を持つみちるの手がゆるゆると下がる。少し大人げなかったか・・・。
拓人を見れば、小さく息をつき、苦笑を浮かべていた。
「そうだな。少し意固地になっていた。・・・悪い」
みちるに視線を映し、謝罪の言葉を口にする。
「あー、私もごめん。ちょっと感情的になってたわ」
拓人に謝られ、面映ゆさを感じながら、みちるも謝る。
「よし!落ち着いたところで、作戦会議をしよう!あ、おれの力は幻覚を見せることで、防御も攻撃もできないから、お三方、よろしくお願いします!」
結果的に、精霊王とみちる、拓人に頼ることになるというのに、申し訳なさも何もなく、葉扇は片手を上げながら、明るく言い放った。
「わかった。今からお前をあそこに突っ込ませるから、心の準備をしろ」
その葉扇の様子に苛立ちを覚えたらしく、精霊王は蔓でできた緑の手を伸ばし、葉扇の首根っこを掴んだ。その顔は真顔だった。
「ちょ、冗談ですってば!!おれも手伝います!手伝わさせてくださいっ!!」
本気だと悟ったのか、葉扇は冷や汗を額に浮かべながら叫んだ。
「ふふっ」
コントのようなやり取りに、状況は何も変わっていないが、みちるは、思わずくすりと笑ってしまう。拓人も目元を緩めていた。
葉扇が意図してやったかは分からないが、二人の応酬に、少しだけ張りつめた空気が和んだのが分かった。
「さて、では仕切り直しだ。作戦会議を始めよう。葉扇、君も手伝ってくれ」
コホンッと一つ咳払いをし、拓人が場を取り仕切る。
その時だった。
黒い塊が発する氣が禍々しいものから、清浄な―例えるなら、春に山から流れてくる冷たく、清涼な雪解け水のような―氣に変わっていった。
何事かとみちる達が振り返れば、黒い塊は白い光を発し、一面を白に染め上げ、みちる達の目を覆った。
「・・・子!!」
「・・・ちゃん!!」
「・・じょうぶか!?」
「・い、・・・りしろ!!」
耳に木霊する言葉に、悠子は閉じていた瞼を開けた。目を瞬かせ、白く染まった景色を必死に元に戻す。
すると、そこには不安げな表情を浮かべた、拓人、みちる、精霊王、葉扇がいた。
「・・・お父さん、みんな・・・」
ぼんやりとした頭で口にすれば、四人が四人とも安堵の表情を浮かべた。
「だから言ったろ。大丈夫だって」
なぜか達騎の声が頭の上から降ってくる。左右に目を走らせれば、悠子は自分が地べたに寝そべっていることに気が付いた。
(・・・・?)
頭を動かしてみれば、硬い金属製の床を感じることができるはずだが、やけに柔らかく、温かい。
(温かい・・・?)
疑問が頭を過った瞬間、目の前に、逆さまの達騎の顔が現れた。
「おう、目が覚めたか?」
逆さまで、達騎の顔が目の前にある。とすれば、自分が枕にしているのは――。
ガバリッと音をたてて、悠子は起き上がった。だが、いきなり動いたためか、くらりと眩暈がした。
「おい、平気か?」
達騎が心配そうに声を上げる。だが、悠子はその言葉に答えることなく、自分が枕にしていた場所に視線を映す。そこにあったのは、胡坐をかいた達騎の膝だった。
「―――!!」
言葉が出ない。頬にカッと熱が集まった。
(は、恥ずかしいっ!!)
しかも、拓人やみちる達の目の前で。それが余計に悠子の頬を熱くした。おそらく、耳にまで熱が上がっていることだろう。
「な、なんで膝枕を・・・?」
からからに乾いた唇で問えば、達騎は何でもない事のように答えた。
「ん?いや、お前、ここに戻ったら、安心したのか気を失ったんだよ。だから、目が覚めるまで待ってた」
理由は分かった。しかし。
「なんで、ひざまくら・・・」
「あぁ、だってここ硬くて寝づらいだろ?」
そう言うと、達騎は、金属製の朱色の床を拳でこんこんと叩く。
「あ、ありがとう・・・」
善意でやってくれたことだと分かり、悠子はそれしか言えなかった。
「取り込み中のところ悪いけど、僕のこと忘れてない?」
その声に振り返れば、拗ねたような表情を浮かべた鵺がいた。その目は、どこか寂しげに見えた。
「忘れてねぇ。拗ねんじゃねぇよ、子供か。お前は」
達騎は立ち上がり、呆れたような眼差しを鵺に向ける。
「本当に雰囲気変わったな・・・」
葉扇が戸惑いを滲ませつつ、ほう、と感心した声を上げる。
「これも悠子のおかげだな」
精霊王が悠子の肩をぽんぽんと叩く。その時、悠子は気が付いた。精霊王が仮面をしていないことに。鳶色の長い髪に金色の瞳をした、目鼻立ちの良い青年が悠子に向かって笑みを浮かべていることに、微かに驚きながら、悠子は首を傾げた。
「私のおかげ、ですか?」
「あぁ。君が気を失っている間に、達騎からだいたいの事情は聞いた。彼に戦意も敵意もないこともな」
「たくさんの人間や妖を傷つけておいて、当の本人があれだと思うと、少し腹立つけどね」
みちるが肩をすくめ、苛ただしげに、ぽつんと一人佇む鵺を見やった。
「達騎くんが言っていただろう。振り上げた拳を下ろすために、一人ずつ彼を殴ると」
「え!?」
拓人の言葉に悠子は目を見開く。達騎が頷き、腕を組んだ。
「そのくらいしなきゃ、俺の気も済まない。みんなで話し合ったんだ。一人ずつあいつをぶん殴って、警察に引き渡すってな」
そういえば、何発かぶん殴ると達騎が言っていたことを悠子は思い出した。
確かに、多くの人間、妖を巻き込み、間接的にその命を奪った鵺をそう簡単に許せるものではない。その怒りや憎しみを収めるために、彼らは鵺を殴ることにしたのだろう。
「・・・そうなんだ」
悠子は頷く。
「警察には連絡した。もう少ししたら、こっちに来るそうだ」
拓人が二つ折りにした携帯電話を振る。それに、達騎が頷き、パキ、ポキと手の骨を鳴らした。
「なら、とっととやるか」
「そうだな」
「そうね」
「あぁ」
「おう!」
達騎の言葉を合図に、拓人、みちる、精霊王、葉扇が答えた。
そして、姿勢を正す鵺の前に、四人が向かい合わせに立った。悠子は、少し離れ、鵺と四人の顔が見える場所まで移動する。自分にできることは、彼らを見届けることだけだった。
「では、まず私が」
始めに精霊王が前に出て、拳を握りしめた。
「これは、巻き込まれた精霊達の分!!」
勢いをつけて、精霊王が鵺の頬にゴッと音をたてて一撃を与える。
「そして、これはアリエルの分!!」
つつけざまに、精霊王は、顎を目掛けて振り上げた。
鵺の体がぐらりと傾ぐが、唇を噛み締め、倒れることはなかった。
「次はおれだ」
葉扇が前に出て、拳を突き出した。
「これは、巻き込まれた精霊、人間、妖、もろもろの分!!」
葉扇は飛び上がり、小さい拳で鵺の右頬を殴る。
「これは、巻き込まれた上に、怖かったおれの分!!」
そして、今度は左頬に拳を入れた。
鵺は目を細め、呻き声ひとつ上げなかった。
「今度は私ね」
みちるは、陽光翡翠を床に置き、殴り終え、後ろに下がった葉扇の後に続いて前に出た。拳をつくり、鵺に繰り出す。
「これは、どうしようもないけど愛すべき姪っ子の分!!」
バキッと痛そうな音をたてて、鵺の右頬から音が鳴る。
「そして、もう一発は、うちの旦那とそっくりな顔で悪事を働いたあんたの分!!」
ゴッと音をたてて、みちるが左頬を殴った。鵺は後ろにたたらを踏むが、何も言わなかった。
「・・・・俺だな」
小さく呟き、拓人が前に出る。そして、拳をつくった右腕を引き、鵺の鳩尾に向けて放った。
「ぐっ!」
よほど衝撃が強かったからか、鵺の口から初めてうめき声が漏れた。
「これは、愛すべき馬鹿な甥っ子の分」
鳩尾から拳を離し、振り上げた拓人は、今度は鵺の脳天に拳を落とした。
「っ!!」
鵺が息を詰める。
「そして、これはうちの娘の分だ」
前の三人のように語気を強めるわけではない。けれど、繰り出される拳と、鵺に注がれる、冷えた――けれど内側に青い炎を宿したような強い眼差しが、拓人の思いを示しているようだった。
拓人が終わり、達騎が静かに前に出る。
「・・・・・・」
何も言わず、鵺を見つめた達騎は、腰を落とし、右手で拳をつくると、その腕を後ろに引いた。そして、顔を上げ、鵺を見据える。その目には、吐き出せない怒りを隠すかのように爛々とした光が灯っていた。
達騎はぐっと唇を噛み締め、拳を鵺に繰り出す。その先は、拓人が狙った場所と同じ鳩尾だった。
「はぁっ!!」
ごうっと風切り音を鳴らし、握り締め過ぎて白くなった拳が、鵺の鳩尾へと吸い込まれていく。
次の瞬間、鵺の体が吹き飛び、ガシャンッと大きな音をたてて、背後にある朱色の柵に激突した。
ずる、とその体が滑り落ち、鵺は金属製でできた朱色の床に顔を俯かせ、座り込んだ。
「げほっ!」
鵺が咳をしたのと同時に、血が糸のように細く流れ、床に滴り落ちる。
その血を見て、悠子は小さく息を呑んだ。
何度か咳込んだ鵺は、拳でぐいっと血を拭うと、「ははっ」と声を上げた。
「・・・全部効いたが、今のが一番だな」
「そうか」
構えを解き、拳を下ろした達騎の目には、先ほどの爛々とした強い光はなかった。
ただ、やりたかった事をやり遂げたという達成感が顔に現れていた。
深く息を吐き、鵺が立ち上がる。顔を上げれば、口元に薄く血が残っていた。
その時、どたどたと荒い足音が踊り場の入り口から聞こえてきた。
「保妖課だ!!神妙にしろ!!」
濁声を響かせ現れたのは、真治と多くの警察官だった。
ただならぬ緊張感を顔に貼りつかせ、真冶を含めた警察官達が足音をたてて、柵の側に立つ鵺を取り囲む。
「お前が鵺だな!この暴動の首謀者として、逮捕する!!」
真冶が手錠を取り出す。鵺は何も言わず、黙って両手を差し出した。ガシャリと音をたてて、鵺の手首に手錠がかけられた。
「さぁ、行くぞ」
真冶が鵺に歩くよう促す。真治に先導され、また多くの警察官に囲まれながら、鵺が歩き出す。ふと、真冶が立ち止り、悠子、達騎、拓人、みちる、精霊王、葉扇を見回した。
「・・・警察関係全員を代表して、礼を言う。鵺を捕えてくれてありがとう」
深々と真治が頭を下げた。
「鵺の仲間に関しては、捕えた太田潔という男から話を聞いている。全警察の力をもって、彼らは捕える!!」
力強く宣言し、悠子達の顔を見た後、真治は再び歩き出した。
「・・・ちょっと待ってくれ」
その背に静かに声をかけたのは、達騎だった。真冶が振り向く。
すると、達騎が両腕を前に差し出した。
「六人の命喰鳥を殺したのは、俺だ。理由は、あいつらがタワーにいる人間を殺したから、だ。まぁ、どんな理由があろうと、妖側にとっちゃ、俺はただの犯罪者だ。テレビに死体の映像が出ちまって、現世に住む妖達が騒ぐだろう。『妖権』って言う奴も出てくるはずだ。それに――」
達騎の目が悠子を向く。
「俺がやったっていうのに、あいつがやったと思わされるのも癪だ。そら、とっとと手錠をかけてくれ」
口元に笑みさえ浮かべ、達騎は腕をさらに掲げた。