第百十四幕 帰還
鵺は、悠子を見つめた。
その視線は、真っ直ぐで、何かを企んでいるようには見えなかった。
(お人よしだな――)
自分は、多くの人間、妖、果ては精霊まで、その隠された本心を突いて、彼らを思うままに行動させてきた。感情のままに行動することのどこが悪いのか。そこに、善も悪もないと思っている。それを決めつけるのが巫子や鬼討師なのだろうが。
だが、この娘は決めつけようとはしなかった。それどころか友になろうと言う。
始めは、ただ苛立った。
記憶を視たからといって、自分の気持ちを分かったように言う娘に腹がたった。
けれど、鵬鱗を得ても、常闇にいた時と同じように『独り』になると告げられた瞬間、鵺は「それでもかまわない」と跳ねのけることができなかった。
陽の光も射さない暗闇のなかで、たった一人佇んでいた頃の言いようのない寂しさを、胸が裂けるような痛みを思い出してしまったからだ。
それが、かつて羨み、憧れ続け、今も享受している温かな色彩のなかで、再び経験すると考えただけで、とてつもない恐怖を感じた。
鵺は、手を伸ばす悠子を、今度はしっかりと見つめた。
その両目には、打算も何もなく、ただ受け入れ、助けたいという意思が感じられた。陽の光など射していないはずなのに、その瞳の中には、木漏れ日のように輝く光がきらきらと反射して見えた。それは、鵬鱗の放つ光の粉に似ていた。
しかし、その光を見ても、さっきまでの飢えにも似た欲求がなくなっていることに鵺は気付いた。
思わず、自嘲する。
(――そうか。僕は、ただ認めてもらいたかっただけなのか)
己の単純さに笑いたくなってくる。だが、心は凪いでいた。
彼女の目に、嘘は見えなかった。いくら傷つけられようと、自分を殺さないと言い切った娘だ。友になりたいという気持ちにも嘘はないだろう。
鵺は、ふうっと小さく息を吐く。
しかし、簡単に白旗を上げるのも癪に障る。だから、これはちょっとした意趣返しだ。
『楔をしたら、僕が君を操るかもしれないとは思わないのかい?』
意地悪く問うてみれば、悠子はぱちぱちと目を瞬かせ、ふっと微笑んだ。
「――もしそうなったら、私は全力で抗います」
それは、力強く澄んだ声音だった。もし操りなどしたら、容赦はしないという宣誓にも聞こえた。
すると、悠子のそばに佇んでいた風雲時雨が、まるで自分を忘れるなとでもいうようにぴょんぴょんと跳びはねた。
「うん、そうだね。――ありがとう」
それが分かったのか、悠子は笑みを滲ませる。
「ははっ」
鵺は思わず笑ってしまった。
――まったく、たいした娘だ。そう思った。
「その槍がいるなら、悪さなんてできなさそうだな」
知己である少年を殺しかけ、自分を傷つけた相手を友としようとする娘と、娘に害が降りかかるならば、その切っ先を真っ先に向ける槍。相手にするには、毒気が抜かれる上に、やりづらい。
操ろうなどという気は、もはやとっくに失せていた。
鵺は、笑いを噛み殺しながら、きょとんとした顔をする悠子に向かって答えた。
『いいだろう。君の提案を受けよう』
提案と言ったのは、友という言葉を口にする恥ずかしさからだった。
気恥ずかしさなど無縁だと思っていたが、案外近くに転がっていたらしい。
鵺は、太く大きくなった黒い手を出現させ、悠子へと伸ばした。
悠子は、伸ばされた鵺の指先から大きな力を感じた。その指先を見つめていると、しばらくして、そこからナナカマドの実のように赤い両目をもった黒い小鳥が現れた。
小鳥はその翼を羽ばたかせると、口を開けて、ピィと甲高い声を上げて鳴いた。首をぐるりと回し、一時その顔を鵺に向けた小鳥だったが、しばらくして悠子の方へ首を動かした。
つぶらな赤い瞳が、悠子をじっと見つめる。
悠子にはわかった。この小鳥が鵺の一部なのだということを。
「おいで・・・」
優しく呟き、自分の手をそっと差し出す。小鳥は、首を一、二度傾げながら、悠子の掌にふわりと降り立った。
「よろしくね」
そう言って、目元を緩ませれば、小鳥は返事をするかのように、再びピィと鳴き、まるで靄が掻き消えるように、すうっと掌に吸い込まれていった。
掌に温かな氣を感じ取り、悠子はぎゅっと拳を握った。
すると、目の前で跳びはねていた風雲時雨がピタリと空中で停止した。どうしたのだろうと様子を窺っていると、風雲時雨は石突の方を悠子に向け、そのまま飛びかかってきた。
「―――!!」
いきなりのことに驚き、避けるひまもなかった。固まったままの悠子をよそに、風雲時雨の石突が悠子の胸元に触れる。痛みを感じると思いきや、それはなく、風雲時雨は黒い小鳥と同じように胸元に吸い込まれ、消えていった。
「・・・・・・」
まさか風雲時雨も吸い込まれるとは。
心界にいるはずの風雲時雨が顕現できたのは、ここが常闇という現世とは違う空間だからだろうか。
悠子は緩く首を振る。考えても仕方がない。その理由を考えるよりも、心界にいる風雲時雨が、悠子の危機を察知して助けにきてくれたことの方が大事だ。
「――ありがとう」
悠子は風雲時雨に届くように、胸元に手を置き、呟いた。
その時、闇の中から、蛍のような淡い光がふわりと現れ、ついで力強い声が響き渡った。
「鈴原っ!!」
鵬鱗が放つ淡く白い光に、顔を照らされながら現れたのは達騎だった。
走ってきたのか、息を荒く吐きながら、達騎は悠子の肩を掴んだ。庇うためか、自身の背後へ下がらせようとする。その目は悠子の真後ろにいる鵺に警戒心をもって向けられていた。
「草壁くん、大丈夫だよ」
「あぁ!?」
肩をやんわりと掴み、優しく言えば、達騎は『何言っているんだお前は』というようなニュアンスを含んだ声を上げた。
「・・・友達になったから、もう大丈夫」
そう言えば、バッと音をたてるように達騎は悠子を見た。その目は、驚きで大きく見開かれている。
「友達、だと・・・?」
次の瞬間、目を細め、達騎は、低く地を這うかのような声を発した。
怒りを堪えるようその声と仕草に、悠子は思わず身をすくませた。悪いことをしたわけではないのに、悪さをしたような気分だった。
「う、うん。友達・・・」
恐る恐る頷けば、達騎はぐっと唇を引き結び、まるで穴が開くかのように悠子をじぃっと見つめる。しばらくして、はあっと大きく息を吐き、首をガクリと落とし、俯いた。
「あいつと『楔』をしたのか」
気配を察知して、悠子の中に鵺の一部である黒い小鳥がいることに気付いたのか、達騎がそう問いかけた。その声は淡々としていて、感情が読めない。
「・・・うん」
不安を覚えながらも、悠子は頷いた。
「本気か・・・」
顔を上げた達騎は小さく呻くと、苦々しく吐き捨てる。しばらく、何かを考えるかのように空を睨んでいたが、やがて、すっと姿勢を正し、真っ直ぐに悠子を見下ろした。
「お前のことだから、あいつを信用してやったんだろうが、分かってるのか?あいつは犯罪者だぞ?操られない保証がないと言い切れるのか?」
悠子も背筋を伸ばし、達騎を見上げた。
「たとえ操られたとしても、私は全力で抗うつもりだよ。それに風雲時雨も力を貸してくれるって言ってたから、私は楔を解こうとは思わない」
その目を見つめ、きっぱりと言えば、達騎は何とも言えない顔をした。
頭をがしがしと掻き、視線を鵺へ転じる。その瞳は、剣呑な色を宿していた。そして、左の親指を悠子に向ける。
「こいつはこう言っているが、俺はどうも信用できない。鈴原を取り込もうとしたお前が、敵意すら捨てて友達になろうなんて甘い考えに走るとは、とうてい思えない。何か企んでるんじゃねぇのか?」
睨みつける達騎に、鵺は静かな声で答えた。
『・・・確かにそうだな。だが、僕にはもう君らをどうにかしようという気持ちはない。君を殺しかけ、その子自身も深く傷つけたっていうのに、僕と友達になろうなんて、そんな甘い考えをもつその子を取り込んだところで、何の感慨も湧かない。むしろやりにくくてしょうがない。友達になったのだって、そうしなければ、その子は僕をずっと説得し続けると思ったからさ。あしらい続けるのも面倒くさいだろう?』
鵺に顔があれば、不満げに、ふんっと鼻を鳴らしているだろう。その様が見えるような口調だった。
達騎が片眉を上げ、訝しげに鵺を見る。
「・・・ようするに、鈴原に折れたってことでいいのか?」
『腹ただしいけどね』
間髪入れずに言葉を連ねる鵺を見て、悠子は表情を曇らせた。
無理やり友達にさせたようで、胸がちくりと痛む。
自分の気持ちを押し通したようで――、いや、事実その通りなのだろう。でなければ、鵺が怒りを滲ませた声を出すわけがない。けれど、達騎と話をする前は、納得していたように見えた。それとも、あまりにも退かない自分に納得したふりをしたのだろうか。
「ごめんなさい。あの・・・」
だが、それ以上言葉が浮かばず、悠子は視線を彷徨わせたまま、口を閉じるしかなかった。
鵺がはぁっと息をつく。
『・・・別に嫌だとはいってない』
「えっ?」
その言葉に、悠子は目を瞬かせる。鵺が居心地悪そうに、自分の体を揺らした。
「あー、くそっ!わかったよ!そんなに絆されてるなら、もういいわ!」
達騎が苛ただしげに声を上げ、両手を上下に振り下ろす。そして、疲れたように息を吐き、片手で両目を覆った。
「たくっ。ツンデレかよ・・・」
呆れたように呟いた後、達騎は両目から手を離し、目つきを鋭くさせた。
「鈴原の決意に免じて、一応信用してやる」
キッと睨みつける達騎に、鵺の失笑じみた呟きが零れる。
『・・・君だって似たようなものじゃないか』
「あぁ?なんか言ったか?」
聞こえていたのだろう。口に出した言葉とは裏腹に、達騎の眉間に皺が寄る。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
言葉なく、達樹と鵺は睨みあう。鵺に目はないが、達騎が視線を鵺から外さない様子からして、睨み合うというのがしっくりきた。
周囲に漂う重苦しい沈黙に、悠子はこのままではいけないと思い、「あのっ」と意を決して、鵺に話しかけた。
「ここから出たいんですけど、現世に戻るにはどうすればいいか分かりますか?」
「・・・・・」
やがて、鵺は自分の腕を出し、掌を出現させた。
『この手を握れ。そうずれば、現世に――さっきまでいたタワーの上に戻れる』
その言葉に安堵し、悠子が差し出された手の内の片方に触れそうとすると、達騎の冷え冷えとした声が背中を通り過ぎていった。
「戻った後、俺達や周りの人間をどうにかしようなんて思わないよな?」
悠子は思わず後ろを振り向く。
信用したとは言え、やはり、疑念は晴れないのか。眼光は鋭く、達騎の眉間に皺は寄ったままだった。
『しないと約束しよう。・・・この娘にかけて』
「その言葉、違えるなよ」
力を込めて言葉を発する鵺に、達騎は切り返す刀のように鋭く返した。
どうにか話が収まったことに、ほっと息をついた悠子は、鵺の手に自分の右手を差し出した。達騎も良心と鵬鱗を自身のなかに収め、悠子の横につき、鵺の手を取った。
『では、行くぞ』
鵺の言葉に、悠子はぎゅっと手を握り返すことで答えた。
刹那、体を縦に勢いよく引っ張られるような感覚とともに、黒一色だった景色が灰色に変わっていき、やがて、全てが覆い尽くされるような目も眩むほどの白へと変わっていった。
「悠子!!」
「悠子ちゃん!!」
「達騎っ!!」
「達騎ぃっ!!」
あまりの白さに目を瞑っていると、父、拓人と達騎の母であるみちるの声、そして、精霊王と葉扇の声が聞こえてきた。必死なその声を頼りに、悠子は視界を元に戻そうと何度も目を瞬かせる。
しばらくして、拓人、みちる、精霊王、葉扇が不安気な表情を浮かべ、自分を覗きこんでいるのが目に入った。