第十一幕 鵺
「でやぁぁぁっ!!」
怒号を上げ、達騎は、灰色の男の心臓を目掛けて、槍―風雲時雨を突きつける。
「・・・・!!」
しかし、あと一ミリといったところで、達騎は槍を止めてしまった。
「お前、その顔・・・!!」
槍を持つ手がわなわなと震える。達騎は、再度槍を握り直し、ギリッという音をたてて、奥歯を噛んだ。
達騎の様子に、鵺と呼ばれた男は目を細め、嘲るかのように微笑んだ。
「あぁ。いいだろう?君の父親、草壁要の顔だよ」
「今すぐやめろ!」
「それは無理だ。だって・・・」
鵺の言葉を無視し、達騎は叫ぶ。
「やめろっていってんだろっ!!」
はぁっ、はぁっと息を荒げる達騎に、鵺は小さな子供を諭す親のように言葉をつづけた。
「だって、草壁要の魂を喰ったあの時から、僕は姿を自由に変えることができなくなってしまったんだから。もちろん鵺としての力も失った。人間になったのさ」
「・・・・!!」
目を見開き、達騎は息をのんだ。
「さぁ、その槍を突き刺してごらんよ。もっとも、父親の姿をした僕を刺せるものならね」
両腕を広げながら、鵺は口角を上げ、達騎を挑発した。
「貴様・・・!!」
達騎は鵺を睨みつけ、槍を構え直した。けれど、その穂先は小刻みに震え、今にも取り落としそうな勢いだった。
「『人を殺せるのは、悪人か狂人か。覚悟のある奴だけ』。君はどっちかな?」
上演していた劇の台詞を引用し、鵺は嗤った。
「草壁くん・・・!」
悠子は、大首にしがみつきながら、鵺に槍を向ける達騎を、焦りを込めながら見つめていた。
あの男が達騎の父親を殺した人物だということには驚いたが、達騎に人殺しをさせるわけにはいかない。
「だめっ!!」
悠子は、鵺と達騎の間に白蓮を出現させた。
※※※※
「・・・・っ!!」
目の前に現れた白蓮の出現に、達騎は驚き、顔を背後に向けた。
その時だった。
悠子がしがみついていた大首の髪が長く伸び出し、彼女の体に巻きついたのだ。
「うぐっ!」
大首の髪が体全体に食い込み、悠子は苦しそうに呻いた。
「悠子さん!」
「悠子!」
白蓮を術で叩き壊した瑠璃と颯が、悠子を助けようと近づいてくる。
しかし、同時に、九体の大首達が二匹と麗奈、秀二の前に躍り出た。彼らも白蓮を壊したのだ。
「くそっ!」
「このっ!」
瑠璃と颯は、麗奈と秀二の前に出て、大首達を迎えうった。
「火円弾!!」
「花飛炎!!」
瑠璃が小さな火の球をいくつも出し、颯が、バスケットボールほどの大きさの赤い炎を六つ出し、大首に向かって叩きつけた。
「うあ・・・っ!」
大首の髪の毛が、面を抱える悠子の左腕を胸元から引き剥がした。同時に、彼女が持っていた二つの面が宙に浮く。
落下する面を、大首は長い舌で絡め取り、口へと運んだ。
バキバキッ、ボリボリッ。
木を砕く音がしたかと思うと、大首はごくんっと面を飲み込んだ。
「ガアァァァァァッ!!」
その瞬間、大首の目は大きく飛び出し、血管は浮き出、口は顎まで達するほど裂けた。
長く伸びた髪の毛は、何百もの長い百足となった。
「ひっ・・・!!」
体に巻きついた髪も百足になったため、悠子が短く悲鳴を上げた。
百足は、茶色の甲羅に包まれた長い体を悠子に巻きつけ、鋭い牙をもった顎をその顔に近づけようとしている。
「はぁっ!!」
達騎は悠子を助けようと、大首の眉間目掛けて槍を放った。
しかし、槍は弾かれ、達騎のもとへ戻ってきた。
「このっ!!」
大首を睨みつけながら、達騎が『鷹飛雷衡』を繰り出そうとしたその時、槍をもつ手を何かに阻まれた。目線をそちらに向ければ、達騎の腕は鵺の放った鞭に絡まれ、槍を投げることすらできないようにされていた。
「だめだよ。彼の邪魔をしちゃ」
瞳に面白そうな色を宿らせ、鵺は口角を上げた。
「離せ!このやろっ!」
鞭を引きちぎろうと引っ張るが、びくともしない。しかも、力が抜けていく。これはただの鞭ではない。微かに妖力のようなものを感じた。
分析しているひまはない。
悠子の方を見れば、百足がその首筋に食らいつこうとしていた。
ヤバイ。
そう思ったその時、悠子が思いもよらない行動に出た。
悠子は百足に勢いよく噛みつくと、根元から百足を噛みちぎったのだ。
「ギシャアァァァァッ!!」
大首は痛さのあまり悲鳴を上げ、悠子を振り払った。百足を吐き出した悠子は、空中に投げ出された。
「っつ!」
悠子は、そのまま下へ下へと落ちていく。
地面に叩きつけられたら、骨折どころではすまされない。
「っ、珠々飛弾っ!」
やらないよりはましだと、達騎は、鵺に術をぶつけた。それは功を奏し、鵺は珠々飛弾を避け、鞭は腕から離れていく。
「爆剛!!」
鞭から解放された達騎は、言霊を唱えた。
圧縮された空気が達騎の足元に生まれ、勢いよく発射され、落下する悠子のもとへ飛んでいく。
「ぐっ!」
悠子の腰を掴み、肩に乗せた達騎は、「金剛支支」と口の中で呟いた。
足が金色に染まり、ダイヤモンドのごとく硬くなる。「金剛支支」は、鉄属性の術で、望んだ部位を硬質化するものだ。
悠子を支え、達騎は床に着地した。
鋭い衝撃が達騎を襲う。だが、足に何の支障もでないことは分かっていた。
「大丈夫か?」
悠子を下ろし、彼女を見る。
「・・・うん。ありがとう」
安堵の表情を浮かべた悠子に礼を言われた刹那、大首が声を上げ、達騎達に襲いかかってきた。
「ガアァァァァッ!!」
その瞳に正気の色はなく、ただ本能のままに動く狂気じみた光が見えた。
達騎が背後に悠子を庇い、槍を構えたその時、大首が真っ二つに割れた。
その割れた隙間から、水晶のように透明で、巨大な片翼が現れた。その翼の先はつららのように硬く尖り、銀色に輝いている。
その片翼の主は、ガラスのように透き通った姿をした美しい女だった。
長い髪も、瞳も、手足も、ゆったりした衣服も全て透明だった。
「風の精霊・・・」
悠子が茫然と呟くのが、耳に入った。
「駄目だね。君は」
口を開いた鵺の目は、先ほどの面白いものを見るようなものではなく、冴え冴えとした、氷のような光を宿していた。
「失望したよ。これじゃあ、まるで獣だ。僕は、理性を手放せと言った覚えはないよ。・・・アリエル」
鵺が風の精霊の名を呼ぶ。すると、アリエルは、片翼を生き物のように動かし、刃のような鋭さで大首を粉々に打ち砕いた。
「君らもだ。霊威ごときにいつまでかかっているつもりなんだい?」
鵺が言葉を発してから、一秒も経たない間に、アリエルは片翼から何百という羽根を飛びたたせた。それは、瑠璃と颯が応戦していた大首達を切り裂き、数十個の肉片に変えた。肉片は達騎達の目の前で、バラバラと地に落ちていった。
瑠璃と颯の方を見れば、麗奈達を背後で守りながら、驚いたように固まっていた。
※※※※
「どうして・・・」
大首だったものの破片を見つめながら、悠子は叫んだ。
「どうして殺したの!!」
「どうして?」
鵺が首を傾げる。アリエルも不思議そうな顔をして、ふわりと鵺の隣に舞いおりた。
「あなたは・・・!あなたが彼らを唆かし、こんなことを起こしたのに!彼らを利用するだけ利用して!!・・・殺すなんて」
「唆した?くっ、あはははははははっ!!」
すると、鵺はおかしくてたまらないという風に笑いだした。腹を抱え、息も絶え絶えに笑い続ける。
「何がおかしい!?」
横に立つ達騎が鋭く言い放つ。
「ぷっ、くくっ。唆すなんて。僕はただ大首達にもっといい生き方を提示してあげただけさ」
「提示?」
人を襲うことが、いい生き方とでもいうのだろうか?
悠子は眉を顰める。鵺は嬉々として言い放った。
「そうさ。狭間の森で暮らす彼らは、ただ命を繋ぐためだけに生きている。そんなの獣と変わらない。僕はね、大首達に目的をもたせることで彼らの命の輝きが見たかった。光を見たかったのさ」
「光・・・」
人を襲うことが光だというのなら、なんと禍々しい光なのだろう。悠子には分からなかった。
「そして、達騎。君の光もね」
鵺が片頬を上げ、達騎を見た。
次の瞬間、巨大な五本の白い尾が、鵺の左肩から現れ、その内の一本が悠子に絡みついた。
同時に四本の尾が、麗奈と秀二、瑠璃と颯に向かう。
「火円弾!!」
「花飛炎!!」
瑠璃が火円弾―小さな火の球をいくつも出し、颯が、花飛炎―バスケットボールほどの大きさの赤い炎を六つ出し、迫りくる尾に向かって放った。尾のスピードがわずかに緩み、その隙に瑠璃と颯は、麗奈と秀二の襟首を咥え、その場から去っていった。
「逃げたか。まぁ、いい。もういいよ。小鉄」
鵺は左肩に囁いた。すると、四本の尾はみるみる小さくなり、鵺の肩に吸い込まれていく。
悠子は目を眇め、鵺の左肩を見た。そこには、豆粒ほどの白い狐がいた。
あれは、弧白だった。妖狐のなかで、一番小さいと言われる狐の妖だと聞いている。だが、こんな力があるとは文献にも書いていない。
「うぐっ」
悠子はどうにかして尾を外そうと体を動かすが、がっちりと拘束されているため、少しも動かなかった。
「鷹飛雷衡!!」
ビリビリという音が聞こえ、紫色の電流が槍の周辺を走る。
「はっ!!」
達樹が槍を振りかぶり、伸びた尾を切り落とそうとする。しかし、それは鉄のように堅く、切り傷さえ入らない。
「おいっ、こいつを放しやがれ!!」
埒が明かないと感じたのか、達騎は鵺に怒鳴った。
だが、鵺は何とも不思議そうな顔をして達樹を見た。
「怒ることはないんじゃないか?私は君の復讐を手助けしてあげようとしているんだよ?」
「何?」
訝しむ達騎に、鵺はまるで小さな子供に言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「僕は各地を転々としながら、君の動向を観察していた。君が四年間、僕を探していたことも知っているよ。僕を殺すために巫子になり、鬼討師の力も手に入れたこともね」
「・・・だからなんだ?」
達騎は不審な表情を崩すことなく、鵺に問う。
「彼女の霊力はすでに空だ。だが、その体は健在だ。だから、動けないようにしたんだよ。彼女を人質にすれば、君は否応なく僕に槍を向けざる追えなくなる。こんな風にね」
鵺がパチンと指を鳴らす。
「あぁぁぁぁっ!!」
その瞬間、尾の締めつけが恐ろしいほど強くなり、悠子は痛みで悲鳴を上げた。
「やめろっ!!こんなことしなくても俺はてめえを殺す!!」
槍を突きつける達騎に、鵺は怪訝そうに片眉を上げる。
「・・・ふーん。まっ、それならいいけど」
だが、一応達騎を信用したのか、尾の締めつけは緩み、悠子は尾から解放された。
「はぁっ、はぁっ」
息を吸い、額に冷や汗が滲むのを感じながら、悠子は空気を肺に入れる。膝ががくがくと震え、崩れ落ちそうになるがどうにか耐えた。
「さぁ、二人とも、下がっていなさい。僕に何があっても手出しは無用だよ」
耳に、穏やかな鵺の声が聞こえる。鵺のそばには、アリエルと彼女の手に乗った小鉄の姿があった。
小鉄の表情は分からないが、アリエルは鵺を心配そうに見つめていた。
しかし、やがて、アリエルは小鉄とともに後ろへ下がっていった。
「・・・鈴原、お前は行け」
息を整えたその時、達騎が言った。
「えっ」
思わず声を上げる。
「こいつの目的は、俺に殺されることだ。俺にとっては願ってもない。仲間を下がらせているし、もう、お前に危害を加えることはないだろう。行け。俺も後で合流する」
悠子の方に顔を向けることなく、達騎は言った。
「・・・あの人を、殺すの?」
悠子が問うと、達騎は淡々と呟いた。
「あいつは人の皮を被った妖だ。俺の父親を殺し、魂を喰った極悪非道の妖だ」
「でも、彼の話では人間になったって!」
「だからどうだって言うんだ!?人間であろうとなかろうと関係ない!それに巫子は、妖を根に送る。遠回しな言い方だが、結局は殺しているのと変わらない。それと何が違う!!」
「誰かを守るために行うのと、憎しみで殺すのとは違うわ!」
「それでも殺しは殺しだ!結果は変わらない!」
「だけど・・・!」
達騎の言い分に納得できず、悠子がなおも言い募ると、勢い良く達騎が顔を向けた。
「てめぇに何が分かる!一度も手を汚したことのないてめぇに!!」
「・・・・!!」
怒りの籠ったその言葉は、悠子の心に深々と突き刺さった。
確かにその通りだ。誰も傷つけたくないとい言いながら、結局、自分は達騎や他の猿田彦の巫子、そして鬼討師に一番嫌な仕事をさせているのだから。
嫌な沈黙が二人を包む。
不意に、ぱちぱちという拍手音が悠子の耳を打った。その音の方に顔を向ければ、鵺が満足そうな表情を浮かべ、手を叩きながらこちらを見ていた。
「やぁ、実にすばらしい。芝居にできるほどにね。達騎、憎しみに生きることこそ、君の光、生命の輝きだ」
目を輝かせて語る鵺に、達騎はただ冷えた眼差しを向ける。
「てめぇに俺の何が分かる。分かったように言うんじゃねぇ」
達騎は、槍を構え、鵺に刃先を向けた。
「二度とその口を叩けないようにしてやる」
口調は冷静さをまといながら、達騎の背は怒りと憎しみに溢れていた。
「っ!!」
悠子は、たまらず達騎の背に手を伸ばした。
白蓮すら出せないが、どんなことをしても止める。その思いが悠子を突き動かしていた。
達騎に殺しをさせるわけにはいかない。たとえ達騎自身が望んだものとしても、その記憶は、一生、彼についてまわるのだ。
誰も望んでいない。達騎の父も、母のみちるも、幼馴染の直や浩一も。
ビュンッ。
突如、鵺と達騎の間にパイプ椅子が飛んできた。思わず、悠子の動きが止まる。
達騎も気づいて飛びのいた。
瞬間、背後から涼やかな声が聞こえた。
「澪包球」
一瞬で、鵺は水でできた球体に包まれた。
それを見ていたアリエルが片翼を広げ、その手に乗った小鉄が尾を巨大化させた。
しかし、アリエルの胸元に紋様が入った紙が張り付き、彼女と小鉄を磁石のように壁に貼り付けた。
「それは精霊にも効く特別製の紋符だ。苦しいかもしれないが我慢してくれ」
悠子が気配を感じて振り返れば、そこに紫遠を連れた隼が立っていた。おそらく、瑠璃と颯が状況を知らせてくれたのだろう。
達騎は、我に返ったように動き出すと、その球体に向けて槍を突き立てる。しかし、水の膜が槍を阻んだ。
「くそっ!」
苛立ち、達騎は槍を押し込もうとする。
「よせ。そんなことをしてもこれは破れない」
「邪魔すんじゃねぇ!」
吠える達騎に、隼は冷静な眼差しを向けて言った。
「お前に殺しをさせるわけにはいかない」
「あんたには関係ない!」
「大ありだ。お前に霊威の契約を教えたのは俺だ。師としては、道を踏み外そうとする弟子を放っておけるわけがないだろう」
その言葉に、悠子は驚いた。
鬼討師であることは知っていたが、達騎と師と弟子の関係だったとは。
「四年前、お前は言ったな。誰かを守るため、誰も犠牲にしないために力がいると。だが、それは、力を求めるための方便だったようだ。・・・残念だよ。少しはお前に期待していたんだがな」
「悪かったな。不肖の弟子で」
溜息混じりの隼の言葉に、達騎は皮肉気に返した。
「だが、弟子は弟子だ。だから、お前がどうしても復讐を止めないというのなら、俺にも考えがある。骨の二、三本は折れる覚悟をしておけ」
達騎は苦虫を噛み潰した表情を浮かべながら、隼を睨みつけた。
少し物騒な方向に話がいっていると思いながら、悠子は、ちらりと達騎の背後にある水の球体に目をやった。
球体は何事もないように佇んでいるが、中にいる鵺は健在だ。彼の禍々しい氣をビリビリと感じる。
「あの、青木先生」
「何だ」
「鵺って人をどうするつもりですか?」
「保妖課に引き渡す。瑠璃と颯の話から察するに、こいつが首謀者のようだしな」
すると、達騎は思い切り口元を歪めた。
「引き渡す?無期懲役にして根に落とそうが、こいつに反省なんてものはない。俺が殺して魂ごとここに縛りつけてやる!青木、早く術を解け!!」
あくまで自分が手を下すことに拘る達騎に、悠子は言葉を失くす。
「・・・仕方ない」
小さく息を吐き、隼が達騎の前に出た。その様子に、達騎が槍を構える。
「せ、先生!」
まさか達騎と戦う気では、そう思ったその時、隼の姿が掻き消えた。
その直後、隼は達騎の背後に現れ、手刀で達騎の首筋に当て身をくらわせた。
「くそっ・・・!」
達騎が崩れ落ち、隼が受け止める。そして、その左の手首に、赤く装飾された腕輪をつけた。
「それは、『魔守の輪』ですか?」
腕輪を見て、悠子は訊ねた。
「あぁ。これを外さない限り、達騎は術を発動できない。目覚めてすぐに、警察署に突入するなんて馬鹿な真似はしないだろう」
「・・・そうですね」
ただ、達騎の様子からして、目覚めたときに怒りを露わにしそうだと悠子は思った。
「紫遠、達騎を頼む」
そう言って、隼は達騎を紫遠に預けた。紫遠の細長い体に、自身の体を折り曲げる形で気絶している達騎の手には、しっかりと黒い槍―風雲時雨が握られていた。
「まったく、あの熱意を別のところに向けてくれればいいものを」
隼がやれやれと言った風に呟く。その瞳には、達騎を気遣う色が見えた。
「先生・・・」
悠子が声をかけると、隼は安心させるような優しい笑みを浮かべた。
「遅くなってすまなかったな。もう大丈夫だ。あとは、保妖課が対処してくれる」
「警察に連絡を入れたんですか?」
「あぁ。もうすぐ来るはずだ」
隼が頷いたその時、聞き慣れた濁声が悠子の耳に入ってきた。
「おーい!大丈夫か!?」
顔を向ければ、部下を引き連れた真治が現れた。廊下に散らばった椅子やテーブル、壁なのか床なのかも分からない瓦礫の一部を乗り越えながら、こちらに歩いてくる。
「えぇ、大丈夫です!!・・・鈴原。達騎、・・・草壁を彼らに預けるから、君も一緒に行きなさい」
隼は真治に向かって叫んだ後、悠子に言った。
「えっ、でも、ここでどんなことがあったのか伝えた方が・・・」
首謀者と鉢合わせしたのかだから、それを伝える必要あるだろう。そう思ったのだが、隼は首をゆるく振った。
「事情聴取はされるだろうが、それより体を休めた方がいい。氣が随分弱い。霊力も少ないんじゃないか」
「あ、はい・・・」
隼に見破られ、悠子は、少々きまりが悪そうに顔を俯かせた。
「心配するな。あとは警察に任せなさい」
隼に肩を叩かれ、促された悠子は、気絶した達騎を背におぶった真治の部下と共に、市民ホールを後にした。
ホールの出入り口の目の前にあるのは、広く作られた駐車場だ。その隣には、小さいが噴水のある公園がある。
そこには、支龍高校の学生全員が避難していた。
「では、私は彼を救急車に運びます」
「あ、はい。よろしくお願いします」
部下の男性―熊のようながっしりとした体格をした―は、悠子に軽く頭を下げると、救急車のある方へ歩いて行った。
「あ」
悠子は、思い出した。大首が劇団員達に変装していたことを。麗奈と秀二のそばにいなかったということは、どこかに避難しているか、それとも。
「あの、劇団員の方達は無事ですか!?」
部下の男性が振り返る。
「あぁ。それなら、月読病院に運びましたよ。皆さん、誰かに眠らされていただけみたいでしたけど、怪我もありませんでした」
「そうですか。ありがとうございます」
ほっと息を零し、悠子は言った。
男性と別れ、学生がいる駐車場に向かうと、悠子の名を呼ぶ声が聞こえた。
「悠子―!!」
それは直の声だった。
声の方に視線を向けた悠子の目に、直と楓、陽燕と沙矢が駆け寄ってくるのが見えた。
「悠子、あんた、大丈夫!?怪我はない!?」
直が悠子の肩を掴み、勢いよく揺さぶった。
「う、うん。大丈夫。直ちゃん達こそ、怪我はない?」
揺さぶられながら、悠子は答えた。
「私達は大丈夫です。他の皆さんもたいした怪我はありません」
楓が、悠子の心情を察するように答えた。
「ところで、達騎はどうした?一緒にいただろう?」
陽燕が辺りを見回し、悠子に尋ねた。
「草壁くんは・・・」
隼に気絶させられたと言えば、達騎がなぜそうなったのかを言わなければならなくなる。
それを口にするのは憚られ、悠子は咄嗟に嘘をついた。
「草壁くん、戦っている最中に頭を打っちゃって。今は救急車で月読病院に行ってるの」
楓が心配そうに眉を寄せた。
「それは大変ですね。大丈夫ですか?」
「うん。命に別条はないって」
「おおかた、戦いに夢中になって滑って転んだんでしょう。まったく、少しは自分のことを考えなさいよ」
ふん、と鼻を鳴らし、直が腕を組む。
「なぁ、悠子」
「はい?」
「あの直って嬢ちゃん、ちょっと達騎にきつくないか?」
達騎の心配など微塵もしていないような直の態度を見たからか、陽燕が悠子に聞いてきた。
「そういうわけでもなさそうだ」
それを否定したのは、沙矢だった。
「彼女、目が泳いでいるし、足も震えている。かなり心配しているな」
悠子も気づいていた。幼馴染の気安さからか、達騎相手だと、素直に心配だということができないと直が言っていたのを思い出す。
沙矢の言葉を受けて、陽燕がじっと直を見つめた。
「あ、ほんとだ」
やがて、陽燕が声を上げた。
「全く、人間観察もボディーガードの仕事の内だ。言動ばかりに惑わされていると、そのうち足元を掬われるぞ」
「うるせっ」
沙矢の言葉に陽燕がそっぽを向く。その時、背後から声が掛けられた。
「悠子ちゃん」
振り返れば、車の影に瑠璃と颯が隠れるように立っていた。
「瑠璃さん、颯さん!よかった、無事で!」
駆け寄ると、瑠璃が静かにという目で悠子を見た。悠子は慌てて口をつぐむ。そして、そっと囁くように言った。
「大丈夫ですか?怪我は?それから麗奈さん達は無事ですか?」
「私達は大丈夫。二人も無事よ。保妖課に保護した後、一応病院に運んだわ」
「そうですか。よかった」
悠子は胸を撫で下ろす。すると、颯が真剣な表情で言った。
「それから、達騎のことなんだが」
達騎の名を聞き、悠子は颯と目を合わせる。
「私達は達騎の言葉がなければ、隠世に戻ることができない。だが、目覚めた達騎が復讐に気を取られている状態では、私達の存在は逆効果だ。落ち着くまで、狭間で過ごそうかと思っている」
確かに、あの達騎の様子では何をするか分からない。その方がいいだろうと悠子も思った。
「・・・そうですか。なら、草壁くんの様子を見て、大丈夫そうなら私が狭間に行って伝えましょうか?」
「いや、それは平気だ。俺達でどうにかする」
「・・・分かりました」
頷いた悠子の耳に、直の声が聞こえた。
「悠子―、どこにいったの―!バスに乗る時間だって―!」
その言葉を聞いて、悠子は瑠璃と颯に言った。
「それじゃ、私、行きます」
「あぁ」
颯が頷く。悠子が軽く頭を下げ、直達の元へ行こうとしたその時、瑠璃に呼び止められた。
「悠子ちゃん」
顔を向けると、瑠璃は言った。
「達騎のこと、嫌いにならないであげて」
懇願が入り混じった、真剣な表情の瑠璃に、悠子は笑みを返した。
「嫌いになんてなりません。草壁くんは大切な友達ですから」
颯と瑠璃に頭を下げ、悠子は直達のもとへ走った。
その後、保妖課によって鵺とアリエル、小鉄は捕えられた。
市民ホールの襲撃事件は、瞬く間にマスコミに知られることとなり、支龍高校の学生達は大事を取り、一週間は自宅で待機となった。
悠子は自宅にやってきた保妖課の刑事から事情聴取を受けた。
後で聞いた話によれば、直、楓、歩、浩一、劇団員の人達も聴取を受けたという。
その目撃証言を中心に、鵺、アリエル、小鉄にも尋問をしたが、彼らは一様に口を閉ざしたままだった。
一週間後、自宅待機が解除され、悠子は学校を訪れた。
教室のドアを開け、中に入れば、数人の生徒達が集まって世間話に興じていた。
「おはよう、悠子」
「おはようございます」
自身の席にスクールバックを置くと、左斜めの席に座る直とその横に立つ楓に、声をかけられた。
「おはよう。直ちゃん、楓ちゃん」
久しぶりに会う友人の顔に微笑みかけ、悠子も返事を返す。
「一週間って意外と長かったわね。もうひまでひまで、とろけそうだったわよ」
椅子に座ったまま、大きく伸びをしながら、直が言った。
「それは大変だったね」
くすりと笑いながら、悠子が返した。
「先週はずっと市民ホールの事件のことで持ちきりでしたね。テレビのチャンネルを変えてもそればかりでした。」
「そうよ。私の好きなドラマも延期されちゃったのよ!」
憤慨し、直はふてくされる。
命の危機にあったにも関わらず、何気ない会話ができる事、彼らの心に深い傷を負わせることにならなかったことに安堵しながら、悠子も会話に加わった。
その時、教室のドアがガラリと音をたてて、開いた。
入ってきたのは、達騎だった。
彼の放つ氣に、悠子は思わず体を震わせた。
それは、いつも感じている、山から吹き下ろす夏の風に似た力強く澄んだものではなく、重苦しく刺すような氣だった。
達騎は何も言わず、窓際にある自分の席に座った。
顔に表情がでておらず、怒りを押し殺しているのは明白だった。
クラスのみんなもそれを感じ取ってか、達騎に話しかけようとはしなかった。
昼食の時間になり、静かだった教室が一気にざわめき、だれた雰囲気に包まれた。普段なら浩一や他の男子生徒達と昼食をとる達騎は、何も言わずに教室を出て行った。
「どうしたんだ?草壁のやつ」
「ああ。どうしたんだろうな・・・」
一人の男子生徒が首をかしげながら、幼馴染の浩一に聞いているのを悠子は聞いた。
「ねぇ、悠子。達騎、なんかあったの?」
悠子は、直、楓と机を囲み、弁当を食べていた。しばらくして、コンビニで買ったおにぎりを食べながら、直が悠子に聞いてきた。
「えっ」
話を振られるとは思わず、悠子はウインナーを摘まもうとした箸を止めた。
「無表情だったけど、あれ、ものすごく怒ってる時のあいつの顔よ」
直は幼馴染であるからか、達騎が押し殺しているものに気付いたらしい。
「そうだったんですか。話しかけづらいとは思っていたんですが・・・」
楓は、戸惑うような表情から、直の言葉を聞いて納得したように頷いた。
「あいつがあんな雰囲気になるの、小学生の時以来ね」
「そうなんですか?」
「そう。・・・・あいつのお父さんが亡くなった時よ」
声を低く落とし、二人だけに聞こえるように直は言った。
「草壁さんのお父さん、亡くなられていたんですか?」
驚きで声を上づらせる楓に、直が頷く。そして、何も言わない悠子に視線を合わせた。
「悠子、もしかして知ってた?」
凪いだ海のような静かな表情をみせる直に、悠子は、知っていた事に微かな罪悪感を感じながら口を開いた。
「う、うん。草壁くんに聞いたの」
「そっか・・・。言ったんだ」
その言葉に、直は寂しそうな、けれど嬉しそうな表情を浮かべた。
すると、直は、ぐっと口元を引き締め、楓と悠子を見た。
「・・・あの時はひどかったわ。元々は、あんなひねくれてなくて、明るい性格だったんだけど、喧嘩ふっかけてきたクラスメイトを返り討ちにするわ、商店街で遭った万引き犯やひったくり犯をたこ殴りにするわ。警察沙汰になったのも一度や二度じゃなかった。私や浩一がやめろって言っても聞いてくれなくて。止められなかったのも辛かったけど、あいつ、おじさんの葬儀の時もその後だって、一度も泣かなかったのよ。目はどんどん暗くなっていくし、笑顔も見せない。それを見るのも辛かった」
直は、小さいながらも重々しく息を吐く。
「それで、草壁さんはその後どうなったんです?」
おそるおそるという風に楓が聞いた。直が吹っ切れたような笑みを見せる。
「達騎のお母さん、みちるさんに商店街でおお泣きされて、それ以来、だんだんと元に戻っていったわ。まぁ、春休みになって、巫子の修行に行ってくるから一緒に遊べないって笑顔で言われたときは、腹ただしかったけど」
懐かしそうに話をしていた直の顔が一変して、怒りの表情に変わる。
「だって、一週間前に約束したのよ!私と浩一と達騎の三人で、動物園に遊びに行くって!なのに、あいつときたら、それを謝りもしないで、『修行行くから』の一言で終わりよ!」
「・・・・・・」
かつての怒りが蘇ってきたのか、直は矢継ぎ早に言葉を放つ。その剣幕に、楓と悠子が口を挟む余地はなかった。
唖然とする二人の顔を見たからか、直ははっと我に返り、おにぎりを持ったまま、小さく咳払いをした。
「ま、そういうこと。今の達騎の表情はあの頃と同じ。喧嘩しないだけ、まだましだけど。あぁ、喧嘩できる奴がいないってものあるけど。・・・それで、悠子。お願いがあるんだけど」
「なに?」
真剣な眼差しを向けてくる直を見て、悠子は微かに緊張した。思わず体が強張る。
「達騎のこと、頼めるかな?・・・無責任だと思う。だけど、私や浩一が何を言っても、多分、聞かないと思う。なんか、あいつ、巫子になってから、奥まで踏み込ませなくなったから」
直が達騎を思って、気づかわしげに眉を寄せる。
幼い頃に比べれば、距離は近くない。けれど、達騎のことを心配していることは、直の様子からよく分かった。
「わかった。直ちゃんの期待にこたえられるか分からないけど、頑張ってみる」
悠子は、不安げに揺れる直の目を見ながら、力強く頷いた。
「ありがと」
悠子の言葉に、申し訳なさそうではあったが、幾分ほっとしたよう笑みを直は浮かべた。
「よし、ご飯、食べちゃお!時間なくなっちゃうよ!」
しんみりとした空気に、悠子はわざと明るい声を出した。そして、箸を動かし、ウインナーを摘まんで口に入れる。
「そうですね」
楓が、タッパーの蓋を開け、中に入っているサンドイッチを手に取った。直も、手に持ったおにぎりを慌てて口に入れた。
弁当を食べながら、悠子は、自宅待機中、考えていたことを思い出していた。
もし、達騎が鵺の復讐を考えようとしているのなら、何が何でも止めよう。たとえ、達騎に嫌われ、憎まれようと、自身の力を駆使して達騎を止めさせると。
それは、直の想いを聞いて、さらに強くなった。
誰も、彼の復讐など望んでいない。悠子も、友達であり、同僚である達騎が人殺しになるところなど見たくなかった。
午後の授業が始まった。
しかし、達騎は現れず、窓際の三番目の席が茜色に染まっても、達騎の姿はなかった。
放課後、直と楓は部活があるため、授業が終わった後、悠子と別れた。ちなみに直は演劇部で、楓は水泳部だ。支龍高校のプールは室内プールになっており、春夏秋冬に関わらず、泳ぐことができた。
悠子に用事はなく、そのまま帰ることもできた。
だが、屋上から発される氣が、悠子の足を留まらせていた。
その氣の主は、達騎だった。
氣は、今朝と変わらず、重苦しく刺すようなものだった。
教室に入った時、悠子は、達騎の腕を見たが、魔守の輪の姿はなかった。
隼が言い含めたのか、それとも魔守の輪を見せないように細工をしているのか。どちらかは分からなかったが、たとえどちらにしても、達騎が不機嫌であることに変わりはないだろう。
鵺に一矢報いることのできない怒りを押し殺しているのは、氣から明白だった。
けれど、このままでいいのはずがなかった。
直は心配しているし、浩一も何も言わないが、昼の声の調子から達騎を心配していることは伝わってきた。達騎がこんな状態では、クラスメイトも困るだろうし、精神衛生上、よくはない。それに、達騎自身、気分がいいはずがない。
「よしっ」
悠子は、両手を握りしめ、力を溜める。そして、教室のドアを開け、屋上へ向かった。
誰もいない、しんとした廊下を歩き、階段を上がる。三年生のいる教室を通り過ぎ、屋上へ続く階段を上がると、そこには、白の塗料がはげたドアがあった。
そのドアの前で来ると、悠子は立ち止まり、大きく深呼吸をした。
鵺との戦いがあったあの日、悠子と達騎は言い争いになった。結局、和解はできず、この日まで来てしまった。
月読病院を訪れてもよかった。けれど、悠子は自宅待機を言い訳にして、病院には行かなかった。
『てめぇに何が分かる!一度も手を汚したことのないてめぇに!!』
あの言葉と、憎しみを叩きつけるかのような眼差しを思い出し、悠子は体が震えた。
達騎と向き合う勇気がなかったのだ。
一週間、考えて出た結論は、悠子自身、己の戦い方を変えるつもりはないということだった。
たとえ、大怪我を負っても、鈿女の巫子の力を使い、悪人、悪霊―荒御魂を鎮める。そう自身に誓ったのだから。
悠子は意を決して、ドアを開ける。
ギイッという錆びついた音を響かせながら、ドアが開いた。
そこには、夕日を浴びながら、武術の型を行う達騎の姿があった。ドアを閉め、悠子はその場に立ちつくす。
「はっ!!」
両の拳を交互に突きだしたかと思えば、右足を軸にして足を上げ、体をひねらせる。
そして、再び体を戻し、拳を突き出す。
それをずっと繰り返していたのだろう。額には、汗が浮き出ていた。
「・・・なんか用か?」
型を終えたらしく、達騎が聞いてきた。その視線は、花野市の街並みを向いていた。
どう切りだそうかと思っていた悠子は、達騎から話しかけられたことに驚きながら、口を開く。
「午後の授業、さぼってよかったの?」
覚悟してきたとはいえ、いきなり本題に入るのもどうかと思い、悠子は当たり障りにない話題を口にした。確か、担任の隼から、あと一日休んだら留年決定だと言われていたのを思い出したからだ。達騎は登校してきたが、授業の出席日数が足りなければ、休もうと休むまいと留年になってしまう。
「別に。もう関係ねぇよ」
さらりと答える達騎に、悠子は何かそら恐ろしいものを感じた。
達騎の心情を考えれば、鵺のことがある限り、留年など関係ないのかもしれない。
張りつめた空気を纏っているとはいえ、表面上、達騎は穏やかだった。しかし、何かのはずみで弾け飛ぶような危うさが今の彼にはあった。
鵺が刑務所から脱獄などすれば、達騎は誰の制止もきかず、鉄砲玉のように飛んでいくに違いない。それが、容易に想像できた。
「・・・私は、あなたのやり方に賛成できない」
達騎が悠子の方を向く。その瞳には、微かに怒気が混じっていた。
その表情に怯みながらも、悠子ははっきりと言った。
「もし、復讐するというのなら、私がとめる」
その言葉に、達騎が嘲るような表情を浮かべた。
「とめる?どうやって?」
「・・・こうやって」
悠子は、達騎のそばまでやってくると、その肩に触れた。小さく息を吐き、腹に力を込める。
そして、「鏡月」を発動させた。
※※※
台所で洗いものをしている細身の男性がいた。
「父さん!」
悠子の視点となっている人物が、男性を呼ぶ。
すると、男性が振り返った。
「何だい、達騎」
鵺と同じ顔で、しかし、禍々しさなど微塵も感じさせない優しい笑みを、その人は浮かべていた。
※※※
目を見開いた悠子が見たのは、額に青筋を浮き立たせた達騎の顔だった。
「お前!!」
自分の手が、細いながらごつごつとした男性の手になっているのを見ながら、悠子は達騎を見た。
今、悠子の姿は、達騎の父親の姿になっているだろう。
とめるためとはいえ、達騎の記憶を暴いて、父親の姿になるのは、正直気が咎める。だが、悠子は覚悟を決めていた。
悠子は、「鏡月」をとめた。姿は、自身のものに戻る。
「人の記憶を勝手に盗み見るんじゃねぇよ。なにか?鈿女の巫子だからってか?はっ。さすが、偽善者のやることは違うな」
鼻を鳴らし、達騎は悠子を見下すように見た。
「言いたければ、言えばいい。だけど、私の気持ちは変わらない。あなたにどう思われようと、私はどんなことをしても、あなたをとめる」
「・・・だったら、これはどうだ?」
低く押し殺した声で達騎が呟いたかと思うと、達騎は右手で胸元のリボンを掴み、悠子に足払いをかけると、コンクリートの床に叩きつけた。
「ぐっ!!」
肺の空気が一気に抜けるような衝撃に、悠子は呻いた。
「ほら、どうする?」
何もできないだろうと、言わんばかりに口元を上げる達騎の顎目掛けて、悠子は拳底を放つ。しかし、予期していたのか、達騎は、左手で悠子の手を掴んだ。同時に、悠子の足を自身の足で挟みこみ、またがるような格好になって、悠子の動きを封じた。
「さて、これでもまだやるか?」
悠子と達騎の身長はさほど変わらなかったが、男と女の体格差は歴然としていた。同時に、力も違いすぎる。
けれど、悠子は諦めなかった。
空いた左手で床を掴み、支えにすると、達騎の額に思い切り頭突きを食らわせた。
ガンッという鈍い音が響く。
「~~~~~っ!!」
痛みで頭をくらくらさせながら、蹲り、悶絶する達騎を押しのけ、悠子は這い出る。
そして、達騎と向かい合うように構えた。
赤くなった額を摩りながら、立ち上がった達騎は、悠子を見た瞬間、獰猛な笑みを浮かべた。
「上等だ!!」
そして、両足をばねにして、悠子に飛びかかってきた。
交互に突き出された拳を、悠子は右の掌と左手の甲で捌く。間髪いれずに、達騎の足蹴りが炸裂するが、悠子はぎりぎりのところで避けた。風圧で髪が舞い上がる。
次の瞬間、首筋に衝撃が走り、悠子は床に叩きつけられた。おそらく、足の甲を首筋にぶつけたのだろう。
視界がぶれるなか、悠子は達騎のつま先が目の前に迫ってくるのが見えた。
避けきれないと悟った悠子は、体を丸め、達騎の腹目掛けて飛び出した。
「くっ!」
達騎は悠子の動きを予側できなかったのか、悠子の攻撃をまともにくらい、背を床に強かにぶつけた。
悠子は達騎の腰を掴み、動かないように自身の重さでもって、動きを封じ込めた。
「けいせい、ぎゃくてん・・・!」
力を込めながら、達騎を見上げると、達騎はにやりと笑った。
「どうかな!」
そう言って、悠子の長い髪を思い切り引っ張る。
「いっ!」
痛みに小さく声を上げた悠子を見逃さず、達騎は悠子の鳩尾にひざ蹴りを見舞った。
息をつまらせながら、悠子は達騎の足を掴み、その膝がしらに噛みついた。
「っ!!お前っ!ほんと、口が悪いっ!」
痛みに顔を顰め、達騎は悠子の髪をさらに引っ張る。悠子は、負け時と達騎の膝に噛みついた。
しばらく膠着状態が続き、悠子と達騎は互いに睨み合った。
夕日が沈み、東の空に一番星が見えてきた頃になっても、二人はそのままだった。
やがて、達騎が、疲れたように小さく息を吐いた。
「なにやってるんだろうな、俺達・・・」
そう言って、達騎は、悠子の髪から手を離した。
達騎から獣のような剥き出しの戦意を感じなくなり、悠子もおずおずと達騎の膝から口を離す。ズボンはしわになり、歯型の痕ができていた。
「あぁ、疲れた!」
達騎は大きく伸びをし、屋上の床に座り込んだ。そして、同じように座り込む悠子に言った。
「俺は、謝らねぇぞ」
「わ、私だって、謝らない」
慌てて言いつのる悠子に、達騎は片眉を上げた。
「その割には、今にもごめんなさいって言いそうな顔してるけどな」
「えっ」
達騎の指摘に、悠子は思わず両手で自分の頬を撫でた。
そんな悠子に呆れたような顔を一つすると、達騎は、夕闇の迫る空を見上げた。その横顔には、穏やかな風のように柔らかな表情が浮かんでいた。
その時、悠子は、達騎の氣から重々しさと刺すような感覚が和らいでいることに気づいた。
じっと、悠子は、達騎は見る。言いたい事は言った。行動もした。あとは、達騎がどう判断するかだ。
しばらくして、達騎が口を開いた。
「・・・勝手にしろ。だが、俺も復讐をやめるつもりはない」
達騎のその一言に、悠子の顔にじわじわと笑みが浮かんでくる。
「・・・うん!勝手にする!」
復讐をやめるとは言わなかったが、悠子の行動を否定もしなかった。今はそれだけで十分だ。
悠子は、胸の中がふわりと温かくなるのを感じていた。
「ああ、くそ!力が使えないことがこんなにストレス溜まるなんて思いもしなかった!」
達騎が、吐き出すように声を出す。
「魔守の輪が見えないけど、やっぱりあるんだ」
「あぁ。青木の奴、ご丁寧に見えなくなる紋符までつけてくれやがって。おかげで風呂に入る時にやりづらくてしょうがねえ」
確かに、そこに存在するのに姿が見えないというのは大変だろう。
「術が出ないだけで、視えはするから厄介だ。面倒くさい浮遊霊がやってきた時に、術で脅せねぇし」
「そんなことしてたんだ・・・」
術の使い方を間違っているように感じたが、巫子にも色々あるように、様々な使い方があるのだろう。悠子はそう思う事にした。
「さて、帰るか・・・」
「うん。そうだね」
周りは薄暗くなり、すでに夜になっていた。立ち上がった悠子の目に、外灯に包まれた花野市の街並みが見えた。
「おい、鈴原!何してんだ?閉めるぞ?」
声をかけられ、振り返ると、達騎が屋上のドアを開けて悠子を待っていた。
「あ、待って!」
悠子は、慌てて走り出し、達騎のもとへ向かった。