第百六幕 止まるわけにはいかない
それは、悠子と葉扇が戦っている時点から、三十分前の事だった。
達騎は、蔓まみれになったエスカレーターを駆け上がり、嘘のように静まり返った廊下を走り抜け、外へ通じる展望台のドアをけ破った。
吹き降ろす風が達騎の汗ばんだ前髪を揺らす。雲一つない空の下には、奈継市の街並みが一望できた。
「来たか」
その街並みを背にし、立っていたのは、髪をオールバックにし、ネイビーのスーツを着た一人の男だった。
「っ!!」
達騎は、血の残る風雲時雨を男に向かって構えた。
戦闘員には見えないが、油断はできない。ここにいるということは、男が鵺の仲間であることは間違いないのだから。
油断なく男の様子を窺う。すると、男は突然、両手を耳元まで上げ、降参のポーズをとった。
「なんの真似だ?」
まるで舐められているような態度に、達騎は男を睨みつけた。
しかし、男は、達騎の様子に臆する様子もなく、口を開いた。
「私は、大田潔。君と戦う気はない」
「どうだかな?」
口角を上げ、槍を握り直せば、潔は小さく息を吐いた。
「私が戦意を示していれば、今頃戦闘の真っ最中だ。それくらい君なら分かるだろう」
確かにその通りではある。
敵から冷静に指摘され、内心舌打ちをしながら、達騎は槍の刃を上に向け、構えを解いく。
戦意がないなら、好都合だ。とっとと先を急ごう。
達騎は、感じていた。この展望台の奥――『部外者立ち入り禁止』と書かれたドアから鵺の氣を流れているのを。
潔もその視線に気づいたのだろう。
ドアに目を向けてから、達騎へ視線を転じると、落ち着いた口調で告げた。
「あのドアの先に螺旋階段がある。電波塔のための通路だ。そこを登りきれば、柵つきの踊り場が見えるだろう。そこで鵺が待っている」
「ご親切にどうも」
眉を寄せ、嫌味ったらしく礼を言えば、潔は淡々とした表情で続けた。
「・・・私は、何年も、人の悪意と善意を見てきた。その内、私はそれらが天秤のようにどちらに傾くか見ることに興味を抱くようになった」
そして、達騎と目線を合わせた。
「君が鵺を殺すのが先か、鵺が君を殺し、この世界を変えるのか。楽しみにしている」
その声音には、期待する雰囲気が滲み出ていた。
「・・・・」
悪趣味な奴だ。眉を顰めつつ、達騎は潔の脇をすり抜け、『部外者立ち入り禁止』のドアを開けた。
ギィッという嫌な音を響かせ、ドアが開く。そう何度も開けてはいないのだろう。埃が日の光を受けてきらきらと輝き、むっとした空気が達騎の顔を直撃する。
一歩、足を踏み出せば、螺旋階段が上へ上へと伸びているのが見えた。
(待ってろ、鵺!)
達騎は風雲時雨を握り締めると、螺旋階段を登り始めた。
葉扇は手だけを蔓へ伸ばし、顔を秀一に向けたまま、言葉を連ねた。
「お前、なんで鵺についてる?その能力をもっているからか?」
この世界で、異能力者は差別されている。鵺が何を言ったかは知らないが、秀一の心に訴えるような言葉で、彼を引き込んだのだろう。
「はっ、勘違いするな!能力なんて関係ない。俺は俺の意思でここにいる!」
秀一は、胸元を右手で叩き、誇るような表情で告げた。
秀一は異能力者だが、それを表立って使ったことはほとんどなかった。
本業のハッカーの仕事では不要なものだったからだ。
鵺とは、仕事で出会った。初めは雇い主という立場でしか鵺を見ていなかったが、お前の力は頼りになる、これからもよろしく頼むと頭を下げられた時は、むずがゆさに似た嬉しさが胸に広がるのを感じた。 仕事である以上、雇い主が秀一に頭を下げ、感謝の言葉を述べることなどそうそうない。
幼い頃に親が育児放棄をし、高校を卒業するまで施設で育った秀一は、興味のあったプログラミング関係の仕事についた。
異能力者であることは隠して暮らしていたが、ある日、同僚の家族と一緒に出掛けた川で、同僚の子供が足を滑らせ、溺れてしまう。秀一は能力を使い、子供を助けた。
しかし、同僚とその家族の口から出たのは、感謝の言葉ではなく、恐怖の表情だった。
異能力者だと知られ、会社にいられなくなった秀一は、誰とも関わることのないハッカーとなり、裏社会で働き始めた。
だが、自分で思っている以上に人恋しかったらしい。鵺のあの言葉に嘘はないと感じた秀一は、その信頼に答えたいとハッカー以外の仕事にも力を入れ、動いていた。
鵺のいう妖の世界に興味はないが、鵺が望むなら力になりたい。それが、秀一がここにいる理由だった。
「そうかっ!」
秀一の真剣な表情に、煽る必要もへりくだる必要もないと感じた葉扇は、ただ返事を返し、枯れた蔓を彼の前に掲げた。
それを見た秀一が、声を上げて笑った。
「ははっ、盾のつもりか?死んだ植物で何ができる!!」
小馬鹿にしたような笑い声に、葉扇は目を細めた。
「甘くみたもんだな。死んだ植物なんてどこにもいない」
そして、話している間に取り出していた、枯れた太い蔓の中にあった大豆ほどの大きさの種を、動かせる指先で、秀一の額に向け、弾き飛ばした。
「はっ?」
種は、秀一の額に違えることなく直撃する。
口を開き、目を見開いたまま、秀一は背中から勢いよく倒れ込んだ。
ばたんっ!
信じられないといった顔で気絶した秀一に、葉扇は静かに告げた。
「・・・悪いな。お前にも思うところはあっただろうが、おれも負けるわけにはいかないんだよ」
悠子に言ったあの言葉を嘘にしないためにも、葉扇は負けるわけにはいかなかった。
「・・・あれ?」
秀一が気絶したのであれば、蔓もほどけると思いきや、蔓は葉扇が腕を何度動かしてもほどける気配がなかった。
「え、おれ、ずっとこのままなの!?」
戦いに勝ったというのに、なんとも締まらない――、ではなく、このままでは悠子に加勢することもできない。
「くそ~、ほどけ~!!」
葉扇の必死の叫びが、辺りに響き渡った。
「がぁっ!!」
弧白が声を上げ、その小さな体を弓なりに反らせ、壁に激突した。
同時に、悠子の体を覆っていた尾が、しゅるしゅると煙のように弧白の体へ吸い込まれていく。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ!」
知らず、息を詰めていたらしい。悠子は大きく何度も呼吸を繰り返した。
息を整えると、ぐっと腕に力を込め、立ち上がる。
弧白が動かないことを目の端で、確認しながら、悠子は廊下を歩き出した。
その時だった。げほっと咳をして、弧百が目を覚ました。翡翠の瞳がこちらを向く。
悠子は、展望台入り口に向けていた体を弧白に戻し、思わず構えた。
「・・・そう警戒するな。戦う気はない」
警戒する悠子とは裏腹に、弧百の声に先ほどの力強さはない。見下した態度もなりを顰めていて、まるで別の妖のようだった。
「わたしの尾から逃れるとは。すばらしい力だな。その力があれば、妖の世界でも生きていけるだろう」
悠子の力を認め、鵺の提唱する妖の世界でも生きていけると太鼓判を押す弧白に、悠子は困惑した。態度が百八十度変わったことの答えを示すかのように、弧白はさらに続けた。
「妖の世界は、種族間にもよるが、だいたいが単純明快だ。力こそが全て。持っている力が強ければ強いほど、認められ、敬われる」
「・・・・」
なるほど。
弧白は悠子の力が自分のものより強いと感じたからこそ、彼女を認め、戦意を収めたのだろう。
「・・・人間は他者を否定する生き物だ。同じ姿かたちであっても、巫子や異能力者――力ある者を恐れる。だが、我らは違う。力があれば、種族など関係ない」
断言する弧白に、悠子は小さく眉を顰めた。
「あなたが認める人達、それは、力がある人達だけですよね。けれど、そうでない人はどうなるんですか。・・・誰かを否定する心に、種族なんて関係ありません。それは、その人の心から生まれるんです。妖だけの世界だろうと、人間だけの世界だろうと必ずあります」
「だが、その強い力のために苦しい思いをしたこともあるだろう。生きづらいと思ったことはないのか?」
心の奥底を見透かすように、弧百の瞳が怪しく光る。
その言葉に、胸の奥が漣のように微かにざわめいた。
「私には分かる。お前の魂から溢れるほどの大きな力を。巫子であるとはいえ、人からは化け物のような目で見られたこともあるのではないか?」
弧白の言うように、仕事の依頼者や騒動に巻き込まれた人たちを助けるため、力を発動したときや、戦いが終わったあとに、依頼者や周りの人間に恐怖や畏怖の目で見られることもある。
だが、それは仕方がないと割り切っていた。悠子にとっては、恐れられることよりも助けられないことのほうが辛かったからだ。
――弧白は、言葉を駆使し、自分を鵺側に引っ張ろうと考えているのだろうか。
しかし、それを甘受しようとは思わない。
悠子は、右手を胸元に置いた。
「この大きすぎる力を嫌だと思ったこともあります。けれど、だからと言って今ある世界を壊して変えようなんて思いません」
弧白が目を細める。
はりつめた不穏な空気が流れるが、構わず悠子は続けた。
「鵺のやり方は、多くの命を犠牲にする。それは、誰かを救うかもしれませんが、誰かを傷つけもする。そんなやり方を認めることはできません。鵺には、この戦いの責任をとってもらいます」
力を込めて、悠子は弧白を見つめた。