第百五幕 攻防
悠子は、展望台へ続く廊下に出た。
そこは、横に三人の人間が並べば窮屈に感じるだろうほどの狭い廊下で、窓はなく、壁には、この輪音タワーができた歴史を描いた絵があった。
カンカンっと、金属音のような音を響かせながら、悠子は展望台の入り口へ向かう。
曲がり角の天井には、『展望台→』と青い文字で書かれた看板が下がっている。
それを目に捉えながら、角を曲がったその時、白く大きな何かが悠子の前に現れ、悠子の体を縛り付けた。
「ぐっ!!」
息もできないほど締め付けられ、悠子は呻く。
(これはっ!)
悠子は、この感覚に覚えがあった。市民ホールで鵺とともにいた弧白の尾につかまった時とそっくりだった。
尾は、搾り取るような勢いで、悠子の体を押し潰そうとする。
このままでは、圧死する。
危機感を覚えた悠子は、口の端から小さく、だが、はっきりと言霊を口にした。
「断、・・・風・・・!!」
すると、悠子の声に答えるように、鎌の形に似た風の刃が現れ、周囲を取り巻く尾を縦横無尽に切り裂いた。
尾は、数個の塊となり、床に転げ落ちる。
「はぁっ、はぁっ、はぁ」
尾から解放された悠子は、安堵するとともに、肺に空気を入れようと何度も呼吸を繰り返した。
「なんてことをしてくれた!!」
その直後、まるで落雷かと思うほどの大声が、悠子の耳を打った。
「いっ!!」
そのあまりの大きさに、悠子は思わず片耳を押さえる。その声の主を確かめようと廊下を見回すが、誰もいない。
(まさか・・・)
その大声の主に心当たりがあった悠子は、目を細め、廊下を見つめる。
すると、廊下の中央に豆粒ほどの小さな狐がいた。
「五本しかなかったというのに、また減ってしまったではないか!!」
狐は、その体に似合わない、苛立ち混じりの大声を上げた。
わんわんと、耳の奥で声が反響する。
だが、ここで立ち止まっているわけにはいかない。先を急がなければ。
片耳を押さえながら、悠子は狐白の脇を通り過ぎようと駆け出す。
だが、そう簡単にはいかなかった。
脇を通り過ぎようとした瞬間、四つの尾が天井と床に貼りつき、まるで壁のように悠子の前方を塞いだからだ。
「ここを通すなと鵺から言われている!!無駄なことはしないことだな!!」
下から突き上げるように響く大声に、怯みそうになりながら、悠子は声を上げた。
「どいてくれないというなら、この尾を全部切り落とします!!」
『断風』を唱えようと口を開いた瞬間、壁のように平面だった尾が波打ち、一つの塊になると、先端がドリルのように尖った。そして、スピードを上げ、悠子の顔面目がけ、襲い掛かってきた。
「っ!!」
悠子は、咄嗟に体を沈ませ、膝をつく。
だが、神降ろしを使い、怨魔を静め、多くの霊力を使ったために、悠子の霊力も体力も限界に近づいていた。
そのため、完全には避けきれず、左の米神に、勢いよく尾の側面が当たる。
毛に覆われているとはいえ、そのスピードは、ボクシング選手が放つ攻撃と同等の鋭いものだった。
意識が飛びそうになるのを、奥歯を噛み締めることでどうにか耐える。
尾は、悠子の頭の上を、風を切るように通り過ぎていった。
(今だ!!)
一本になった状態なら、『断風』で容易に切れる。
悠子は言霊を放とうと口を開いた。が。
「ぐぅっ!!」
突如、背中から何かが圧し掛かり、床に押し付けられた。
首を回し、目線を背中に向ければ、尾が生き物のように蠢き、悠子の背を覆っていた。
「無駄なことはするなといっただろう!!わたしの尾は、何よりも速い!!」
床にめり込ませようとするかのように、ぎりぎりと尾に力が籠められる。
「あああぁぁっ!!」
内臓が飛び出すかと思うほどの力に、悠子は悲鳴を上げる。
「助けてくれる者は誰もいない!!諦めろ!!お前に勝ち目などない!!」
意識が遠のきそうになりながら、悠子は思う。
勝ち目・・・?
自分は勝つためにここにいるわけではない。達騎と鵺を止めるためにここにいるのだ。
諦めろ…?
諦めるなら、最初からここにいるわけがない。
助けてくれる者などいない。
確かにその通りだ。だが、だからなんだというのだ。
ここで諦めて、伸ばした手を、足を止めてしまえば、達騎は復讐を遂げてしまうかもしれない。そして、全てを背負い、どこかへ消えてしまうかもしれない。
逆に、遂げることができず、命を奪われる結果になったとしたら。
目の前が霞みながらも、悠子の背筋は凍った。指先が冷え、押し付けられた胃の腑が下がる。
握り締められた両手に力がこもった。瞬きを繰り返し、ばらばらになりかけていた意識を繋ぎ合わせ、集中する。
(―-そんなの、嫌だ)
たとえ、達騎が復讐の先にそれを望んでいたとしても。目の前で、友が、―-達騎が死ぬなどあってはならない。
(嫌だ・・・!!)
瞼の奥が熱い。口元に力を込め、悠子は流れ出ようとする涙をこらえた。
達騎が復讐を遂げ、人殺しになることも、その命が奪われることも。悠子は望まない。
(だから、止める!!止めてみせる!!)
目に力を込め、弧白の氣を辿る。
すると、すぐそばに豆粒ほどの小さな狐がいた。翡翠のように美しい緑色の瞳は、いやらしく細まり、口元は弧を描いている。その表情は、勝利を確信しているかのような見下したものだった。
体中に感じる痛みを力に変え、悠子はぐっと顔を上げた。
(こんな所で死ぬわけにはいかない!!立ち止まるわけにはいかない!!)
両腕は尾で押さえつけられ、同時に床に縫い付けられていた。その尾の間から覗くひと指し指を立て、弧百に向ける。
「じゃ、ばら、はくれん・ごく・・・!!」
――蛇腹白蓮。
蛇の体のように連なった蓮の盾が出現する術だ。伸び縮みができ、受けた攻撃を跳ね返すことも、相手を弾き飛ばすこともできる。ごくは、「極」と書き、一番小さいという意味をもつ。この術は、数少ない攻守ともに使える鈿女の巫子の技だ。
ただ、「極」ともなるとコントロールが難しく、神経を使う。
普通の――人と同等の大きさの白蓮を出す方が楽なのだが、そうすれば弧百の体は潰れてしまうだろう。
難しいのは承知の上で、悠子はその術を使った。
刹那、親指ほどの長さで、白の花弁をもつ蓮が数珠繋がりに現れた。そして、ゴムのように縮んだかと思うと、勢いよく飛び出し、弧百を壁際へと飛ばした。
食虫植物もどきが倒れているエスカレーターの上で、青年と葉扇は拳を交わしていた。
ピアスを揺らし、青年は葉扇の頬を目掛けて拳を叩きつける。
しかし、黙ってやられる葉扇ではない。拳の軌道を読んだ葉扇は、顔を左に傾ける。すると、読み通り、青年の拳は右に向かい、空振りに終わった。
「このくそガキが!!」
忌々しいというように、青年が葉扇を睨みつめる。
「悪いが、おれはお前より年上だ!!」
口角を上げながら、葉扇は左拳を下から突き上げる。目指すは青年の顎だ。
だが、青年も読んでいたのか、顎を引き、後方に体を移動させた。
「ちっ!」
空振りに終わったことに舌打ちしながら、葉扇は、踏み台を駆け上がり、エスカレーターの真上――展望台の廊下に繋がる床を蹴り、青年に向かって右拳を叩きつけようとする。
すると、青年は葉扇に向かって種を飛ばした。その殻が割れ、食虫植物蠅もどきが羽音をたてて向かってくる。
葉扇は、床に転がる枯れた蔓を拾い、蠅もどきに向かって振り回した。
「うりゃっ!!」
枯れたといっても、面積はある。
蠅もどきは避けきれず、踏み台や壁に叩きつけられた。
「くそっ、役立たずが!」
青年は悔しげに顔を歪ませると、親指ほどの茶色い種を五つ飛ばす。そこから、手首ほどの太さをもつ緑の蔓が五本現れた。その蔓は、葉扇に向かって螺旋上に襲い掛かってくる。
「うわっ!」
避けきれず、葉扇は蔓に捕まり、手も足も縛られてしまう。まるで、だるまのように床に転がる葉扇を見て、青年は勝ち誇ったように笑った。
「ははっ、どうだ!文字通り、手も足も出ないだろう!」
なんだと、この野郎と叫びたくなるのを堪え、葉扇は一端、開けた口を閉じた。
感情のまま突っ走れば、この青年の思う壺だ。
何とかしてこの青年の隙をつけないかと頭を働かせる。葉扇は仰向けに転がったまま、辺りに目を走らせる。そこで目についたのは、蠅もどきを潰す時に使った枯れた蔓だった。
葉扇は青年に見えないように口角を上げた。
「・・・確かにな。おれはお前を見誤っていたのかもしれない」
「なに?」
青年が意外そうな表情を浮かべながら、片眉を上げる。
下手に出れば、この青年の不意をつけるかもしれないと葉扇は言葉を続けた。
「お前みたいな強い異能力者に会ったのは初めてだ。名前はなんていうんだ?」
答えてくれるかどうかは賭けだった。
のってくれなければ、他の方法を考えなければ。額に汗が滲むのを感じながら、葉扇は興味深そうな笑みを浮かべ、青年の様子を窺う。しばらくして、青年が口を開いた。
「・・・・白井、秀一」
自身の思惑にのってくれたことに、内心ガッツポーズをしながら、葉扇も名乗る。
「秀一か。おれは葉扇」
口を動かしながら、葉扇は体をじりじりと動かし、青年――秀一に見えないよう、枯れた蔓に指先を伸ばした。