第百四幕 立ちはだかる者
商業施設を抜け、悠子は葉扇を抱えながら走る。
達騎の氣は、展望台へと通じるエスカレーターから感じられた。
電気が通っていないのか、エスカレーターは置物のように動かない。それに足をかけ、何段か登った時だった。
「っ!!」
悠子は、その惨状に目を見開いた。
まるで爆発でもあったかのように、上下左右の壁が剥がれ、その瓦礫が踏み段に転がっている。
そして、なぜか手首ほどの太さの千切れた蔓があり、あちらこちらに散乱していた。蔓は茶色に染まり、しなびて枯れていた。
「悠子!」
葉扇の声に顔を向ければ、すぐそばの踏み台と手すりにべっとりと血がついていた。
ここで戦いがあったのだろうか。
この血が達騎のものかは分からない。だが、急がなければ。
ぐっと腹に力を込め、悠子はエスカレーターを登る。
半ばまで登ったその時と、終点の踏み段に立つ人影があった。
「悪いが、ここを通すわけにはいかない」
有無を言わさぬ声を上げた人影の正体は、茶髪で、耳に銀色のピアスをした青年だった。
「・・・あなたと戦う理由がありません。お願いです。通してください」
目を見て告げれば、青年は瞳をぎらつかせた。
「お前にはなくとも、俺にはある」
握り込んだ片手を開き、青年は二つの種を悠子達へと投げつけた。それは、赤黒い色に染まっており、ぱかりと割れたかと思うと、一瞬で巨大な食虫植物と化した。だが、それはただの食虫植物ではなく、補虫器官である口のような二枚の葉には、犬歯のような鋭い歯がびっしりと並んでいた。天井につくほどの大きさながら、その動きは素早い。
いくつもの根を足のように動かしながら、食虫植物は大きく口(という二枚の葉)を開け、悠子達に迫った。
「ギャー、食われるー!!」
抱えられた葉扇が涙目になりながら、叫んだ。
後方に飛び、二体の食虫植物が襲い掛かってくるのを紙一重で躱しながら、悠子は二体に漂う氣に、小さく違和を感じていた。彼らの氣には、植物のほかに妖が漂わせる氣を感じたからだ。
(まさか、妖と掛け合わせた?)
普通の食虫植物はあんな巨大ではないし、動物のような歯もない。何かしらの妖と掛け合わせたと考えたほうが自然だろう。
悠子は一体の首をもう一体に絡ませ、糸を結ぶように互いが互いを引っ張らせるように仕向けた。
首の部分を縛ったため、動けなくなる二体をそれぞれ踵落としで気絶させ、踏み段に着地する。
どすんっという重い音がエスカレーター全体に響き、波のような振動が悠子に届く。
「ちっ。さすがに簡単にやられてはくれないか」
鋭い歯の並んだ口を大きく開け、動かない食虫植物を青年は一瞥し、舌打ちをした。
「なら!!」
もう一度やり直すかのように、青年はいくつもの種を投げつける。
蠅のような羽を生やした、二センチほどの大きさの食虫植物が悠子達に襲い掛かってきた。二体の食虫植物のように、補虫器官である二枚の葉には、犬歯が生えている。
恐ろしいほどのスピードで、白蓮―盾―を張っても間に合わない。抱えている葉扇を突き飛ばす間もなかった
悠子は、迷うことなく背中を向ける。鈍い羽音が耳に届くと同時に、背中や首元に鋭い痛みが走った。
「悠子っ!!」
葉扇が悲鳴のような声を上げ、腕から出ようとするが、悠子は決して離そうとしなかった。
羽音が静まり、食虫植物の気配が遠のくのを感じた悠子は、立ち上がり、振り返る。
背中と首のあたりに、ぴりぴりとした痛みを感じた。
片手を、痛みの走る首に当て、血が出ていないか確かめてみるが、掌には何もなかった。
不思議に思いながら、歩き出そうとした時、尋常でない痺れが体全体を稲妻のように走った。
「うっ・・・!」
思わず呻き、悠子は葉扇を抱えたまま、崩れ落ちた。
「悠子、どうした!?」
葉扇が悠子の腕から抜け出し、踏み段に足をつける。小さな手が蹲った悠子の背に触れた。
「こいつらの唾液には、獲物を痺れさせる成分がある。ここにいる十体の攻撃を防御もせず受けたんだ。二、三時間は動けないだろう」
青年が静かに告げた。
――二、三時間。
告げられた時間に、悠子はぞっとする。
それでは駄目だ。こうしている間にも、達騎は鵺に近付いている。二、三時間もあれば、彼らの戦いが始まっているかもしれない。いや、もうすでに始まっているかもしれない。
「ぐっ・・・」
どうにかして動かそうとするが、指一本動かせなかった。
「悠子」
焦りを感じていると、葉扇が悠子の顔の前に、一枚の葉を差し出した。
「これは、薬草だ。痺れが取れる。飲み込みづらいと思うが、食べればすぐに効くだろう」
「っ!!」
悠子は、痺れをねじ伏せるように顔を上げた。
「やらせるか!」
青年が声を上げ、腕を振り上げる気配がした。
「やれ!お前ら!」
おそらく、十体の食虫植物に命令を下したのだろう。ぶぅんという蜂に似た細かい羽音が聞こえる。
また攻撃を受けてはかなわない。
「安心しろ。悠子。ここには来させない」
すると、断言するかのような葉扇の声が響いた。
その直後、目の前に、後方で気絶させた二体の食虫植物が現れた。それはいくつも現れ、やがて天井まで積み重なり、悠子達の前方を塞いだ。そのため、青年の姿も小さな食虫植物も見えなくなった。
「今の内だ。早く食べろ!」
この現象は葉扇の仕業らしい。悠子は、痺れる唇をこじ開け、大きく口を開いた。
葉扇の持った薬草が口の中に入るのを感じ、噛み砕く。
ぷんと薫る緑の匂いを鼻の奥で感じながら、苦みと繊維の硬さに苦戦しつつどうにか飲み込んだ。
刹那、まるで波が引くように、あっという間に痺れがとれていき、数秒後には、両手も何不自由なく動かせるようになった。
「ありがとうございます。助かりました」
立ち上がった悠子は、両の掌を握ったり、広げたりを繰り返しながら礼を言った。葉扇は小さく笑って返した。
「それを言うならお互い様だ。おれも助けてもらったからな」
そして、葉扇は悠子に真剣な眼差しを向けた。
「悠子、お前は先に行け。あいつはおれが相手をする」
「えっ、でも・・・」
能力は大人の姿である時と同じとはいえ、荒事に慣れていない葉扇に任せても大丈夫だろうか。
それが顔に出ていたのか、葉扇がドンッと自身の胸を叩いた。
「木の精霊を舐めてもらっちゃ困る。大丈夫だ。終わったら、おれもすぐに駆けつる」
安心させるような力強い笑みを葉扇は浮かべた。
確かに、ここを葉扇に任せれば、悠子が達騎に追いつける可能性は高くなる。
不安は残るが、ここは葉扇の言葉を信じよう。
「・・・わかりました」
一瞬の逡巡の後、悠子は頷いた。
「ですが、無茶はしないでください。もう駄目だと感じたら、逃げてかまいませんから」
「おいおい。信用ないな。おれをどれだけ弱いと思ってるんだ?」
「心配しているだけです」
間髪入れずに言えば、葉扇は、「分かっている」と呟き、肩をすくめてみせた。
「・・・お前も気をつけろよ。親玉のところへ向かうんだ。気を引き締めていけ」
「はい」
達騎の氣は、エスカレーターのさらに奥へ続いていた。同時に、あらゆる負の感情を混ぜた黒く暗い鵺の氣も感じる。
達騎が鵺に出会う前に、どうにかして復讐をやめさせなければならない。そして、この暴動を引き起こした鵺を二人で止める。
ぐっと奥歯を噛み締め、悠子は前を見据えた。
「目の前にある食虫植物は、おれが作り出した幻だ。本物は踏み台の上で倒れている。あの男は、大量に現れたこいつらに驚いているだろう。幻を消したらおれが突っ込んでいくから、その隙をついて、お前は向こう側へ行け」
「分かりました。葉扇さん、気を付けて」
提案した作戦に頷き、葉扇の顔を見れば、彼はふっと笑った。
「お前もな」
「よし、じゃあ行くぞ!!」
葉扇の合図で、食虫植物の幻が消える。
気絶した二体の食虫植物の頭を飛び越え、葉扇が目を見開いている青年に向かって拳を叩きつけた。
「行け!!」
葉扇が叫ぶ。
悠子は、大きく跳躍し、青年と葉扇の頭上を飛び越え、エスカレーターの最上部へ足を着けると、振り返ることなく、展望台に続く廊下へと走り出した。