彼はニヒリスト
初めて小説らしい小説を書いてみたので、投稿させて頂きます。
当方、恥ずかしながらまだ文学をかじった程度なので、
皆様のアドバイスや感想を心で受け止め
今後の創作活動への糧にしていきたいと思いますので
宜しければ読んだ感想やアドバイスを下さると大変嬉しいです。
「今回ご紹介するのは、ななななんと!過去へ逆戻り出来てしまうという
回帰の扉という代物です。
あの楽しかった夏の日に戻りたい……、中学生の甘酸っぱい恋愛をもう一度……、
そんな体験をもう一度してみませんか?
現代人の皆さんがが忘れた過去を取り戻しましょうよ!
さてさて、そんなことより気になるお値段の方ですがこちらななななんと!」
『59800円……だろ?』
薄暗い部屋で不気味に光るブラウン管を見つめながら
彼は何度となく見たテレビの中の虚構の住人に向かってつぶやいた。
彼は悩んでいた。人生のことでもある。
そして先ほどの回帰の扉の事でもあるのだ。
回帰の扉を使うことによって昔の楽しかった日々に戻ることが出来るならば……。
現状打破のためには、未来に期待するよりも自分に期待するよりも、
回帰の扉に期待した方がいいのではないか。
そう、彼は人生を楽しむことの出来なくなった人間なのだ。いわば無気力人間とでも言おうか。
現状に満足は出来ず、そして現状を変えていく力も彼にはなかった。
彼はひとしきり悩んだ末に、座っていたソファの横に手を伸ばした。
受話器を取り、耳に当て番号を手慣れた手つきで押すと、
激しいビープ音が受話器から漏れてきた。
その音が彼には、彼を拒んでいるかのように聞こえたようだ。
少しの間ビープ音が鳴り続け、続いて受話器を持ち上げる音が聞こえてきた。
それと同時に受話器の向こうからは快活な女アナウンサー気取りの
夏に食べるかき氷のように頭にキンキンと響く声が聞こえてくる。
どうやらテレビ通販おなじみの商品紹介をしているらしい。
彼はその声が聞こえなかったかのように
返事をせず、少し震える声でこう言った。
「……回帰の扉を売ってください。」
その言葉を聞くと、心なしか受話器の向こうの
キンキン声も少し落ち着いた声に変わったようだった。
もちろん、そんなことは少しもなかったのだが。
「最近の若者は実にいかん。家に籠りっきりで文芸誌を読むのは許すとしても、
意見も言わずそして行動も起こさない。これでは何のために……」
ピンポイントで彼に向けられた説教のようなものを
垂れ流すテレビを見るのが苦痛になったのか、
彼はテレビの中のちょび髭を付けたいかにも
評論家気取りの50代の男が説教を言い終わる前にスイッチを切った。
スイッチを切る、という表現がおかしく感じられるかもしれないが彼の家のテレビは未だに
ブラウン管で、テレビ本体のスイッチを押してやらないことには電源が落とせないのである。
そして彼はちらと視線を横に走らせた。
大きな段ボール箱が、開封済みを示すように大きな口を開けて立っていた。
その中身は先日注文した回帰の扉だったが、彼はちらちらと見やるだけで興味がなさそうだ。
通販で買ったはいいがいざ届いて中身を見ると、急にあの欲しかった気持ちは
どこへ行ったと言わんばかりに倦怠感が襲ってくるというよくあるやつで、
彼はまさにその倦怠感に襲われていた。
実は、理由はもう一つある。
回帰の扉が届き、彼が段ボール箱を開けて最初に見たのが
「回帰の扉 組み立てキット」という文字であった。
そして次に目にしたもので、彼の不安な気持ちは倦怠感へと変わった。
彼が見たのは全750あまりのパーツを駆使し複雑に説明している組み立て図だったのだ。
「ここは一体どこであろうか。見渡す限り白い。
俺は頭の中さえ空っぽに、真っ白になったのか。」
それは、彼が久々に直射日光を目に受けたときの気持ちであった。
そして頭の中がからっぽになる感覚というのは、現実から逃げ出した彼を襲う無意味な空虚感であった。
彼が目の上に手を当て日光を遮る、という行動を思いついたのはそれから更に2分経った後のことだ。
倦怠感の残る体を引きずるように、彼はどこへ行くとも考えずにふらふらと歩きだした。
家の門から出て数十歩歩いたころのことだった。彼は民家の塀の上を歩く猫を目にした。
猫は彼の視界から去ろうとしなかった、というのも彼が猫を追いかけていたからだ。
昔から彼はこの猫という生物に疑問を持っていた。
猫と言う生物は人間に懐いたと見せかけて住処が欲しいだけ、という
今の政治家もびっくりな現金主義でさらに野良猫の場合自由奔放に生き、
決まった住処を持たないということも彼の猫に対する疑問をさらに深くさせた。
なぜ、猫は人に頼らずとも生きていけるのだろう。
それが彼の猫に対する疑問であった。
隣の民家の塀の上を歩いていた猫を見た彼は
またこの疑問がプールの浮き輪のようにぽかんと頭の中に浮かんできたのであった。
昔から人間は猫のように自由気ままに生きたいと考える人が多かったそうだが、
現代に生きる彼もそういう考えの持ち主であった。
だが、彼は実際に猫のように生きることはできなかった。
現代社会から逃れようとするたび、彼の理性、常識という鎖が彼をさらに縛りあげるのだ。
彼の心は今、ロマンチシズムにもエゴイズムにも染まっていなかった。
空想はもともと嫌いな方であったし、
本来は他人の心配をすることの出来る心優しい少年でもあった。
心のちょっとした隙間に魔が巣食うとは本当のことで、
実際彼はその隙間にニヒリズムなる魔物を飼っている。
ニヒリズムは虚無を好み、巣食った者の虚無感を肥大させることで
縄張りを増やしそして繁殖していく。
彼の心にはもう一つニヒリズムと対立した魔物がおり、
それは常識や理性と言ったモラリズムと呼ばれる魔物であった。
これら二つの勢力が彼の心で暴れ、心の中を混乱に陥れたため
彼は胡散臭い回帰の扉なんて代物を購入してしまったのであろう。
さて、空想主義のこんな話は置いておいて彼が今どうしているか見てみよう。
彼は先ほどの猫を追いかけている途中で、その猫が他の猫を誘惑している場面に出くわした。
そこで彼の心に巣食っていたニヒリズムがすかさず、猫に対して敵対心をむき出した。
彼の口からはこんな言葉が不自然に飛び出すのであった。
不自然というのは、彼の心の中に巣食うモラリズムが邪魔をしたためである。
「恋愛など一般市民、言ってしまえばミーハーのやることだ。
現代人は金に目をくらませて体を平気で売るのさ」
それはある一種の発作のようだった。
彼は、彼が軽蔑するミーハー諸君が蔓延る商店街へと足を向けた。
とは言っても実は彼自身が軽蔑するミーハー気質は彼にもあった。
無意識のうちに心に巣食っていたモラリズムがその証拠だ。