湯たんぽの娘
湯たんぽの娘
「何枚着せても、背中が冷たいとおっしゃるのです」
侍従の言葉を聞いても、アビシャグには自分がエルサレムへ連れてこられた理由が分からなかった。シュネムを出た朝、父の手には刈り入れを終えた大麦の屑がついていた。母は干し葡萄を亜麻布の小袋に入れ、その下へ穀物小屋の鍵を押し込んで、娘の帯に結んだ。
「向こうでお腹がすいたら食べなさい。鍵は、帰ってきたときに返してくれればいいから」
母は袋の結び目を二度確かめた。アビシャグは、いつ帰れるのかと聞けなかった。迎えに来た宮殿の者が戸口で待っており、父も母も、その人の前では別れの言葉を短くした。
宮殿の寝所は、夏だというのにひんやりしていた。分厚い石壁が日差しを遮り、寝台には羊毛の掛け布が何枚も積まれている。その隙間から見えたのは、戦場で兵を率いた王の姿ではなかった。頬のこけた老人が、布の下で小さく息をしていた。
「王のそばに横になり、お体を温めてください」
侍従は、寝台の端を示した。アビシャグは自分の耳を疑い、掛け布と侍従の顔を交互に見た。部屋の隅には衛兵が立っていたが、その役目を断ったらどうなるのか、誰も教えてくれない。
「火鉢では、いけないのですか」
「火も布も試しました。それでも王は温まらないのです」
侍従はそれ以上説明せず、寝台の脇へ水差しを置いた。アビシャグのための寝床は、部屋のどこにもなかった。彼女は帯についた小袋を寝台の柱に結び、重い掛け布の端を持ち上げた。
ダビデの背中は、日陰の石のように冷たかった。細い肩に腕を回すと、骨が掌に当たった。アビシャグは足先を掛け布の中でこすり合わせ、自分の体まで冷えていくのを待つしかなかった。
「……寒い」
王の声は、枕に吸い込まれそうなほど小さかった。アビシャグは返事をせず、掛け布が肩から落ちないように引き上げた。王もそれ以上は話さず、夜が明けるまで彼女の腕の中で浅い息を繰り返した。
朝、アビシャグが水で絞った布を持って戻ると、ダビデは目を開けた。盥の水は冷たく、布を絞った指が赤くなっていた。彼女は王の顔を拭く前に、布を自分の手で包んで少し温めた。
「そなたの手まで冷たくなったな」
「水を使いましたから」
「そうか」
ダビデは目を閉じた。アビシャグは額から頬へ布を動かした。部屋の外では朝の食事を運ぶ器の音がしていたが、自分の分が届くのは、王の支度を終えてからだった。
日が過ぎても、王の背中は温まらなかった。侍従たちはアビシャグに食事と衣を与え、夜になると寝所へ呼んだ。王が彼女と寝台を共にしても、二人の間にそれ以上のことはなかった。それを知る者たちの声が、扉の向こうで少しずつ変わっていった。
ある午後、アビシャグは廊下で、馬の蹄と大勢の足音を聞いた。窓から見下ろすと、王子アドニヤが馬車を走らせ、その前を護衛たちが進んでいる。台所では、誰が宴に招かれ、誰が招かれなかったかを、下働きの者たちがパンを裂きながら話していた。
「王は何もおっしゃらないのですか」
アビシャグが寝所で尋ねると、侍従は水差しの蓋を閉める手を止めた。ダビデは眠っているように見えたが、掛け布の上に出た指がわずかに動いた。侍従はアビシャグに目配せし、廊下の扉を閉めた。
「ここで聞いたことは、外で話さないでください」
「何も教えていただいていません」
「それが、あなたのためです」
侍従は水差しを持って出ていった。アビシャグは、帯の小袋を指先で押した。中の鍵の形が布越しに分かったが、その鍵で開く戸はここにはない。
それから間もなく、寝所へ来る人が増えた。バテ・シバが王に会い、続いて預言者ナタンが入った。アビシャグは水差しを替えるために扉の近くにいた。二人が王に、ソロモンへの約束と、アドニヤが王になろうとしていることを告げるのを聞いた。
ダビデは寝台の上で身を起こした。アビシャグが背に丸めた布を差し入れると、王は彼女の腕を一度借り、バテ・シバに向かって話し始めた。声はかすれていたが、言葉を伝えるたびに侍従が聞き返す必要はなかった。
「ソロモンを、今日、王とする」
アビシャグは王の背を支えたまま、その言葉を聞いた。冷たかった肩には、汗が薄く浮いていた。彼女がここへ来て初めて、ダビデは寝台の外に届く命令を出した。
その日のうちに、都の方から角笛と歓声が聞こえた。ソロモンが油を注がれたのだと、走ってきた若い侍従が告げた。アドニヤの宴は散り、王子は祭壇の角をつかんで命を乞うたという。ダビデは報告を最後まで聞き、アビシャグに水を求めた。
「熱すぎないか」
アビシャグが杯を渡すと、王は一口飲んで尋ねた。彼女は自分の唇で先に確かめた水の温度を思い出し、首を振った。ダビデは杯を返し、窓の方へ顔を向けた。
「もう、あの者たちが走っておるのだな」
「はい。廊下が騒がしくなりました」
「そなたは足音をよく聞いていた」
王はそう言って、再び横になった。アビシャグは掛け布を肩までかけた。誰の足音かを聞き分けられても、自分を故郷へ帰す足音は一度も聞こえてこなかった。
ダビデが亡くなったのは、それから後のことだった。アビシャグはいつものように背中へ腕を回し、夜半にその呼吸が途切れたのを知った。掛け布を一枚足しても、肩の下へ自分の手を入れても、もう体は温まらなかった。
彼女は侍従を呼び、寝台を譲った。王の葬りの支度が始まると、寝所に置いていた小袋も持って部屋を出た。長く使った掛け布はそのまま残され、翌日から、誰もアビシャグを呼ばなくなった。
与えられた小部屋の窓は高く、立ち上がっても外が少ししか見えなかった。食事は戸口に置かれ、洗濯物は渡されない。宮殿を出たいと告げると、侍従は返事を待つように言った。三日後も一週間後も、返事は来なかった。
アビシャグは食べ終えた皿を自分で洗い、乾くまで窓辺に立てた。小袋の干し葡萄はとうに食べてしまったが、鍵だけは残っている。母に返すと言ったまま、シュネムを出てから、季節が二度変わっていた。
ある日、廊下の向こうでバテ・シバの声がした。アビシャグが戸を開けると、彼女は侍女を伴って歩いていた。呼び止めるつもりはなかったが、故郷へ帰る許しを待っていることを思い出し、アビシャグは廊下へ出た。
「バテ・シバ様。私のことを、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
バテ・シバは足を止めた。侍女が一歩下がり、廊下に二人分の立つ場所ができた。アビシャグは小部屋の戸を開けたまま、頭を下げた。
「私はいつ、シュネムへ帰れますか」
「そのことで、私もそなたに話がある」
バテ・シバは侍女を廊下の端へ下がらせた。窓から入る日差しが、床の石に細長く落ちていた。アビシャグは返事を待ちながら、戸の縁を握った。
「アドニヤが、そなたを妻に迎えたいと言ってきた。私からソロモンに頼んでほしいそうよ」
アビシャグは、廊下で見た馬車と護衛を思い出した。アドニヤと話したことはほとんどない。彼が知っているのは、彼女が先王の寝所にいたということだけのはずだった。
「私は、アドニヤ様に求婚されたのですか。それとも、王にお渡しするよう頼まれたのですか」
バテ・シバの指が衣の端を整えた。アビシャグには、その沈黙の意味が分からなかった。バテ・シバ自身が何を考えているのかも、息子がどう答えるのかも、廊下で立ち話をする娘に知らされることではないのだろう。
「アドニヤは、私に王へ頼んでほしいと言ったの」
「私は、アドニヤ様の妻になりたくありません」
アビシャグは戸の縁から手を離した。小部屋へ戻れば、また返事を待つだけの日が続く。彼女は帯から小袋を外し、黒ずんだ鍵を掌に載せた。
「先王のお世話は終わりました。私にはシュネムに帰る家があります。どうか、そのことも王にお伝えください」
「そなたの願いを取り次げば、アドニヤの願いも王の耳に入るわ」
「はい」
「王が何を決めるか、私にも約束はできない」
バテ・シバは鍵を見た。アビシャグの掌には、長く握っていたせいで鍵の歯の跡がついていた。彼女はそれを隠さず、バテ・シバの前に立ち続けた。
「では、私の言葉も、一緒に伝えてください。私はアドニヤ様との婚姻を望みません。故郷へ帰りたいのです」
翌朝、アビシャグは小部屋の外へ呼ばれた。廊下には侍従と書記がいて、机の上に一枚の板を置いていた。書記はアビシャグの名と出身地を読み上げ、先王に仕える務めが終わったこと、シュネムへ戻ることを記した。アビシャグは読み終えるまで、その場を動かなかった。
「門を出るとき、これを見せてください」
書記は印のついた通行証を渡した。アビシャグは受け取り、名前が書かれた箇所を指でなぞった。自分の行き先について、初めて自分の言葉で求めた返事だった。
出発の支度をしている間に、宮殿が騒がしくなった。アドニヤの願いを聞いたソロモンが、それを王位への要求と受け取り、将軍ベナヤに命じたという。誰かが廊下を走り、別の誰かが扉を閉めた。アビシャグは荷物の口を結び直し、通行証が入っていることを確かめた。
北の城門で、衛兵は板に記された印を調べた。城内から来た男が衛兵に何か耳打ちし、二人ともアビシャグを見た。彼女は足を止めたまま、麻袋の紐を握った。
「シュネムのアビシャグか」
「はい」
「通れ」
衛兵が通行証を返した。アビシャグはそれを受け取り、門の外へ出た。追いかけてくる足音がしないことを、坂を上りきるまで何度も確かめた。
道端には、刈り取られた草が束ねて置かれていた。乾いた風に麦の茎に似た匂いが混じり、アビシャグは麻袋の中の薄い衣を肩に掛けた。宮殿で使った厚い掛け布はなくても、歩いているうちに背中が温まってきた。
腹が鳴った。シュネムまでは遠く、持ってきたパンは昼にはなくなるだろう。アビシャグは母の小袋から鍵を取り出し、掌で確かめてから、もう一度帯に結んだ。
穀物小屋の戸は、まだこの鍵で開くだろうか。蝶番が錆びていたら油を差し、麦が残っていたら臼で挽こう。焼き慣れていない自分の手では、最初のパンはきっと少し焦げる。アビシャグは坂の先を見て、歩幅を広げた。




