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夏休みに青春を、彼女には優しい嘘を

作者: なつ
掲載日:2026/05/15


 僕には友達がいない。高校の中で友達が一人もいないのは僕くらいだと思う。


 明るくて元気で、クラスの中心的な人達は当然として、地味な見た目で目立たない人達でも似たような人と友達になり、アニメやゲームの話をクラスの片隅で話しては、ひっそりと盛り上がっている。


 アニメや漫画であるような青春を経験したことはもちろんないし、カラオケやボウリングなんかも家族以外の人と行ったことがない。


 授業が終わると、誰とも話さずまっすぐ家に帰る。部活動も習い事もしていない僕の世界は、学校と自宅しか存在しない。友達と一緒に帰っている同級生を見ると、胸がキュッと締めつけられるような感覚がして、自分は友達を作ることができないダメな人間なんだと思い知らされる。


 休憩時間は机に突っ伏して寝ているふりをして過ごし、教室を移動する時は廊下にある生徒用ロッカーで探し物をしている感じを装う。教室移動があるときは、クラスのみんながいなくなってから別の教室へ移動した。一人でいる自分をなるべく人に見られたくなかった。友達もできない愚かで醜い自分を少しでも隠したかった。

 僕の唯一の居場所は図書室になった。


 図書室は旧校舎にある。旧校舎はクラスの教室がある新校舎と渡り廊下で繋がっていて、図書室以外には理科準備室とか倉庫代わりに使われている教室とトイレがあるくらいで、生徒はあまり寄りつかない。


 旧校舎は戦前からあるらしい。渡り廊下を一歩踏み越えると、空気がひんやりと冷たくなる。古い木材が湿気を吸った匂いと、カビの生えた古紙の匂いが混ざった、独特の埃っぽい匂いが鼻を突く。


 図書室は広さも蔵書も申し分ないどころか、へたな市立図書館よりもよっぽど充実していた。図書室には、授業に使う教材や辞典、小説、伝記、漫画やライトノベルまで幅広く取り揃えてある。こんなに素敵な図書室なのに、利用する生徒は少ない。僕は、新校舎から距離があるから利用者が少ないのかと思っていたが、どうやら違う理由があるらしい。


 ある日、同じクラスの女の子が友達と二人で噂話をしていて、その声がたまたま耳に入った。


 「旧校舎行ける人はすごいなあ。私そうゆうの苦手だから一人では絶対に行けないわ」


 「私も絶対無理!実際に三組の子が見たらしいよ?女の幽霊」


 「旧校舎の裏にある桜の木で首吊った霊なんだっけ?夜な夜な旧校舎を徘徊してるとか」


 「もうやめてよ~。早く教室戻ろ!」


 図書室の利用者が少ない理由を、入学して一月近く経ってようやく知る。友達がいないから、誰もそのことを教えてくれなかった。幽霊とかオカルトの類はあまり信じていないけど、気分が良い話ではなかった。しかし、その噂のおかげで人が寄りつかないのなら、僕にとっては好都合だった。


 僕は週に一回の委員会活動に、誰もやりたがらない図書委員を選んだ。

 そして昼休みになると、旧校舎のトイレで誰にも見つからないように母が作ってくれた弁当をかき込み、そのまま図書室へ逃げ込むようになった。教室に一人でいると、楽しげなみんなの会話が聞こえてきて孤独感が増幅する。図書室にいれば、そこにあるのは静寂と無数の本だけ。得体の知れない安心感があった。

 図書室にいるのは大抵、司書の岬麻由さんだけだ。三十手前の小柄で可愛らしい人で、いつも静かに本を読んでいる。

 しかし、もう一人だけ、毎日来ている女子生徒がいる。

 彼女はいつも一番奥の左端の席で本を読む。まるで最初からそこにあった古い家具の一部のように、彼女は静かに座っている。


 毎回、放課後の開放時間が終わり、鍵を閉めるギリギリまで残って彼女は本を読んでいた。




2


 雨が続くようになり、蒸し暑い日が続いていた。僕は相変わらず図書室で昼休みを過ごしていた。


 昼休み中は司書の岬さんが受付を担当してくれている。図書委員の会議にも毎回参加してくれ、僕のことを覚えてくれている数少ない存在だ。彼女は、僕が図書室を利用する時、必ず挨拶してくれる。


 「前野くん、こんにちは」


 「こ、こんにちは」


 ただの挨拶だけでいつもしどろもどろになってしまうが、本当は名前を覚えてくれているだけで少し嬉しい。


 僕はいつものように部屋の奥の右端の席に座り、家から持って来た小説を読む。まだ図書室に置いていない新作だ。昼休みはご飯を食べる時間を除くと三十分程度しかなく、教室に戻る時間も含めると、ゆっくり本を読む時間はない。それでも教室にいるよりはずっとマシだ。


 「それ、新作?」


 僕に話しかけたとは思わなかったので、その声を無視して本を読み続ける。


 「ごめんね、話しかけて」


 そう言われて、恐る恐る顔を上げると、いつもギリギリまで図書室にいる女子生徒だった。辺りを見回す。図書室にいるのは、僕と彼女と、受付にいる司書さんだけだった。


 「あ、ご、ごめん、な、何か用?」


 いつも以上に動揺している。同世代の女の子と話す機会など全くないから、いつもより余計に緊張する。


 「今読んでる本、この前出たばかりだよね?」


 「あ、ああ、そ、そうだよ」


 「読み終わったら貸して欲しいな。私まだ読んでなくて。近所の本屋さんも売り切れで手に入らないの」


 「あ、ああ、い、いいけど」


 「本当に?じゃあ読み終わったら教えてね?」


 彼女はそういうと、いつもの左端の席に座りなおして、また読書を始めた。


 その日、いつものようにまっすぐ帰宅すると、急いで本を読んだ。彼女に貸す約束をした新作小説だ。


 急いで読み進めるせいか内容があまり入ってこない。集中できない。久しぶりに会話できたことが嬉しかったからかもしれない。


 四百ページ近くをぶっ通しで読み続け、読破した頃にはカーテンの内側から光が漏れていた。結局本の内容はほとんど頭に入らなかった。まあ、返してもらったら読み返せばいい。


 眠気と格闘しながら午前中の授業を終え、昼休みになった。僕は急いで教室を出ると、渡り廊下を走り抜け、旧校舎のトイレに駆け込んだ。個室に入ると急いでお弁当を鞄から引っ張り出す。勢いよく蓋を開けて一気にお弁当の中身を口の中に詰め込む。途中ご飯が気管に入ってしまい生死を彷徨いかけたが、何とか食べ終わると空のお弁当箱を鞄に突っ込み、足早に図書室へ向かった。


 いつものように司書の岬さんに挨拶し、いつもの席に座る彼女に向かって歩みを進める。しかし、声をかける勇気が出ないので、一個手前の席に座って話しかけられるのを待つことにした。


 ちらちらと後ろを振り向くが、彼女は本に夢中で、僕に気がつかない。僕は仕方なく本を読もうと鞄を漁るが、彼女に貸してあげる予定の本以外入っていないことに気づく。図書室の本でも読もうかと思い席を立つが、動揺しているせいか、立ち上がった時に椅子を倒してしまった。


 「す、すみません」と誰にいうでもなく反射的に謝罪の言葉をつぶやく。その声に彼女が顔を上げてこちらを見たが、そのまま何も言わず、また本に向かって頭を下げた。僕は勇気を振り絞って彼女の席の近くに立ち、声をかけた。


 「あ、あの、昨日の本、持って来たよ」


 彼女は驚いたようにこちらに顔を向け、


 「うそ!もう読み終わったの?発売したばかりだし、厚いから結構ページ数あるよね?」


 「ま、まあ、ぼく、いや俺、結構読むの早いんで」


 彼女に貸すために徹夜したことは内緒だ。無駄だとわかっていても格好つけてしまう。


 「すごいね!私本読むの遅いから羨ましい。今度早く読む方法教えてよ」


 僕は喜ぶのと同時に焦りを感じる。僕は速読ができる訳ではない。


 「あ、ああ、今度な」と、一旦ごまかす。


 「ありがとう!そういえばまだ自己紹介してなかったね。一年四組の尾花桜です。えっと、趣味とか言ったほうがいいのかな?趣味は読書です。君は?」


 またしても自己紹介だ。でも何度か話している分、クラスや委員会での自己紹介よりは緊張しなかった。


 「ぼ、俺は一年一組の前野勇気。ぼ、俺も読書は好きかな?」


 「どんな本が好きなの?作家は誰が好き?」


 僕らは自分たちの好きな本の話や作家について語り合った。入学してから初めて、時間を忘れて話をする。自分の好きな話だからか、自分でも驚くくらい流暢に話ができる。とにかく楽しかった。終わりたくない。しかし、無情にも次の授業が始まるチャイムが鳴り響く。


 「やばい!急がなきゃ!」


 「やばいね!急ごう!」


 司書さんに早口で挨拶をして、二人で新校舎の教室を目指す。授業が始まりかけたところで滑り込む。


 「遅いぞ前野。早く席に着け」社会科の池内先生に怒られる。


 みんなが遅れてきた僕に注目する。赤面し、走ってかいたものとは違う汗をじんわりかきながら席に着く。恥ずかしかったけれど、でも、悪い気分はしなかった。


 それからは学校に行くことが嫌ではなくなり、あんなに憂鬱だった昼休みが楽しみで仕方がなくなった。


 図書室に行き、彼女と会話する。


 彼女は透き通るような白い肌で、長くつやつやとした黒髪を肩まで垂らしていた。前髪を眉毛の上で揃えた髪型をしていて、切れ長で大きい瞳が特徴的だった。大人しく真面目そうな子に見えるが、性格は明るく、話も上手だ。こんな僕とも会話が続くのだから、相当だ。


 「もうすぐテストだね?」


 「あ、ああ、そうだね」


 「テスト期間になったら短縮授業になるから、昼休みに会えなくなっちゃうね」


 今さらっと会えなくなるのが寂しい的な発言しなかった?彼女も僕と会いたいと思ってくれているのか?気分が高揚し始めると同時に、そんな訳ないと頭の中で否定する。僕みたいな奴に会いたいと思ってくれる人はいない。ぬか喜びになるだけだ。そう自分に言い聞かせる。


 「ねえ、前野くんはお友達いないの?いつも昼休みは図書室に一人で来るよね」


 喜んだのも束の間、一番聞かれたくない質問をされてしまう。僕は激しく動揺し、いつものように顔が熱くなり、身体中から汗が滲み出るのを感じる。と同時に彼女も一人で図書室にいるではないか。人のことを言える立場か?と思う。少しムッとしてわざと素っ気なく、


 「君の方はどうなの?君も一人じゃないか」


と言ってしまった。言ってから後悔する。僕はいつもこうだ。自分のことしか考えない。言われて嫌なこともつい口にしてしまう。やっぱり人と付き合わない方がいいんだ。また孤独に戻ろう。自分の殻に閉じこもって、死ぬまで時間が流れるのをじっと待って生きよう。


 彼女は少し躊躇するように、うつむきながらが口を開いた。


 「私はお友達がいないんだ。全然クラスに馴染めなくてさ、ずっと一人。ごめんね、変なこと聞いて」


 僕は本当に自分のことしか考えていなかった。彼女も一人なんだ。昼休みに図書室にいるような子だ。自分もそうなのだから気がつくべきだった。同時に、彼女が一人ぼっちなことを不憫に思った。他人に同情できるような立場ではないとはわかっている。でもなんだかとても彼女のことを寂しく思った。


 「私、夏休みも全然嬉しくないんだよね。友達もいないし、家族で出かけたり、親戚の家に遊びに行ったりとかもないし」


 「じ、実は、その、ぼ、俺も友達いないんだ。俺も夏休みがそんなに嬉しくない。図書室にも来れない……あ!」


 しまった。つい本音を漏らしてしまった。僕も図書室で彼女と話したいことがバレてしまう。僕はちらっと彼女を見る。彼女はにんまりとした顔でこちらを見ている。何か得意げというか、ちょっとイラっとするような顔をしている。


 「図書室も来れないかあ、そうだよねえ、私と話せないもんねえ」


 からかうような口調で言う。


 「は?別にそんなじゃねえし」


 反論したが、彼女はなぜか満足そうな笑みを浮かべている。


 「ねえ、青春ものの小説とか映画って正直ムカつかない?」友達いないあるあるだ。


 「わかる。そんなことあるわけねえだろって思うよな」


 友達がいない同士の、青春を満喫している奴らに対する罵りが始まった。


 「カラオケとかボウリングとか、正直何が面白いんだろうな?」


 「本当にそうよね。本を読んでいる方がよっぽど有意義よ」


 こういう悪口が一番盛り上がる。僕らは司書の岬さん以外誰もいない図書室で大いに盛り上がった。岬さんは何も言わず、黙々と本を読んでいた。


 「カラオケとかボウリングとか行ってさ、カフェとか行ったり、海行ったり。本当にやってる人って実在するのかしら?」


 「一応いるんじゃない?爆発してほしいけど」


 「あのさ」一瞬間を置いて彼女が言う。


 「そういうの、実際にやってみない?」


 「え?」


 僕は驚きで身体が硬直する。実際にやる?何を?


 「何を実際にやるの?」


 「だから!カラオケとかボウリングとかカフェとか海行くとか、ああいういわゆる青春ってやつを実際にやってみない?夏休み使って」


 彼女は顔を真っ赤にしてそう応える。戸惑いながらも話し合った結果、僕らは夏休みに今まで自分たちとは無縁だと思っていた、「高校生の青春といえば」を実際にやってみようということになった。二人で今まで正直憧れていた遊びや行きたい場所を言い合い、スケジュールを立てた。あっという間に昼休みが過ぎて行った。




3


 7月に入り、テスト期間が始まった。テスト期間中は図書室が閉まっていて、図書委員の仕事もないので、彼女と会うことは滅多になかった。たまに廊下ですれ違っては目配せする。話はしないけど、ちょっと嬉しい。


 家にいても彼女のことを考えてしまう。テスト勉強していても、頭の片隅からひょっこり彼女が現れて、やがて頭の真ん中に彼女が居座る。彼女との夏休みを待ち遠しく感じている自分に自分自身が驚く。僕の中で彼女の存在が大きくなっているのを感じた。


 毎日毎晩、ずっと彼女のことで頭がいっぱいだった。テスト勉強も身が入らないまま、テスト本番を迎えた。


 数日間に及ぶテストが終了した。僕はテストが終わった安堵と同時に、夏休みが近づくことに喜びを感じていた。点数はボロボロだろう。それでも待ちに待った夏休みを迎えることの方が重要だ。テストが終わり、みんなが一斉に帰宅する中、僕は珍しく教室に残っていた。やがて僕以外の生徒が教室から居なくなると、見計らったように彼女が教室に入って来た。


 「テストどうだった?」


 「散々だったよ。そっちは?」


 「私はまあまあかな?数学以外は」


 テストの話を数回した後、僕らは黙ってしまった。何となく気恥ずかしい気分になって、二人ともモジモジし始める。蝉の声がいつもよりも大きく聞こえる。心臓の鼓動音が、蝉の声と同じくらい大きな音を立てる。暑さと、焦りと、恥じらいで、汗が止まらない。数分の沈黙の後、彼女が口を開いた。


 「明日、どうする?」


 僕は緊張する。あの時は勢いで色々言ってみたはいいものの、いざ前日となると途端に恐ろしくなる。女の子と二人で出かけたことなど一度もない。うまくいかなくて、楽しくなくて、最悪彼女に嫌われてしまうのではないかという恐怖が襲う。とにかく何か話さなきゃ。僕は重い口を開く。


 「あ、明日は、新宿に、じ、十二時、だ」


 滅茶苦茶にどもる。これで嫌われてしまうのではないかと思った。ひどく口が乾いている。


 彼女は優しく微笑んで、


 「りょうかい」と応えた。




 夏休み初日、僕は新宿にいる。東口のライオン像で僕らは待ち合わせをすることになっていた。腕時計を確認する。まだ十一時半だ。少し早く着きすぎたが、待たせるよりはマシだ。炎天下で倒れてしまいそうなので、近くの日陰に避難する。彼女が来たら声をかければいい。


 十五分程経過して、彼女がライオン像の前に来た。制服姿以外みたことがなかったから、数秒気がつかなかった。黒いワンピースに麦わらの帽子を被っている。暑い日が続いていて、今日もこれほどの炎天下の中なのに、彼女は相変わらず透き通るような肌をしている。初めて私服姿を見た。大人びた印象を受けて思わず見とれてしまった。僕は恐る恐る彼女に声をかけた。彼女が振り向く。


 「ごめんね、遅くなっちゃった」彼女は申し訳なさそうにはにかむ。


 「ま、まだ待ち合わせ時間よりも早いよ。今日は買い物だっけ?」


 「そう!青春生活初日はショッピングをしよう!」


 新宿の街へ繰り出す。両親以外の人と新宿に来たのは、これが初めてだった。人混みに圧倒されて目眩がしそうになった。彼女は僕と違い、人混みをするすると移動する。僕は先を歩く彼女を見失わないように歩いた。


 「まずはここにしよう!」


 彼女の背中ばかりを見ていたから気が付かなかったが、見上げると大型の洋服店が建っていた。


 「私たちでもここなら買えるよね?前野くんの服選んであげるよ!」


 彼女はそういうとさっさと店に入る。僕は危うく彼女を見失うところだった。


 服なんて自分で買ったことがない。僕の私服のセンスを咎められるのではないかと不安で仕方がなかった。


 Tシャツや半袖のワイシャツ、ジーパンやなんて名前かわからない大量の衣料品が置いてある。どれを買えばいいのか全くわからない。ただただ彼女の後を追いかける。彼女が足を止めたので、僕もそれに習う。


 「前野くん、こういうのはどう?」


 彼女は胸ポケットが一つだけ付いた、シンプルな白のTシャツを指さした。


 「ま、まあ、いいと思う」


 「じゃあ決まり!次行こう!」


 それから彼女はズボンも選んでくれて、試着する。白いTシャツにオリーブのカーゴパンツを合わせる。シンプルだが悪くない。冴えない僕でも清潔感が出ている気がする。


 試着室から出て、二つとも購入することに決める。と、その前に、


 「尾花さんは何を買うの?」と聞く。僕だけ買ったのでは忍びない。


 「私はいいの!今日は前野くんの買い物をしよう!」


 会計が終わると、家電量販店に向かい、最新の家電やおもちゃを眺める。


 「私小さい頃これ欲しかったなあ」


 小さなウサギの人形に、そのウサギたちが暮らしているとされる鏡開きの西洋風の家屋が置いてある。


 「へえ、こうゆうの好きなんだ?ちょっと意外だな」


 「子供の頃はね。別に貧乏なわけじゃないんだけど、ピアノとかやらせてもらってたし、あんまり高いおもちゃは買ってもらえなかったのよ」


 値段を見て驚く。確かに子供用のおもちゃにしては高額だ。おそらく一つじゃ寂しいからもっと買わなきゃいけないことを考えると、結構な金額になると思う。


 一通り建物内を回った後、僕らはゲームセンターに移動した。彼女がやりたいと言ったクイズゲームをやる。正解数や回答の速さなどで得点が加算されるゲームだ。オンラインで世界中の人たちと競うこともできる。彼女は中々博識で、ランクは一番下だけど優勝することができた。


 「イェーイ!」とハイタッチをする。僕は今日、風呂に入らないかもしれない。


 ゲームセンターから出ると、もう日が暮れ始めていた。夕焼けが新宿の街を赤く照らしている。


 「ふー。結構遊んだねえ。日も暮れてきたし、初日はこれくらいにしておきますか?」


 「そうだね。夏休みはまだあるしね」


 新宿駅はすぐそこ。僕らは二人で並んで歩いた。駅の改札まで来ると、少し寂しい気分になる。


 「じゃあ私こっちだから」


 「あ、ああ、じゃあここで」


 「次は来週だね。カラオケかあ、緊張するなあ」


 「行ったことはあるの?」


 「ない!だから上手く歌える自信がなくて、少し不安。でも君の歌を聴いてみたいから行きたいと思うよ」


 僕もカラオケには行ったことがほとんどなかった。家族で行ったのは小学生の頃だから、僕も緊張して上手く歌えないと思う。でも僕も、彼女の歌を聴きたいと思った。


 「そっか。じゃあ次はカラオケに行こう」


 「そうしよう!」


 「じゃあまた新宿でいいかな?」


 「カラオケならどこでもあると思うから、次は渋谷に行かない?」


 渋谷か、行ったことないかもしれない。乗り換えで降りたことはあったと思う。


 「いいよ。じゃあまた渋谷に十二時で。ハチ公前でいいかな?」


 「うん。りょうかい」


 僕らは別々の方向に歩き出す。彼女の方をちらっと振り返ると、彼女はまだこちらを向いて立っていた。彼女は笑顔で手を振る。僕が手を振り返すと、また違う笑顔を見せて、走って階段を駆け上がって行った。


 新宿から電車に乗って帰宅する中、彼女のことを考えた。待ち合わせ場所で初めてみた私服姿、僕の服を選んでいる彼女、別れ際の笑顔。僕は動揺した。普段ならゲームのことやテレビ、ネットのことしか頭になかったのに、気がついたら彼女のことばかり考えている。頭がおかしくなりそうだった。僕は生まれて初めてこんなに楽しい時間をすごしたことがなかった。冷房の効いた車内で、僕は一人、じっとりと汗をかいていた。


 


4


 約束までの一週間、僕はすることがなかったので夏休みでも解放されている学校の図書室に通った。冷房も効いているし、何よりも、静かで居心地が良かった。司書の岬さんに挨拶をすませ、小説や新聞を読み漁る。生まれて初めて充実した夏休みを過ごしている気がした。セミの鳴き声が心地よく感じたのは初めてだ。いつも夏休みはゲームをするか読書をしているか、とにかくいつも一人だった。でも今年は違う。初めて友達ができた。それも異性の。彼女のことを考えるだけですぐに時間は過ぎていった。不思議な感覚だった。


 「よく来るね。一年生なのに偉いわ」と岬さんに声をかけられた。受験を控えた3年生らしき人たちが数人出入りしているが、夏休みに図書室に通う一年生は僕だけだろう。


 「え、あの、まあ」僕は相変わらずしどろもどろだ。




 約束の日、渋谷の街は人で溢れかえっていた。ハチ公前にも黒山の人だかりがあって、彼女を見つけられるか少し不安だった。僕はまたしても30分前についていた。炎天下の中彼女を待つ。


新宿での遊びを終えて一週間、僕は相変わらず彼女のことしか考えられなくなっていた。何をするにも彼女のことばかり頭によぎる。昨夜も不安と緊張で、何より彼女に会いたい気持ちが大きくて、ほとんど眠ることができなかった。


 12時45分、彼女が到着した。今日は黒いTシャツに黒いスカート姿だった。彼女はどうやら黒い服がすきらしい。真っ白な肌と相まってすごく似合っている。鼓動が早くなるのを感じる。


 「ごめんね、また待たせちゃったね」と彼女。


 「ぼ、俺もいま来たとこ」


 「そっか。じゃあカラオケいこっか!」


 渋谷のスクランブル交差点をわたり、センター街に入るとすぐにカラオケがあった。ドキドキしながら入店する。


 カラオケに友達同士で来るのは初めてだし、ましてや女の子とくることなんてあり得ない。


 受付に「ふ、二人で」と声をかけた。


 「二人ですか?」と訝しげな店員。きっと僕が挙動不審だからだろう。


 なんとか受付を済ませ、5番の部屋に入る。部屋はとても狭く、二人でも窮屈なくらいだった。彼女は僕のとなりに腰掛ける。心臓の音がマイクに拾われてしまわないか不安なくらい、どっくんどっくんと脈打っていた。


 「歌って?」


 彼女が僕にせがむように言う。僕は黙ってマイクを取ったが、何を歌えばよいかわからず、部屋の中央に置いてある端末に目を落とした。


 「私これがいい!これ歌って!」


 彼女のリクエストした曲を僕は知っていた。意を決して曲を入れる。イントロが流れ、備え付けられたミラ-ボールが光ってまわりだす。彼女を見る。派手な明かりに照らされている彼女はモニターを見ている。その光のせいか、彼女がとても輝いて見えた。


 勇気を奮い立たせ、歌う。声は上ずり、歌詞は間違えるし、自分でも音程が外れているのがわかる。それでも彼女は嫌な顔せず聴いてくれていた。


 一曲目を終えると、「次はこれね」とまた催促された。「君がうたいなよ」と言っても「私はいいの。君の歌が聴きたい」と押し通されてしまった。結局僕が5曲も歌う羽目になり、そこで時間となった。


 歌うと気持ちいいことを知った。聴いてくれると嬉しいことも。欲を言えば彼女の歌も聴いてみたかったが、またの機会でいいだろう。夏休みはまだまだある。


 僕らは小さなカフェに入った。アイスカフェラテを2つ注文する。目の前に置かれたグラスを彼女に渡した。


 「ありがとう」と彼女は短く答えた。


 「来週は何する?あと3週間もあるよ」と僕は彼女に尋ねた。


 「ごめん!来週はお盆だから帰らなくちゃいけないの」


 「そっか。じゃあ再来週は何をする?」


 「私、海に行きたい!」


 「じゃあ再来週は海に行こう」


 二週間も会えないのかと落胆したが、再来週は海に行くことになり、僕は高揚した。もしかしたら水着姿が拝めるかもしれない。僕は少し前かがみになった。


 このままでは店から出られないので他愛もない会話を楽しむことにした。テストの出来だったり、友達いない自慢を交互にいいあった。


 「学校が終わるまで一言も話さないで過ごしたことあるよ」


 「そんなこと当たり前よ。私なんて月曜から金曜まで話さないことだってあったわ」


 「班行動もいつもじゃんけんで負けたグループに配属させられた」


 「私なんて行事に一切参加しなかったわ」


 彼女はなかなか手ごわい。僕よりすごいかもしれない。気がつけば僕のグラスは空になっていた。




 あたりはすっかり暗くなっていた。


 駅まで一緒に帰り、


 「また再来週ね。再来週は朝の8時に新宿でまちあわせしよ!」


 「わかった」 


 改札まで彼女を見送る。途中で振り返り手を振ってきたので、僕もそれに合わせて手を振りかえした。




5


 友達も親戚もいない僕は、相変わらず一人で過ごした。宿題はあっという間に終わり、退屈な時間が流れた。僕は毎日のように学校の図書室に出かけた。中には今年受験の3年生たちが数人いるので、邪魔にならないように、いつも彼女が使っている端の席で本や新聞を読んで過ごした。新聞を読み漁っていると自殺した生徒の記事を見つけた。自殺した理由は不明らしい。この子が幽霊となってこの旧校舎にいると噂になっているのだろう。だが不思議と怖くはなかった。ただ死なないで生きていてくれたらと思った。死んでしまっては楽しいことや嬉しいことを体験することはできないだろうから。


 僕はいつの間にか毎日が楽しく思えるようになっていた。少し前までは、自殺した生徒のように自分の人生を終えてしまっても良いかと考えていた。でも今はそうじゃない。生きていたらこんな素敵なことに巡り会える。どんな形にせよ、僕はいまとても楽しい。




6


 今日は海に行く約束だ。新宿の南口改札でまた30分早く待っていた。また15分後彼女が到着した。


 「いつも早いね!待たせちゃった?」


 「いいや、俺もいま来たとこ」


 二人で電車に乗って江の島を目指す。僕は途中で駅弁を買って食べた。


 江の島駅に到着する。目の前には海が広がっていた。キラキラと水面が輝いている。


 無料の更衣室で着替えを済ませる。僕は更衣室から少し離れたところで彼女を待った。


 「おまたせ」


 彼女は黒のビキニ姿で登場した。漫画みたいに鼻血が出るかと思った。僕には刺激が強すぎる。


 「じ、じゃあ、い、いこうか」早速どもる。


 「うん!行こう!」


 彼女は僕の手を取り海へ走る。つまづきそうになりながら僕も走る。バシャバシャと飛沫を上げながら海へ入っていった。


 「つめたぁい!」と彼女。


 僕は股間に集中する血液をしっかり冷やさなくてはならなかったので、ちょうどよかった。


 波間にたたずむ彼女を、僕は中腰で眺めていた。


 僕らはふたりとも泳げない。だから足がつくところで延々遊んだ。僕が水を掛けて、彼女が笑う。それだけでもものすごく楽しい。


 しばらくして、疲れて来たので砂浜にレジャーシートを敷いて寝転んだ。


 隣を見ると彼女が笑顔でこちらを見ていた。


 「なんだよ~」


 「別に~」


 「あ、あのさ」


 「な~に?」


 「さ、桜って呼んでいい?」僕は喉から心臓が飛び出そうだった。


 「じゃあ私も勇気って呼ぶね」彼女もどこか恥ずかしげだった。


 「さ、桜」


 「勇気」


 「桜」


 「勇気」


 何度繰り返しただろう。日が沈み始めていた。


 波の音だけが静かに響く。得体の知れない気持ちがこみ上げてくる。僕は、沈みかけた夕日を見つめたまま、ずっと言えなかったことを口にした。


 「あのさ……実を言うと僕、小学生の時に、自分の保身で大切な友達を裏切っちゃったことがあるんだ。それ以来、人と関わるのが怖くなって。高校でもずっと一人で、このまま誰とも口を利かずに死んでいくんだって思ってた」

 それから僕の孤独だったことや、本当は友達がほしかったこと、今まで苦しかったことを全部吐き出した。

 彼女は何も言わず黙って聞いてくれていた。一通り話した後、彼女は優しく微笑みながら言った。

 「もう大丈夫だよ」

 僕は太陽が沈みきった暗い砂浜で、彼女を抱きしめようとした。でもやめておいた。彼女にだけは嫌われたくなかった。彼女はそっと僕の手に自分の手を重ねてくれた。それだけで僕は十分だった。

 僕は確信した。僕は彼女、いや桜が好きだ。この気持をどうにかして伝えたいと、素直にそう思えた。


 「そろそろ帰ろっか」


 「そ、そうだね」


 本当は帰りたくなかった。このまま二人きりでいたかった。誰にも邪魔されず二人だけで。


 僕は胸がいっぱいで、帰りの電車内ではほとんど会話できなかった。彼女も一緒なのかしばらく無言のまま電車に乗っていた。


 「そろそろだね」と彼女がいう。最寄り駅が近づいてきていた。


 「あのさ、来週は夏休み最後の週だよ。どこ行きたい?」僕は尋ねた。


 「学校。肝試ししよ!旧校舎の幽霊とやらを確かめに!」彼女は笑顔で答えた。


 「じゃあ何時にしようか?一番霊が出やすいのは夜中の2時らしいよ?」


 「じゃあ夜中の1時半に学校の前はどう?」


 「りょうかい」


 新宿駅に到着した。あとは別々の路線で帰るだけなのだが、帰りたくなくて、とにかく話を伸ばした。あの本がよかったとかあの映画がどうのとか、とにかく何でもいいから話し続けた。それを彼女は笑顔でずっと聞いてくれた。このままどこかに泊まりに行きたかった。でもそんなお金もないし、親にも怒られかねないので、泣く泣く解散した。帰宅した時、22時を回っていた。


 「こんな遅くまでどこ行ってたの?珍しいわね」と母。


 「ちょっと彼女とね」僕は少しだけ誇らしげに、見栄をはった。




7


 夏休みも終わりに近づき、ひぐらしが鳴くようになった。僕はあいも変わらず図書室に通い詰めていた。そのおかげか司書の岬さんとは随分親しくなった。


 約束の日の午後も僕は図書室にいた。


 「今日も調べ物?」


 「あ、はい。家にいてもひまなので」


 「私もこの学校の生徒だったのよ。まだ旧校舎使っていた頃の」


 「そうなんですか!じゃあ自殺した子のことも知っていますか?」


 「ええ、同じクラスだったの。物静かだったけどとても良い子だったよ。一緒に図書委員もやったの。でも一年生の時に亡くなってしまったからあまり話せなかったけれどね」岬さんは哀しい表情を浮かべた。


 「すみません、変なこと聞いて」


 「いいのよ。私こそ暗くなってしまってごめんさい。なにか聞きたいことがあったら気兼ねなく声をかけてね」


 僕は閉館ギリギリまで図書館にいることにした。帰りぎわ、僕は旧校舎の窓の鍵を一つ開けておいた。おそらく誰も気が付かないだろう。今夜はそこから侵入する予定だ。


 


 日付が変わった夜中の1時半、今日もいつも通り30分前に到着した。彼女も15分後にやってきた。


 「ごめんねいつも待たせて」


 「ううん。でも今日はちょっと怖かったよ」


 「どこを目指そうか?やっぱり図書室?」


 「そうだね。まずは図書室に行こう」


 午後図書室に行った時にあらかじめ鍵を開けていた窓から侵入した。うまくいった。持参した懐中電灯を片手に二人で恐る恐る夜の校舎を歩く。恐怖とワクワクが入り混じって二人して笑みがこぼれている。


 「噂は本当かしら?」


 「何が出ようが僕が桜を守るよ」


 「あ~僕って言った」


 「言ってないし」


 「言ってたもん」


 「言ってない」


 「ふふ。でもありがとう。頼りにしてるね!」


 真っ暗の校舎を二人で歩いた。恐怖よりも楽しさが勝っていた。あっという間に図書室に着いてしまった。


 「意外とあっけなかったね。そうだあの桜の木の下に行きましょう!生徒が首を吊ったっていう」


 彼女のほうから言うとは思わなかったので、僕は驚いた。正直行きたくはなかった。なんとなく行っては行けない気がしていた。躊躇する僕を横目に、さっさと彼女は行ってしまった。仕方なく僕も後を追った。




 僕らは例の桜の木の下に着いた。彼女が口を開く。


 「あ、あそこにロープをかけた跡が見えない?」


 太い枝になにかを縛り付けたような跡があった。


 「もう気がついているとおもうけど、私ね」嫌な予感がした。


 「もう桜の木はいいよ!それよりももっと違うところ探索しようよ!」


 「ううん、もういいの。それよりも私の話聞いてくれないかな?」


 「いやだ。何も聞きたくない」僕は必死だった。


 「お願いだから。一緒に出かけた時、私だけ注文も聞かれないし、一人分の料金だったり、恥ずかしかったでしょ?」


 僕は涙が止まらなかった。恥ずかしくなんてなかった。ただ一緒にいられるだけで良かった。


 「ここで自殺したのは私。高校生で友達も居なくて、寂しくて。いじめられたわけじゃなかったんだけどもういいかなって。今でも後悔してる。だからあなたにこの後悔を消してほしかったの」


 「なんで僕だったの?」喉が絞まる。やっとの思いで声を出す。


 「最初はあなただけが私に気づいてくれたからだった。でも話しているうちに私と似ているなって。そう思ったら嬉しくなって。勇気なら私といっしょに遊んでくれると思ったの」桜は続ける。


 「私は十分楽しんだから、勇気は現世の人と仲良くして。私のことは忘れてほしい」


 「なんで?僕は、本当に桜のことが好きなんだよ。桜は僕のこと嫌いになったの?」


 「ううん、私も勇気が好き。遊んでいるうちに本気でそう思った。本気で思ったからこそ私といっしょにいちゃいけないんだって気がついたの」


 「そんなの勝手すぎるよ。別に幽霊だって構わない。僕が死んだらいいの?そしたらずっといっしょにいられる?」


 「だ~め。勇気は私の分までしっかり生きるの。私も成仏しますから。生まれ変わったら一緒になろう?」


 「いやだ。僕も死ぬ。桜と一緒じゃなきゃ生きていけないよ。」


 「いっぱい遊んで、勇気に恋して、願いが全部かなっちゃった。だから今度は成仏して生まれ変わるの。お別れじゃないよ。生まれ変わってきっとあなたに会いに行く。それまで待ってて」


 「そんなの無理だよ。待つなんてできない。まだやりたいことあるでしょ?秋になったら紅葉を見て、冬になったらクリスマスパーティするんでしょ?春は桜の誕生日会するんだ。まだ成仏するのは早いよ」


 「ううん、もう十分満足したの。私は勇気という人に出会えて本当に良かった。悲しい思いをさせてごめんね。でも勇気はこれからいっぱい友達を作って、いっぱい遊んで、恋人が出来て、結婚して子どもを産むの。私の分まで幸せになって。でも変な女に引っかかったら承知しないから」


 「君以上の人なんていないよ」


 「そんなことない。勇気はとても素敵な人よ。私が好きになれた人だもの。もうすぐ日が昇る。そうしたら本当に消えちゃうから、最後くらい笑顔で別れましょう」


 「いやだ。別れるなんて言わないで。ずっとそばにいて。おねがい!」


 「私を好きになってくれてありがとう。私も勇気のことが好き。だからこそさよならを言いたかった。私のことは忘れて幸せになってね」


 彼女は困ったように、でもこの世の何よりも美しい笑顔で僕を見た。


 ああ、そうか。僕がすがりついたら彼女は安心して逝けないんだ。僕は彼女の最後の願いすら邪魔しようとしているのか。


 僕は必死に、ひきつった頬を無理やり上げて、不格好な笑顔を作った。


 「……わかった。約束する。君の分まで、絶対に幸せになるよ。だから……」


 だから、安心して。


 僕がその言葉を口にしたとき、桜はもうどこにもいなかった。


 朝日が目に染みた。もう当分こんな気持ちになることはないだろう。でも約束は果たそうと思う。桜の分まで幸せになろう。




8


 「一緒にお昼食べない?」


 僕は教室で固まっている一団に声をかけてみた。


 一瞬驚いた顔を見せたが、


 「いいよ!食べようぜ!」


 意外にもすんなり受け入れてくれて、それから彼らと行動をともにするようになった。


 部活にも入ることにした。運動は苦手だから軽音楽部に所属することにした。初めてのギターに苦戦したが、おかげで新しい友達も増え、文化祭でライブもした。歌うのは恥ずかしいけど、やっぱり聴いてもらえるだけでも嬉しかった。

 僕はこの高校生活の3年間で、少しだけ変わったことを実感していた。


 「前野、卒業式の後部室これるか?打ち上げしようと思っているんだ」

  「ああ、ちょっと図書室に寄ってから行くよ。先に行ってて」

 

 教室を出て、渡り廊下を歩く。向かう先は旧校舎の図書室だ。今日は卒業式だから最後に借りた本を返却しにいかなければならなかった。僕は友達ができた後も、あの静かな図書室に通っている。

 「こんにちは、岬さん。本、返しに来ました」

 受付に座る司書の岬さんに本を渡す。

 「あら、前野くん。卒業前なのに偉いわね。……今日も軽音部の練習?」

 「はい。その前にちょっと寄り道です」

 岬さんは返却処理をしながら、ふと手を止め、どこか懐かしむような目を向けた。

 「前野くん、本当に変わったわね。一年生の時は、いつも一人で怯えたような顔をして、あそこの奥の席に座っていたのに」

 岬さんの視線の先には、一番奥の左端の席があった。僕が桜と出会った場所だ。

 「……ええ。ある人のおかげです」

 思い切って、僕は口を開いた。今まで誰にも言えなかった桜のことを、岬さんになら話してもいいような気がした。

 「実は、一年生の夏休みに――」

 僕が訥々と語る不思議な体験を、岬さんは途中で遮ることもなく、静かに聞いてくれた。そして、話し終えた僕に、優しく微笑みかけた。

 「知っていたわよ。私も、あの子の姿は見えていたから」

 「え……?」

  「私にも見えていたの。でも、特に害はなさそうだったから、そのままにしていたのよ。……桜さん、あなたと出会えて本当に嬉しかったんだと思うわ」

 岬さんは、誰も座っていない一番奥の席を愛おしそうに見つめながら言った。

 「あなたが図書室に来るようになってから、あの子、ずっと笑顔だったもの」

 

9


 僕は大学生になり、恋人ができた。桜とは正反対で、友人がたくさんいる、活発で社交的な人だ。


 僕らは大学を卒業して1年後に結婚した。数カ月後には子どもを授かった。女の子だった。大きくて切れ長な目をしている。いつか満開の花のように笑ってほしいという願いを込めて、僕は彼女に「咲」と名付けた。


 数年後、休日の昼下がりにふと思った。

 リビングにはテレビのアニメが流れていて、キッチンからは妻が洗い物をする水音が聞こえる。5歳になったばかりの咲はお絵かきしながら時折テレビを見て遊んでいる。

 僕は、あの日桜と交わした約束をちゃんと果たせたんだと感じた。何気ない日常が、心の底から幸せに思えたからだ。


 そんなことを考えていると、咲がとことこと僕に近寄ってきた。赤ちゃんの時から変わらず、きれいな切れ長の目をしている。


 「私ね、お父さんの子どもになったこと少し嫌なの」


 僕は驚いた。もう反抗期が来てしまったのかと思った。まだ5歳だぞ。いくらなんでも早すぎる。


 「だってね、お父さんの子どもだとお父さんと結婚できないんだって。そんなの嫌だよ」


 かわいいことを言うじゃないか。僕は喜びを噛み締めながら、抱き寄せる。咲に見られないようにそっと涙を流した。


 耳元で咲が言う。


 「今度はずっといっしょだよ」

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