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秋雨

榊慎

掲載日:2026/04/03

本作は短編「秋雨」の関連作品です。先にそちらを読んでいただくと、より深くお楽しみいただけます。

 榊先生の担当編集となったのは、もう二年前のことだ。


 先生は二十年以上と、長くうちで執筆してくださっている。

 その間、一度たりとも締切を破ったことがない。


 編集のことも無下に扱わず、必要とあらば対話をする。――普通のことのようでいて、そうされない先生方も多い。


 榊先生の担当は、「当たり」と言われる。

 その当たりを引いた僕は、二年の間同僚に羨ましがられている。


 榊先生は、静かだ。

 穏やかという語の朗らかさはない。寡黙というのも違う気がする。

 話題があれば話すし、それを厭うているようにも見えない。


 ただ、静か。


 そのせいか、担当編集をしていても、僕は先生のことを断片的にしか知らない。


「先生は、どんな子供だったんですか?」


 小説の中で主人公の幼少期に触れる場面があったため、訊いてみた。


「そう面白いものではない。今と似たようなものだ」


 その答えに、「今の先生と同じような子供は、なかなか珍しいと思いますけどね」と苦笑した。


 しばらくして、前担当から先生は複雑な幼少期をお過ごしだったと聞いた。

 小学生にもならぬ頃にご両親は蒸発し、お祖母さんに育てられたそうだ。

 お祖父さんは早くに亡くなっており、お祖母さんと二人きりで暮らしていたという。


 前担当がそれを知ったのは、お祖母さんが亡くなったときだった。

 諸手続きがあるので、もしかすると締切に遅れるかもしれないと事前連絡が来た。

 その際に「葬儀などを任せられる者が居ないから」と聞いたそうだ。


 僕は先生ではない。それが、つらいものだったと決めつけることはできない。

 ただ、僕だったら寂しいと感じた。


 担当ということもあり、先生について知ろうとしたことがある。 

 目立った成果は得られなかったが。


 数少ない成果を挙げるとすれば、先生は珈琲がお好きだ。

 しかし、希少性や価格にこだわりはない。


 ただ、「これはおいしい」「これは趣味ではない」と分別しているようだった。

 有名な珈琲店であれ、近所の喫茶店であれ、同様に楽しまれている。……楽しむ、という言葉はあまり似合わないが、味わわれているようだった。


 様々な店をご存知なので、よく喫茶店を開拓されるのか尋ねたことがある。

「特段、意識したことはない」と返された。


 雨を避けるためや休憩のため、適当な喫茶店に立ち寄ることはあるが、通う店は知人に教えてもらった場所が多いそうだ。


 あとは……動物にはさほど興味がないみたいだ。


 まだ担当になりたての頃、静かな先生に対し何を話せばいいか分からずにいると、窓の外を猫が通った。

 先生の瞳がそれを追った気がしたので、質問した。「猫はお好きですか?」と。


「嫌いではない。ただ、一概には言えない」


「一概には言えない、とは?」


「……猫にもいろいろな者が居るだろう。器用な者も居れば、頑なな者も」


 猫を者と呼ぶ。まるで、見知った誰かのことでも話すかのような口ぶり。

 それはどこか、先生らしさを表していた。


 先生との印象的なやり取りは、他にもある。


 出版の際、様々な事柄をご報告したり、ご相談したりする。

 装丁についてや、営業についてなど、様々だ。

 そういったとき、先生はよほどでなければ否とは言わない。


 本当に大丈夫か、と訊いた。答えはこうだった。


「私は読み書き専門だ。そういう、言語を超えた部分については、専門家に任せるよ」


 その言葉を聞いた装丁家の方は、ほっと肩を撫で下ろした。


「よかった、『外見などどうでもいい』というわけではないのですね。たまにそういう方もいらっしゃるので」


 それに対し、先生はわずかに視線を上げた。


「……『初めて手に取ったときは、表紙を見たはずだ』だったか」


「えっ?」


 僕の反応に、先生の瞳はこちらを向いた。


「古い知人の言葉だ。『どんな話なのかは装丁から伝わる』と語っていた」


 ――だから、専門家である君たちに頼むよ。手に取ってみたい本にしてくれ。


 先生の言葉に、責任と、やりがいを感じた。


 とにかく、僕は榊先生を尊敬しているし、今後も共に仕事がしたい。したいと、思っていた。

 


 ある日、榊先生から「頼みがある」と連絡が来た。


 そんなことは初めてだったので、「僕にできることならなんでもします!」と答えた。

 電話越しでも、苦笑しているのが伝わってきた。


「入院することになってね。執筆は病院でも行えるから問題ないのだが、打ち合わせの際に遠出するのは好ましくないらしい。次の打ち合わせの場所を変えてくれないか」


「それは、構わないですが……入院って、どうされたんですか?」


 どくどくと心臓が鳴る。握られているのかと思うほど痛い。ひどく、うるさい。

 電話の向こうの声がきちんと聞き取れているか、不安になる。


「病気だよ。少し調子が悪かったから病院に来てみたら、入院を言い渡された。最低限の荷物は持ってきているから安心してほしい」


「少しとは、どのくらいでしょうか。検査入院、とかですかね」


 先生は『調子が悪かったから』とおっしゃっていた。

 それでも、僕は藁にも縋りたかった。安心できる返答が欲しかった。


「――と診断されたよ。詳しくは、今度会ったときに話そうか。あぁ、上司や前任の担当に伝えても構わないよ。今後のスケジュールについて相談もあるだろうからね」


 それでは、と通話が切られた。たぶん、僕がまだ混乱しているからだ。

 冷静にさせるために、また今度とおっしゃった。


 スマホを強く握り、床にへたり込んだ。


 出版社内の自動販売機の真横だ。

 小さなフリースペースとでもいうのか、飲み物を飲んだりちょっとした電話をするのに使われている場所。


 ぎゅうと握り込んだスマホを、額にトンとぶつける。


「……あぁ」


 意味もなく声が溢れる。心の揺れが、そうさせる。


 死に触れて来なかったわけじゃない。


 物語の中ではしょっちゅう。

 現実でも、年老いた親族や事故にあった知人の葬式に出たこともある。


 だけど、まさか榊先生が。そう思ってしまうのだ。


 床に座り込んでいると、先生の前担当である先輩に声をかけられた。


「どうした?」


「先輩……」


 僕の様子を見た彼は、「とりあえず」と近くの空き会議室に僕を連れていき、椅子に座らせた。


「ちょっと待ってろ」


 そう言って部屋から出ていく彼の背中を見送る。

 考えがまとまらず、ぼうっとしていると、先輩が戻ってきた。

 手には、二つの缶珈琲。


「お前はブラック駄目だったよな?」


 手渡されたそれが、ひんやりと僕の熱を奪う。

 自分の身体がここに在るのだと示されるようだった。


「はい、ありがとうございます」


 先生に同行して喫茶店にはよく行くけれど、僕はブラックが苦手だ。

 初めての打ち合わせのとき。先生に合わせてブラックを頼んだ。

 だけど好んでいないことが、すぐにバレてしまった。


「君と私は、編集者と作家だ。珈琲の趣味が合う必要はない。君は、君の好きなものを飲むといい」


 そう言ってくださった。

 ご好意に甘えて、僕はミルクと砂糖を足したのだった。


 鼻先をくすぐる珈琲の香りが、先生との時間を思い出させる。

 先生の状態は、どうなのだろうか。


 先ほど、もっとしっかり聞くべきだった。

 音にならない声が漏れる。ドロリとした沼に溺れてしまいそうだ。

 握りしめた缶珈琲だけが、僕をここに繋げていてくれている気がする。


「で、何があった」


「あ……」


 先輩は、いつもは向かいか斜め前に座る。「同性だろうがなんだろうが、ハラスメントだなんだって怖いからな」って。

 そんな彼が、僕の隣にドサリと腰を下ろした。


「榊先生が……」


「榊先生が、どうした? まさか、倒れでもしたのか?」


「いえ」


 倒れたわけじゃない。でも、それに近いことは起きている。

 榊先生に伺ったことをそのまま伝えると、彼は「そうか」と何かを噛み締めるような顔をした。


「でも、どのくらい進行してるのかとか、ありますよね? 先日お会いしたときは元気そうでしたし」


 先輩の苦い顔に、思わず言った。

 気がつけば口をついていた言葉に、自分で希望を見た。


 先生は打ち合わせの件にしか触れていない。

 仕事を打ち切るだとか、そんな話はされていない。


「そうだな。実際に聞いてみないと分からない。もちろん、繊細な事柄だから気をつけて」


 先輩はそう言って、僕の背中を軽く叩いた。

 その手のひらは僕を元気づけるためのものだったが、瞳には何か迷いが感じられた。


「先輩……? どうされたんですか?」


 さっきとは違って、僕が訊く番だった。


「――何も知らんよか、いいか。先生の代表作があるだろう? お前が好きだと言った、あの作品だ」


「はい。先輩がご担当だった……」


「あの作品のな、単行本の装丁をされていた先生が、同じ病気で亡くなられている」


 驚きで、息を呑む。

 先輩は、僕を落ち着かせるようにトントンと背中を軽く叩きながら続ける。


「その方――相良秋先生と榊先生は、高校からの付き合いだったそうだ。俺には、信頼し合ってるように見えた」


 だから、ご本人もショックを受けてるかもしれない。

 そう話す先輩はどこか、痛みを堪えるようだった。

 


 その後、珈琲を飲み終えるまで先輩は付き添ってくれた。


「ありがとうございました。……ゴミは、僕が捨てておきます」


 頭を下げると、その頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜられる。


「先輩、座る場所だけじゃなく、そういうのもハラスメントって言われるんですよ」


「お前……怖いこと言うなよ」


 まったく、と呟きながら、先輩は廊下を歩いていった。デスクに戻るのだろう。

 僕も、缶を捨てて席に戻ろう。


 ゴミ箱に缶を入れる。カコンと音がする。

 同時に、スマホがぶぶっと振動した。


 ポケットから取り出して画面を見ると、先生からだった。

 入院している病院についてのメッセージだ。


 それに対し、明日お見舞いに行きたいと伝える。

 断られるかもしれないと緊張したが、すぐに了承の旨が届いた。


 

 太陽が真上を過ぎる頃、病院に着いた。

 見舞いには花束を持ってきた。

 何か好きなものを、と考えても、僕は珈琲しか知らないから。


 だがその花束も、病院の受付で「持ち込みを禁止している」と伝えられた。

 感染症防止のためだ、と。


 花束は看護師さんが処分してくださるとのことだったので、お願いした。

 結局手ぶらでの見舞いとなってしまった。


 病室番号は聞いている。

 個室が取れたのだと、だから遠慮はしなくていいと、メッセージに書いてあった。


 ノックしようと右手を握ると、細かく震えていた。

 息を吐いても止まらない震えをそのままにして、コンコンと音を鳴らした。


「どうぞ」


「失礼します」


 扉を開けると、病院着の先生がベッドに座っていた。

 パソコンを開いている様子から、原稿を進めているようだ。


 その姿で改めて、本当に入院されているのだと実感した。


「先生、その……」


「まずは中に入って、座るといい」


 勧められるがままに座った。先生の顔を見ることができず、俯いてしまう。

 僕がこんなでは、駄目なのに。


 顔を上げると、先生と目が合った。

 いつもと変わらない、静かな空気を纏っている。


「病状について話そうか。医師の話では――」


 要約すると、難しい状態らしい。

 少なくとも手術が必要で、その後も投薬と通院を続けることになる。


 ショックだった。けど先生は、僕以上に衝撃を受けたはずなのだ。


「でも、きっと大丈夫ですよ。いまは医学が進歩していますし……」


 月並みな励まし。もっと、お伝えする言葉を考えてくればよかった。

 膝の上で握り込んだ拳に力が入る。爪が手のひらに食い込むのを感じた。


「そうだな。だが、どうするかは選ばねばならない」


「選ぶって……何を?」


 治療法だろうか。

 でも、いま聞いた話からすると「選ぶ」ほどの手段はないように思えた。

 その場合、「どうするか」という言葉はふさわしくない。まさか――


「もしかして治療をされないおつもりですか!?」


 大きな声が出た。病院には似つかわしくない。

 だけど、そんなこと気にしてはいられなかった。


「するにしても、しないにしても、だ。こういうときにすぐに決められるほど、自分が確立されていないと知ったよ」


 いい歳をして、恥ずかしいものだ。

 そう言う先生の顔に恥ずかしさなど欠片も浮かんでいなかった。


 僕はただ、呆然とするしかなかった。

 口を開けては、閉じた。

 何を伝えればいいか。どうやって、何を言えばいいか。


『生きてください』

『これからもあなたの小説が読みたい』


 ありきたりな台詞じゃ、先生には響かない気がした。

 そんな僕に対して、先生はゆっくりと紡いでくれた。


「特段、自ら死に向かいたいわけじゃない。ただ、苦しんでまで生きると貫くほどの意志もない」


「それは……ご友人のことも、関係しているのですか」


「友人?」


 先生は不思議そうに訊く。

 誰の話だ、と言うように。


「装丁家の、相良秋先生です。先生と同じ病気で、亡くなったと……」


 先生は目を見開いた。そして、くつくつと笑い始めた。


「あいつも、同じ病気だったのか」


 そんな偶然があるものか。

 零すように漏れた声は、どこか楽しげな音を含んでいた。


 この人は、こんなふうに驚いて、こんなふうに笑うのか。

 こんな状況なのに、その珍しさに気を引かれた。


 静かな先生の、人間らしさが溢れていた。


「――悪いが、少しだけ席を外してくれないか」


「えっ?」


「小説が書きたくなった。そこに居てくれてもいいのだが、暇だろう」


 いや……と、少し考え込む様子を見せてから、僕と目を合わせた。


「やはり、今日はもう帰ってくれても構わない。何、また連絡する」


 それだけ言うと、僕から目を離し、パソコンに向き合った。

 先生の中から、僕という存在がぽつねんと消えてしまったようだ。


 先生からそんな扱いをされたのは、初めてだった。


 カタカタとキーボードを叩く音と、カチカチと時計の針が進む音。

 僕はそれらに身を委ね、ただ先生を見守った。


 何時間、経っただろう。

 窓の外が橙色を通り越して濃紺となり、近くの小学校の鐘の音が響いた。


 先生の手が止まる。


 どこか満足げに上がった口角に、「あぁ、また初めて見る先生だ」と思った。


 先生はそこで、僕に気づいた。僕の存在が、彼の中でもう一度生まれる。


「まだ居たのか。――仕事は?」


 自分のところで長く時間を使って大丈夫か。そう心配してくださった。


「今日は先生のお見舞いに来るので、午後は空けておいたんです」


「そうか。それは悪いことをしてしまったな。そろそろ面会時間も終わる。無駄な時間を使わせてしまった」


「無駄だなんて! そんなことありません! 敬愛する榊先生の執筆を共に過ごさせていただいて、光栄でした」


 “敬愛する”だなんて、普段使わない言葉。口が滑ったとしか、言いようがない。

 かぁっと顔が赤くなる。


 それに、共に過ごすも何も、先生の時間に僕は居なかったじゃないか。

 自己嫌悪とも内省ともつかない感情が、心を揺らす。

 頭を上げたり下げたりする僕を、先生はただ受け止めてくださった。


 だから、仮に響かなくても、受け止めてくださるのではないかと。

 そう思って、言葉を紡ぐ。


「すみません、あの……僕、先生のこと尊敬してるんです。先生の話も好きです。だから……」


 だから生きてほしいんです。

 伝えようとした言葉は、先生の瞳の奥の、揺るがない静寂に飲み込まれた。


 もう、決まっているのだと分かった。


 僕がなんと言おうと、それがどう届こうと、僕の意思は介入できないのだと感じた。


 視界が揺れる。歯がカタカタと鳴る。


 どうしよう、先生が死を選んでしまったら。

 こわい。震えが止まらない。

 そんな僕に、先生は声をかけてくれた。


「――先ほどの言葉を訂正しておこう。治療を、受けようと思う」


「本当ですか!?」


 またも、声を張り上げてしまった。

 しかし先生は顔を顰めることもなく、続けてくださった。


「書きたい物語ができた。私は天才ではないが、本物の作家ではあるつもりだ。作品を書き上げる義務がある」


「先生は、天才です。天才で、本物の作家です」


 本音だ。先生の作品は、たしかに派手に売れる作風ではない。

 でも人の心を惹きつけて止まらない。少なくとも、僕の心は縫い留められた。


「ありがとう」とも「そんなことない」とも言わず、先生は続ける。


「タイトルは“シュウウ”。“秋の雨”と書いて、秋雨シュウウ。一人の男が生まれ死ぬまでの、輝きと絶望の話だ。第一話は書き終えた。といっても、まだ荒いものだが。中身を確認して、君のところで出せるか掛け合ってくれないか」


「……っ! もちろんです!」


「では、データを送るよ。――ここで読んでもらうには、時間がない」


 先生の視線の先にあるのは、病室の時計だ。もう面会時間が終わっている。いつ追い出されてもおかしくない。


 持ってきた鞄を抱きしめ、先生に何度もお辞儀する。

 部屋を出るときにも頭を下げたら、扉に頭をぶつけてしまった。


 ガツンと打った頭を撫で、急ぎ足で出入り口を目指す。


 会社に戻らなくちゃ!

 戻って、読んで、上司を説得する。


 これは、先生を生かすためではない。

 先生があんな顔をするなんて、絶対に最高の作品になると信じているからだ。


 僕は、編集者だ。

 読み書き以外の部分については任されている。

 先生の作品を届ける役目を、任されている。


 ポケットで、メッセージが届く音がする。早速データを送ってくださったのだろう。

 どんな話だろうか。どんなふうにプロデュースしようか。


 少しだけ、思った。もしも、相良秋先生が居たらどんな装丁に――。


「考えても、仕方ないよな」


 榊先生が望むかも分からない事柄に、そしてもう叶わない事柄に頭を使ってもどうしようもない。

 病院を出ると、空には月が昇っていた。


「仲秋の名月だ」


 一年で一番月が綺麗なこの日に、秋を冠する物語を出すと決めた。

 それを書き切ると決めた。


「助からないわけがない、だろ」


 声が震える。拳もまだ握ったままだ。頬だって、わずかに痙攣している。


「本物の、編集者なら」


 意地を見せろ。

 両手でパンと頬を叩く。衆目を集めたようだが気にしない。

 駅に向かって駆け出した。編集長を口説く文句を考えながら。


 *


 雨が降ってきた。

 雨宿りしようにも、この近くには何もない。


 以前は喫茶店もあったが、ちょうど昨年閉店した。

 良質な珈琲豆を使っているので少し値が張るが、その分学生がおらず静かなため、重宝していたのだが。


 先ほど、編集者から連絡があった。最終話の最終稿が通ったという報せだ。

 ここから先は、言語以外の領域となる。


 ――私の仕事は終わった。

 さて、この後はどうするか。


「手術や治療の経験が何かを生むかと思ったが、そうもならなかったな」


 命をかけた出来事ならば、何か着想を得るかと思っていたのだけれど。


 小道から、にゃあ、と猫の鳴き声がした。

 どうやら彼は、雨に濡れない道を知っているようだ。


 私は猫ではないので、彼を追うことはできない。しかし――


「雨に濡れ続ける必要もない、か」


 もう病院に通う理由もないと、来た道を振り返る。


 家に帰って珈琲でも淹れよう。趣味に合う、いい珈琲がある。

 灰色の空の下、珈琲の香りを思った。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます!

「いいな」と思っていただけたら、【☆☆☆☆☆】をぽちっとしていただけると、励みになります!

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