宇宙レストラン
宇宙創生の日はいつも突然にやってきます。ドークはいつもいつも、その小さくてキラキラとした宇宙を眺めて、手をかざして、うっとり見惚れていたのです。ああ、綺麗だなあ、と。眩く輝いて、儚く消える、生命を象徴するかのような星々。その集合で生まれる光の川はきっと、一生をかけてもあれ以上のものは見られない。なんとなく、宇宙に魅了される人の気持ちが分かった気がしました。やがてドークは学校へ行く時刻になり、慌てて牛乳を胃袋に流し込んでから支度をするのでした。
ドークは学校の授業をいつだって退屈に感じていました。どうしても、宇宙のことが脳裏にへばり付いて離れないのです。あれを知っていながら、どうして学校の授業を楽しめようか、と大変窮屈な思いを胸に抱えていました。今日は、道徳の授業がありました。
「つまりは、この主人公の男の子は同級生に母親を馬鹿にされた怒りで、衝動的に殴ってしまったわけだが、皆なら、この男の子はどうすればよかったか、分かるか」
優等生のマグネットは胸を張って手を挙げました。
「先生に言いつけます。先生なら、悪い人を正しく怒ってくれるからです」
ドークは眉をひそめて訝しみました。
「じゃあ、先生がいなかったり、協力してくれなかったらどうするの」
「はあ?」
マグネットは顔を真っ赤にしながらドークに振り返りました。
「先生はそんな酷いことしないだろ。それに、発言するときは手を挙げなきゃいけないのに、なんで挙げずに発言してるんだよ」
マグネットの頭から、蒸気が出ているような音が聞こえた気がしました。ドークは自らの率直な疑問を口にしたばかりのつもりだったので、予想外の出来事につい口ごもってしまいました。
「いや、でも......」
「ドーク、君が許可を得ず発言をしたことは確かだ。改めるように。それと、先生は決して苦しむ生徒を裏切るようなことはしないよ。約束するから、な?」
マグネットはほら見ろ、と言わんばかりにドークを睨みつけました。ドークは喉笛の絞まる感覚に襲われ、胸が熱くなりました。
授業が終わった後に、悪戯っ子のローネルがドークの元へずかずかとやって来ました。
「お前、怒られてやんの。変なこと言うからだよ、『ヘンジン』くん」
「うん。そうだね。やっぱり学校じゃ黙っておいた方が良いや」
「......つまんねえの。そんなんだから『ヘンジン』なんだろ、この変人!」
ローネルは、マグネットのように顔を真っ赤にして校門を出て行きました。今日は二人も怒らせてしまいました。その事実をドークは噛み締めながら、やはり学校は厭だなあ、と耳の穴をほじるのでした。帰路につき、往来を独りで歩いていれば、やがてドークは自らの思案に耽るのでした。ドークはこの時間が好きでした。胸の辺りで宙吊りになっている名前のない感情を、パズルのように整理すると、すうっと気分が良くなるのです。やがてドークの隣人が育てている蜜柑の匂いがしてくる頃、ドークはハッとして家の鍵を鞄の中からがさごそと探すのでした。
ドークが宇宙を嗜む際、一つ約束がありました。父との約束でした。『絶対に宇宙に触れてはならないよ』ですって。ですから本来、宇宙を触ってはならなかったのですが、しかしドークには好奇心が抑えられませんでした。ぞくぞくとした背徳感にうなじをくすぐられながら、目の前の宇宙を触ると、それはとてもひんやりとしていました。たちまちかの宇宙は光り輝いて、ドークはそれに呑まれてしまったのです。『変な子』、『冷たいね』、『嫌なこと言うね』、『そんなのは野暮だよ』。そんな言葉達が暗い世界の中で光って届きました。『そっか』、『そうだね』、『もしかしたら』、『きっと』。暗い世界の中で、今度はドークの頭から言葉達が響いてきました。ドークは目を閉じてもっと深い、深い黒の世界へ潜ります。そうすれば、たちまち、深い、深い......眠りへ......。
気が付けば、ドークはレストランの受付のような場所に突っ立っていました。
「お客様、お一人様でよろしいデスか?」
ドークは慌てて、勢いのままに言いました。
「えっと、はい、そうです」
「かしこまりマシタ。此方へドウゾ」
目の前の、おそらく店員でありましょうが、しかしその見てくれはなんと猫であるのでした。どうにも怪しい雰囲気でありましたが、しかし他に行くあてもないのでドークはその猫に付いて行くことにしました。
「当店は少々特別でゴザイまして、相席で飲食ヲしてイタダクことになってイルのです。ですから......」
案内された席には既にスパゲッティを食べている女性、マーマノッドが座っておりました。ドークはされるがままにマーマノッドと向かい合う席に座りました。
「ソレでは、ご注文は如何致しましょうか」
「えっと......」
突如知らないレストランで食事をするとなっても、ドークには何を頼んだら良いか分かりませんでした。マーマノッドはそれを察したのか、微笑みながら言いました。
「自分の好きなものを頼めば、何でも出してくれるんですって」
猫も便乗して言いました。
「ソノ通り。サア、お好きな注文をどうぞ」
その時、ドークの頭にふと浮かんだのは、オムライスでした。それはただのオムライスではない、かつて亡くした母のオムライスであったのです。
「それなら......お母さんの、オムライスを食べたいです」
「承知しまシタ。少々お待ちクダサイ」
予想よりも普通の返事が返ってきたもので、ドークは拍子抜けして少し肩の荷が下りたのでした。右手側に見える窓の外は真っ暗闇にぽつぽつと光の粒が点在する、硝子が砕け散ったような、そう、まさに宇宙の光景でした。それを見てすっかり心躍らせ気分を良くしたドークは、椅子から地面につかない足をぶらぶらと興奮した犬の尻尾のように露骨に揺らすのでした。
「宇宙がお好き?」
「うん」
「やっぱり」
「どうして、分かるの」
「あなただってきっと同じ。宇宙に触れてしまったのでしょう」
ドークはぎくっとして顔をこわばらせました。揺れていた足が机の下で静止しました。
「叱ろうとしているわけじゃないわ。宇宙に触れてここに来たのは私もそう。この前に相席した人もそう。その前の人も、さらに前の人も」
「......僕、もう帰れない?」
「分からないわ。一日で帰っちゃった人もいれば、三年前からいるのに未だ帰れない人もいるらしいの」
ドークは青ざめて不安になりました。背筋を冷えた小鼠がするする伝っていくような、気味の悪いものを覚えて、もはや帰れないのかもしれない、と。そこで丁度オムライスを持った猫がやって来ました。ケチャップの良い匂いがその一帯を色付け、ドークの鼻腔をくすぐりました。そして、ドークにはすぐに分かりました。
「本当に、お母さんの......」
「サテ、ご注文頂いた品は、以上となりマスが、飲み物は要りませんか」
「ああ、すみません。えっと、水で」
「承知しまシタ」
白銀のスプーンを握るドークの手は震えていました。頼んだのは自分なのに、妙に緊張しているのが何だかおかしくなって、ドークの口角はぴくぴくと上がりかけていました。掬ったオムライスを恐る恐る口に入れると、ドークの眼からどくどく涙が溢れてきました。マーマノッドは慌てて宥めました。
「大丈夫よ、そんなに泣かないでも、ここには食べ物だけじゃなくて、ご本だってあるから、ああっそれと他にも......」
「いや......違うの」
「違うって、何が」
「それで泣いてるんじゃなくて」
「なら、どうして」
「分からない......」
ドークがぼろぼろと訳も分からず泣きじゃくっていると、やがて猫がやって来ました。
「お待たせシマした。こちら冷水......と、手巾ヲどうぞ」
ドークは昔から泣いた後は疲れてぐっすりと眠ってしまうのですが、しかし不思議なことでここでは全く眠くならないのです。泣き腫らした目を重く開きながら、ドークは何も考えられずにいました。今いる場所も、出てくる味さえ、信じられないことばかりなのですから。申し訳程度に渡された本は、最初のページから一度も捲られることなく、ただ彼の涙が滲んでいるだけでした。猫から渡された手巾は涙と鼻水でぐちゃぐちゃのまま、彼の傍らでそれでもなお見守ると言うかのように居りました。やがて、マーマノッドが心配そうな顔をしてドークに歩み寄りました。
「さっきは、ごめんなさい。矢継ぎ早に、質問をしてしまって」
「大丈夫」
「それで、『お母さんのオムライス』っていうのは......答え難かったら答えなくて結構なのだけれど、あなたのお母さん。何かあったのかしら」
「お母さんは、死んじゃった......それで」
「そこまででいいわ。辛いこと思い出させちゃって、ごめんなさい」
「ううん」
沈黙はしばらく続きました。しかしながらそれは、気まずくて堪らないというより、ただドークが落ち着くまでの時間をゆっくりと待つ、包み込むような温かい沈黙でありました。
「そうだ、あの猫の店員さんに訊いてみましょう。どうやって出るのかと、あとは、その手巾も......洗う場所が分からないから、とりあえず返しましょう」
猫はありがとうございます、と一言言うだけで特に躊躇もなく手巾を懐にしまいました。肩の埃を払い、一つ息を吐いてから、それで、と続けました。
「質問にお答えしまスが......『楽になる』コトです」
「......具体的には?」
「それは人それぞれデスので、此方にも分かりかねマス」
『楽になる』という言葉は、やまびこのようにドークの頭の中で反響していました。
窓の外にある星々の向こう側で、ドーク達に似た生物が幸せそうに笑っているのかもしれない。ドークは頬杖をついて妄想していました。
「ねえ、どうして宇宙が好きになったの?」
マーマノッドはドークと同じく視線を窓の外に向けたままで問いました。
「綺麗だと思ったから」
「綺麗?」
「うん」
「......そうね。綺麗」
「お姉さんは、どうしてなの」
マーマノッドは少しぎょっとした顔をドークに向けて、すぐに照れ臭そうに笑いました。
「私は、ちょっと......宇宙が好きなわけではなくって」
「どういうこと?」
「あなたもいずれすることになるだろうけど、最近ようやく受験が終わってね。まあ、第一志望の高校には落ちちゃったけれど。丁度、その頃からかしら。私の目の前には宇宙がよく現れるようになったの。それで、興味本位で触ってみたらここに来ちゃった......ね、馬鹿みたいでしょ」
「馬鹿じゃないよ。僕も触っちゃって来たんだもん」
「ふふ......そっか」
ありがとう、と言ってマーマノッドはしばらく虚空を見つめていました。ドークは、ずっと気になっていたことを口にしました。
「ねえ、『楽になる』って、僕たちは今そんなに苦しいの?」
「苦しい......苦しい、ね......」
マーマノッドは深く吟味しながら言葉を反芻しました。まるで、心当たりがないか探すように。
「苦しいのかは分からないけれど、昔に戻りたいと思うことは増えたと思う。なんだか、最近は家での居心地が悪くてね......」
「僕も、お母さんがまだ生きていたらって思うよ。今の学校はつまらないんだ」
マーマノッドは再び笑いました。
「けれど、それが出来たら苦労なんてしないわよね。それに、戻れたとしても結末が変えられるとも思えないわ」
窓の外では、未だ光の粒たちが、時計の針が時を刻むように群れを成して流れていました。
「どうしてこんな思い、しなくちゃいけないんだろう」
二人が静かになると、周りの音がよく聞こえてきました。他に相席している人の話し声、カチャカチャと鳴る食器の音、コップを机に置く音、シャーっと蛇口から水が流れ続ける音。
「確かに、どうしてかしら......否、そもそもこんな思いをしているのは、周りの所為じゃなくて、私の考え過ぎなだけなのかも」
その言葉を聞いて、ドークは少し考えました。
「僕も、変なこと言わないようにしなきゃって思ってた。学校で」
「そうだったの?」
「ついつい、今日もまた言っちゃって怒られちゃったけれど」
「まあ、いいんじゃないかしら。それでも」
「本当に?」
「どうかしらね」
ドークは胸がギュルギュルとして口元が緩みました。
それ以上の言葉は続きませんでした。しかしながら、ドークとマーマノッドはただ肩の力が抜けたような感覚を覚えました。そこへ、一匹の足音が少しずつ迫って来ました。
「お時間デス」
────ドークが目を覚ました時には既に自分の部屋へと戻っていたのでした。一体、あれは夢であったのか、現実であったのか、それを確かめる術はもはやありません。
どうやらドークの父の言いつけを破ったことはバレていないようでした。あれから一週間、ドークの目の前に宇宙が現れることはありません。少しだけ寂しくなったドークは、学校の図書室へ赴き、宇宙の図鑑を借りるのでした。教室でそれを心躍らせながら読んでいるドークに、ローネルは再びずかずかとやって来ました。
「おい、『ヘンジン』! 何読んでるんだよ」
「宇宙図鑑。好きだからさ」
ドークはページをまた一枚、捲るのでした。




