渡る、という事
雨が降っていた。
音は細く、でも切れ目なく、町を包んでいる。
白石は、傘を差さずに歩道橋の下に立っていた。
雨粒が、コンクリートを濡らす音だけが、世界の全部みたいだった。
「濡れるぞ」
背後から、黒沢の声。
「いい」
白石は、振り返らなかった。
「今日で、決まるんだよな」
「……ああ」
再検討の結果が出る日。
橋が残るか、消えるか。
白石は、手すりに触れた。
冷たい鉄。
何百、何千もの手が触れてきた場所。
「もし、なくなったら」
白石は、ゆっくり言った。
「俺、ここで変われたこと、
なかったことにしそうで」
黒沢は、隣に立った。
「……消えない」
短く、でも確かな声。
「橋があったからじゃない」
白石は、黒沢を見た。
「じゃあ、何」
黒沢は、少し考えてから言った。
「渡ったからだ」
雨が、少し強くなる。
「渡るってさ」
黒沢は、視線を前に向けたまま続ける。
「向こう側に行くことじゃない」
白石は、黙って聞く。
「怖いまま、動くことだ」
白石は、胸が詰まった。
橋の上に、足音が近づく。
学生だろう。
走り抜けていく。
「黒沢」
白石が言う。
「俺、白くなくなってよかった」
黒沢は、少しだけ笑った。
「……黒も、
黙らなくてよくなった」
そのとき、携帯が震えた。
同時に。
白石が画面を見る。
「……残るって」
黒沢も、同じ通知を見ていた。
「補修して、使い続ける」
雨の音が、一瞬、遠のいた気がした。
白石は、息を吐いた。
「よかった」
でも、涙は出なかった。
代わりに、深い疲労と、静かな満足があった。
「なあ」
白石が言う。
「もし、橋がなくなっても」
黒沢は、続きが分かっていた。
「……渡る」
二人は、同時に歩道橋へ向かう。
雨の中、ゆっくりと。
傘はない。
でも、足取りは迷わない。
橋の中央で、立ち止まる。
黒と白。
どちらが先でもない。
ただ、同じ場所に立つ。
雨が、橋を叩く。
それでも、橋は揺れなかった。
渡る、ということは、
一人で行くことじゃない。
支え合って、
それでも自分の足で立つこと。
白石は、静かに言った。
「また、渡ろう」
黒沢は、頷いた。
「……ああ」
雨の向こうに、町の灯りが滲んでいる。
橋は、そこにある。
そして、渡る人も、そこにいる。




