黒が黙った理由
工房の朝は早い。
黒沢は、誰よりも先にシャッターを上げた。
冷えた空気が、木の匂いを鋭くする。
機械を動かす前の、この静けさが好きだった。
誰にも評価されない時間。
削りかけの板に、手を置く。
指先が、無意識に力を測る。
——昔も、こうして触っていた。
まだ、声を持っていた頃。
「黒沢くん」
名前を呼ばれたのは、中学の技術室だった。
皆の前。
黒沢は、顔を上げた。
「これ、君が作ったの?」
教師が、木製の踏み台を持ち上げる。
「……はい」
「上手だね。
でも、ちょっと頑張りすぎかな」
教室が、ざわつく。
「黒沢ってさ、
何考えてるか分かんないよね」
誰かが、笑いながら言った。
「黙ってると怖いんだよ」
「真面目ぶってるだけじゃない?」
黒沢は、何か言おうとした。
説明すれば、分かってもらえると思った。
「……あの」
「いいから座って」
教師の一言で、声は切られた。
それが、最初だった。
言葉を出す前に、遮られる感覚。
声が、価値を持たないと知った瞬間。
工房で、機械のスイッチが入る。
音が、過去を押し流す。
昼過ぎ、白石がやって来た。
いつものように、ノックもせずに。
「邪魔」
「……慣れた」
白石は、少し迷ってから言った。
「昨日さ、俺、嫌われた」
黒沢は、刃物を置いた。
「……言われたか」
「うん。
でも、黒沢が言ってた意味、分かった」
白石は、作業台に寄りかかる。
「黙るのが、楽になる瞬間がある」
黒沢は、ゆっくり息を吐いた。
「……俺は、言って失った」
白石が、顔を上げる。
黒沢は、続けた。
「高校のとき、
橋の補修、危ないって言った」
白石は、目を見開いた。
「この橋?」
「ああ」
「あのとき、誰も聞かなかった」
黒沢は、板を削りながら話す。
「“黒沢が言うと、
文句に聞こえる”って」
「……」
「結局、事故が起きた。
軽い怪我だったけど」
刃が止まる。
「そのとき、初めて言われた」
——なんで、もっと強く言わなかったの。
黒沢は、笑った。
「言ったんだよ。
ちゃんと」
白石は、言葉を失った。
「それで、分かった」
黒沢は、白石を見る。
「声の重さは、
人によって決まってる」
沈黙が、工房に落ちる。
白石は、ゆっくり言った。
「じゃあさ」
「……」
「今、声、出してるのは?」
黒沢は、少しだけ視線を逸らした。
「……白石が、黙ったからだ」
白石は、息を呑んだ。
「俺が前に出ると、
俺の声は、届く」
黒沢は、指先を見つめる。
「でも、白石が一歩下がると、
俺の声が、空く」
白石は、唇を噛んだ。
「それ、重いよ」
「知ってる」
黒沢は、静かに言った。
「だから、今まで、
避けてた」
工房の外で、風が吹く。
遠くで、歩道橋を渡る音がした。
白石は、顔を上げた。
「じゃあさ」
黒沢を見る。
「今度は、一緒に重くしよう」
黒沢は、驚いたように目を瞬かせた。
「一人で背負うと、潰れる」
白石は、笑った。
「俺、もう白くないし」
黒沢は、少しだけ、口角を上げた。
「……汚れたな」
「うん。
でも、消えてない」
二人は、作業台越しに向き合う。
黒と白。
削られ、汚れて、それでも残った形。
橋は、まだ、そこにある。
だが次は、本当に、選ばなければならない。




