白が汚れる音
翌朝の商店街は、妙に静かだった。
いつもなら「おはよう」「ありがとう」が飛び交う時間帯なのに、今日は音が一段低い。
白石は、それに気づかないふりをして歩いた。
いや、正確には、気づいているからこそ、何も言わなかった。
八百屋の前を通る。
昨日までなら、目が合えば声をかけられていた。
今日は、合わない。
視線が、わずかに逸れる。
会釈だけが、宙に浮いて落ちる。
胸の奥で、小さく音がした。
何かが、ひび割れる音。
「……そっか」
白石は、笑ったまま、歩く速度を落とさなかった。
立ち止まったら、崩れる気がしたから。
歩道橋の下で、黒沢の姿を見つける。
朝の作業前だろう、手袋をポケットに突っ込んだまま立っていた。
「おはよ」
白石が声をかけると、黒沢はすぐに気づいた。
「……おはよう」
その声は、昨日より少しだけ、はっきりしていた。
橋を渡る途中、白石は言った。
「俺さ」
黒沢は何も言わない。
続きを待つ、という態度。
「嫌われたかもしれない」
白石は、冗談みたいな口調を選んだ。
選ばないと、声が震える。
「昨日の会議のあと、空気、変わった」
黒沢は、足を止めなかった。
「……そうだろうな」
「黒沢は?」
「俺は、元からだ」
その一言に、白石は息を詰めた。
「でも」
黒沢が、少しだけ間を置く。
「白石は、初めてだろ」
橋の真ん中。
白石は、立ち止まった。
「……怖い」
素直に言った。
いい人の仮面を、外したまま。
「今までさ、嫌われないように、
ちょっとずつ削ってたんだと思う」
黒沢も、止まる。
「意見も、感情も、
角が出ないように」
白石は、指先を見つめた。
「それがなくなったら、
俺、何が残るんだろ」
黒沢は、しばらく黙ってから言った。
「……残る」
短い言葉。
「削っても、
まだ、形がある」
白石は、目を伏せた。
それは、木工職人らしい言い方だった。
橋を渡り切る頃、後ろから声がした。
「白石くん」
振り返ると、町内会の男性が立っていた。
「昨日は、ちょっと出過ぎじゃなかった?」
言葉は柔らかい。
でも、距離がある。
「今まで、うまくやってきたじゃない」
白石は、一瞬、いつもの返事を探した。
丸くて、安心させる言葉。
でも、見つからなかった。
「……うまく、ですか」
問い返す声は、思ったより低かった。
「誰にとって、ですか」
男性は、言葉に詰まり、曖昧に笑った。
「まあ、そういう意味じゃなくて」
白石は、もう笑わなかった。
「すみません。
俺、今日は急いでるんで」
立ち去る背中に、何も飛んでこなかった。
それが、答えだった。
歩き出してから、白石は小さく息を吐いた。
「な」
黒沢が言う。
「汚れたな」
白石は、少し笑った。
「白なのに?」
「白だからだ」
その言葉が、胸に落ちた。
歩道橋の上、夕方の風が吹く。
人の流れは、昨日より少ない。
白石は、手すりに触れた。
「……でもさ」
「うん」
「嫌われても、
ちゃんと立ってる感じがする」
黒沢は、何も言わなかった。
でも、その沈黙は、肯定だった。
白は、少し汚れた。
でも、それは、初めて地面に立った証だった。
橋は、まだ、そこにある。




