第7話:進軍の狼煙
嘆きの谷を出る。
決めたのは、俺だった。
これ以上、こんな墓場で燻っていても、何も始まらない。
俺の憎悪は、もっと生きた人間の血と絶望を求めている。
バルドは何も言わなかった。
ただ、俺の決断に、その赤い魂の火を強く燃え上がらせることで同意を示した。
他のアンデッドどもも、俺の進む方へ、ただ黙ってついてくる。
いつの間にか、俺の軍勢は百を超えていた。
谷で死んだ者たちの骨を拾い集め、俺の力で縛り付けた結果だ。
ガラクタの寄せ集めであることに変わりはないが、数は力になる。
俺が、なぜか知っている戦術の基本だった。
東へ。
目指すは、地図にあった国境の砦。
そこは、かつて俺が――アレンという男が、守っていた場所なのかもしれない。
だとしたら、なおさら良い。
俺が守ったものを、俺自身の手で壊してやる。これほど愉快な復讐はないだろう。
フェイドの背に揺られながら、俺は自分の胸の穴を見下ろした。
兵士の骨で塞いだ、あの傷。
まだ、時々軋むように痛む。
いや、痛むのは骨じゃない。俺の、空っぽのはずの魂だ。
他人の記憶を喰らうたびに、俺の中はガラクタで満たされていく。
傭兵の見た麦畑。隊長の愛した妻の顔。そして、最後に殺した若い兵士が呟いた、「かあさん」という言葉。
そのどれもが、俺のものではない。
だが、その残り滓は、確かに俺の中に蓄積し、澱のように溜まっていく。
これが、俺を人間らしくさせるのか?
それとも、ただの化け物へと作り変えていくのか。
答えは、まだ分からない。
進軍は、順調だった。
アンデッドは食事も睡眠も必要としない。ただひたすらに、歩き続けることができる。
三日目の夜、砦の篝火が見えてきた。
石造りの、堅牢な砦だ。正面から攻めては、こちらの損害が大きいだろう。
《バルド》
俺は、思念で副官に命じる。
《陽動を仕掛ける。半数を率いて、北の森から鬨の声を上げろ。だが、決して姿は見せるな》
《はっ!》
バルドは、軍勢の半分を率いて、音もなく闇に消えていった。
しばらくして、北の森から、アンデッドたちの不気味な咆哮が響き渡った。
砦の上が、にわかに騒がしくなる。
「敵襲! 北方だ!」
「松明を! 弓兵を配置しろ!」
兵士たちが、慌ただしく砦の北壁へと集まっていくのが見えた。
愚かなことだ。
敵の姿も見えぬのに、その声だけで警戒の全てをそちらへ向けるとは。
平和に、慣れすぎている。
俺は、残りの軍勢を率いて、手薄になった南門へと静かに接近した。
門は、固く閉ざされている。
だが、問題ない。
《壊せ》
俺の命令一下、ゾンビたちが粗末な丸太を抱え、城門へと突進した。
ドォン!
鈍い破壊音が、夜のしじまを破る。
ここで初めて、砦の兵士たちは南からの奇襲に気づいた。
「なっ、馬鹿な! 敵は南にもいたのか!」
「罠だ! 陽動だったんだ!」
壁の上から、矢の雨が降り注ぐ。
何体かのゾンビが射抜かれ、倒れる。だが、後続は構わず、何度も何度も城門に丸太を叩きつけた。
やがて、蝶番が悲鳴を上げ、木の扉が内側へと弾け飛んだ。
好機。
《――蹂躙しろ》
俺の魂の叫びに、アンデッドたちが鬨の声を上げた。
俺はフェイドを駆り、その先頭に立つ。
砦の中は、大混乱に陥っていた。
武器も持たずに駆け出してくる兵士。寝ぼけ眼のまま、何が起きたか分かっていない者。
もはや、戦いですらなかった。
一方的な、殺戮。あるいは、解体作業。
俺は、剣を振るう。
一人、また一人と、命の灯が消えていく。
血飛沫が、俺の骨を濡らした。それが、ひどく心地よかった。
この快感だけが、俺が生きている、いや、存在している証なのだ。
やがて、砦の中庭で、一体の巨大な影が俺の前に立ち塞がった。
ミノタウロス。
王国が、番犬代わりに飼っている魔物の一種だ。
その手には、巨大な斧が握られている。
俺はフェイドから飛び降り、一体のスケルトンから槍を奪い取った。
ミノタウロスが、咆哮と共に突進してくる。
俺は、その突進を真正面から受け止めるのではなく、横に跳んでかわした。
そして、すれ違いざま、その脇腹に槍を深々と突き立てる。
だが、肉が厚い。致命傷には至らない。
ミノタウロスは、苦痛に猛り狂い、斧を滅茶苦茶に振り回した。
俺は、その攻撃を冷静に見切り、距離を取る。
その時、俺の骨の体が、わずかに輝きを放った。
蒼い光が、俺の全身を包み込む。
喰らった魂たちが、俺の中で新しい力へと変わろうとしていた。
進化。
そう、直感した。
力が、満ちてくる。
骨の密度が増し、より強固になるのを感じる。
俺は、手に持った槍を捨て、再び錆びたロングソードを握りしめた。
もう一度、ミノタウロスと対峙する。
今度は、違う。
さっきよりも、ずっと、敵の動きが鮮明に見えた。
斧の軌道。筋肉の収縮。次の一手。
俺は、振り下ろされる斧の真下へ、自ら踏み込んだ。
紙一重でそれをかわし、懐へ。
そして、力の限り、剣を振るった。
狙うは、首。
分厚い筋肉を断ち、硬い骨を砕く。
凄まじい手応えと共に、巨大な牛の頭が、宙を舞った。
どしゃり、と音を立てて、首なしの巨体が崩れ落ちる。
俺は、返り血を浴びたまま、静かに佇んでいた。
空が、白み始めている。
砦は、陥落した。
その屋上には、アンデッドの王の軍勢によって、引き裂かれた王国の旗が、無残に掲げられていた。
復讐の、狼煙だった。