第6話:王都の動揺
その報告が玉座の間にもたらされたのは、厚い雲が空を覆う、陰鬱な昼下がりのことだった。
宰相オルティスは、大理石の床に膝をつき、恭しく頭を垂れる初老の騎士団長を一瞥した。
その目は、凪いだ湖面のようで、何の感情も映してはいない。
「……して、何なのだ。ジェラール卿。そなたがそんなに血相を変えて駆け込んでくるとは」
国王ウーサー三世の、覇気のない声が響く。
壮麗な玉座に深く沈み込んだその体は、豪華な衣装に着られているだけの、ただの老人のように見えた。
ジェラールと呼ばれた騎士団長は、顔を上げた。その額には脂汗が滲んでいる。
「はっ。嘆きの谷より緊急の報告が……。先日派遣いたしました第二次討伐隊が……壊滅した、と」
「なに?」
玉座の間が、ざわついた。
居並ぶ貴族たちが、扇で口元を隠しながら、ひそひそと言葉を交わし始める。
「第二次隊だと? 確か、正規騎士を五十名も送ったはず……」
「谷のアンデッドごときに、遅れを取るなど……」
ジェラールは、苦虫を噛み潰したような顔で続けた。
「……それが、ただのアンデッドの群れでは、なかったと。生き残りの者の報告によれば、その軍勢は……まるで熟練の指揮官がいるかのように、統率が取れていた、と」
「指揮官?」
国王が、わずかに身を乗り出した。
「はっ。その中心には、他の個体とは明らかに違う、一際異彩を放つスケルトンがいた、と。生き残りの兵士は、恐怖のあまりそれを『骨の王』と……そう呼んでおりました」
玉座の間が、再び大きくどよめいた。
「骨の王だと? 馬鹿な!」
「アンデッドを率いる上位種か……!」
ジェラールは、さらに衝撃的な事実を告げる。
「……それだけではございません。その『骨の王』の傍らには、赤錆の巨鎧を纏った、山のような骸骨騎士が控えていた、と。その威圧感と力は、古文書に記された伝説のアンデッド……『死の騎士』を彷彿とさせると……報告書には」
その言葉に、宰相オルティスが、初めてかすかな反応を示した。
ほんの少しだけ、眉が動いた。誰も、その変化には気づかない。
その時だった。
玉座の間の巨大な扉が、静かに開かれた。
そこに立っていたのは、純白の神官服に身を包んだ一人の少女だった。
腰まで届く、陽光を編んだような金色の髪。
澄み渡る空を映したかのような、青い瞳。
セレスティア・ルミナス。
王国の王女にして、聖教会が認定した「聖女」その人だった。
「――お父様」
凛とした、鈴を転がすような声。
その声に、玉座の間のざわめきが、ぴたりと止んだ。
誰もが、彼女に畏敬の念を抱いていた。
セレスティアは、ゆっくりと玉座へ進み出た。その手には、一輪の白い百合の花が握られている。
「今、アレン様のお墓参りから、戻りました」
彼女が口にした名前に、何人かの貴族が、気まずそうに視線を伏せた。
アレン・ウォーカー。
嘆きの谷で殉職した、悲劇の英雄。そして、生前の彼女が誰よりも信頼し、慕っていた騎士の名だった。
国王は、娘の顔を見て、わずかに表情を和らげた。
「おお、セレスティアか。ご苦労だった」
「ジェラール卿のお話、私も聞かせていただいておりました」
セレスティアは、騎士団長に向き直った。
「嘆きの谷の異変……それは、アレン様と、白銀のグリフォン騎士団の方々の魂が、安らかに眠れていない、ということではないでしょうか」
その言葉は、非難ではなかった。純粋な、悲しみの色を帯びていた。
ジェラールは、言葉に詰まった。
「そ、それは……」
「わたくし、行きます」
セレスティアは、きっぱりと言い放った。
「嘆きの谷へ。わたくしの祈りで、かの地の魂を浄化し、安らかなる眠りへとお導きいたします」
「なりません、王女様!」
ジェラールが、慌てて制止する。
「危険すぎます! 『骨の王』を名乗るほどのアンデッドなど、前代未聞……」
「だからこそ、です」
セレスティアの青い瞳に、強い光が宿った。
「アレン様が命を賭して守ったこの国を、これ以上穢させるわけにはまいりません」
その時まで沈黙を守っていた宰相オルティスが、ゆっくりと口を開いた。
「……王女様の、そのお覚悟。見事なものにございます」
穏やかで、思慮深い声だった。
「ですが、ジェラール卿の申されることもごもっとも。王女様のお身を危険に晒すわけには……」
オルティスは、そこで言葉を切ると、何かを思案するように天井を見上げた。
そして、まるで名案を思いついたかのように、ポンと手を打った。
「……こう致しましょう。王都の騎士団より精鋭中の精鋭を選りすぐり、王女様の護衛騎士団を編成いたします。指揮は、ジェラール卿、貴方自らが執るのです。これならば、万全でしょう」
「お、おお……」
国王が、感心したように頷く。
セレスティアは、オルティスに深く頭を下げた。
「ありがとうございます、宰相閣下。ご配慮に、感謝いたします」
「いえいえ。全ては、王国と、聖女様のため」
オルティスは、柔和な笑みを浮かべた。
だが、その瞳の奥には、誰にも読み取れない冷たい光が、一瞬だけ宿っていた。
セレスティアは、胸元で輝く、小さなグリフォンの彫刻が施されたペンダントを、ぎゅっと握りしめた。
――待っていてください、アレン様。
――貴方が守ったものは、今度は私が守ります。
彼女はまだ、知らない。
その嘆きの谷で、彼女を待ち受ける絶望の名を。
そして、自分が浄化しようとしている魂の、本当の姿を。