第5話:忠実なる騎乗騎(フェイド)
バルドという名の、確かな標を得た。
それでも、俺の中身は空っぽのままだった。
アレン、と呼ばれても、俺はアレンではなかった。
ただの、記憶をなくした骨だ。その事実は変わらない。
バルドは言った。
《貴方様の愛馬も、この谷で果てたはずです》と。
俺たちは、戦場の跡地を歩いていた。
バルドは時折立ち止まり、地に膝をついて、そこに転がる兜や折れた剣に触れる。そのたびに、彼の赤い魂の火が悲しげに揺れた。
仲間たちの残留思念を、彼は聞いているのだろう。
俺には、何も聞こえなかった。
やがて、バルドが一つの場所で足を止めた。
そこは、巨大な魔物の顎の骨が、アーチのように大地に突き刺さっている場所だった。
その陰に、それはあった。
一頭の馬の、白骨。
他の獣の骨とは明らかに違った。気品のある、美しい骨格。
その傍らには、無数のオークの矢が突き刺さっている。
まるで、主人を守る盾になったかのようだ。
その白骨を見た瞬間、俺の胸の奥で、何かが疼いた。
憎悪とは違う、温かいような、それでいて胸が張り裂けそうになるような、矛盾した痛み。
俺は、吸い寄せられるようにその骸に近づいた。
《……アルゴス……》
バルドが、絞り出すように呟いた。
アルゴス。その名前。
そうだ、こいつは、アルゴスだ。俺の半身。
誰よりも速く、誰よりも賢く、そして誰よりも、俺に忠実だった。
断片的な記憶。
風を切って草原を駆ける感覚。
そのたてがみの、陽だまりのような匂い。
俺は、白骨の首筋に、そっと骨の手を置いた。
冷たい。当たり前だ。もう、命はないのだから。
その時、俺の指先に、何か硬いものが触れた。
鬣の付け根。そこに、何か小さなものが編み込まれている。
丁寧に解いてみると、それは小さな革袋だった。中には、硬く、冷たい石のようなものが入っている。
《それは……?》
バルドが訝しげに問う。
俺にも分からない。ただ、この革袋には見覚えがあった。
誰かが、俺に、いや、アルゴスにお守りだと言って付けてくれた。
誰だ? 思い出せない。
金色の髪。青い瞳。優しい笑顔。
俺は、革袋を懐――肋骨の隙間にしまい込んだ。
そして、決意した。
こいつも、連れて行く。
俺は、自らの胸に手を当てた。
眼窩で燃える蒼い魂の火が、ひときわ強く輝く。
分け与える。
俺の魂を、この憎悪を、この虚無を。
俺の骨の指先から、蒼い炎が糸のように伸び、アルゴスの白骨に触れた。
最初は、何も起こらなかった。
だが、やがて、アルゴスの眼窩に、ぽつり、と小さな蒼い火が灯った。
俺の火よりもずっと弱々しい、蝋燭の炎のような光。
白骨の馬が、ゆっくりと首をもたげた。そして、カタリ、と四肢で大地に立ち上がった。
生前の面影はない。ただの、動く骨だ。
だが、その瞳の奥の蒼い火は、確かに俺を映していた。
俺は、そいつを「フェイド」と呼ぶことにした。
色褪せた者。消えゆく者。
俺たちに、ぴったりの名前だ。
俺はフェイドの背に跨った。
鞍はない。骨と骨が直接触れ合う、冷たい感触。
だが、不思議と体にしっくりきた。フェイドは、嘶くこともなく、ただ静かに俺を乗せていた。
バルドが、感嘆したように言った。
《……魂を分かち与えるとは……さすがは、我が団長》
俺は何も答えなかった。
ただ、東の空を見つめた。王都のある方角だ。
《行くぞ》
声にはならない、魂の命令。
フェイドは、静かに歩き出した。
バルドが、そして、その後ろに控えていたアンデッドの群れが、それに続く。
俺の軍勢は、今や五十を超えていた。
俺の隣には、赤錆の忠臣。
そして、骨の愛馬。
役者は、揃いつつあるのかもしれない。
この、くだらない復讐劇の。