第4話:赤錆の騎士
谷の奥深く。
そこは、ひときわ死の匂いが濃い場所だった。
折れた剣や、砕けた盾がそこらに突き刺さり、まるで鉄の墓標のようだ。
風葬された戦場の跡地。
俺は、何かに引き寄せられるように、その場所へ足を踏み入れていた。
馬鹿げた話だが、懐かしい、とすら思った。
なぜだろう。知らない場所のはずなのに。
俺の率いるガラクタどもは、この場所の濃密な死の気配に怯えるように、後方でうごめいているだけだった。
役立たずどもめ。
俺は一人、骸の丘を登る。
その頂に、そいつはいた。
一体のアンデッド。
だが、俺の知るどんなアンデッドとも違った。
全身を、赤錆に覆われた分厚いフルプレートアーマーで固めている。その巨躯は岩のようで、背には巨大な両刃の戦斧を背負っていた。
そして、何より違うのは、その兜の奥。
空っぽの眼窩で、二つの赤い魂の火が、明確な殺意をもって俺を捉えていた。
こいつ、自我がある。俺と同じだ。
騎士は、ゆっくりと立ち上がった。
ギシリ、と鎧が軋む音が、やけに大きく響く。
戦斧が、こともなげにその手に握られた。尋常な腕力じゃない。
言葉はなかった。
ただ、殺気が空間を歪ませる。
こいつは、俺を敵だと認識している。
ならば、やることは一つだけだ。
俺は錆びたロングソードを構え、駆けた。
相手は動かない。ただ、俺が間合いに入ったその瞬間、凄まじい風切り音と共に戦斧が振り下ろされた。
大振りだ。だが、速い。そして、重い。
俺はバックステップでそれをかわす。叩きつけられた戦斧が、地面を粉砕し、土煙が舞い上がった。
煙の中を、俺は突き進む。
懐に潜り込み、がら空きの胴体へ剣を突き出した。
手応えがあった、はずだった。
だが、鎧はびくともしない。ガキン、という鈍い音だけが響き、俺の剣は弾かれた。
まずい。
赤錆の騎士は、俺の剣が鎧に縫い止められている隙を逃さなかった。
巨大な左の篭手が、俺の顔面を殴り飛ばす。
俺の体は、枯れ葉のように宙を舞った。
地面に叩きつけられ、いくつかの骨が軋む。頭蓋骨に、ひびが入ったかもしれない。
受け身を取ることすら忘れていた。
なぜだ? あの左の篭手の動き。どこかで。
騎士は、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
俺は立ち上がり、剣を構え直した。
今度は俺から仕掛ける。王国式三型。俺が、なぜか知っている剣技。
その太刀筋で、鎧の隙間、脇の下を狙った。
騎士は、それを読んでいたかのように、戦斧の柄で俺の剣を受け止めた。
そして、呟いた。
いや、その魂が、直接俺の頭に響いてきた。
《……その剣……アレン……団長……なのか……?》
アレン?
誰だ、それは。
俺の動きが、ほんの一瞬、止まった。
その隙を、騎士は見逃さなかった。
いや、見逃した。わざと。
彼は、ゆっくりと戦斧を下ろした。
そして、重々しい動作で、自らの兜を外した。
兜の下も、もちろん骸骨だった。
だが、その眼窩で燃える赤い魂の火が、戸惑うように、悲しむように、揺れていた。
《……ああ……やはり……その構え……間違いない……》
騎士は、その場に膝をついた。
そして、骸骨の頭を、深く垂れた。
《副官バルド……ただいま、帰還いたしました……我が主……》
バルド。
その名を聞いた途端、頭が割れるように痛んだ。
知らない記憶の破片が、ガラスのように突き刺さってくる。
赤毛の、快活に笑う大男。
背中を預けて戦った、いくつもの戦場。
酒を酌み交わした、夜。
『団長』。そう、俺を呼ぶ声。
《……俺が……アレン……?》
声にならない声で、俺は問うた。
バルドは、顔を上げずに答えた。
《ええ……白銀のグリフォン騎士団団長、アレン・ウォーカー……それが、貴方様の名です》
《……思い出せないか。無理もない。我々は、犬死させられたのだからな》
バルドの赤い魂の火が、憎悪で激しく燃え上がった。
《団長。俺には……聞こえるのです。この谷で死んだ仲間たちの、無念の声が……》
《ある者は叫んでいた。『なぜ援軍が来ない!』と。またある者は、『谷の入り口を塞いでいるのは、王国軍ではないか!』と……。そして、何人かの斥候は、同じ言葉を遺して死んでいったのです……『情報が、違う』と》
バルドの言葉は、確信ではなく、混乱と疑念に満ちていた。
俺は、彼の魂から伝わってくる断片的な情報を追体験する。
報告とは比べ物にならない数の魔物。約束を破った援軍。そして、退路を塞ぐ謎の友軍。
パズルのピースが、バラバラに散らばっている。
だが、そのどれもが、同じ一つの醜い絵を形作ろうとしていた。
《我々は、ハメられたのです。誰かは分からない。だが、我々を快く思っていなかった者が王都にいたことは、貴方様もご存知のはず》
王都。
その言葉に、また胸の奥が軋む。
俺の、アレンの記憶はまだ戻らない。
だが、バルドが語る断片的な真実が、俺の魂の中心にある黒い憎悪に、明確な形を与えようとしていた。
《そして、団長。我々の死は……きっと『殉職』として処理されていることでしょう》
《『白銀のグリフォン騎士団は、王国の盾となり、英雄的に散った』……今頃、王都では我々は銅像にでもなっているやもしれんな。笑わせる!》
英雄。
その言葉が、ひどく、滑稽に聞こえた。
俺は、英雄として死んだことにされているのか。
この、惨めな骨の姿で、過去も忘れて彷徨っているというのに。
俺は、空を見上げた。
鉛色の空。
嗤い声が、こみ上げてきた。
声帯はない。だから、音にはならない。
ただ、俺の全身の骨が、カタカタと震えた。
それは、怒りか、悲しみか。
あるいは、ただ、この世界そのものへの嘲りか。
ああ、そうか。
俺は、嗤っているのか。