第35話:歪んだ共闘
咆哮が、再び、広場の空気を震わせた。
アンデッド・マンティコアは、その巨体に見合わぬ俊敏さで、地を蹴った。
大地が揺れ、石畳に亀裂が走る。
その狙いは、ただ一点。
最も強い聖なる力を放つ、セレスティア。
「王女様!」
ジェラール卿が、咄嗟に彼女の前に立ち塞がった。
「全軍、陣形を組め! 盾を構えろ! 何としても、奴の足を止めるのだ!」
王都騎士団の兵士たちは、恐怖に震えながらも、その命令に従った。
何枚もの分厚い鉄の盾が、壁となってマンティコアの進路を阻む。
だが、その壁は、あまりにも、脆かった。
マンティコアは、速度を緩めることなく、盾の壁へと激突した。
ガシャァン!
凄まじい破壊音。
鉄の盾はまるで紙細工のように捻じ曲がり、何人もの騎士が、骨の砕ける音と共に、宙を舞った。
陣形は、わずか一撃で、中央から食い破られた。
「ぐ……っ! 化け物めが……!」
ジェラールが渾身の力で剣を振るうが、マンティコアの腐った外皮は鋼のように硬い。
剣は、甲高い音を立てて弾かれた。
蠍のような尾が鞭のようにしなり、ジェラールを薙ぎ払う。老騎士の体は城壁まで吹き飛ばされ、ぐったりと動かなくなった。
「ジェラール卿!」
セレスティアが、悲鳴を上げた。
その、一瞬の動揺。
マンティコアは、その隙を見逃さなかった。腐った顎が大きく開かれ、彼女へと襲いかかる。
万事、休すか。
その時、セレスティアの体を、黒い影が突き飛ばした。
ギデオンだった。
彼はセレスティアを庇うようにして、マンティコアの前に立つと、その黒い剣で、噛みつこうとする顎を、真正面から受け止めた。
「……ちっ。聖女様が、ここで喰われては、寝覚めが悪い」
ギデオンの腕が、凄まじい力に、ミシミシと軋んでいる。
「――者ども、何をしている! 聖銀の矢で、奴の目を潰せ!」
彼の号令に、散開していた異端審問官たちが、一斉に行動を開始した。
彼らの動きは、騎士団とは、全く違った。
個々が、独立した狩人のように、冷静に、そして、非情に、獲物の弱点だけを狙う。
放たれた銀の矢が、光の尾を引きながら、マンティコアの両目に、深々と突き刺さった。
ギャオオオオオン!
三度目の咆哮は、明確な、苦痛に満ちていた。
マンティコアは視力を奪われ、狂ったように、その場で暴れ始めた。
巨大な爪が、無差別に振り回され、敵も味方もなく、薙ぎ払われていく。
広場は、完全な、地獄絵図と化した。
「……好機だ。翼を、もげ」
ギデオンは、冷静に、次の指示を飛ばす。
だが、その時、マンティコアの体から突き出していた、何人もの人間の顔が、一斉に、目を見開いた。
そして、その口から、おぞましい、詠唱が始まった。
「……なっ、あれは、魔術詠唱!?」
複数の魂が、一つの個体の中で、同時に、魔術を発動させる。
ありえない現象だった。
マンティコアの周囲に、黒い、負の魔力が、渦を巻く。
次の瞬間、その魔力は、無数の、闇の槍となって、全方位へと、撃ち放たれた。
「伏せろ!」
ギデオンが叫ぶ。
審問官たちは、咄嗟に地面に伏せ、あるいは、魔法の盾で、その身を守った。
だが、騎士団の兵士たちは、対応が遅れた。
何本もの闇の槍が彼らの体を貫き、その命を、一瞬にして奪い去る。
聖女の加護も、即死級の黒魔術の前では、気休めにしかならなかった。
「……くそ……! これでは、埒が明かん……!」
ギデオンの顔に、初めて、焦りの色が浮かんだ。
この怪物は、ただのアンデッドではない。正攻法では、勝てない。
セレスティアは、絶望に、膝が折れそうになった。
――もう、だめ……。
――アレン……!
彼女が、心の中で、彼の名を叫んだ。その悲痛な想いが、胸のペンダントに、届いた。
その瞬間、城壁の上で、戦況を静かに観察していた俺の頭の中に、直接、その叫びが響いた。
俺の蒼い魂の火が、激しく、揺らめいた。
共鳴。彼女の魂と、俺の魂が、今、確かに、繋がっている。
――ならば。
俺は、意を決し、自らの思考を、その繋がりへと、逆流させた。
届くかどうかは、分からない。だが、やるしかない。
《――心臓だ》
《――奴の力の源は、胸の中心にある、ソウル・コア》
セレスティアの脳裏に、直接、声が響いた。
懐かしい、アレンの声。自分の心の叫びに、彼が、応えてくれたのだ。
彼女は、はっと息を飲む。胸に下げたペンダントが、確かに、熱を帯びていた。
ほぼ、同時に。
ギデオンもまた、眉をひそめていた。
彼の研ぎ澄まされた感覚が、戦場に満ちる魔力の流れの中に、一つの、異質な波を捉えていたのだ。
今、聖女の放つ聖なる力と、城の上にいる『骨の王』の負の魔力が、奇妙な形で、共鳴し合っている。そして、その共鳴を通じて、何らかの「情報」が送られている。
(……何者だ? 聖女を通じて、思考を送ってきているのか……? 内容は……弱点は、心臓、だと?)
二人は、導かれるように、同時に、城壁の上を見上げた。
城の、壊れた窓枠。そこに、一体の、骸骨の騎士が、静かに立っていた。
ロード。
彼の蒼い魂の火が、まるで、合図を送るかのように、一度だけ、強く輝いた。
「……待ちなさい!」
セレスティアの叫びも虚しく、彼は、ひらりと、城の内部へと、その姿を消した。
だが、彼女の心には、一つの、光明が、灯っていた。
弱点は、心臓。そして、彼は、私たちに、それを教えてくれた。
彼女は、立ち上がった。その瞳には、もはや、迷いも、恐怖もなかった。
「ギデオン審問官長!」
彼女は、初めて、その男の名を、敬意を込めて、呼んだ。
「……何ですかな、聖女様」
ギデオンもまた、ロードが消えた方角を、苦々しげに、見つめていた。
「……わたくしに、道を、作ってください」
セレスティアは、自らの手のひらを、細身の剣で、切り裂いた。
滴り落ちる、聖女の血。彼女は、その血を、剣の刀身に、塗りつける。
「――奴の心臓は、わたくしが、貫きます」
その、決死の覚悟。
ギデオンは、しばらく、無言で彼女を見つめていた。
やがて、彼は、ふ、と、自嘲するように、笑った。
「……よろしいでしょう。神の秩序のためだ。……一時的に、貴女の正義に、乗って差し上げます」
歪んだ、共闘が、今、ここに、成立した。




