第31話:王都に降る雪
夜明けは、来なかった。
王都の空は、夜の闇よりも、さらに深い、絶望的な鉛色に覆われていた。
分厚い、黒い雲。
それは、自然の雲ではなかった。
王城の地下から溢れ出した、膨大な負の魔力が、空を覆い尽くしているのだ。
大聖堂での戦いを終え、俺は、地下水道に身を潜めていた。
ギデオンは、手強かった。
奴との戦いで俺の体はいくつかの骨を砕かれ、魔力も大きく消耗していた。
だが夜明け前、審問官たちは奇妙な動きを見せた。
空の異変に気づいたのか、連中は俺への追撃を中断し、規律正しく、どこかへと撤退していったのだ。
まるで、より大きな脅威の出現を、予期したかのように。
そして、降り始めた。
ひらり、ひらり、と。
空から、黒い、煤のようなものが、舞い落ちてくる。
雪だ。
季節外れの、黒い雪。
俺は、地下水道の天井にある格子窓から、その光景を、見ていた。
最初は、誰もが、ただの灰か何かだと思っていたのだろう。
早起きのパン屋が空を見上げ、訝しげに首を傾げている。
市場へ向かう農夫が、荷馬車の幌に積もる黒い雪を、無造作に手で払っている。
異変に、最初に気づいたのは、動物たちだった。
犬が狂ったように吠え始め、馬が暴れて主人の手綱を振りほどく。
鳥たちが、一斉に空から落ちてきた。
そして、人間にも、変化が訪れた。
黒い雪に触れた農夫の指先が、急速に、色を失っていく。
まるで、生命力そのものを、吸い取られているかのように。
「……う……あ……?」
農夫は、自らの手を見下ろし、何かを言おうとした。
だが、その言葉は、声にならなかった。
彼の体が、がくり、と崩れ落ちる。
そして、数秒後。
虚ろな目で、再び、立ち上がった。
その肌は土気色に変色し、その瞳には、もはや、何の光も宿っていなかった。
ゾンビ。
「……きゃあああああ!」
悲鳴が、上がった。
誰かの、絶叫が、連鎖していく。
黒い雪は、容赦なく、降り注ぎ続ける。
触れた者を、生きたまま、アンデッドへと変貌させる、呪いの雪。
王都は、阿鼻叫喚の地獄へと、変わった。
家から飛び出し、逃げ惑う人々。
だが、どこへ逃げても、空からは、死が降り注いでくる。
親が、子の前で、化け物へと変わり、子が、親に、牙を剥く。
美しいはずの街並みが、狂気と、絶望で、塗り潰されていく。
俺は、ただ、黙って、その光景を、見ていた。
これが、オルティスの、真の目的。
国民総アンデッド化計画。
奴は、狂っている。
俺が抱いていた憎悪など、この男の狂気に比べれば、子供の癇癪のようなものだった。
俺の魂が、震えていた。
怒りではない。
恐怖でもない。
それは、一種の、戦慄だった。
ここまで、やるか。
一人の人間の、歪んだ理想のために、ここまで、世界を、壊すか。
俺は、地下水道の暗闇の中、静かに立ち上がった。
もう、俺自身の復讐など、どうでもよくなっていた。
父親の無念も、仲間たちの魂も、今は、些末なことに思えた。
――止めなければ。
――あの男だけは、俺が、この手で、止めなければならない。
それは、もはや、個人的な憎悪ではなかった。
アレン・ウォーカーとしてでも、ロードとしてでもない。
ただ、そこに在る、一つの魂として。
この、狂った世界への、反逆。
俺は、錆びた剣を、強く、握りしめた。
目指すは、ただ一つ。
全ての元凶が待つ、あの黒雲の中心。
王城。
その時、地下水道の、別の通路から、複数の、足音が聞こえてきた。
敵か?
俺は、身構えた。
だが、闇の中から現れたのは、見知った顔だった。
《……団長……! ご無事で……!》
バルドだった。
彼の後ろには、再編された、アンデッドの軍勢が、静かに控えている。
彼らは、郊外の森から、この王都の異変を察知し、俺を探して、ここまで来てくれたのだ。
俺は、何も言わなかった。
ただ、彼らを見渡し、そして、王城の方角を、顎で、示した。
それだけで、十分だった。
彼らの魂の火が、主君の覚悟に応えるように、一斉に、強く、燃え上がった。
最後の戦いが、始まろうとしていた。




