第3話:ロードと呼ばれる者
奇妙なことだった。
あの夜、人間を殺した後から、俺の周りのアンデッドたちが、少しだけ変わった。
前はただついてくるだけだった。それが今では、俺が歩けば道を空け、俺が止まれば円陣を組んで周囲を警戒するような素振りを見せる。知性なき者たちの、本能だけの敬意。あるいは畏怖。
奴らは、俺を「王」か何かだと思っているようだった。
滑稽だ。俺は王じゃない。ただの、骨だ。
俺の胸には、穴が空いたままだった。
あの若い兵士に砕かれた肋骨。欠けた骨片が歩くたびにカラカラと鳴って、どうにも煩わしい。
ある日、俺は足を止めた。
討伐隊の隊長だった男の亡骸。既にカラスか何かに肉をついばまれ、無残な骸と化している。
俺は、その亡骸の前に屈み込んだ。
何をするでもなく、ただ、じっと見ていた。
この男にも、母親はいたのだろうか。帰りを待つ誰かが。
なぜ、そんなことを考えたのか。
ふと、男の胸骨が目に入った。
立派な骨だ。俺の欠けた肋骨よりも、ずっと、太くて頑丈そうだ。
俺は、まるでりんごでももぐかのように、その肋骨を一本、引き抜いた。メキリ、と嫌な音がした。
そして、それを、自分の胸の穴に押し込んだ。
サイズが合うはずもない。だが、不思議なことに、男の骨は俺の体に吸い込まれるように収まり、欠けた部分と融合した。傷口が塞がるような、奇妙な充足感。
その瞬間だった。
頭の中に、流れ込んできた。
映像と、感情と、知識の濁流。
知らないはずの男の人生。
初めて剣を握った日の高揚。
妻だとおぼしき女との、慎ましい夕食の風景。
部下たちと交わした、くだらない冗談。
そして、死ぬ間際の恐怖と、国への忠誠心。
「う……ぉ……」
声にならない声が、顎の骨を震わせた。
他人の記憶。他人の感情。それが、俺の中に無理やり詰め込まれて、混ざり合っていく。気持ちが悪い。吐き気がする。胃なんてないくせに。
同時に、俺は理解していた。
男の知識が、俺のものになっている。
【小隊指揮】
【陣形構築:初級】
【剣術:王国式三型】
言葉と、その意味が、自然と頭に浮かんでいた。
これが、俺の力なのか。
他者の骨を取り込み、その魂ごと喰らう。
なんて、悍ましい。
だが。
眼窩の蒼い火が、ぎらりと強く燃えた。
使える。この力は、使える。
俺は立ち上がった。
後ろで控えていたアンデッドたちを見渡す。今まではただのガラクタにしか見えなかった。だが、今は違う。
駒だ。
どう動かせばいいのか、どう配置すれば最大の効果を発揮するのか、手に取るように分かる。
俺は、右手の骨を、無言で振り上げた。
そして、振り下ろす。
アンデッドたちが、一斉に動き出す。ゾンビが前衛、スケルトンが後衛。単純だが、ただの烏合の衆だった昨日までとはまるで違う、一つの「軍」としての形がそこにはあった。
彼らは、俺を「ロード」と呼んでいるのかもしれない。
声には出さないが、その魂が、そう叫んでいる。
そう感じる。
主。
いいだろう。
ならば、俺はロードになろう。
この骨の軍勢を率いて、何もかもを喰らい尽くす、災厄の王に。
その日から、俺たちの狩りは変わった。
もう、無闇に突進したりはしない。
俺は地形を読み、罠を張り、敵を誘い込む。
谷を通りかかる商隊を襲った。崖の上からスケルトンに岩を落とさせ、混乱したところをゾンビの壁で囲い、俺が止めを刺す。完璧な奇襲だった。
護衛の傭兵は手練れだったが、俺の敵ではなかった。
その傭兵の頭蓋骨を、俺は自分の背骨に組み込んだ。
また、新しい記憶が流れ込んでくる。
ギャンブルで負けた悔しさ。酒場の女の匂い。遠い故郷の、黄金色の麦畑。
記憶を喰らうたびに、俺の中の「俺」が、希薄になっていくような気がした。
空っぽの器に、他人の人生の残り滓がどんどん溜まっていく。
いつか、俺は、俺でなくなってしまうのだろうか。
……いや、最初から、俺なんていなかったのかもしれないな。
俺は、奪った荷馬車から、一枚の地図を見つけた。
この国の地図だ。
嘆きの谷。俺たちがいる場所。そして、そこから東へ向かえば、砦がある。さらにその先には、大きな街が。そして、王都が。
王都。
その文字を見た瞬間、胸の奥で、何かが激しく脈打った。心臓などないはずなのに。
蒼い魂の火が、憎悪で赤く、燃え上がった。
行かなければ。
そこへ、行かなければならない。
俺の全てを奪った何かが、そこにいる。
俺は地図を握りしめ、東の空を睨んだ。
ロードは、進む。
骨の同胞を率いて。
ただ、心の渇きを癒すためだけに。