第2話:骨の同胞
谷には風が吹いていた。
乾いた風だ。岩の表面を撫で、骨の隙間を通り抜けていく。ヒュウ、と鳴る音は、誰かのすすり泣きのようでもあった。あるいは、ただの風の音か。
俺は歩いていた。
どこへ向かうというわけでもない。ただ、この憎悪が指し示す方角へ。太陽が忌々しくて、だから背を向けて。それだけの理由で西へ。
カタリ、と足元で音がした。
見れば、一体のゾンビが俺の足に縋り付いていた。腐り落ちた顎をカクカクとさせ、何かを求めている。その瞳は濁ったビー玉のようで、何も映してはいなかった。ただ、本能だけだ。より強い魔力を持つ俺に引き寄せられた、虫けらのような本能。
剣を振り上げた。
こいつの頭蓋を砕いて、黙らせてやろう。そう思った、はずだった。
なのに、剣は振り下ろされなかった。なぜか。自分でも分からなかった。
ゾンビは、なおも俺の脛骨を掻きむしる。爪はとうに腐り落ちているから、カリ、カリ、と虚しい音がするだけだ。
俺は、その汚れた頭部に、骨の手を伸ばした。
なぜそんなことをしたのか。
ゾンビの動きが、ぴたりと止まる。濁った瞳が、ほんの少しだけ、俺の眼窩の蒼い火を映したような気がした。
行け。
声にはならない。思考だけが、命令として伝わる。
ゾンビはゆっくりと俺から離れ、おぼつかない足取りで、俺の少し前を歩き始めた。まるで、露払いのようだ。
それが、始まりだったのかもしれない。
一人、また一人と、俺の後ろをついてくる者が増えていった。一体のスケルトンは、どこで見つけたのか、折れた槍を杖のようについている。別のゾンビは、片腕がちぎれていた。みんな、ガラクタだった。壊れて、捨てられて、忘れられたモノたちの集まり。
俺が何かを言ったわけじゃない。ただ、俺が歩くと、奴らも歩いた。俺が止まると、奴らも止まった。まるで、俺が北極星で、奴らはそれに導かれる鉄くずみたいだった。
気がつけば、三十ほどの集団になっていた。
これが、軍勢? 笑わせる。ただの死体の行列だ。烏合の衆、という言葉がもし記憶のどこかに残っていたなら、きっとそう思っただろう。
その日の夕暮れ。空が血と膿のような色に染まる頃、俺たちはそれを見つけた。
人間だ。
五人。革鎧を着て、剣を下げている。見張りだろうか。岩陰に隠れて、火を囲んでいた。楽しそうに、何かを話している。その口元から漏れる白い息が、ひどく、気に障った。
憎い。
腹の底から、またあの黒い感情がせり上がってくる。
殺せ。殺せ。殺せ。
頭の中で、誰かが叫んでいる。俺か? それとも、俺ではない誰かか。
俺は、無言で剣を抜いた。
後ろのガラクタたちが、それに呼応するように唸り声を上げる。
作戦、なんてものはなかった。
ただ、あいつらを八つ裂きにできれば、それでよかった。
俺が駆け出す。
他のアンデッドたちも、なだれを打ってそれに続いた。
「敵襲!アンデッドだ!」
人間のうちの一人が叫ぶ。一瞬の驚きの後、彼らはすぐさま剣を抜き、隊列を組んだ。思ったより、手練れらしい。だが。
関係ない。
真正面から突っ込む。
先頭の男が繰り出した剣を、俺は紙一重で弾いた。キィン、と耳障りな金属音。男の目が驚きに見開かれる。
「こいつ、動きが違う!」
そう叫んだ男の喉に、俺は錆びた剣を突き立てていた。ゴボリ、と熱いものが骨の手に掛かる。生きた人間の血。それは、俺の中の憎悪をさらに掻き立てる燃料になった。
乱戦になった。
俺の周りで、ガラクタたちが次々と斬り伏せられていく。腕が飛び、頭が砕ける。だが、誰も悲しまない。痛みも感じない。ただ、人間の数を減らすためだけの肉壁だ。それで、いい。
俺は二人目の心臓を貫き、三人目の足を斬り払った。
人間たちは強かった。だが、俺はそれ以上に、殺すことだけを知っていた。体が、その方法を覚えている。どうすれば骨を断ち、肉を裂けるのか。どうすれば、命の灯を最も効率よく摘み取れるのか。
やがて、生き残った人間は一人になった。
若い男だった。顔中を返り血で汚し、ぜえぜえと肩で息をしている。その目は、恐怖と、そして俺への憎しみで燃えていた。
「化け物が……!」
男は叫びながら、最後の力を振り絞って斬りかかってきた。
俺は、その剣をいなすことすらせず、ただ受け止めた。
男の剣が、俺の左の肋骨に深々と突き刺さる。ゴキン、と鈍い音がして、骨が砕けた。
痛みはない。
だが、何かが、軋んだ。
男は、剣が確かな手応えで刺さったことに、一瞬安堵の表情を浮かべた。その一瞬が、彼の命取りだった。
俺は、自分の胸に刺さった剣ごと男を抱き寄せ、右手の剣で、その背中を貫いた。
男の体が、びくりと痙攣する。
耳元で、か細い息が漏れた。
「……かあ……さん……」
それが、彼の最後の言葉だった。
俺は男を突き放し、胸の剣を引き抜いた。
ぽっかりと空いた胸の穴。そこから、乾いた風が通り抜けていく。
静かになった。
生き残ったアンデッドは、十にも満たなかった。彼らは、ただ黙って俺を見ていた。
俺は、夜空を見上げた。
星なんて、一つも見えなかった。
ただ、黒いだけだった。
憎悪は満たされただろうか。いや、違う。むしろ、渇きは増している。
肋骨の穴が、ひどく、寒かった。