第13話:宰相の微笑
王都ルミナス。
その中央に聳える白亜の城の一室。
宰相オルティスの執務室は、彼の性格を映したかのように、整然としていた。
壁一面を埋め尽くす書棚には、歴史書や法律書が背表紙の色まで揃えられて並んでいる。
磨き上げられた黒檀の机の上には、一分の隙もなく書類の山が積まれていたが、それは乱雑というよりは、むしろ機能的な城壁のように見えた。
オルティスは、羽ペンを走らせていた。
その顔は、能面のように無表情だった。
だが、その瞳の奥では、常に何千もの思考が、冷徹な計算を繰り返している。
扉が、静かにノックされた。
「入れ」
オルティスの許可を得て、入ってきたのは、彼の腹心である情報長官だった。
痩せた、神経質そうな男だ。
「――宰相閣下。嘆きの谷の、ジェラール卿より魔術通信です」
「聞こう」
オルティスは、ペンを置くこともなく、視線も書類に落としたまま答えた。
情報長官は、手にした水晶に魔力を込め、そこから聞こえてくるジェラールの声を受信し始めた。
内容は、砦を巡る戦況の報告。
聖女セレスティアの力によって、敵軍の半数を浄化したこと。
しかし、「骨の王」の単騎突撃によって陣形を乱され、取り逃がしてしまったこと。
そして、敵が砦に立てこもり、新たなアンデッドを呼び覚まして、戦力が回復してしまったこと。
報告が終わると、情報長官は恐る恐るオルティスの顔色を窺った。
「……ジェラール卿は、聖女様のご意志も固く、明朝、砦への総攻撃を仕掛ける、と」
「よかろう。許可する、と伝えよ」
オルティスの声は、どこまでも平坦だった。
「は、はっ。しかし……よろしいので?」
情報長官は、戸惑いを隠せない。
「敵は、我々の予想を遥かに超える脅威です。王都の騎士団主力を、これ以上消耗させるのは……」
そこで初めて、オルティスは顔を上げた。
そして、静かに、微笑んだ。
それは、聖人の肖像画のような、慈愛に満ちた笑みだった。
だが、その目だけは、一切笑っていなかった。
「何を、案じている?」
オルティスは、ゆっくりと立ち上がると、窓辺へと歩いた。
窓の外には、壮麗な王都の街並みが広がっている。
「ジェラールは、愚直だが、有能だ。そして何より、王女様がいらっしゃる」
彼は、窓ガラスに映る自分の顔を見つめながら続けた。
「聖女様の奇跡は、民の心を掴む。騎士たちの士気を高める。彼女が前線に立ち、勝利を収める……これ以上の物語があるかね?」
「……はぁ」
「たとえ、騎士団がどれほど消耗しようと、構わんよ」
オルティスの声の温度が、一度、下がった。
「むしろ、好都合だ。古参の、扱いにくい騎士どもが減ってくれれば、私の息のかかった若い者たちを、いくらでも後釜に据えられる」
情報長官は、息を飲んだ。
この男は、王国の騎士団を、ただの捨て駒としか見ていない。
「それに……」
オルティスは、指先で窓ガラスを、こつり、と叩いた。
「あの『骨の王』……面白いではないか」
その言葉に、情報長官は背筋が凍るのを感じた。
「面白い、と……申されますか?」
「ああ。アレン・ウォーカー……あの男は、生前、私の理想の騎士だった。強く、清廉で、愚直なまでに国に忠誠を誓っていた。だからこそ……邪魔だったのだがね」
オルティスは、楽しそうに喉を鳴らした。
「その彼が、アンデッドの王として蘇り、かつて自分が守った国に牙を剥く。皮肉なものだ。最高の悲劇だ。私は、この物語の結末が、どうなるのか、見てみたくて仕方ないのだよ」
この男は、狂っている。
情報長官は、そう確信した。
この王国も、聖女も、そしてあのアンデッドの王さえも、全ては、この男が描く脚本の上で踊る、ただの駒でしかないのだ。
オルティスは、再び机に戻ると、一枚の羊皮紙を取り出した。
そこには、複雑な魔法陣が描かれている。
死霊術に関する、禁断の術式。
「さて……舞台が盛り上がってきたのだ。私も、少しばかり『演出』を加えてやるとしよう」
彼は、執務室の壁に隠された、秘密の書庫の扉を開いた。
その奥は、ひやりとした、墓場の空気が漂っていた。
棚には、法律書ではなく、人の皮で装丁された、おぞましい魔導書が、何冊も並べられている。
そして、その中央には、一つの水晶が置かれていた。
水晶の中には、黒い霧のようなものが渦巻いている。
オルティスは、その水晶を、愛おしそうに撫でた。
「もう少しだ……もう少しで、この国は、本当の意味で、私のものになる……」
宰相の微笑みの下で、王国の運命は、静かに、そして確実に、蝕まれていっていた。




