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第10話:忘れえぬ痛み

 俺は、逃げるように戦場を離脱した。

 背後で、王国騎士団の上げる鬨の声が遠ざかっていく。

 勝利を確信した、愚か者たちの声だ。


 俺の軍勢は、聖女の光によって半数近くが浄化され、残った者たちも、その動きは鈍い。

 バルドが、どうにか部隊をまとめて、俺の後に続いていた。


《……団長、お見事な突撃でした。あの女の祈りが止んだおかげで、全滅は免れましたが……》


 バルドの思念は、安堵よりも、俺への心配を含んでいた。

 俺は何も答えなかった。

 ただ、フェイドの背に揺られながら、自分の骨の手を見つめていた。


 この手で、あの女を殺せたはずだった。

 なのに、なぜ。


 頭痛は、まだ続いていた。

 断片的な記憶が、嵐のように頭の中を駆け巡る。

 金色の髪。青い瞳。笑い声。涙。

 その全てが、俺の胸――いや、肋骨の隙間を、鋭い刃物で抉るように痛んだ。

 憎悪とは違う。もっと、どうしようもなく、甘い痛みだ。

 忘れてしまっていたはずの、遠い日の傷跡。


 俺たちは、占拠した砦へと撤退した。

 壁の上から、追撃してくる王国軍の姿を見下ろす。

 彼らは、砦を取り囲むように陣を敷き、すぐには攻めてこないようだった。

 こちらの被害も大きかったが、彼らもまた、俺の単騎突撃によって混乱し、消耗していたのだ。

 睨み合いが、始まる。


 俺は、砦の最も高い塔の上で、一人、戦場を見下ろしていた。

 王国軍の本陣。

 あそこに、あの女がいる。セレス、と呼ばれていた、聖女。


 彼女は、一体誰なんだ。

 俺と、アレンという男と、どういう関係だったんだ。


 知りたい。

 だが、知りたくない。


 思い出せば、きっと、この憎悪が鈍ってしまう。この復讐心が、揺らいでしまう。

 それだけは、あってはならない。

 これは、俺が俺であるための、唯一の支えなのだから。


 その時、俺の懐で、何かが微かに、温かくなったような気がした。

 アルゴスの鬣から見つけた、あの革袋。

 取り出してみると、革袋そのものが、淡い光を放っている。

 警戒しながら、中身を取り出す。

 硬く、冷たい石。

 だが、今は、まるで人の肌のように、温かい。そして、その石の表面には、微かな紋様が浮かび上がっていた。


 グリフォンの紋様。

 白銀のグリフォン騎士団の、紋章。


 この石が、あの女の光に共鳴しているのか?

 俺は、その石を握りしめた。

 また、記憶が流れ込んでくる。


 ―――これは、わたくしの祈りを込めた、聖涙石です。

 ―――貴方が、どんな暗闇にいても、道を見失わないように。

 ―――わたくしの光が、きっと、貴方を導きますから。


 やめろ。

 思い出すな。


 俺は、その石を投げ捨てようとした。

 だが、できなかった。骨の指が、石を固く、固く握りしめて離さない。


 一方、王国軍本陣では――


 セレスティアは、自らの天幕の中で、一人、膝を抱えていた。

 彼女の心は、嵐のように乱れていた。


 あの「骨の王」。

 忘れられるはずがない。

 あの、馬上での剣の構え。

 それは、アレンが、彼女だけに教えてくれた、彼独自の構えだった。

 他の誰も、知らないはずの。


 そして、あの蒼い魂の火。

 見つめられた瞬間、彼女の胸のペンダントが、熱を帯びたのだ。

 まるで、遠い昔の約束を思い出したかのように。


 ありえない。

 あってはならない。

 アレン様は、英雄として、嘆きの谷で殉職されたはず。

 あんな、憎悪と死を振りまく化け物であるはずが、ない。


「……嘘……ですよね……?」


 震える声が、誰にともなく問いかける。

 だが、心のどこかで、分かっていた。

 あれは、彼だ。

 変わり果てて、記憶さえ失って。それでも、魂の奥底に残る何かが、彼女にそう叫んでいた。


「王女様、ジェラールです。入っても?」

 天幕の外から、騎士団長の遠慮がちな声がした。


 セレスティアは、涙を拭い、気丈に顔を上げた。

「ええ、どうぞ」


 入ってきたジェラールは、厳しい顔をしていた。

「……王女様、先ほどの突撃、お怪我は」

「私は、大丈夫です。それより、ジェラール卿、お願いがあります」


 セレスティアは、決意を秘めた瞳で、騎士団長を見つめた。

「……明日の総攻撃の際、あの『骨の王』は……わたくしが、一人で」


「なりませぬ!」

 ジェラールは、即座に否定した。

「危険すぎます! あれは、ただのアンデッドではない。あれは――」


「分かっています」

 セレスティアは、彼の言葉を遮った。

「だからこそ、です。確かめなければならないことがあるのです。この国の、そして、わたくし自身の、過去のために」


 彼女の瞳に宿る、揺るぎない覚悟。

 ジェラールは、それ以上、何も言えなかった。


 その夜、二つの陣営で、二つの魂が、同じ痛みを抱えていた。

 一つは、失われた記憶の痛み。

 もう一つは、信じたくない真実の痛み。

 夜が明ければ、二つの痛みは、戦場で再び、激しくぶつかり合うことになる。


第1部 亡霊の咆哮編・完


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