第1話:蒼い火、嘆きの谷にて
英雄は死んだ。
人々は彼の死を悼み、その栄誉を讃えた。
吟遊詩人は彼の武勇を歌い、子供たちは彼の名を教科書で学ぶ。
王国のために殉じた白銀の騎士は、誰もが憧れる、完璧な英雄譚として語り継がれた。
――実に、滑稽な茶番劇だった。
真実は、嘆きの谷の泥濘に埋められた。
光の届かぬその場所で、英雄の亡骸は静かに起き上がる。
記憶も、感情も、温かい血も、全てを失って。
ただ一つ、魂に灼きついた黒い憎悪だけを道標にして。
金色の髪の聖女は、今日も英雄の墓標に祈りを捧げる。
彼の魂が、光の御許で安らかにあるように、と。
その祈りが、最も届いてはならない相手に届いていることなど、知る由もなく。
これは、裏切られた男の復讐の物語か。
それとも、忘れられた愛を取り戻す物語か。
あるいは、そのどちらでもない、ただの悲劇か。
その答えは、まだ誰も知らない。
ただ、風が哭き、骨が軋む音がする。
さあ、ページをめくろう。
亡国の騎士が、骨となりて嗤う、その声を聞くために。
意識は、底なしの泥濘から引き上げられるように浮上した。
最初に感じたのは、感情だった。
思考ではない。感覚でもない。ただひたすらに黒く、灼けつくような激情。
――憎い。
何が、誰が、なぜ。そんな理屈はなかった。魂と呼べるものがあるのなら、その中心核にこびりついた原初の感情がそれだった。
憎悪。それだけが、俺のすべてだった。
次に、視界が生まれた。
灰色と茶色が支配する、荒涼とした世界。ひび割れた大地、風に削られた奇岩、そして、天を突くように転がる巨大な獣の骨。空は病的な鉛色に淀み、太陽の光さえもここでは死んでいるようだった。
「……ここは」
声を発したつもりだった。だが、音は出ない。喉も、声帯も、息をするための肺すら存在しないのだと、そこで初めて理解した。
俺はゆっくりと、自分の手を見下ろす。
そこにあったのは、肉も皮もない、黄ばんだ骨の手だった。指を動かせば、カチリ、と乾いた音が鳴る。俺は骸骨――スケルトンになっていた。
混乱よりも先に、奇妙な納得があった。この死にきれぬ体こそ、この燃え盛る憎悪を宿すにふさわしい器だと、本能が告げていた。
記憶はなかった。自分が何者で、なぜこんな姿で、こんな場所にいるのか、何一つ思い出せない。だが、不思議と焦りはなかった。過去などどうでもいい。ただ、この憎悪の衝動に従えばいい。それだけは、確信できていた。
俺は立ち上がる。骨と骨が軋む音が、この静寂な谷によく響いた。周囲には、俺と同じように土から這い出たばかりのアンデッドたちがいた。腐肉を垂らしたゾンビ、空っぽの眼窩で虚空を見つめるスケルトン。だが、彼らは違う。彼らの瞳には、何もない。俺の眼窩の奥で、蒼い魂の火が静かに、しかし力強く燃えているのとは対照的に。
その時だった。
岩陰から、甲高い奇声と共に三体のゴブリンが飛び出してきた。緑色の醜い肌、獣のような目、手には粗末な棍棒。彼らは、動くものなら何でも獲物と見なす、この谷の卑しい捕食者だ。
ゴブリンたちは、知性のない他のアンデッドを無視して、明確な意志を持って佇む俺に狙いを定めた。
武器は。
思考するより早く、体が動いていた。足元の土に半ば埋もれた、一本のロングソード。柄は腐りかけ、刀身は赤錆に覆われている。だが、それを握った瞬間、驚くほど手に馴染んだ。まるで、幾千幾万の時を共に過ごした相棒のように。
一体目が棍棒を振りかぶって突進してくる。
遅い。
全てが、驚くほどゆっくりと見えた。俺は体を半身にずらし、最小限の動きで攻撃をかわす。すれ違いざま、錆びた剣が空気を切り裂いた。抵抗なく、ゴブリンの首が宙を舞う。血飛沫も、肉を断つ感触もない。ただ、結果だけがそこにあった。
二体目と三体目が、仲間の死に怯むことなく左右から同時に襲いかかってきた。
これも、知っていた。挟撃への対処法を、体が覚えていた。
左足で地面を強く蹴り、後方へ跳ぶ。二体のゴブリンが中央で衝突し、一瞬動きが止まる。その隙を見逃さない。踏み込み、流れるような動きで剣を横に薙ぐ。二つの胴が、同時に崩れ落ちた。
戦闘は、ほんの数秒で終わった。
俺は、自らの骨の手と、錆びた剣を見下ろした。
――なんだ、これは。
記憶にはない。だが、この体に染み付いている。敵の動きを読み、最も効率的に、最も美しく命を刈り取るための技術。まるで、呼吸をするかのように自然に、俺はそれをやってのけた。
自分の正体も分からぬまま、確かなことが一つだけ増えた。
俺は、ただの骸骨ではない。
俺は、戦うために生まれた存在だ。
静寂が戻った谷に、新たなうめき声が響いた。
今度の敵は、同族だった。知性のないゾンビやスケルトンたちが、俺の魂の火が放つ微かな魔力に引き寄せられ、敵意をむき出しにして迫ってくる。彼らは、仲間ではない。ただの障害物だ。
俺は剣を構え直した。
一体、また一体と、骨の残骸を増やしていく。彼らの攻撃は単調で、避けるに値しない。剣を振るうたびに、この憎悪が満たされていくような、歪んだ快感があった。
やがて、動くものは俺一人になった。
ゴブリンの死体と、アンデッドの骨片が散らばる大地に、俺は静かに佇む。
眼窩の蒼い火が、ゆらりと揺れた。
この谷は狭すぎる。
この憎悪を満たすには、こんな場所では足りない。
もっと、もっと多くの人間がいる場所へ。俺から全てを奪ったであろう、あの忌まわしい者たちがいる場所へ。
俺は歩き始めた。
名前も、過去も持たない骸骨の騎士は、ただ燃え盛る復讐心だけを道標に、嘆きの谷を後にする。
その先に何が待っているのか、知る由もなかった。