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首螽斯・3

斑猫は、足の爪先からじわじわと恐怖に侵食されていくのを感じていた。

唾液で濡れていたはずの舌が、急速に干上がっていく。張り付く喉の不快感に、唾を飲み込みたかったがその唾もわいてこなかった。


自分が起こした何かしらの動作を見た刹那に、相手は即座に襲いかかってくるだろうという確信があった。


呼吸がままならない。手足は強ばって、小刻みに震えていた。

剥き出しの殺意は、赤子同然の斑猫を萎縮させるには充分すぎた。

酸素を欲した肉体が大きく息を吸った、吸ってしまった。


その掠れた喉の音が鳴るか否や、首螽斯は駆けていた。


刀は、今度は持っていない。

首螽斯の体が動いた。


斑猫の判断が終わるか終わらないかの瞬間に、首螽斯の体が高速で捻られる。

首のあたりに繰り出された回し蹴りを、斑猫は咄嗟に片腕を上げて防ぐ。


腕の骨が軋んだ。ただの強力な蹴りでは無い。

強烈な痛みに恐怖は麻痺し、肉体はいささかの冷静さを取り戻した。

靴先のあたりに、硬い感触があった。

鉄板か何かが仕込まれている。顎か首に当たっていれば、そのまま骨を砕かれていた。


間合いを取ろうにも、すぐさま距離を詰められてはどうしようも無い。


首螽斯の手が、刀にかかった。

刀の軌道ならば、だいたい想像がつく。

首か、胴か、足か。


振り抜く瞬間は、相変わらず目で追えない。

白刃のきらめきは軌跡を描いて、上に向かって伸びていく。


首だ!


斑猫は、瞬時に体を仰け反らせた。再び躱すことに成功した安堵は、すぐさま別の衝撃で消え失せた。


「ぐあっ!」


靴が、腹にめり込んでいた。

避けられることを予測していたのだろう。刀の初撃は誘導で、仰け反って無防備な斑猫に蹴りを叩き込んだのだ。

腹筋が、衝撃を吸収しきれなかった。筋肉を通して柔らかな内臓が痛む。


胃液の混ざった吐瀉物の酸味が喉を灼き、口と、鼻腔から迸った。

思わず体勢をくの字に崩したところで、さらに蹴り付けられて転ばされた。

地面に、激突する。

顔面が叩きつけられ、鼻の軟骨が潰される気配があった。

鼻腔の粘膜が傷つけられ、どぷり、と血が溢れ出す。

血の臭いと混ざって、割れた土の独特の黴臭さが鼻をついた。

転倒した斑猫の身体は、そのまま二、三度、回転し、そして止められた。


「この程度か『斑猫(タイガービートル)』。君如きに50万ドルの賞金は不相応と言うもの」


うつ伏せに転んだ上体にかかる圧力。

首螽斯が、己の体を片足で踏みつけ、地に縫いとめていた。

まるで靴の泥を縁石に擦り付けるくらいの様子で、軽く足を乗せているだけだ。

だというのに。

藻掻くことはできても、振り払って体を起こすことは出来ない。


恐ろしい力だった。プレス機で挟まれ、潰されかけているような錯覚を覚える。


「感謝する。君の首で、僕はまた名を上げることができる」


そういって首螽斯は、手にした刀を斑猫の首目掛けて振り下ろした。

斑猫は、もはや逃げられぬと悟り、固く目を閉じた。

首を切り離されても、すぐに死ねるわけではない。それでも力を抜いておけば、眠るように死ねるような気がした。


が、肉を断つ刃の感触はいつまで経っても襲ってこない。

斑猫の首を、胴体から切り離すかと思われた首螽斯の刀は、斑猫の首すれすれで止まっていた。


いや、首螽斯自身は斑猫の首を、斬ろうとはしている。

だが、刃を首に当てたまま、それ以上押し込むことが出来ない。

斑猫は、今の体勢では己の首を見ることが出来ない。

故に、己の首の皮膚が黒く染まり、硬質なものに変化していることを、把握出来なかった。


「やはり、そう簡単に首は切れないか」


首螽斯が、苦々しく吐き捨てた。

斑猫は目を開いた。

どくどくと、身体を巡る血の奔流が勢いを増していく感覚があった。

死の恐怖が間近に迫る異様な状況に、交感神経が活性化して身体が緊張状態にあるのだ。


額に、汗が滲んでいく。

刃は何故か自分の首で止まっているが、突きつけられていることには変わりない。

どうにか首螽斯を振り払えやしないかと、身じろいだ。

先程よりも、かかる力は弱くなっているような気がした。


否、己の力が、高まっている。


脈打つ心の臓から送り出される紅の血潮が、身体を火照らせる。指先まで巡り、流れるその度に、肉体に力が注ぎ込まれていくようだった。

身体を、刃が当てられている方向とは反対に捻った。

靴底は、簡単に浮いた。

己の身体を地に縫い止めていた忌まわしき右脚は、拍子抜けするほどあっさり外れた。

それどころか、右脚を軽く弾き飛ばしてもいた。

首螽斯が弾かれた右脚も戻すのも忘れ、目を見張ってこちらを見つめている。


はじめは、相手が力を弛めたのかと思った。


斑猫の身体を地に踏みつける首螽斯の力は強く、身体を捻るどころか腹式呼吸すらも満足にできないほどであった。とても、力を込めたところで振り解けるようなものでは無かった。


それが、今は簡単に退けることができた。


解放された肉体に戸惑いながら、身体を起こす。

冷たい風が頬を撫でた。


風に乗って流れてくる土や、空気のにおいが、鼻を刺激する。

感覚が、酷く鋭敏になっていた。

先程までは聞こえなかった相手の息遣いも、規則正しい鼓動すらも聴こえる。

さらに耳をすませば、血管を駆け巡る血液の轟音さえも。

神経が伸びていく。


身体は、熱を持っていた。


心臓は、変わらず早鐘を打っている。

それでも、絶望的なこの状況下に、斑猫は僅かな光明を見出していた。

─────この男から、逃げられるのかもしれない。

正常な思考が鎌首を擡げた。冷たい興奮が、背筋を震わせる。

乾いた鼻血が、唇にこびりついているのを舐め上げる。鉄の味がした。


相手が、一歩踏み出した。


じゃりっ


散らばったアスファルトの破片を踏む、微かな音。

その音一つだけでも、十分過ぎるほどの刺激だった。


首筋が総毛立っていく。


神経を身体から引きずり出されて、剥き出しにされたようだった。

大量の情報が奔流となって脳に流れ込んでくる。

首螽斯は、斑猫を警戒しているらしい。攻め方を悩んでいるけはいがあった。


一拍の間を置いて、跳んだ。胸の辺りを狙って、斬撃が来る。


刀をくぐるように、膝を使って左下へと上体を屈ませる。

脚は地に止めたまま、肉体は次の攻撃へと滑らかに動いていた。


もう、そこに恐怖は残っていなかった。


斬撃の軌道を変え、首螽斯は刀を袈裟懸けに振り下ろした。

避けきれなかった白刃が、斑猫の頬を掠めていった。切り落とされた幾本かの髪が、ぱらぱらと落下する。


首螽斯が刀を引く前に、斑猫は思い切り腕を伸ばした。

迅い。得物を扱う首螽斯は、対処できない。

掴んだのは、相手の腕だ。

斑猫の右の手は、狙い過たず、首螽斯の右手首を握りこんでいた。


みしっ。


厭な音がした。

技も何も無い、ただ手首を掴んだだけのはずが、骨を砕いていた。

ぶち、と筋繊維の切れる音が聞こえた。

右の手首をやられた首螽斯の喉から、苦痛の呻きが漏れ出た。

折れた手首がぶるぶると震え、刀が、手から溢れ落ちた。


獲物を奪える好機である。

しかし斑猫は、地に落ちた刀を取ることはできなかった。


取る前に、首螽斯が蹴りをぶち込んできた。


凄まじい衝撃と共に後方へと跳ね飛ばされるも、先程と違って内臓部に痛みは感じなかった。

筋繊維の一本一本が、ぐっと太さを増したように思えた。

今や斑猫の腹筋は、鉄板の仕込まれた蹴りによるダメージを吸収出来るまでに分厚く堅牢になっていた。


首螽斯と目が合った。まっすぐな輝きを湛えていたはずが、苦痛と、狼狽で瞳が揺れていた。


ずくり、と肉体の内で凶暴な澱みが蠢いた。


斑猫は、気づいた時には自ら距離を詰めていた。

強烈な歓喜が、肉体を貫いていた。自在に動くこの強靭な肉体で、思うがままに暴れたいという欲望が肉体を突き動かす。

 

斑猫の無造作な攻撃を、首螽斯は左へ、右へと上体を逸らしながら躱していく。右手を庇いながらのその動きは、どこか精彩に欠けていた。


首螽斯は、とうとう地を蹴って宙へ逃れた。

後方へ跳んでいた。

脚力だけだというのに、5メートルはある跳躍だった。

もはや人というより、獣の動きであった。


斑猫もまた、それを追って跳んでいた。

人間離れした跳躍に、瞬く間に追いついていた。


伸びやかな跳躍のまま、俊敏に伸ばされた左手は空中へと遠ざかる首螽斯の、足首を掴んだ。


「きみ、は……やはり…!」


首螽斯は、何かしら叫んでいた。

斑猫はその叫びを聞き取らぬまま、もつれ合ったふたつの影は落下した。


高所からアスファルトに叩きつけられた両者の頭蓋は柘榴のように砕けることなく、綺麗なままであった。

落下の衝撃から真っ先に復活したのは、斑猫だった。

首螽斯が身を起こす前に、思い切りのしかかり、両の手をその首にかけた。

そのまま、握り潰す勢いで締めた。


首螽斯は、藻掻く。

しかし、馬乗りになった斑猫はびくともしなかった。


それでも脚を振り上げ、厚手のグローブに包まれた指で呼吸を阻害する斑猫の手を掻き毟る。

もし、この男が素手であれば、自分の手は瞬く間に立てられた爪に皮膚を裂かれ、肉を抉り出されていたことだろう。


それ程に、強い力だった。

それでも今は、斑猫が力で男を上回っていた。


抵抗する男の首を、更に強い力で締め上げる。

気道を圧迫され、首螽斯がくぐもった呻き声を上げた。

巻かれた布から覗く顔が、真っ赤になっていた。

ただでさえ、防塵マスクで呼吸は制限されている。

首を絞められて抵抗する男の、マスクと顎の隙間から、何かが漏れでて斑猫の手を濡らした。


白く泡立った唾液だった。

体重をかけて押さえつけている身体が、痙攣している。


榛色の瞳が、ぐるり、と上を向いた。

泡を噴いて、首螽斯は意識を手放した。


このまま首を締め続ければ、この男は死ぬ。


斑猫は、そうするつもりだった。

掌の下にある柔らかい喉を、酸素を得ようと呼吸せんとする気道を押し潰すこのひとときが堪らなく心地よかった。


その恍惚を、一筋の痛みが打ち切った。

左肩に、灼熱と衝撃が生じ、肉を貫かれた痛みへと変わる。

視線を向ければ、ダーツのようなものが肩の肉に突き刺さっている。

更に、体を捻って肩越しに振り返る。

少し離れた場所に、暗闇に紛れて、人影が立っていた。

ライフルでもショットガンでもない。

細い銃身の、変わった形の銃を手にしている。

あれで撃たれたのだ。

理解すると同時に、急速に身体の力が抜けていく。


撃ち込まれたこのダーツのような形をした、弾のせいだ。


克明に感じ取っていた全ての感覚は曖昧になり、肉体も意識も緩みきっていく。


仲間が、もう一人いたのだろうか。


斑猫は状況を分析しようとするが、体の自由が急速に奪われていく今では、それさえもままならなかった。

全身が弛緩した斑猫は、そのまま首螽斯の身体の上に折り重なるようにして倒れ込む。


意識が途切れていく中、銃を構えたまま、自分を見据える人影と目が合った。

数十メートルは距離がある。朦朧と歪む視界では、人影の姿を捉えることはできない。

いや、ほんの僅かにかち合った視線を、斑猫は確かに捉えていた。


無感情に自分を見つめていたのは、そう、深く美しい青色の瞳───────




 


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