首螽斯・2
俺は何者だ?
意識を取り戻して、その問いが頭を占めるようになってから、もう随分と時が流れた。
斑猫は思考を整理していた。
記憶のない己にあれこれと世話をしてくれる錦という男は、世間の情勢や、仕組みについては教えてくれる。
しかし、己がどういう人間だったか?という疑問については、常にはぐらかされている。
長いこと意識が無かったのは確かだ。
錦の話では、二週間ほど昏睡状態だったと言うのだから、酷い怪我でも負っていたのだろうか。
しかし、その割には己の体には、ほとんど外傷は見られない。
錦は、寝ている間に怪我は治ったと言っていた。
事実、目を覚まして直ぐは、額には打撲痕のようなものがあり、包帯が巻かれていた。そしてそれは、過ごすうちに治癒していった。
矛盾は、気味の悪い程に無い。
知識は、ほぼ回復したといっていい。
蛇口を捻れば水が出ることも、買い物の仕方も、交通機関の使い方も、知っている。
だからこそ、自分に関する記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっているのが耐えがたかった。
自分の名前らしい『斑猫』、という呼び名でさえ馴染みが無い。
お前の名前は『斑猫』だと教えられたから『斑猫』と呼ばれる度に応じているだけで、事実、何も分かっていないに等しい。
『斑猫』という男は何を好み、何を嫌い、何をして過ごしていたのか。
蛇口を捻れば水が出ることは知っていても、その水で今まで何をしていたか、ということが分からない。
その水を飲んだのか、それとも顔を洗ったのか。全く思い出せないのだ。
まるでサイズの合わない靴や服で過ごすことを強いられているような気分だ。
ふと、頭に金槌で釘を打ち込まれたかのような、鋭い痛みが走った。
激しい頭痛に、斑猫は思わず額に手を当てた。
昔の自分を思い出そうとすると、こうやって頭痛や、目眩に見舞われる。
酷い時は、そのまま気絶してしまうこともあった。
何なら今も、気絶して目を覚ましたばかりだ。
気絶する前のことは、もっぱら覚えていない。
自分で眠気に任せて眠る分には覚えているのだが、失神した時はその前後数分の記憶が抜け落ちている。
そんな調子であるから、錦は自分に外に出ないよう何度も念を押している。
外で倒れられれば騒ぎになるし、やれ病院だ、警察だ、ということになりかねない。
理屈では分かっているのだが、なぜか自分は、錦が自分を外に出したくないからそう言いつけているような、そんな気が起こりつつある。
斑猫はベッドから身を起こした。
しばらく横たわっていたからか、体のあちこちが強ばってしまっていて、上手く動けない。
ベッドの縁から足を下ろして立ち上がろうとして、思わずよろめいた。
頬を冷たい風が撫でる。
風の吹いた方向へと目を向けると、窓が僅かに空いているのが分かった。
斑猫は窓枠の近くに歩み寄る。
風をはらんだ白いカーテンがまとわりついてくるのを乱雑に引き剥がし、窓枠に指をかけ、全開にする。
窓に嵌められていたはずの格子は、無くなっていた。
錦は外せなくて困っていると言っていたが、自分が眠っている間に外すことに成功したのだろうか。
陽はほとんど沈んでいて、空は藍色から薄暗い紫色のグラデーションを描いている。
鉄格子に阻まれていない外の景色を見るのは、新鮮だった。
風を受けて、ざわざわと木々の葉が漣を立てている。
錦は、この山には獣が出ると言っていた。
確かに、これだけ自然豊かな場所では、獣がいてもおかしくない。
川のせせらぎが聞こえるかと思ったが、聞こえなかった。
錦が普段汲んでいる水の水源は、もっと離れたところにあるのだろうか。
そんなことをつらつら考えながら眺めていると、森を超えたところに、いくつかの建造物が立ち並んでいるのが目に入った。
明かりがある。生活圏の存在を感じた。
遠く離れた街の景色を捉えた途端、胸がかき乱されるような焦燥が生まれる。
心臓の鼓動と、呼吸が早まっていく。
このまま窓を乗り越えれば、外に出られるのではないか。
見たところ、そこまで高さも無いようだ。
窓枠に足をかけて、地に降りて、そのまま外へと駆け出してしまいたい。
胸の内を渦巻き出した衝動のままに窓枠を掴んだところで、斑猫は、自分の着ている服が白い上下のパジャマであることに気づいた。
この格好では、どこかの病院に入院している患者が脱走してきたと思われるかもしれない。また、そうと思われずとも、人目を引くことは間違いない。
何か、着るものは無いだろうか。
部屋の隅にある木製のクローゼットを開けても、ハンガーにかけられているのは細身のジャケットやスーツばかりで、自分の体格に合いそうなものは見当たらなかった。
これらはどれも錦の服だろう。
気が引けるが、破けるのを覚悟で袖を通すしかないだろうか。しかしスーツはどれも質が良い生地のものばかりで、勝手に拝借するのははばかられる。
もう少しサイズが大きく、簡素な衣服が入ってはいないか。
引き出しを開けて漁っていた斑猫は、引き出しの底板に、僅かな隙間があるのを見つけた。
どうやら、収納スペースらしい。指先を差し込んで上へと底板を押しやると、中の空間と、入っているものが見えてきた。
入っていたのは、衣服だった。黒のタートルネックと、白いズボンが入っている。
大きさからして、男性物だろう。
試しに着ていたパジャマを脱ぎ捨てて着替えてみると、ぴったりだった。
袖は手首まであり、首まで覆われている。が、夕暮れにこれ一枚ではやや肌寒い。
などと考えながら引き出しに手を突っ込むと、畳まれた赤いコートと、黒いブーツが入っていた。
これ幸いと身に付けたところ、どちらもサイズはぴったりだった。
何故自分の体格に見合った服が、クローゼットに隠されていたのだろう。
斑猫は首を捻る。
いや、そもそもこれは自分がかつて着ていた服なのではないか。
やはり錦という男が、自分を外に出したく無い、という直感は間違っていない気がしてならない。
コートについていたフードを被って出ようとしたが、フードについているファーが邪魔で、やめた。
服は少し焦げ臭いような気もするが、この際贅沢は言ってられない。
斑猫は窓枠に足をかけて、そのまま外へと飛び出した。
記憶失って目覚めて以来錦に阻まれ続け、来る日も来る日も恋焦がれた外だ。飛び降りた際の地面の感触と、膝を伝わる衝撃すらも愛おしい。
好機だ。
何時もは錦に止められていたが、今その錦はいない。
勝手に部屋を後にすることに罪悪感が無いわけでは無いが、今は外に出られる喜びで胸が踊って仕方がない。
冷たい夜風が、無人になった部屋の中で、ただカーテンを揺らしていた。
きらりと、光るものがあった。
床に、何かが散らばっている。
それは、割れた鏡の破片だった。床に散乱するそれは、何者かによって破壊された痕跡がある。
バスルームも、デスクに備え付けられた鏡も、クローゼットの鏡も、割れて無惨な姿を晒している。
惨状に悲鳴のひとつでも上げてもいいはずだが、斑猫はまるで目に映ってないかのように、気にもとめなかった。
◆
「斑猫、遅くなった。今帰っ──」
ドアを開けながら帰宅を告げた錦は、室内の惨状を見て、そのまま言葉を失った。
鏡は割られ、クローゼットに入っていたはずの衣服は散乱し、何より窓の格子が何本か捻じ切られている。
閉めていたはずの窓は開いており、カーテンをはためかせながら風が吹き込んでいた。
錦の背筋を冷たいものが滑り落ちた。
「斑猫!?おい、斑猫!」
呼びかけても、返事は無い。
錦は慌ててベッドの下や、クローゼット、バスルームなどを確かめるが、いつもならばベッドで眠っているはずの男の姿はどこにもなかった。
一足遅く、ここが突き止められて連れ去られたか。
錦は歯噛みした。
腰につけたホルスターに入っている拳銃に指をかけようとして、足元に白いものが転がっていることに気づいた。
拾い上げてみればそれは、錦が斑猫に着せたパジャマだった。
まさか。
錦の胸中に厭な予感が飛来する。
散乱した衣服。開け放たれたクローゼット。引き出しの中の隠しスペースの底板が外され、空になっている。
そのスペースの中には、かつての斑猫の服一式を入れていたはずだ。
硝煙の臭いが染み付いたそれらを、どうしても捨てる気になれず。かといって今の記憶を失った斑猫に着せるのも気が引けた。
その結果、クローゼットの奥底の隠しスペースに入れていたのだ。
斑猫の衣服が消え、変わりに斑猫の着ていたパジャマがこの無人の部屋に残されている。
そこから導き出される答えは───
「記憶が戻った………?いや………違うな。奴の仕業なら、この隠れ家ごと灰にされてる」
錦は独りごちながら窓に近づいた。
外部から荒らされた形跡は無い。やはり、内側から出ていったのだ。
鉄製の格子は、よくよく見てみれば、強い熱を加えて捻じきったのか、断面が溶けて葡萄のようになっていた。
「……『あの』斑猫の仕業だな。しかし、何故だ?奴に記憶が戻っているなら、脱出よりも先に怒りのままにここを焼き尽くしそうなものだが………それとも、今の斑猫が気を失っている時、一時的に顕現したと考えた方が良いか……」
鉄格子の断面を撫でながら独り言ちると、錦は『三階から』、窓の外を見下ろした。
森の中にある、元々はホテルだった廃屋を改造して一時的な隠れ家として使っていた。そのため、景色といってもほとんど木々が並ぶだけだ。
地面は名も知らぬ雑草に覆われているが、土が露出した部分に大きめの足跡が疎らについているのが見て取れる。
つい少し前に、にわか雨が降ったのだ。地面の土は湿り、しっかりと靴跡の窪みを残している。
山中で迷うことなく進んでいけば、いつかは市街地の方へ出ることが可能だ。
市街地に辿り着いたところで、この付近を散策しているであろう賞金稼ぎ『首螽斯』と鉢合わせたらどうなるか。
鉢合わせずとも、今の斑猫は本調子ではない。森か市街地で体調が悪化し、昏倒してしまうやもしれぬ。
「ああくそ、最近安定しているからって放置したのがまずかったか……」
錦は部屋を出て階段を降りていく。
長い年月ですっかり朽ち果ててしまったロビーを抜け、南京錠のかかった扉に鍵を差し込んで解錠する。
外に出れば、広がる空はすっかり暮れてしまっていた。
薄暗い黄昏の闇の中で、錦は地面についた足跡を見る。
窪みに指を差し込んだ。靴の跡は、綺麗に残っている。時間が経って薄れた様子が無い。
足跡の状態から見るに、ここを通ったのはそう何時間も前のことでは無いはずだ。
森の中で彷徨う斑猫の光景が脳裏をよぎった。
今からすぐ追いかければ、見つけることもできるだろう。
斑猫が市街地に辿り着いて、さらに斑猫の生存が広まってしまうことは避けたい。
賞金首である『|斑猫《Tiger Beetle》』は死んでいなければいけないのだから。
錦はズボンのポケットから細身の電灯を取り出した。
側面にあるスイッチを押すと、白々しい人工の明かりが夜の森を照らす。
錦は懐中電灯を手に歩みながら、今度はベストのポケットに入れている、小型の携帯端末を取り出した。
借りを作るのは癪だったが、事態は一刻を争う。
錦は端末を操作して、或る連絡先へと電話をかけ始めた。
錦はふと、カフェでヘレナに言われた「束縛が激しそう」という科白を思い出す。
全く持ってその通りだ、と錦は自嘲気味に笑った。
日は、益々暮れていた。明かりのない森は、暗闇に飲み込まれていく。
夜の森は、人間の領域では無い。いくら夜目がきくと言っても、嗅覚や聴覚で襲いかかってくる獣共に適うものか。
錦は、拳銃をいつでも引き抜けるよう気を張りながら、夜の森へと足を進めた。
◆
斑猫は森の中を宛もなく歩いていた。
いつしか日はどっぷりと暮れ、電灯のひとつもないこの森は、真っ暗な闇の空間へと姿を変えていた。
僅かな月明かりが差すだけでは、どうにも独りで歩くには心もとない。
薄曇りの空に浮かんだ月は、度々分厚い雲に遮られ、道標たる光明を消してしまう。
しかし、斑猫は足早に歩を進めていく。
もう、1時間くらいはこうして歩いているだろうか。
墨汁の中に沈んでいるような錯覚さえ覚える暗闇だが、斑猫には進む道が見えていた。
道が見えている、というよりは、道が分かっている、と言った方が正しいか。
頬を撫でる風が、耳に入り込む様々な音が、鼻孔に入り込む湿った木や土の臭いが、靴底越しに伝わる地面の感触が、斑猫の脳に不可視の道を感じさせている。
その感覚を常人が持ち合わせてはいないだろうことを、斑猫は分かっていた。
暗闇を何の明かりも無く歩める人間など、滅多にはいまい。
一体、己は何者なのだろうか。
幾度となく自問自答した疑念が、再び胸中に飛来する。
何となく、この森を抜ければ答えがあるような気がしていた。
徐々に木々が疎らになってきた。もう少し進めば、この森も終わりそうだ。
さらに歩みを進めていくと、木々は途切れ、鉄筋コンクリート造りの建造物が建ち並ぶ街が見えてきた。
いささか迷ったような気もするが、ともかく森を脱出することが出来た。
しかし斑猫の予想に反して、辿り着いた市街地には明かりが無かった。
ゴーストタウン、という言葉が頭を過ぎる。
災害、伝染病、産業の衰退などによる住民の移住───
ビルディングに、民家、飲食店など様々な建物が当時の面影を残したまま廃れているのをみると、ついそんな想像を巡らせてしまう。
切れかけの街灯が明滅を繰り返している。幾匹かの蛾が、その橙色の明かりに群がっていた。
───パチッ
橙色の明滅に、ひび割れたアスファルトが照らされている。
───パチッ
暗転。再びの暗闇。
変わらず、人の気配は感じられない。
斑猫は街灯をしばらく眺めていたが、すぐに踵を返して歩き始めた。
おそらく、道を間違えたのだろう。
自分が滞在していたホテルらしき建築物も、ここも、何かしらの原因で人の去ったゴーストタウンの一部なのだ。
目を凝らして見れば、暗闇の向こうに市街地らしき明かりがいくつか点っている。
斑猫は足早に進んでいく。
───パチッ
街灯の明滅。
橙色の閃光が、ひび割れたアスファルトを、その上に立つ人影を照らしだした。
分厚い雲がゆっくりと、風を受けて流れていく。
月明かりが、無人の廃墟を、そこに現れた「二人」の人間へと降り注いだ。
「君が『斑猫(Tiger Beatle)』か」
己の名を呼んだ見知らぬ声に、思わず斑猫は振り返った。
月光に照らされて立っていたのは、カーキ色の厚手のコートをまとった人影であった。
顔にも、同色の布をぐるぐると巻き付けている。口元は、防塵目的であろう、呼吸器のような見た目をしたマスクで覆われている。そのため面差しは判然としないが、布の合間から榛色の双眸が覗いていた。
「……知らないな。それに、人に聞くならお前から名乗るべきじゃないのか」
嘘ではない。
確かに斑猫と錦から呼ばれてはいるが、記憶を失った身で名乗るのは気が引けた。
「僕は『首螽斯』と呼ばれている」
相手は馬鹿正直に名乗り出した。
よく通る、若い男の声だ。自分よりも若いのだろう。
しかし問われてすぐに応じるとは、真面目な性格なのか、そういう癖なのか。
錦がこのくらい素直ならば、自分の記憶ももう少し早く戻りそうなものだが。
などと斑猫が考えているとは露知らず、首螽斯と名乗った男は腰にぶら下げていた細長い棒のようなものを左手で掴み、斑猫ににじり寄る。
「二ヶ月程度の失踪程度で誤魔化せると思ったか?生憎、君の首にかけられた50万ドルはそのままだ。無効になっていない」
その科白が終わるか否か、首螽斯と名乗ったその男は地を蹴り、瞬く間に距離を詰めてきた。
斑猫は、反応出来なかった。
最近はほとんどを寝台の上で過ごしていたのだ。体はすっかり鈍ってしまっている。
首螽斯が左手で掴んだ細長い棒状の何かの先端の方を、右手でも掴むのが見えた。
何かがくる。
その直感のままに、後方へと跳んだ。
斑猫が先程まで立っていた場所を、首螽斯が引き抜きざまに放った斬撃が走る。
剣のようだが、刃の部分は細く、それでいて弓のごとくうっすらと湾曲している。
見慣れない武器だ。
斑猫が細長い棒としか認識出来なかったそれは、刀、と呼ばれる東洋の古い武器であった。
鋼を熱し、槌で叩いて伸ばす工程を何千と繰り返して出来上がったそれは、折れず、曲がらず、よく切れる。
通常刀は白銀に輝くはずだが、首螽斯が引き抜いた刀身は月光を受けて真っ赤に輝いていた。
「逃がすか!」
斬撃を間一髪で避けた斑猫を見て、首螽斯は構えを直し、再び斬りつけんと間合いを詰めてくる。
首筋の辺りから、全身が総毛立っていくのが分かる。
記憶を無くし、己の記憶すら分かっていないというこの状況で、さらに殺されようとしているのだ。
あの鋭く長い刃で腕を落とされれば、出血多量で死ぬ。
胸を刺し貫かれるやも、足を落とされるやも、首を撥ねられるかもしれない。
直面した、死への恐怖に、厭な汗が止まらない。
首螽斯は初撃を外した程度では歩を止める気配は無い。
再び、刀を振りかぶる。
一連の動作は、速かった。目で追うことができない。
次の斬撃が、来る。
直感で、屈みこんでいた。
間一髪、先程まで自分の胴があったあたりの空間を、首螽斯の刀が通り抜けていくのが分かった。
相手に、隙が生まれた。
躊躇いなく、斑猫は首螽斯とは反対の方向へ駆けていた。
自分の首にかけられているという賞金。
聞けば、この首螽斯と名乗る男は答えてくれるだろう。気になるところだが、相手は本気で殺しにかかっている。
そして、強い。病み上がりの体では、逃げて身を潜めてやり過ごす選択が最良に思えた。
ふ、と一瞬頭上に影が差す。
厭な予感がした。
刹那の本能で足を止め、慣性力に引き摺られる上体を無理やり引き戻す。
目の前に、首螽斯が着地した。
衝撃音と共に、砂埃が舞いあがる。
馬鹿な。
数メートルは駆けて、距離を稼いだはずだ。
充分な助走と、鍛え抜かれた肉体があれば数メートルの跳躍自体は可能かもしれない。
しかし、この男が走り込んだ形跡は無い。
助走をつけて走り込み、踏み込んで跳んだのであれば、足音が聞こえるはずだ。
助走も無しに、その場から跳びあがり、己を跳び越して着地したというのか。
─────無茶苦茶だ。
首螽斯と、目が合った。その風体にはそぐわないほど澄み切った榛色の瞳が、己をしっかりと見据えていた。
この近距離では、次の斬撃は避けきれまい。
死を覚悟したところで、首螽斯は何かに気づいて足を止めた。
「何故驚く?インセクターを見るのは、初めてでもあるまい」
訝しんだ声だった。その視線の先には、瞠目し、恐怖で足が地面に縫い付けられてしまった斑猫がいる。
「……よく喋るやつだな。そんなにおしゃべりが好きか?」
「違う。君と仲良くしたい訳ではない。君は、聞いていた斑猫という男とは、違う気がする」
首螽斯は、そう言って刀を納めた。
「ひとつ聞きたい。君は、本当に斑猫……Tiger Beetleなのか?顔を変えた偽物だというなら、正直に答えて欲しい。それならば、僕は君を見逃そう」
言葉に、嘘や含みは感じられなかった。
甘い男だ。
ここで嘘をつけば、本当に見逃してくれるのかもしれない。
だが、斑猫という名前は紛れもなく己の名前だという、確かな実感があった。
記憶を失って、己を取り囲む全てが見知らぬものにしか見えぬ中、この名前だけが拠り所だったのだ。
危険に身を晒すとしても、この名を否定したくはない。
なにより、誠実に問うてくれた相手に、嘘をつきたくなかった。
「……いや、俺は確かに斑猫だ」
「そうか」
返答を聞いた首螽斯の、目が変わった。
先程までのやり取りは、単なる様子見だったらしい。
双眸に、ぎらぎらとした光がある。
今度こそ本気で、俺を殺しにかかってくるだろうという実感があった。