蛹・3
錦は、山道を歩いていた。
名前も知らない草や木々が、好き放題生い茂っている。
人が手入れをしなくなった山というのは、地震で崩れた食器棚の中身のように、荒れていく。
歩いていくうちに、木々が少なくなっていく。
さらに歩を進めると、疎らに建築物が見えてきた。
人が往来している。
死んだ鼠の死体を咥えていた野良猫が、薄汚れた毛並みを逆立てて足元を掠めて行った。
辿り着いた街には、屋台が並んでいる。
木の板やトタンで作られた、簡素な屋台だ。それでも、賑わいがある。
通り抜けた背後で、小さな子供が、屋台で果物を買ってはしゃいでいた。
いくつかの建物が並んでいる路地を通っていくと、しっかりとした造りのものを見つけた。
汚れひとつ無い白い壁は、先程見かけた急拵えの屋台と雲泥の差である。
看板が吊り下げられていた。
木製の看板に、黒いペンキで「A・Nancy」と洒落たレタリングが描かれている。
扉を開けて店内に入ると、等間隔で設置されたテーブルに数人の客が談笑していた。
話に花を咲かせているのは、男女が多かった。年齢層は様々だが、皆、身なりが良い。
裕福な人間にのみ許された場であることは、間違いがなかった。
「コーヒーを頼む」
近くで給仕を終えたウェイターに注文を告げ、テーブルの合間を通って待ち人を探す。
時間をかけることなく、見つけることができた。
ガラス張りの窓の傍で、退屈そうに景色を眺めている女がいる。
「やぁ、錦。直接会うのは久しぶりだね」
窓際のテーブルに座っていた女が、片手を上げてこちらを見た。
小麦色の肌に、白い歯がよく似合う。短く切りそろえられた髪といい、快活そうな印象の女だ。
丸く、つり上がった猫目がちの瞳は錦を真っ直ぐに捉えている。
「お前が俺を呼び出すのも久しぶりだな、ヘレナ」
錦は、ジャケットを椅子にかけて席についた。
ヘレナは、もう注文を済ませたらしかった。
ぱちぱち、と微かな音がする。
グラスの中で揺れる鮮やかな緑。炭酸の泡が弾けるメロンソーダと、その上に乗ったバニラアイス。
俗に言う、クリームソーダだ。
冷気を放つアイスと氷は、この店に安定した電力供給があることを示している。
「前に会った時は大変だったね。君から斑猫を匿うのを手伝ってくれ、と言われた時はびっくりしたよ」
「お前と昔話をする気は無い」
「つれないな。それとも、一人残してきた眠り姫が心配かい?」
悪戯っぽく目を細めるヘレナを無視して、錦はコーヒーを口に含んだ。
苦味と、僅かな酸味が広がり、香ばしい香りが鼻を抜けていく。
「でも、眠っていてくれるなら嬉しいかな。彼、すごい乱暴者だったからね。高い賞金の分、恨みも買ってる」
「……ああ。酷い男だったよ、本当に」
「君も随分骨を折ったんじゃない?暴君の右腕とか、僕には出来ないや」
「俺もそう思うよ。それでも、仕えたいと思うものが、奴にはあったのさ」
「ふぅん?」
ヘレナが、不思議そうに首を傾げる。
「やっぱりデキてたの?」
「馬鹿。仕事のパートナー、それだけだ。それに俺と奴がママゴトみたいな恋愛模様を繰り広げられると思うか?」
「それもそうだね、彼と君が三流メロドラマみたいな問答をしてたら笑っちゃうかも」
ヘレナの下世話な質問を、錦は薄く笑って切り捨てた。
笑ってはいるのだが、酷薄な笑みだった。触れればひやりと冷たさを感じさせ、指先をそのまま凍てつかせてしまうのではないかと思うほどに。
「それより、本題に入れ」
「ああ、そうだね」
クリーム・ソーダに乗った真っ赤なチェリーをつまみあげようとしていたヘレナは、錦に急かされてあきらめた。
「斑猫の生存が、バレたかもしれないんだ」
告げられた言葉に、錦は口に含んでいたコーヒーを噴き出しかけた。
「斑猫が生きていることが、バレた?」
「おそらくね。一部の鼻のきく連中は、もう嗅ぎつけてきてると思うよ」
そう言ってヘレナは手にしたグラスのストローをくるくると回す。ヘレナのストローを掻き回す動きに合わせて炭酸がぱちぱちと弾け、ほぼ溶けて面影を残していないバニラアイスが緑のソーダと混じり、白く濁らせる。
「で、襲ってくる奴の目星でもついているって言ってたよな。そいつの名前は?」
「うーん………そうだねぇ……」
錦の問いかけを受けてもなお、ヘレナはグラスのストローを回し続けるのをやめない。
最早グラスのソーダとバニラアイスは完全に混ざり合い、淡いパステルグリーンの液体と成り果てている。
ヘレナのその不躾な行動の意味を、付き合いの長い錦はよく知っていた。
これは「教えられない」のサインだ。これ以上聞き出すには、より多くの対価を支払わねばならない。
対価はストレートに金の時もあれば、物品のときも、何かしらの仕事の手伝いのときもある。
なるべく面倒な要求で無いことを祈りながら、錦は苦虫を噛み潰していた口を開いた。
「何が欲しい?」
その声に、ヘレナが顔を上げた。丸く大きな瞳が、錦の顔をはっきりと捉える。
「そうだなぁ、ボク、仕事から帰ってきたばかりでろくなもの食べれてないんだよね。美味しいご飯が食べたいかなぁ」
ヘレナの肩の上辺りで切りそろえられた髪が揺れる。上目遣いであどけない微笑みを浮かべる姿は天使のように愛らしく、女に慣れていない男なら、ころりと落ちてしまいそうだ。
しかし錦は思う。このあどけなく可愛らしい顔立ちをした少女は、天使などではなく悪魔だ。
「ここの会計を持てと?」
「違うよ、女の子の食事を男の君が負担するのは当たり前じゃないか」
面倒くさい、といった表情を隠さない錦に対し、ヘレナはいけしゃあしゃあと言い分を口にする。
「ボクは誰かに美味しいものをご馳走してもらいたい気分なんだよね。まぁ、今日は忙しいだろうから後でいいよ。とびっきりいい店に連れてって」
歌うように甘ったるい声に、笑顔。
錦は顔を顰めつつ、首を縦に振って了承の意を示した。
「やったぁ。人のお金で美味しいご飯なんて久しぶりだなぁ」
間延びした声と、手を合わせて喜ぶわざとらしい姿に錦は露骨に顔を顰める。
そんな錦の様子に、ヘレナは眉を下げて小さく舌を出す。
「ごめんごめん、話だっけ?君の言う通り、だいたいの目星はついているよ。おそらく斑猫について嗅ぎ回っているのは『首螽斯』だ」
「首螽斯………」
ヘレナの出した名前を錦は反復しつつ、聞いたことがないか思考する。
噂だけは耳にしたことがある。
ここいらで活動しているバウンティハンターで、つい先週も逃亡していた賞金首の『竈馬』を捕えたとかどうとか。
「最近名前を上げ始めたバウンティハンターさ。標的の生け捕りが条件なら生きたまま連れてくるが、生死を問わない、となっていたが運の尽き。どこまでも追い詰めて首を切り落とす。前には、地下の倉庫に隠れていた標的を見つけ出したとかあったかな。とにかく執念深く……」
「前置きはいい。そいつの特徴を教えてくれ」
楽しそうに語り出したヘレナを、錦の淡々とした科白が遮った。
中断されたヘレナは不満そうに口を尖らせる。
「特徴………特徴かぁ。あまり分かっていないんだよね」
「おい」
錦が咎めた。
ヘレナはそれを受け、頬をややふくらませる。
「標的が気絶させられてたり、死亡していることが多くて目撃情報が少ないんだ。君も聞いたことが無いだろう?どちらかと言うと、首螽斯という名前だけが独り歩きしているような印象があるね」
ヘレナは言葉を切り、グラスに半分ほど溜まっていたソーダをストローで飲み干す。
「おそらくどこかのバウンティハンターのギルドに属しているだろうとは思うんだけど……それにしたって情報が少ない。僕が聞いたことがあるのだって、2m以上ある大男だ。とか、脱獄した死刑囚で血に飢えてる。とか、胸に七つの傷がある。とか。信憑性に欠けるものばかりだからね」
「誤った情報が意図的に流されている可能性があるとでも?」
「うん。ここからは僕の予想だから、話半分で聞いておくれ」
錦はぬるくなったコーヒーを啜りながら、壁にかけられている時計を見やる。
針は、4時を回ったところだった。
そろそろ日も暮れる。帰りたいところだが、ヘレナの憶測とやらを聞いてからでも良いだろう。
ヘレナの推測は、当たることが多かった。
「僕は本来の首螽斯は、小柄な男だったり、女性だったりするんじゃないかと思うんだ。首螽斯という名前の恐ろしい男だという噂を先行させることで、誤ったイメージと異なる首螽斯本人を行動させやすくする。だって、目撃したという確かな情報が無いのに、まるで見てきたかのような噂ばかり流れているのは、異常じゃない?」
「ふーん………なるほど。まぁ、一応頭に入れておく。じゃあ、俺は帰るから」
「あ、ちょっと待って」
椅子から立ち上がり、脱いでいた黒いジャケットを羽織って帰ろうとする錦を、ヘレナが呼び止める。
「何だ?目星はついて、予想も聞いた。これ以上お前に用は無いだろ?」
「あるよぉ。ボク、ケーキ食べてから帰りたいなぁって。だから、ね?お会計はまとめてボクが払っておくからさ」
はい、とヘレナは両手を錦に向けて差し出した。
俺の金だけどな、と錦は胸中で毒づきながらも、黙って財布から紙幣を数枚抜き取ってヘレナに手渡す。
「あれ?こんなにくれるの?」
紙幣を受け取ったヘレナは、きょとんとした顔で受け取った紙幣を数え出した。
「お前のことだから交通費も寄越せとか言うんだろ」
「そこまで貰うつもりは無かったけど……」
「なら返せ」
「有難く頂戴致しま〜す。スマートな彼氏を持ってヘレナちゃん感激〜」
いそいそと紙幣を懐にしまうヘレナを見て、錦はため息をつく。
「何度も言ってるが、俺はお前の彼氏じゃない」
「やだなぁ、僕も錦が彼氏とか嫌だよ。顔と金払いは良いけど束縛激しそうだもん」
「お前っ……」
掴みかかりたくなる衝動をどうにか抑え、長めに息をゆっくり吐くことでしまい込む。
ヘレナの喋りのほとんどは冗談だ。真に受けるだけ無駄で、その度に反論や訂正をしていけばこちらが疲弊する。
「交通費までくれたからサービスして上乗せしちゃおうかな。『首螽斯』なんだけどね、実は今この街に来ているらしいんだ」
「はぁ!?お前、そういうことは早く言えよ!」
さらりと口にされたとんでもない事実に、錦はここがカフェだということも忘れ、素っ頓狂な声を上げてしまう。
気づいたときには既に遅し。突き刺さる周りの視線に、居心地の悪さを感じながら、咳払いをして誤魔化した。
対するヘレナは、にこにこと満面の笑みを浮かべている。
「いや〜確証が無かったし?それに、聞かれてなかったからね。けど、先週『首螽斯』に捕らえられた『竈馬』の引き渡し地点がこの近くだったから、その足でここに立ち寄っていてもおかしくないかなと……」
両手の甲に顎を乗せて錦を見やるヘレナは、とても楽しそうだ。
いつもそうだ。この女は、人が困っていたり、慌てていたりするのを上から見るのが好きなのだ。
「それじゃ錦、頑張ってね!」
「くたばれ」
「ひっどーい!」
本当なら一発くらい引っぱたいてやりたかったが、いくら性悪女だといっても、流石に大の男が華奢な少女に暴力をふるうのは絵面が悪い。
それに、一人残してきた斑猫も気がかりだ。
錦は呻くようにヘレナに暴言を吐き捨てた後、足早にカフェを後にした。
◆
無人の部屋を、好ましくないように思えてきたのはいつからだろうか。
外から差す太陽の光は、眩しいほど明るいのに、がらんとしたこの部屋は物寂しい。
錦は、買い物に行くと言った。
本当ならば自分もついて行きたかったのだが、返答に困っているうちに有耶無耶にされてベッドへと押し込まれてしまった。
手を握った錦の感触は、鮮明に思い起こされる。
滲んでいた涙も、今の頭は覚えている。
独りでぼんやりと天井を眺めていると、脳がひとりでに記憶を反芻し、それについての思考を始める。
今は、窓から差し込む風を感じながら、錦が自分に触れた時のことを思い出していた。
錦は面差しだけでなく、あの黒いスーツを着こなしたしなやかな肉体の、細い指先までも美しい。
野生に生きる雄の孔雀のような、何をしても嫌味なほどに繊細な美が彼にはあった。
美しいが、それと同時に、奇妙な男だとも思った。
自分の手を握ったのは、優男面に似合わない、固い手だった。
有無を言わせない力があった。
─────本当に、錦と俺は友人だったのだろうか。
疑念の芽が、成長を始めた。
芽はみるみる成長して枝分かれし、葉を増やし、天に向かって伸びていく。
花を咲かせ実をつけて、果実は熟れて腐り落ちて心に影を生む。
錦は自分を監禁しているのではないか、との疑問がまた生まれ始めた。
一人でいるのがいけないのだ。
会話も刺激も無く、ただぼんやりと窓の外を眺めているだけでは、不安の樹に水をやり続けてしまう。
斑猫は寝返りを打った。
身体の向きが変わり、差し込む陽光が背を照らす。
ふと、顔を洗おう、と思った。
嫌な想像ばかり巡らせてしまう頭を切り替えたかった。
部屋の隅にあるポリタンクに、使用出来る水が溜めてあるのは知っている。
錦が、そこから水を取り出して火にかけ、煮沸して使っているのをよく見た。
顔を洗うくらいならば、煮沸せずとも大丈夫だろう。
そう考えてコップを持ってポリタンクに近づき、持ち手を手にした所で、違和感が棘を刺した。
軽いのだ。
ポリタンクは、小さな子供ならば詰め込んでしまえる程、充分な大きさがある。
その、八割ほどが水で満たされている。だと言うのに、腕は支障なく片腕でポリタンクを持ち上げてしまう。
そういえば、己の腕は、かなり筋肉質だ。
気にもとめていなかったが、錦の腕よりひと回りは太く、強靭な筋肉がついている。
しゃがみこんで、ポリタンクを傾けてコップに水を注いだ。
不安定な体勢でも、ポリタンクを移動させるのは容易い。
拭えぬ違和感を抱えたまま、水の入ったコップを持って洗面台に向かう。
鏡があった。
そこに、知らない男の顔が映し出されている。
これは、斑猫という男なのだと自分に言い聞かせて、掌に出した水で顔を洗う。
滑落事故で記憶を失った、斑猫という男だ。
友人の錦と二人で行動して、事故に遭った。
錦はそんな自分を介抱し、体調が安定するまで待っている。
肉体は回復しているが、意識を失ってしまうため、大事をとって安静にしている。
─────本当に?
胸を刺す棘が、じくじくと痛む。
濡れた顔で、鏡を見た。
青みがかった黒髪。燃えるような赤い色をした瞳。様々な血が混ざりあったことを予想させる、精悍な顔立ち。
知らない顔だった。
よく見てみれば、首も太かった。
肉が詰まっている。僧帽筋の張りは、少し叩かれたくらいではびくともしないだろう。
腕を見る。
鏡の男も、反対の腕へ視線を落とす。
拳を握って力を込めると、皮膚の下の筋肉が隆起するのが分かった。
自分の体だ。それは、間違いない。
ただ、何かが欠けている。
視覚や聴覚と言った五感は問題なく機能し、肉体にも多少の不自由はあれど五体満足である。
それでも、記憶の他にもこの体には何かが足りないという感覚は消えなかった。
原因の分からぬ違和感に眉を潜めていると、鏡の男が、薄く笑ったような気がした。
この男は自分とは違うのだから、そういうこともあるだろう、と思った。
男が、さらに笑みを深くした。歯を見せて笑っている。
言葉は聞こえないが、明らかにこちらを馬鹿にした笑みだった。
厭な気分だ。
─────錦は、俺を騙している。
直感が閃いた。
誰かにそう語りかけられたかのように、頭の中に突如として生じた思考。
そんなはずは、ない。
錦は、己のために尽くしてくれている。
外出を許してくれないのも、全ては己のためなのだ。唐突に意識を失う人間を警戒するのは、当然のことだ。
錦との会話が反芻される。
早く帰ってきてくれ、と喚きそうだった。
膨れ上がる不安を、大丈夫だと言って取り払って欲しかった。
鏡の男が、囁いた。
───────『手を貸してやろうか』
意識が、不可視の腕で掴まれて、引き摺り出されていく。
もう何度目かも分からない失神の中、鏡の男の囁きは、自分の声だったと気づく。
眠りにつく刹那、自分の口から、げらげらと厭な笑い声が響き渡る感覚があった。
それが幻覚なのか、現実なのか、今の己では判別出来なかった。