蛹・2
賞金首【斑猫】。
聞こえてきた科白に、端末を握る錦の手が強ばった。
声の主は、楽しそうに続ける。
「悪名高い賞金首、斑猫(Tiger Beatle)は死んだと言われていた。しかし、死体は上がっていない。ここは何でもありの世界だ、彼はまだ生きていると……一部のバウンティ・ハンター共の間で話題になってるよ」
「……まさか」
錦は、低い声で笑い飛ばした。
斑猫に向けていた穏やかな笑みは消え、冷徹な顔がそこにあった。
「あれだけ派手に戦って、爆発騒ぎまで起こして撤退したんだ。そんな噂も、すぐに消えるさ」
「それが違うんだなぁ。やっぱり、死体を確認しない限り賞金は無効にならないみたい」
通話越しの女が、微かに笑った。
人を小馬鹿にした笑いだった。錦は、思い切り眉を顰めた。
「僕に頼んでくれれば、整形を加えた人間の死体とか用意できたのに」
錦は眉間の皺をさらに深くする。
「死体の工作くらいすぐにバレるさ。賞金首を確認する保安局の連中だって、馬鹿じゃない」
錦は、シャツの胸ポケットに手を入れた。
黒い煙草の箱と、ライターを手に取っていた。
鈍く銀色に光るそれには、炎を模したレリーフがデザインされている。
錦は、端末を肩と首とで挟むようにして、慣れた手つきでくわえた煙草に火をつけた。
煙草から薄い紫煙が立ちのぼると、ライターの蓋を閉じて仕舞いこんだ。
「あ、錦。煙草吸ってる?」
ライターの金属音を耳にしたのか、女が不満そうな声を上げた。
「悪いかよ」
「いやー。無いわー、無いよー錦。マナーが無いわ〜」
「それより、どうなんだ。ハイエナ共は、この場所に勘づいているのか」
「いいや、僕の見立てでは、まだ噂止まりかな」
「【斑猫】の賞金に変わりは?」
「無いよ。変わらずそのままさ」
「……もうしばらくここで療養させようと思ったが、そろそろ拠点を移すことも考えた方が良さそうだな」
錦は煙を吐いた。
焦げ臭さとともに、ふわりと甘い香りが漂う。
「よく持った方だよ。街にいくらでもいる保安局の犬共とハンターの目を掻い潜り2ヶ月。充分じゃない?」
女はそう慰めるが、錦は渋面を崩さない。
「ねぇ、直接会おうよ。また良い仕事の話とかあるよ」
「今、お前に用はない。そろそろ切るぞ、ヘレナ」
「つれないなぁ」
にべもなく言い放つ錦に、通話越しのヘレナ、と呼ばれた女は笑った。
「そうだ、じゃあ……【斑猫】を追っているハンターの話とかなら、君も知りたいんじゃない?」
「……場所の指定は?」
「おっ、食いついた!そうだね、明日の昼間とかどう?2時くらいにア・ナンシーで待ってるよ、じゃあね」
ヘレナは楽しそうに告げると、通話を終了した。
無音になった端末を、錦は元の位置に仕舞う。
錦は、寝ている斑猫の傍を通り抜けて、窓枠に肘を置いて外の景色を眺めた。
濃い橙色の空は、まだらに浮かぶ紫色の雲に埋め尽くされつつある。
後しばらくもしないで、この辺りは完全な暗闇になるだろう。
窓枠の外側には、太い鉄格子が嵌められている。
黒光りするそれは、汚れが少ない。
斑猫には元々嵌められていた、と言っていたが、最近取り付けられたものであることは間違いなさそうだった。
空の色が紫から藍へ、藍から黒へと変わりゆくにつれ、部屋が暗くなっていく。
錦は、部屋の天井に吊るされている電灯のスイッチを入れた。
これもまた、この部屋に元々備わっているものではなく後から取り付けられたもののようだ。天井の壁に、取り付けた跡がある。
薄暗かった部屋が、鮮やかな人工の光で照らされる。
規則正しい寝息を立てていた斑猫が、身じろいだ。
「眩しかったかな」
斑猫が眉根を寄せる姿を見て、錦は苦笑する。
ヘレナと会話していた時とは違う、穏やかな笑みがまた浮かんでいた。
◆
賞金首。
文字通り、賞金のかけられた首のことである。
数百年前の大国同士の核戦争により、世界は大きく変動した。
舞い上がった大量の煤や煙は空を埋めつくし、放射能を含んだ黒い雨は大地を汚し、作物は実らなくなった。
分厚い煙は空を遮り、気温は急激に下がりだした。
一向に収まらない火災に、寒冷化。放射能の雨を逃れた土地の作物も、枯れていく。
飢えて体力を奪われて死ぬ。放射能を浴びて、または怪我で、苦しみ抜いて死んでいく。
いつしか地球は夥しい死体の中、煌々と戦争による炎だけが燃え続ける地獄となっていた。
生き残った人類は長い時間をかけて、貴重な物資や食料を使い、汚染を逃れた土地を探して移り住んだ。
生き残った人類によって、ようやく新たな国家が設立されたのが、数十年前だ。
新たな生活様式が確立されつつあった中、いつからか武器を手にした無法者共の略奪が始まった。
廃墟から見つけられた銃火器で殺し、集落を襲って食料や物資、時には人間を奪って去っていく。
労働力として、娯楽として、人間までもが売買の対象となる異常な世界。
自衛のために武器を取らざるを得ない状況の中、保安局が設立される。国家の期待を受けた保安局の元、取り締まりきれぬ犯罪者には、賞金がかけられ始めた。
生死は問わない。または、死体でも可。または、生きている状態のみ。
犯罪の程度によって金額は変動する。支払いは金でも、食料のこともある。
しかし賞金稼ぎというのは、誰にでもできることでは無かった。
賞金首がライオンなら、彼らを追いかける賞金稼ぎ(バウンティ・ハンター)はハイエナか野良犬だ。
時には卑怯な手を使って賞金首を追い詰め、保安局に売り飛ばす。
凶悪な賞金首を許せぬ正義の心を持った人間、そんなものは存在しない。
一歩間違えれば己が賞金首になっていてもおかしくないような荒事が得意なならず者が、金稼ぎのためにやっている。
正しくマカロニ・ウェスタンの世界だ。
錦は、悩んでいた。
記憶の無い斑猫に、どの程度世界情勢について伝えるべきか。
気づけば、二本目の煙草が終わろうとしている。
【斑猫】(Tiger Beetle)。
街を荒らし、荒くれ者を倒し、時には利害の一致として下につき、破壊の限りを尽くした賞金首。
それが『何かあったか』、一切の記憶を失ってしまった。
錦は、煙草を灰皿に押し付けた。
心に、漣が立っている。
錦は、【斑猫】と共に行動していた。
錦には賞金はかかってないが、【斑猫】と共に、随分非合法なことをやった。
もっとも、この世界において法律などあってないようなものだが。
怪我で記憶を失い、体にも支障をきたした【斑猫】を、錦はこの山奥の廃墟に運び込んだ。
それが、二ヶ月前のことだ。
錦は、三本目の煙草に火をつけた。
本当ならば酒が欲しかったが、この深夜に山を降りて買いに行く気はしない。
腕の時計を見た。
針は、日付が変わったことを示している。
錦は、ヘレナの言ったことが気がかりだった。
ヘレナは、【斑猫】の生存を嗅ぎ回っているハンターがいると言った。
今の記憶も無ければ肉体も危うい斑猫では、ハンターに太刀打ちできないだろう。
ずっしりとした物が体の奥に溜まっていく。それは煙か、それとも、不安か。
やはり、何としても今のを外に出す訳にはいかない。
だが、斑猫の意識がある程度回復した今、閉じ込めておくのも限度がある。
【斑猫】の記憶が戻れば、金目的のチンピラもどきなど、怖くは無い。
しかし、【斑猫】の記憶が戻ることは『避けたい』。
錦は葛藤していた。
拠点を移すとなれば、療養のためここにいると考えている斑猫は、警戒するだろう。
せっかく信頼関係を構築しつつある今、台無しにしてしまうのは避けたかった。
明日のヘレナの話自体では、自分が久しぶりに手を下すことも考えておかねばなるまい。
錦は、窓枠を背にして、部屋に向き直った。
◆
「この辺りに交通機関は無いのか」
「無いね。あるとしても、山を降りてしばらく歩くよ」
「そうか……」
「にしても、よく食べるね。消化に良くないから、ゆっくり食べた方がいいよ?」
呆れた、と言った顔で錦が目を向けてくる。
その視線の先で、斑猫は机に置かれた茶色く香ばしい塊───パンをちぎっては詰め込めるだけ口に詰め込んでいた。
丸く大きな、固めのパン。ライ麦が使われているのか、外側だけでなく中身もやや茶色がかっている。
元の大きさは、斑猫の顔くらいはあったはずだが、今はその半分も無い。
パンを口に詰め込めるだけ詰め込み、頬が膨れる程になれば、缶詰に入っているスープで流し込む。
念入りに咀嚼して飲み込んで、また次の食材を詰め込みだす。
「腹が減っているんだ」
「全く……これじゃまた買い出しに行かなきゃ行けないな」
乾燥させた肉の塊を歯で噛みきった。久しぶりに味わう塩気と、動物の脂が舌を鋭敏にさせる。
目が冴えるほど、ひどい空腹だった。
錦が買い込んでいた食糧の、2日分ほどは食い尽くしただろうか。
それでも、まだ胃は満たされない。
まるで眠っていた間、食べることができなかった分を、今埋め合わせようとしている気分だ。
肉体機能は、かなり回復した、ように思う。
よろめくことなく歩くことが出来、突然意識を失うことも無くなった。
会話でも、分からない単語で困ることは無い。もう本を与えられても、問題なく読むことができる。
ここには日付の概念が無いが、二週間ほど経ったのではないかと斑猫は感じていた。
寝て、起きて、軽く食事をして、錦と話をして、また眠る。そのルーティンを、十数回は繰り返した。
その甲斐あってか、靄がかかったようになっていた頭の中も、かなり冴えてきた。
「買い出しに、俺も連れて行ってくれないか」
「駄目だよ。市街地ならまだしも、ここは山だ。君には負担が大きい」
この問答も、何回目になるだろうか。
錦は、自分が外に出ることを、未だ許してはくれない。
「何故だ?俺はもう充分回復したと思うが。もう読み書きにも会話にも、肉体にも支障は無い」
「だからといって、いきなり山に連れ出せるわけが無いだろう。ここには獣もいる。俺は君を危険な目に遭わせたくない」
「お前が獣がいる山を一人で降りるのは危険じゃないのか」
「俺は慣れている。でも、君は慣れていない。俺一人なら獣の縄張りで無いルートを見つけられるが、君を連れて足早に移動できる自身は無い」
脳がクリアになっていくにつれ、斑猫はこの状況の異様さをひしひしと感じていた。
「寝てばかりだと体が鈍りそうなんだ」
「うーん……この建物の中だけなら良いよ」
地面を踏むことは、未だ叶わない。
錦は譲歩するとしても、この廃れた元ホテルから出したいという希望に対して、首を縦に振ることは無かった。
せいぜい日が出ている時に、このホテルのフロアを歩くことを許す程度である。
二回ほど、建物の中を散策したことがある。
鉄筋コンクリート造りの、五階建ての建造物。
上の階や下の階へは、階段で移動する。一階
はフロントで、二階から五階が宿泊部屋になっている。
フロアごとの部屋数は、それぞれ6つずつ。
ただし人が住めるほどに整えられているのは、今自分と錦がいるこの部屋だけだった。
相当長い年月放置されたのか、酷く損傷していた。
内装は今生活している部屋と全く同じだというのに、あまりの変わりように驚いたものだ。
一階から外へ出られるかと思ったが、その時は錦と共に見て回っていたので、やんわりと止められてしまった。
ところどころ壁材が崩れて内部が露出し、蜘蛛の巣や埃があちらこちらを白く覆っている。
その中央を進んでいった先に、分厚い扉があった。
おそらく、出入口だろう。
その扉に言及しようとしたところで、錦は部屋に戻ろう、と斑猫に告げたのだ。
錦に連れられて部屋に戻る直前、その扉を見た。
鎖がかけられていた。それに、南京錠が、三つほど取り付けられている。
一時は薄れていた錦への警戒心が、膨れ上がった。
錦は、自分と親友だったと言った。
自分が解らぬと言ったものは根気強く、丁寧に教えてくれる。食事を用意して、清潔な着替えを用意してくれる。
それでも、この男は今だに得体がしれない。
優男の仮面の下に、何かを隠している。
錦は、頻繁にこの部屋からいなくなる。
川に使う水を汲みに行ったり、食料を買いに山を降りたり。
ボストンバッグ程はあるタンクに水を入れ、両腕に持って川から帰還する。とんでもない重労働だが錦は、いつも、汗ひとつかいていないのだ。
この男は何者なのだろう、という問いが再びよぎる。
自分の記憶は戻らず、唯一の外界との繋がりたる錦の人間性すらも掴めていない。
不安は警戒に、警戒は焦燥へと変わる。
斑猫は、乱暴にコップに入った水をあおった。
喉をゆっくりと滑り降りていくそれは、不快な生温さを持っていた。
「斑猫、顔色が悪いが……」
錦が顔を覗きこんできた。その心配そうな顔を、苛立ちのままに、思い切り睨みつけた。
錦の表情が強ばった。
「お前は俺を閉じ込めて、何か企んでいるんじゃないか?」
飛び出した声は、まるで自分の声だとは思えないほど荒々しく怒気を伴っていた。
「それは違う。君の怪我を……」
「怪我というが、俺の身体にはもうほとんど傷は無い。頭の包帯だって取れた。これ以上ここに監禁される必要は無いはずだ」
「監禁だなんて、そんな!俺は君が心配なんだよ。不自由をかけてすまないとは思っている。でも、もう少し辛抱してくれないか」
捲し立てる自分にも、錦は変わらない笑みを浮かべる。
自分を安心させようとしているのは理解しているのだが、今はただこの男の全てが疑わしくて仕方がなかった。
「君は、まだ回復しきっていない」
「俺は、そうは思わない」
「外で倒れたら、どうするつもりだい?安静にしておくのが一番だよ」
「倒れたとしても、病院に運んで貰えるだろう。騒ぎが起きると不味いことでもあるのか」
食い気味に返したところで、錦の表情に変化が生じた。
変化といっても、瞬きひとつで見逃してしまうような、ほんの刹那の事だった。
いつも浮かべていた、柔和な笑みが抜け落ちて、感情の失せた無機質な顔へと変わる瞬間を、斑猫は確かに眼で捉えた。
そこで初めて、この錦という男の本質に触れたような気になった。
「斑猫。……俺が、信用出来ないのか?」
錦が、寂しそうに呟いた。
一瞬だけ見た、彫刻のような無機質な顔は消え、憂いをおびた優男の顔がそこにはあった。
肯定しようとして、思いとどまった。
信用は、していない。疑念も晴れていない。
それでも、ここまで自分に寄り添ってくれたこの男を、苛立ちのままに責め立てるのも気が引けた。
青い瞳と、目が合った。
それは、よく磨き上げた宝石だった。滑らかな白磁の中に、濡れ輝く青玉が嵌め込まれている。
美しい男だった。
見慣れていたつもりだったが、こうして間近で見るとその美貌にははっとさせられるものがある。
「いや……そういう訳じゃ……」
斑猫は、歯切れ悪く目を逸らした。
「君の言い分は分かるよ。でも、過保護になってしまうのも許して欲しい」
錦は目を伏せ、悲しそうな面持ちのまま続けた。
「俺は、親友の君が目の前で足を滑らせた現場を見ているんだ。せっかくここまで回復したんだ、また何かあって眠り続けてしまったらと思うと、怖くてたまらないんだ……わかってくれないか」
錦は斑猫の手を掴み、しっかりと目を合わせてきた。
長い睫毛に縁取られた双眸はやや赤みを増し、涙で濡れていた。
「………わかった。俺も、無理を言って悪かった」
友人の涙に、斑猫は根負けして食い下がった。
「わかってくれたかい?」
錦は、途端に笑顔になった。その様子が、些か癪に障って仕方がなかった。
「それじゃ、沢山食べたし、後はたくさん寝ようじゃないか」
「おい」
「ほら、病み上がりなんだから横になって。布団をかけて」
「錦」
非難の声は尽く無視され、斑猫はあっという間にベッドへと押し込められてしまった。
満足そうに笑って、錦は出口へと向かった。
「そんなに帰りは遅くはならないさ。ゆっくりおやすみ」
そう言って、彼は斑猫の返事を待たずに外へと出てしまった。
体良く押し切られ、誤魔化されてしまった己の不甲斐なさに斑猫はため息をついた。
斑猫はしばらく何も無い天井を睨みつけていたが、諦めて眠りにつくことを決め込んだ。