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おっかなびっくり仮想空間へ

 厳しい現実から涙目敗走した私を待っていたのはまたも現実。

 人間にはどんなに現実逃避を重ねたところで直視しなければならない現実があるのだと身をもって思い知った。


 世間の厳しさに心の中でさめざめと涙を流していると、いつの間にか眼前に自室の電脳ベッドがあることに気が付いた。どうやら私が惚けている間に目的地に到着していたらしい。


「実際にはサーバーが分かれているからライバルもミヤコが考えているほど多くない。そこまで意識することなく励みなさい」

「はい、承知しました」


 父は楽観的に告げてくるが私の心は悲観的だ。


 父の言うように考えて前向きに捉えて邁進する方が大いに建設的だというのは分かっている。どちらにせよ父の期待に応えたいと他ならぬ私がそう思っているのだ。どんなに困難に思っても足を止めてしまえば達成できる可能性すらも失ってしまう。


 今できる行動はただ一つ。前に進むだけだ。


「お父様、もうゲームの世界にログインすることは可能ですか?」

「電脳ベッドとコンピューターの接続がすでに済んでいるから可能だが、もう始めるのか」

「はい、少しでも遅れた分を取り戻さなくてはなりませんから」


 父は難しい顔をしてこちらを見てくる。

 少しの間何かを逡巡した様子だったが父の中で何らかの方針が決まったのか「分かった」と告げていつもの表情に戻った。どうやら私の覚悟が伝わったらしい。


「では簡単に使い方を説明しよう。まず、いつも通り電脳ベッドの中に入りなさい。BMIチョーカーはそのままでいい。IRカフは外して枕もとのIR置き場においてくれ」


 父の指示に従って手首につけていたIRカフを外して電脳ベッドの内部に入ると父が上部に手をかけて覗き込んでくる。

 私にヘッドギアのようなものを手渡した。


「これを被りなさい。ついている端子は電脳ベッドのここにさしてくれ」

「はい。あ、いえその前に」


 多分私の髪の毛は邪魔になるだろう。長くて癖のある髪を枕元に置きっぱなしにしていたシュシュで結ぶことにする。

 左右二つに分けて体の前でゆるく結んでおさげにした。


 ヘッドギアを被って顎のひもを調節する。しかし、そもそもヘッドギアの大きさが少し大きいかもしれない。


「お父様、少しヘッドギアが大きいかもしれません」

「なに? ……ちょっと頭を振ってみなさい」


 頭を上下左右にぶんぶん振ってみた。頭に重心がある感覚が新鮮で少し楽しい。頭を振った勢いでよろけてしまいそうになるがヘッドギアが大きくずれた様子はない。


「この程度なら大丈夫だ。寝転がっているだけで激しい運動をしたり、頭に大きな衝撃が加わったりするわけではないからこのくらい問題ない」

「よかった。ありがとうございます」


 一安心して息をつく。

 もしヘッドギア取り換えとかになっていたらもっと時間がかかってしまっていただろうから。さらにライバルになる人たちに差を広げられてしまうところだ。

 父の様子を見ているとVRを始めるまでの準備はこれで終わりだろうか。


「次にいつも通り寝転がりなさい。頭はなるべく電脳ベッドの上部側に寄せて、手と足は少しだけ開くように」

「分かりました。……こんな感じですか?」

「あぁ、それでいい。次に『起動準備完了』と言いなさい」

「はい、起動準備完了」


 音声入力のキーワードを伝え終わると、電脳ベッドから『かしこまりました』と声が聞こえてきた。

 すると次の瞬間、

「……うひゃあっ」

 私の体に合わせてマットレスがいつも以上に沈み込んでくる。


 いつも寝ているときの感覚と違う感覚に驚いて変な声を上げてしまった。しかしこれはこれで心地いい。

 いつまでもオウムのように鳴り響いている『起動準備完了。電脳ベッドの扉を閉めて施錠してください』という声はとてもうるさいけれど。


「その状態から元の状態に戻りたいときは『起動準備中止』といえばいい。もし音声入力の「キーワードが分からなくなったのであれば『設定』と言えばウィンドウが表示されるので、それの指示に従いなさい」

「はい、そのようにいたします」

「あとの手順は『電脳ベッド施錠』と言って電脳ベッドの扉を閉めて『トロイメライ起動』と言うだけだ」


 いよいよVRゲームが始まる。

 全くの未知の世界に飛び込むことを考えるだけで息が詰まるようだ。けれどこの息苦しさは緊張だけではないと思う。

 私以外の人たちがすでにゲームをスタートしていることに対する焦燥感か、それとも現実でやらなくてはいけないことがあるのに目を逸らしているがための焦燥感か。

 そしてどこか高揚している自分もいる。なんだかそのことが不思議でもあった。


 心を落ち着けるために大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。


「覚悟はできました。いつでもいけます」

「すごい力の入りようだが一度入ったら二度と仮想空間から出られないというわけじゃない。もう少し落ち着きなさい」

「あう」


 なんだか出鼻をくじかれた気分だ。しょげているとヘッドギアの上から優しく撫でてくれた。

 続けてログインした後の手順を告げる。


「まず、仮想空間に入ったらTENKYUにログインしなさい。TENKYUのチュートリアルが始まるがそれは保留にしておくように。すぐに私が『グラビテーション』でメッセージを送るからそれまで待機だ」

「分かりました」

「準備ができたら先ほど伝えたようにしなさい」

「はい。……電脳ベッド施錠」


 電脳ベッドの扉が閉まっていく。現実と仮想の間に隔たりが出来ていくようだ。


 閉まっていく扉の中、父がいつも通りの無表情を少し崩して心配そうな顔でこちらを見ていた。

 これ以上心配させるわけにはいかないと思って私は父の方を見て大げさに歯を見せて笑う。父も表情を崩して笑った。


 扉が完全に閉まる。

 瞑目して覚悟を決めた。やっぱり仮想空間に行くのは少し怖い。

 もちろん現実に影響出たりしないかとか、仮想空間から出られなくなるんじゃないかとか、そういった心配は全くない。父の会社が関わっているのだから当然だ。


 私が感じている恐怖は奥のところ。もっと根源的で本能的な恐怖なのだと思う。

 けど、そんなことは関係ない。いつまでもしり込みしていても変われない。だから私は勇気を出して、

「トロイメライ起動」

その言葉を口にした。





 瞬きをしたと思ったら瞬時に視界が切り替わっていた。気が付くと私は真っ黒な空間に一人でぽつんと立っている。

『träumerei』

という文字列が目の前に出現したと思ったらふわりと形がなくなって消えていく。同時に巨大なIRウィンドウみたいなものが出現した。


 ウィンドウには表示されていて無数に四角が並んでいる。上部には「世界を選択してください」と記載されていて多くの四角は空白だったがその中の一つは空白ではなかった。


 雲が浮かぶ青空にTENKYUと書かれている。


 TENKYUを視線誘導で選択し決定の旨を意思表示するとアイコンが広がって目の前で扉に変化する。扉は青空とTENKYUと書かれた文字がそのままだったので何ともファンシーで、そしてなんだか神秘的だった。


 この扉を開いて向こうに行けばいいのだろうか。意を決してドアノブに手をかけて回した。


「し、しつれいしまーす」


 誰かの気配がするわけでもないのにゆっくりと扉を開けながら声をかける。体の半分だけを覗かせて扉の向こう側を見た。


――扉の向こうは異世界だった。


 最初に目に飛び込んできたのは海のような草原と幻想的な青い空。

 あまりに美しい光景に私の肌は電気が走るように鳥肌が立ち、誘蛾灯に引き寄せられた虫のように目の前の異世界へ足を踏み入れた。


 足の裏から茂る草を踏みしめた柔らかな感触がする。驚愕して唖然と足元を見て立ち尽くしているさわやかな風が抜けていっておさげ髪が風にさらわれた。草原も一緒になって私を歓迎するように波立っている。晴れやかな気持ちになって大きく息を吸い込むと豊かな草の香りで肺の中がいっぱいになった。


 思わずほうっと息をつく。父の言っていた通りあまりにも感じる感覚が現実と変わりなくてびっくりしてしまう。そんなとき視界の端で『チュートリアル:家の中を探索しよう』と表示されていた。


 ふらふらと異世界に迷い込んでいく。少し小高くなっている丘の上にかわいいログハウスが立っていて、それがチュートリアルに表示された家なんだと思う。父から待っているように言われたが家の周りを見て回るくらいなら問題ないだろう。


 気分よく坂を上っていると空が不思議な色合いをしていることに気が付いて足を止めた。

 空に浮かんでいるのは雲だけではなかった。よく目を凝らしてみると現実世界の街並みが水面を覗き込んだ時のように青空いっぱいに映りこんでいた。


 思わずくるりと一回転しながら空を見上げる。するとこの世界の遠くの方に天を突くような高い塔が立っているのが見えて、その先端が現実世界のリンクタワーと接していた。


 口をぽかんと開けて阿保面をさらしていると『グラビテーション』のメッセージ音が鳴る。

 ハッと意識を取り戻してメッセージを確認した。ベッドに寝転がったときに外していたはずのIRカフがいつの間にか手首についていた。

 操作してメッセージを見る。


《リオンさんがあなたの箱庭へ入る許可を求めています。許可しますか?》


 箱庭というのは分からないが父の名前が表示されたので許可を出す。すると扉が輝いて扉の向こうから二足歩行のライオンが侵入してきた。


「だ、だれですか!?」


 幻想的な世界への闖入者に気が動転して思わずファイティングポーズをとって威嚇する。

 これが聞きしに勝るゲームのモンスターなのかと思っていると二足歩行ライオンは呆れたように「わたしだ。お前の父だ」と言った。


「なんだ、お父様ですか」

「ここはミヤコのアカウントに紐づけられた空間だ。ここへはミヤコが許可を出したものしか入ることができない。この空間は箱庭というので覚えておくように」

「そうなのですね。ありがとうございます」


 この美しい空間が私のものだと聞いておもちゃを与えられた子供のように嬉しくなる。気晴らしにこの草原で寝転がったら気持ちいかもしれない。

 少しの間そんな妄想に浸っていたがあまりにも異様な父の姿が目に入ってきて現実に引き戻される。


「あの……とても気になっていたのですがそのお姿は一体」

「TENKYU内で作成したアバターだ。現実の姿のままではTENKYUの共用スペースにはプライバシーの観点で入れないことになっている。チュートリアルで変えられるからもしTENKYUの施設に行きたいなら時間が空いた時に設定しなさい」

「分かりました。……ちなみにゲームの世界へはどちらからいけるのでしょう」

「あの家の中だ。ついてきなさい」


 そういうと父は私に背を向けて私が空を見上げて惚ける前に向かっていた丘の上のログハウスを目指す。

 父の後をつけながら周囲を見回した。


 本当に素晴らしい技術だ。すべての感覚が目の前のものが本当に存在するかのように伝えてくる。あまりにも神秘的で幻想的なところだけが私に目の前の風景が現実でないことを教えてくれた。


 周囲の風景を楽しみながら歩いているとあっという間にログハウスの前に着く。遠くから見た時と同じようにこぢんまりとしていて素朴な作りという印象だ。

 ログハウスらしく丸太がふんだんに使われていて自然の温かみと力強さを感じさせる。


「開けてみなさい」

「分かりました」


 父に促されてレバーハンドル式のドアノブを開けて中に入る。

 内部は備えてある家具なんかは何一つなく、がらんとした空間が広がっていた。肩透かしを食らった気になってなんだかがっくりしてしまう。


 私の様子が余りにも分かりやすかったからか、後ろで見ていた父はからからと笑いながら教えてくれた。


「家具なんかはあとで購入したりゲームで入手したりすることでいくらでもレイアウトできる。家ごと変えることも箱庭の内装を変えることも可能だ。そんなことよりもミヤコが行かなくてはならないのは地下だ」


 地下へ続く階段を手で示す。

 階段を下りて行くと木で作られていて温かみのあった上層階と違い、冷たい印象を抱かせる石の作りで一番下に扉が目に入る。

 父に確認するように目を向けると深くうなずいた。

 

 重厚さを感じる扉を開くと四方を石で囲まれたなんの変哲もないと感じるがらんとした部屋だった。

 ただしその印象は部屋の中心で異彩を放っている透明の扉がなければの話だ。


 冷たく薄暗い灰色の空間に扉だけが鎮座している。

 どこか神秘性と、人知の及びつかない存在に触れた時と同じような好奇心と嫌悪感をないまぜにしたような感覚が私を襲った。


 恐る恐るその扉へ近づいていく。


「その扉からゲームの世界へ行ける。扉に触れてみなさい」


 おずおずと透明な扉に手を伸ばした。指先がちょんと触れると次の瞬間、仮想空間に入ったときに表示されたような四角が扉を埋め尽くすようにたくさん表示される。


 四角の群れをじっと眺めてその中で一つ他と違う四角を見つけた。真っ白な背景に浮く、玉虫色のような複雑な色をした綺麗な石が表示されている四角だ。


 父に促されるでもなく吸い寄せられるように触れた。

 触れた四角がぶわっと扉中に広がって、ちょうど目線合わせるように文字が浮かぶ。


『The Cornerstone of Life』


 思わず後ろを振り返る。


「その状態で扉を開けばゲームが始まるぞ。覚悟はいいか」

「大丈夫です。とっくに覚悟は決まっています」


 父は大きくうなずいた。


 私はゲームが嫌いだ。

 でも苦労を、迷惑を、心配をかけてしまった父の期待に応えたい。


 必ず一条家足りえる才能を証明して私を生んだことで無くしてしまった母の立場を取り戻したい。

 正直なところ武星祭というのは未だにどんなものか分かっていないけれど絶対やり遂げて見せる。


 父の方に振り返って笑みを浮かべて

「いってきます」

と言った。

 きっといつものように不安な顔をしていたら心の中で父は心配してしまうだろうから。


「あぁ、いってらっしゃい。期待しているぞ」


 背中に送り出す声がかけられた言葉に胸がいっぱいになる。努めて振り返らずに意気揚々と扉を開いた。


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[気になる点] 個人を尊ぶ時代へと変遷しているなか、「一条家として」の評価を気にかける主人公は、曾祖母教育の影響か一条家としての価値観かどちらかな、と。 これから描写されることもあるかもとは思うのです…
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