パイクの矛先が向くところ
また架空戦記創作大会に参加しました、頼久×2です。今回はお題1「史実とは異なる組み合わせでの第二次世界大戦を題材とした架空戦記」で日独伊ソの四か国同盟成立というネタで参加しました。よろしくお願いします。
1940年4月、英仏主体の連合軍によりバクー油田への爆撃が行われた。かねてより冬戦争における支援と対独戦に対するそれの差は英仏へのスターリンの疑心をあおる元であり、そしてバクーへの襲撃がとどめの一撃となった。
ソビエト外務省は英仏の行為を激しく非難。それに対し英仏は
「謝罪と賠償は辞さないが、それには今すぐ侵略行為への加担(つまり、ドイツへの資源輸出のことだ)を中止せよ」
と反論してきた。だがこれは気化したガソリンの中でマッチを擦ったも同然だった。
1940年5月、ベルリンにモロトフ外相が派遣され、ドイツの高官たちとの間で枢軸入りのための議論が交わされることになった。
当初は突然のすり寄りように疑念を持ったドイツ側の指導者たちも、
・フィンランドへの軍事的な支援の停止
・ボスポラス海峡の開放
・ドイツの対ソ技術供与の拡大
・ルーマニア及びブルガリアをいずれの勢力圏にも含めないこと
と引き換えに参戦と資源の確保が見込めるというかなり甘めの内容に次第に心を動かされるようになった。これにゲーリング、リッベントロップら反英派の後押しもありソビエト連邦の枢軸同盟入りが宣言されるに至ったのである。
そして6月の終わりにはソビエト連邦は英仏などに宣戦布告。7月には赤軍が大挙してイラン、および冬戦争終結間もないフィンランドへと押し寄せた。
とはいえ、イランに関してはソ連もアーバダーンなどの石油施設を欲し、また南アジアへのさらなる派兵への後方基地としても利用できると踏んでいたため、シャーという封建的な支配体制を敷いていたにもかかわらずイランの内情は安定を第一とし、現地の人々との間にはなるべくもめ事を起こさないように色々と配慮していた。
むしろここで悲惨だったのは独ソ両国に挟撃される格好になってしまったフィンランドだった。しかも、英仏からもらえる支援も不十分な状況で、である。人口のおよそ8分の一が銃をとって戦い、6ケタともいわれる人々がスウェーデン経由で亡命した。勇敢だが絶望的なサンタクロースの国の戦いは5か月弱で終了した。再建なった赤軍は海上封鎖によって物資の搬入を抑えつつ、空爆などを利用して敵の戦力を削り、最終的には再建なった陸軍で敵の陸軍を押しつぶした。フィンランド軍の降伏時には、冬を過ごす燃料すら足りなくなっていた。
そしてソビエト軍が中東・南アジアへと勢力を伸ばしていく状況は、日本にも影響を与えた。実のところ、日本はドイツへの懐疑もあって枢軸同盟への参加には不安の声も少なくなかった。だが、軍事的な脅威であるソビエト連邦による勢力圏の拡大という事実は変えようがなかったし、その一方で枢軸側からはアメとしての資源や技術の輸出、さらには日本勢力圏における敵対勢力―その中には目下「事変」中の中華民国も含まれていた―への支援の打ち切りという魅力的な提案が与えられた。一方連合国からは中華民国への支援打ち切りと彼らによる対中利権の強化というオファーがあたえられたが、枢軸側の出したものに比べると日本人の心には響かなかった。これを受けて
「バスに乗り遅れるな」
という声が目論見こそバラバラだったものの朝野を問わず、日本を埋め尽くすまでに至っていた。
かくして、時の総理大臣であった近衛文麿は9月には枢軸に加盟することを決定、そして明けて1941年6月、対英・対仏開戦を行った。
当初のところ、独伊・ソ連・日本はそれぞれ個別に目前の敵とぶつかりにいっていた。独伊は徹底抗戦を宣言したフランス、ソ連は中東・南アジアのイギリス勢力圏、そして日本は中国と東南アジアの連合国植民地へ、である。これは四カ国外相会談でそれぞれの勢力範囲とされていた地域がそのあたりだったからで、また同時にお互いの作戦行動にワクをはめられたくないという事情も存在した。外交ルートでそれぞれ間接的な
だが、1941年も終わりに近づくにつれ、そうもいっていられない事態が発生していた。
ドイツとフランスとの戦いは終わるには終わったのだが、ボルドーなどの港町を経由してうまく英仏が大陸に展開させていた陸軍戦力を引き上げる事に成功していた。また、守備範囲が狭くなった事から、連合軍の戦力的な密度は上昇しており、開戦当初のように勢いに任せて押しまくる戦術は通用しなくなっていた。
英本国艦隊と生き延びたフランス艦隊の合同戦力は独伊ソ海軍を圧倒しており、特に地中海の制海権では連合国が圧倒していた。資源そのものには問題がないものの、アフリカにいるドイツ・イタリアの戦力には十分にいきわたらない状況が発生していた。
日本陸軍は未だに中華民国軍相手にてこずっており、南方ではビルマ西部でイギリス軍に粘られていた。ソ連は中東・インドへ進撃しようとしたが、破壊されたバクー・アーバダーン油田の再建に手間取った事で補給にもガタが来ていた。
予想外の戦争の泥沼化に対処するため、枢軸所属の各国の軍の要職にある人々がヤルタに結集。雪の吹きすさぶ1942年2月、目にくまを作りあげた枢軸軍関係者による「対連合戦略目標文書」が完成した。準備自体は昨年末から始まっていたのだが、後方の政治との折衝に予想外の時間を費やしていた。これは様々な事情から難しかった共同作戦を展開するものだった。
第一段階として、日ソ両国の陸海軍がインド亜大陸及びインド洋へと侵攻し、英領インドを本国から切り離すこと。第二段階として、トルコに圧力をかけてボスポラス海峡を通じて中東に上陸し、アラブ地域を混乱させること。
そして、第三段階はスエズ運河をアラブ・インドに展開した陸海空戦力で攻略し、それと同時に連合軍に攻略されたトリポリへ再上陸することだった。連合軍が優位を保っているアフリカ地域の戦力を破壊し、彼らをアメリカが大規模な介入を始めるまでに交渉のテーブルに引きずり出すことを狙ってのことである。
1942年4月、かつての東洋艦隊に地中海からの戦力を加えて編成された英国インド洋艦隊は日本海軍と遭遇した。海戦自体は戦力と練度でやや優位だった日本側が犠牲を払いながらも勝利し、英海軍は撤退を余儀なくされた。だが、これは枢軸軍の大攻勢の序曲に過ぎなかった。
8月、日ソ両軍が中心となったインド侵攻が開始された。各国のインド軍捕虜が中心となった「自由インド軍」は全体指揮をスバス・チャンドラ・ボースがとる形で各勢力を取りまとめることになりまた、インド共産党も各地でデモ・ストライキのみならず武装蜂起まで行って侵攻の援護を行った。
だが、これに対して受けて立つ連合軍はあまりにも間抜けさを露呈していた。これはブラマプトラ・インダス両河川のみに目を向け、南インド側を海軍頼みにしてほぼがら空きになっているという彼らの戦力配備も悪かったのだが、それ以上に兵力を動かしてしまえば暴動が誘発されかねないという恐怖感から戦力をうまく動かせずにいた。そのため、本来は十分であるはずの兵力が拘束された上に、セイロン経由でのポンディシェリーやチェンナイ、さらにはベンガル湾岸の諸都市への奇襲上陸を許してしまった。
この報に驚いた連合軍は何とか兵力を割いて彼らに対処しようとするが、これらの兵力は陽動だった。兵力分裂があだとなり、河川での防衛部隊は殲滅されてしまう。辛うじて残った連合軍の守備部隊はサイクロンで枢軸側が補給面での足止めを食らっている間に再編を終えると、連合軍がかろうじて占領しているアフリカへと撤収していった。
デリーを敵の姿も見えないまま占領した枢軸軍は、「イギリスら帝国主義からの植民地解放」を高らかに歌い上げた。(無関係のインド人暴徒を連合軍と間違えて攻撃する事態は発生した)この際に日ソ両兵が握手しているさまは「デリーの出会い」として有名な写真にもなっている。
デリー占領の報は他の地域にも衝撃をもって伝えられた。中東では各地で暴動が発生し、かろうじて重慶に籠っていた蒋介石は絶望して自殺。中華民国重慶政府の残余は白旗を掲げて日本軍に降伏し、それにも満足できないものは各地で盗賊に身を落としていった。
一方そのころアフリカでは、1942年の半ばからドイツ・イタリア軍が総力を挙げて連合国の一部であるレバノンへと上陸する。インド方面での危機に対処するべく、連合軍が地中海の戦力を引き抜いてインドへと差し向けたすきを突いた形であった。一度目の上陸作戦は失敗に終わったものの、インドでの戦いが激化するに及んでさらに海上戦力が転用され、また場所をうまく選んだことがあって上陸に成功。橋頭保を築き、秋にはシリア及びレバノンの沿岸部を確保するに至った。連合軍もこれを座視することはなく、反抗作戦に打って出ようとするが、イラクがソ連軍により陥落を余儀なくされ、また同時期にパレスチナ、ヨルダンといった地域で反英勢力や反ユダヤ勢力が暴動をおこし、反撃の前線をシナイ半島にまで下げざるを得なくなってしまった。
1943年に入ると、連合国艦隊は迫りくる日独艦隊に対し、一隻また一隻とインド洋で、もしくは北海で摺りつぶされていた。そして陸では枢軸軍がアラブを制圧し、チュニスなど旧イタリア植民地にも足を下ろしつつあった。もはや、海においても連合国は勝ち目を失ったのではないか、と思われた。
そのため1943年7月、議会からの突き上げを受け、チャーチルは首相を解任された。後任にいやいやながら居座ったハリファックス卿は「名誉ある和平」をスローガンにドイツ・日本・ソビエトとの講和交渉に踏み切ることを宣言。フランスら敗北した欧州勢力は辛うじて枢軸軍の占領下にない南アメリカやアフリカに点在する植民地へと三々五々撤退していった。
講和交渉は1943年の12月から、スペインのマドリードにて行われた。枢軸寄りではあったが最後まで中立を維持していたスペインの動きが評価された形でもあった。
連合国は
・敗戦国に対する軍備の制限
・独立インドや保護国化されたオランダのみならず大戦以前から独立していたが未承認だった満州国なども含む、大戦を通じて勢力圏化された国々の承認
・捕虜交換と、それで足りなければ身代金との引き換えによる連合軍捕虜の釈放(事実上の賠償金)
を認めることを強制された。連合軍は1942年以降「クリスマスには終戦を」と訴えてきたが皮肉にもそれが実現した形となった。ただし、自分たちの敗北で。
かくして、旧大陸のほとんどは枢軸国、もしくはそれに連なる国々によって分割された。
とあるアメリカの新聞はこの様子をこう告げた―「Fall of Liberty」と―
1947年12月15日、オタワ。いわゆる自由イギリス政府の統治機構からほど遠くない都市部の一フラットにウィンストン・チャーチルは居住していた。第二次世界大戦の結果イギリスらの抗戦派は枢軸の占領していない地域に集結して、そこに政府を亡命させて継戦しようとした。だが、彼らと本国政府との折衝は失敗。第二の計画として彼らが率いる軍によってクーデターが発生したことにより、現在、カナダは反枢軸派の根城となっている。
―ドイツは、国際法を無視した危険な勢力だ―
―ドイツは枢軸同盟を盾に他国の内政に干渉を繰り返している―
―ユダヤ人、チェコ人、ポーランド人がアフリカで大勢殺されている―
彼の新しい(建物はオンボロだけど)住まいにはこのようなプロパガンダ用の原稿が積まれていた。アメリカ国内で反独世論を煽ること。それが、アメリカ人の血を引く英国元首相に課せられた、新たな仕事であった。今日も大勢の作家やジャーナリスト、学者とともにアメリカの新聞に掲載するための宣伝記事の試案を取りまとめてきたところであった。
とはいえ、チャーチル本人としては外交の第一線で(本国を失った)彼の祖国に貢献できないのが不快ではあった。
「にしても、この寒いのは何とかならないものか……」
反攻までの辛抱とはわかっていても、つい不平が出てしまう。油田地帯のほとんどが枢軸軍に落とされてしまい、アメリカからの燃料は大幅に増えたわけでもない中、燃料などのほとんどは反抗作戦のための軍需に回されていた。そのため元首相はなけなしの薪を暖炉に放り込み、両手をこすり合わせながら冷え切ってしまいそうな手に熱を戻さねばならなかった。
とはいえ、元首相に弱音を吐いている時間などなかった。共産主義者と国家社会主義者が噛み合ったまさにそのタイミングでアメリカの力を借りて背後から匕首を突き立てる-それ以外に彼らに活路などなかったからだ。我が物顔でユーラシア大陸を大手を振って歩いている国家社会主義者と共産主義者たちの不愉快極まりない顔が脳裏に浮かぶ。
(今に見ておれ!)
チャーチルはひとつため息をつくと、これまでの怒りをインクに変え、タイプライターを通じて紙の上に走らせていった。
同じころ。
チャーチルが憎しみを向けまくっていたそのターゲット(の一人)の方も、チャーチルが思っているほどには気楽にやっていなかった。
「ゲルマニア」への再編を目論見られているベルリンにある、「狼の城」の異称をとるこの総統官邸の中で、フリッツ・トートは浮かない顔を浮かべて小走りに執務室への道を進んでいた。連合国との戦いを経て、総統の戦争マシーン形成者としてのトートの権勢は高まっていた。(それ相応に受けているところからは敵意を受けてもいたけど)
「時間が足りない、か」
報告書から目を離したヒトラーは窓の外を見つつ、低くため息をついた。二重の意味があることをトートは熟知していた。
対仏・対英戦で決して少ないとは言えない人的資源の損害を出し、せっかく作り上げた海空戦力も勝利したとはいえ大幅な弱体化を余儀なくされていた。アフリカの植民地、並びに中東の一部だけでは戦争を通じて消費が増えた石油などの戦略物資や食料を賄いきれない。
その一方で王冠の真珠とまで言われたインドに、石油の豊富なイランやイラクなどを支配し、その地に衛星政権を立ち上げたソビエト連邦は着々と力を伸ばしつつあるようだ、という報告は軍需相の耳にも入っていた。このまま放置すれば国力で彼らに「逆転」されてしまいかねない-そんな危機感が今回ヒトラーに提出したレポートに記されていた。
そして、官邸の主は低くつぶやく。
「我らは長きにわたって奴らに使いつぶされてきてしまったな」
その一言だけでトートは察した。ヒトラーはついにソビエト連邦との開戦をもくろんでいるのだ、と。とはいえ、トートにとっては問題のある話だった。
「現在の状況で開戦しても、勝機があるとは考えにくいです。さすがに今となっては、彼らは粛清の後の混乱から立ち直っているでしょう。はっきりいって軍事力でも経済力でもロシアを倒せるとは思えません」
一応、世界大戦を通じてドイツの地位が向上しているとはいえ、ソ連を枢軸から追放し、さらに兵を向けるとなればまなざしは別物となるだろうし、勝算があるとは言えない、軍需相はそう力説したかった。だが、彼の主は静かに首を横に振った。
「だからこそ、だ。もともと奴らを誘った時点で決戦が先延ばしにされたにすぎんのだ。我が奴を撃たねば奴が我を撃つのみ、そして奴に先手を取られた時点で我らに勝ち目などありはしない」
軍需相は否定する言葉を持たなかった。彼が黙っていると、
「我に言いたいことはそれだけか」
と官邸の主が畳みかけてくる。
「英仏のやつらのみならず、スペインやルーマニアも共産主義者を滅ぼす戦いには乗り気だ。黄色い肌の連中は国内で、ムッソリーニの奴はアフリカで足を取られているらしいが、何らかの援助は送ってくるのは確実だろう。外交的な孤立の心配はいらないし、それにロケット兵器も導入する予定だ。あれならば奴らの拠点を灰燼に帰することができる」
トートは遠回しに戦争の延期を問いかけようとしたのだが、彼の主によって機先を制されていた。さらに彼の主の弁は続く。軍需相は効果的な反論をすることができなかった。
「雪解けを待って奴らを枢軸から追放し、ボルシェビズムを覆滅する。正式な命令は追って出すが、準備をするよう部下たちに伝えておくように」
軍需相は黙ってうなずいただけだった。
連合軍によるバクー爆撃は史実でも構想は存在しました。実際にはフランスの早期降伏により実現はしませんでしたが、今回は時期を早めて起こすことでこれも同じく史実で構想のあった4か国同盟を成立させるための一押しになってもらいました。
自分の力不足が原因で今回も小説として成立させることができませんでした。今回は第二次世界大戦と、いまいち救いのなさそうかつ、また大戦争が起きそうな雰囲気をにおわせる世界観を駆け足で描いてしまったためにこうなりました。
日米に関してなど描写が薄い部分に関しては、またの機会を設けて小説なり設定集なりといった形で投稿したいと思っているので、読みたい方はその旨教えて下さると嬉しいです。