#27 運搬
「大気圏離脱!地球816との距離、2千キロ!」
「両舷前進半速!」
「両舷前進半速!ヨーソロー!」
私は今、久しぶりに宇宙にいる。今度は緊急発進による共連れ旅行ではなく、正式に「仕事」としてここにやってきた。
そして今回はフェデリコさんの計らいで、ヒルデガルドさんも同行している。
「はぁ……やっと静かになりましたわ……」
そういえばヒルデガルドさん、宇宙へ行くのは初めてだ。公爵令嬢だった時は、そもそも宇宙港にすら来たことがない。いや、それどころか、帝都すら出たことがないと言っていた。大気圏離脱時の、あのけたたましい機関音から解放されて、ほっと一息ついているところだ。
「ええと、ヒルデガルドさん、宇宙というところはね、真っ暗ですっからかんな場所なんだよ」
「それくらい知ってますわよ!地球122まで約200光年、つまり、光の速さで進んでも200年かかるところにある星であること、800もの地球が、この銀河系と呼ばれる星の集団の中の、直径1万4千光年の円形に分布していることも、私はすでに動画や書物で学んでおります!ただ……」
「ただ?」
「……本物の地球が、こんなに美しいものだということは今、初めて知りました……」
私達の乗っている駆逐艦6190号艦は大気圏を離脱し、私たちの住む地球816を大きく迂回しているところだ。ちょうど窓の外に、青くて丸い地球816が見える。
私は宇宙に出るまでは、そもそも自分の住んでいる場所が丸いところだなんて知らなかったほどだ。でも大地と海が丸い形をしていることをヒルデガルドさんはすでに知っており、さらに地球122からもたらされた動画や書物で、それが青い球体であることも知ったという。
だが、それがこれほど壮大で、これほど美しい星だということは、実際に目にするまでは実感できなかった。
その大きな丸い大地と海の星が、目の前にある。それはまるで、大きな青金石の宝玉のようであった。
「方位設定、240-154-0!目標地点、地球816基準座標で23564、22561、311!進路設定よし!」
「両舷前進微速!取舵15度!」
「両舷前進微速!とーりかーじ!」
相変わらず、駆逐艦の艦橋というところは騒がしい。なんだってここの人達はみんな、いちいち大声で叫ぶのだろうか?
そんな騒がしい艦橋を出て、主計科の事務所へと向かう。
「いらっしゃい、オルガちゃん、そして……ええと、誰だっけ?」
「ヒルデガルドさんですよ、アナリタさん」
「ああ、そうだ、お嬢様ヒルデちゃんだ!ようこそ、駆逐艦6190号艦の主計科へ!」
いつの間にかそんなあだ名がついていたんだ、ヒルデガルドさん。もっとも「お嬢様」じゃあ、ちょっとひねりなさすぎだよね。せめてデーボラさんにつけられた「肉まん」くらいの強烈さがないと、あだ名として面白みがない。
ちなみに私には「ピザ占い師オルガ」というあだ名があると最近知った。占いで手を握る際、時々ピザ臭いことからそう名付けられたらしい。ああ、多分それは、昼食でピザを食べた後に占いをした時のことだろう。今後、気をつけようと思う。
さて、私とヒルデガルドさんは主計科に寄ったものの、特にすることもないので食堂へと向かう。ここでは自室でテレビを見るか、スマホにためておいた書籍や動画、音楽を楽しむか、この食堂で談話に浸るか、それくらいしか時間を潰す術がない。
まず私達は主計科事務所のすぐ隣にある食堂へと向かう。ちょうど昼食の時間だ、何かを食べることにした。
「あれ、オルガレッタさんじゃないですか?どうしたんです、また取り残されたの?」
「いえ、今回はちゃんとお仕事で乗ってます」
「へえ、そうなんだ。じゃあさ、また占ってよ」
「はいはい、食事が済んだら見てあげますよ」
この艦には知り合いが多い。というのも以前、緊急発進で共連れ乗艦したときに、キースさんをはじめたくさんの人と交流したからだ。
「相変わらず、占いを頼まれることが多いよね、オルガレッタさん」
と言いつつ現れたのは、キースさんだ。
「ええ、しょうがないですね」
「そういえばヒルデガルドさんは、オルガレッタさんに占ってもらわないんですか?」
「いえ、私はいいです。私のやらかしたこととはいえ、オルガレッタさんの占いにはいい思い出がありませんから。なので、手を握られた途端に殺したくなるかもしれないので、控えてるんです」
時々、ゾッとすることをおっしゃるお人だ。私もキースさんも、これにはドン引きだ。
「キース中尉殿、女性を2人もお連れとは、随分と華やかですね」
「あはは、大尉、そ、そうですか?」
と、そこに話しかけてきたのは、キースさんの先輩のルチアーノさんという、砲撃科の方だ。以前乗った時も、何度かお話している。
「ルチアーノさん、私達の他にも女性は何人かいるではありませんか。それほど珍しいですかね?」
「それが、艦内にはあなた方お2人を除くと、4人しかいませんからね、女性は」
「ええーっ!?この駆逐艦って、全部で100人いるんですよね?この船の女の人って、そんなに少ないんですか!?」
「そうですよ。なかなか駆逐艦乗りになりたがる女性がいなくて、極端に少ないんですよ。艦によっては一人もいない場合もありますからね」
「そ、そうだったんですね。そんなに少なかったんだ、女の人……」
この方から、意外な話を伺った。女が少ないとは分かっていたが、そんなにも少ないんだ。主計科のアナリタさんも、その4人のうちの1人ということになる。知らなかった。
「そういえば、オルガレッタさんの横にいらっしゃるのはどちら様で?」
「ええと、こちらはヒルデガルドさんです。私と同じ、雑用係やってます」
「お初にお目にかかります。私、ヒルデガルドと言います」
「私は本艦、砲撃科所属のルチアーノ大尉と申します。以後、お見知りおきを」
「大尉殿でしたか、ところで、砲撃科とは?」
「はい、艦隊戦の際に、主砲を制御、発射し、敵艦を狙い撃つという任務を行うための兵科です」
「主砲というのは、先端についたあの大きな穴のことですか?」
「そうです。駆逐艦に搭載されているのは10メートル級高エネルギー砲と呼ばれる、大型の砲です」
「それって一体、どれくらいの威力があるのですか!?」
「そうですね……通常砲撃の1バルブ出力ならば、1発で帝都の半分は灰にできるほどの威力はあります」
「て、帝都の半分が、灰に……?」
「あ、もちろんそんなこと、絶対にしませんよ!それほどの威力のある兵器というだけなんです!なればこそ、取り扱いには慎重さが求められます」
「そうですよね……そんなものを持ち出して反乱を起こされたら、大変なことになりますわ」
ヒルデガルドさんも、好奇心からついつい細かいことまで聞いてしまう癖があるが、ルチアーノさんから引き出された話は途方もないものだった。この駆逐艦一隻で、40万人が住むあの帝都の半分を焼き尽くすことができるほどの威力のある砲を持っているというのだ。
そういえば、以前乗った時にも主砲についての説明を受けたけど、その時はよく分からなかった。まさにそんな恐ろしいものを載せた駆逐艦が、あの帝都宇宙港に20隻も駐留しているとは。それだけあれば、帝都どころか、帝国全土を焼き尽くせる。それにしても、こんなとんでないものを使わないと倒せない相手だなんて、連盟という名の魔王は恐ろしい奴らなのだと改めて実感する。
「よろしければ、その主砲身の外側をご案内致しますよ」
「えっ!?ほ、本当ですか?」
「ええ、どのみち皆さん、艦内では手持ち無沙汰でしょうから、私の手が空いている時であれば、主砲や機関室の案内をいたします」
「はい!お願いします!私、動いている時の機関室も見てみたいと思っておりましたの!」
好奇心旺盛なヒルデガルドさん、ルチアーノさんのこの申し出に飛びつく。
「で、オルガレッタさんは、どうなさいます?」
「ああ、私は一度見てるから、いいかな」
「そうですか。では、私とルチアーノ大尉殿とで見ることにいたします」
「じゃあ、その前に食事、済ませましょうか」
「そ、そうでしたね。食事がまだでしたわ。では、ルチアーノ殿を待たせては失礼ですし、早くいただきましょう」
急に気分が乗り始めたヒルデガルドさん。いつも止まった駆逐艦しか知らないから、こうやって実際に動いているところを目の当たりにする機会に巡り会えて、その好奇心がくすぐられたようだ。
ところで私達が宇宙に来たのは、動いている駆逐艦を見学するためではない。
「小惑星」という星に降り立ち、その表面の石を拾って持ち帰るためだ。
小惑星は、地球816と呼ばれる私達の住む星から離れたところにある小惑星帯と呼ばれる場所に点在している。だが、今回向かうのは、この小惑星帯から逸れ、さまよっている小惑星だ。
その小惑星は大きさが10キロほどあって、この先、数年から数十年後に地球816に衝突するかもしれない星なんだという。
あの強力な艦砲を用いて軌道を逸らしてもいいのだが、せっかく地球816に向かっているのだから、近いうちに創設される地球816の防衛艦隊の戦艦建造用の素材として使えないかと、司令部と帝国の宮廷の人々は考えたらしい。
戦艦にせよ、駆逐艦にせよ、主な船体材料は小惑星だという。小さめの小惑星は駆逐艦に、そこそこ大きなものは戦艦用に使うそうだ。これを削ってくり抜いて、主砲や機関などを取り付け、宇宙船が出来上がる。戦艦の場合はさらに「街」まで作る。これなら丈夫な宇宙船が安く仕立てられるというので、軍民問わず使われている手法だ。
そんな戦艦用の船体材料に使える小惑星かどうかを見極めるため、表面の石を持ち帰り、また内部を調べるための機器を小惑星の上に置いていく。それらを分析すれば、戦艦が作れるかどうかが分かるそうだ。
しかし、だ。これ、雑用係の仕事なのか?
小惑星の調査は本来、技術科の仕事らしいが、こういう「はぐれ小惑星」の調査は管轄外だと言ってきたらしい。それで石拾いと機器設置の仕事だけが雑用係に回ってきた。分析は、技術科が引き受けるという。
というわけで、とうとう宇宙で仕事する羽目になっちゃった私の職場。ここに来て数々の無茶振りを受けたが、こんなに遠くまで振られたのは初めてだ。
まあ、いいや。貴族相手にするわけではないし、ただ石ころを拾って機械を置いてくるだけの仕事だから、楽なものだ。
昼食が終わって、私は占いを、そしてヒルデガルドさんはルチアーノさんに艦内を案内してもらうため、別々に行動する。
私はそこで5、6人ほど占ったが、相変わらずたわいもないものが多い。転ぶ、チャックを締め忘れる、スマホを落とす……こんなのばかりだ。
でも、一つ安心したこともある。もしヒルデガルドさんがさっき言葉にした通り私を殺そうとしたなら、その時はきっと艦内は大騒ぎになる。ということは、誰かの占いの光景に出てくるはずだ。それがなかったということは、私はヒルデガルドさんに襲われることはない。それが分かっただけでも、私にとっては朗報だろう。
しばらくすると、駆逐艦内を見て回ったヒルデガルドさんが帰ってくる。えらく上機嫌だ。
「さすがはこの宇宙で、もっとも優れた技術を持つ船ですわ!あれほど力強い機関だったなんて、この目で見なければ分かりませんでした!それに、この宇宙でこうして地上と変わらず立っていられるのも、あの重力子エンジンというものを使った慣性制御によるものだとは……」
ルチアーノさんの説明がよほど上手かったようで、これほど舞い上がったヒルデガルドさんを見るのは珍しい。だが、生まれながらの平民である私には、ヒルデガルドさんがもはや何を語り、何に感動なされているのかがまったくもって分からない。
ただ一つ分かることは、あれだけ機嫌がよろしければ、私を殺そうとなどとは思わないだろうな、ということだ。
『達する。艦長のジャンピエロだ。まもなく本艦は、小惑星グラウハルトフェルスに到着する。整備員、パイロット、および調査要員は、直ちに第1格納庫に集合せよ。以上」
艦内放送で、第1格納庫に行くよう言われる。私はヒルデガルドさんを誘って、格納庫に向かう。
「ああ、ちょっと、2人とも!」
アナリタさんが私達を呼び止める。
「なんですか、アナリタさん」
「あんた達、まさかその格好で小惑星に行くとは言わないわよね!?」
私とヒルデガルドさんは今、いつもの雑用係の制服である、ピンクのメイド服を着ている。
「えっ!?これじゃダメなんですか?」
「ダメに決まってるでしょう!そんな格好で宇宙に出たら、あっという間に死んじゃうわよ!いいから、こっちにいらっしゃい!」
アナリタさんは主計科の事務所の奥に私達を連れて行く。そして、なにやら白っぽいゴツゴツとした大きな服を取り出す。
「なんですか、この不格好な服は……」
「船外服よ!これ着ないと、空気のない宇宙空間では一瞬だって生きられないわ!」
「ええ~っ、こんなの着るんですかぁ~っ!せめて、スカートのやつはないんですか?」
「あるわけないでしょう、そんな船外服!さ、2人共、さっさと着るわよ!」
そう言って、私達はその不格好な服を着せられた。身体中を覆う服を被せられ、頭にヘルメットの大きいやつを被せられる。
「じゃあ、続いてヒルデちゃんね!ええと……あれ?あなた胸に……まあ、いいわ、そのまま着せちゃうわよ!」
ヒルデガルドさんもアナリタさんに船外服を無理やり着せられている。せっかく機嫌が良かったのに、再び不機嫌になりそうだ。
「な、なんですか、この服は!?」
「これがないとダメなのよ。まあ、行けばわかるわよ」
「そ、そうなんですか?」
「そうよ。宇宙を甘く見ちゃダメよ!あ、あなた達の制服はこのカバンに入れといたから、戻ってきたらどこかで着替えてちょうだいね!さあ、行った行った!」
この重い服を着たまま、私とヒルデガルドさんは格納庫へと向かう。
「ふええ……キースさ~ん、なんだかとんでもないもの着せられましたよぉ~!」
「あれ、オルガレッタさん、どうかしたんですか?」
ふと見ると、キースさんも同じ船外服を着ている。アナリタさんが言った通り、やっぱりこの船外服というやつは着なきゃいけないようだ。
「船外服を着せられてぼやいてたんですか……でも、これは着なきゃダメですよ。空気のない、人間には耐えられない場所に行くんですから」
「ふええ……やっぱりそうなんですか……しょうがないですね」
「では、小惑星グラウハルトフェルスまでお送りいたしますよ。道具は積んでおいたので、乗ってください」
「はぁぁーい……」
この硬い服のおかげでぎこちなくなった身体をどうにか動かして、2人は哨戒機に乗り込む。
「整備員は全員退避!ハッチを閉める!」
キースさんが叫ぶ。哨戒機のハッチが閉められ、格納庫にいた整備員の人達は大急ぎで格納庫の外に走っていくのが見える。
さて、出発だ!……けど、それからしばらく、この哨戒機は格納庫の中でじっとしているだけだ。なかなか発進しない。私はキースさんに尋ねる。
「キースさん、まだ発進しないんですか?私達、いつでも出られますけど……」
「ああ、今、格納庫内の空気を抜いてるんですよ。ここが真空にならないと、出られないんです」
「ええーっ!?ここの空気抜いちゃうんですかぁ?」
「そうですよ。宇宙と同じにするんです。そうしないと、空気を捨てちゃうことになりますから」
しばらくすると、格納庫の奥で赤い光が点いた。それを見たキースさん、発進準備が整ったことを艦橋に知らせる。
「1番機より艦橋!発進準備完了!発進許可を乞う!」
『艦橋より1番機、発進許可、了承。ハッチ開く』
艦橋とのやり取りの後に、天井のハッチが開く。ゆっくりと開くハッチだが、この間、ランデン平原の時とは何か様子が違う。
静かすぎる。あれだけ大きなハッチが動いているのに、全然音がしない。おかしいな、ランデン平原の時はギシギシときしむような音がしてたと思うのだが、今はまったくしない。
天井が開くと、そこには無数の星が光っていた。ロボットアームが哨戒機を掴み、ハッチの外に持ち上げる。
窓の外を眺める。うわぁ……あっちもこっちも、星だらけだ。ここは果てしなく、すっからかんの世界だ。小さな哨戒機にいると、余計に実感する。
「1番機より艦……」
キースさんが無線に何かいいかけた時、この星空を見て興奮した私は、横からつい大声で叫んでしまう。
「雑用係!任務遂行のため、発進しますっ!!」
あまりに大きな声で叫んでしまったためか、無線からはこんな声が聞こえてくる。
『……6190号艦より雑用係、周囲300キロ以内に障害物なし、進路クリア、直ちに発進せよ。健闘を祈る』
「雑用係より6190号艦。了解、発進する!」
私がつい感極まって叫んでしまったおかげで、以後、この哨戒機の呼名が「雑用係」になってしまった。
外を見ると、ぽっかり浮かぶ駆逐艦が一隻と、あとはなんにもない、星だらけの空間をこの哨戒機は飛ぶ……
……のだが、駆逐艦を見ていないと、動いてるかどうかが分からない。それくらいここには、何もない。
いやよく見ると、大きな岩が浮かんでいた。灰色の、まるで梨かリンゴのような形の岩。あれが目的地の小惑星グラウハルトフェルスのようだ。
その岩の塊に近づく。小さな岩だと思いきや、近づくにつれて大きくなる。ああ、まるで戦艦に近づくときのような感じだ。そういえばこれ、戦艦を作るのに使うと言ってたくらいだから、それなりに大きい岩なんだよね。当たり前か。
「雑用係より6190号艦、小惑星へのアプローチに入る!距離2000、速力30!」
もう窓いっぱいに見える小惑星に、哨戒機はさらにゆっくりと近づいていく。
「距離30!着陸地点、地形レーダー確認、問題なし!90度回転、ギアダウン!距離20……15……10……5……ランディング!」
ガタンという音とともに、哨戒機はその小惑星に降り立った。
「機関停止、アンカー射出!」
バスッ、バスッという何かを打ち出す音がする。この哨戒機をこの岩の表面から離れないように、杭のようなものを打ち出してるようだ。
「それじゃお2人さん、室内の空気を抜きますよ」
「えっ!?なぜですか?」
「そうしないと、外に出られませんよ。ヘルメットを閉じて下さいね」
私とヒルデガルドさんは、ヘルメットの前側の透明なガラスのようなものを閉じる。ちゃんと閉じられたかどうか、キースさんが確認してくれる。
「では、空気、抜きます!」
プシューという音が鳴り響く。私とヒルデガルドさんは、少し不安げにその音を聞いている。
空気を抜くなんて、とても不安だ。空気のない息のできない場所に行ったことなど、生まれてこのかた一度もない。だから、不安でしょうがない。
しかし、徐々にあのシューという空気の抜ける音が小さくなっていく。心なしか、静けさが増した気がする。
いや、異変はそれだけではない。手足が、すごい力でどんどん広げられてしまう。
何これ!?どうなってるの!?ヒルデガルドさんも同じようで、とうとう2人揃ってまるでヒトデのように手足を広げたまま、動けなくなってしまった。
手足を曲げようにも、ものすごい力で押し返されてなかなか曲がらない。手足が言うことを効かないなんて、どういうこと?なにこれ、誰か助けて!
それを見たキースさんが慌てて駆け寄る。そして、私の背中にある何かを押した。
『……いじょうぶですか!?オルガレッタさん!大丈夫です!?』
急にキースさんの声が聞こえてきた。と同時に、手足が急に動かせるようになった。
キースさんはヒルデガルドさんにも同じことをしている。彼女も手足が動くようになったようだ。
『オルガレッタさんにヒルデガルドさん。もしかして、船外服のアシスト機能をオフにしたまま、ずっと哨戒機まで歩いてきたんですか?』
「なんですか、アシストって?」
『この服には、手足や腰に人が動かしたい方に力が加わる仕組みがあるんです。それをアシストって呼んでます』
「はあ、そうなんですか」
『それがないと、周りの空気がなくなった時に、船外服の中の空気の圧力によって、手足や身体が曲げられなくなるんです。ただでさえ動きにくい服ですからね。大気中でも動きにくいくらいなのに、アシスト機能がないと真空中では全く動けなくなるんですよ。だから、この服を着たらすぐにアシストのスイッチを入れておかないといけないのに。まったく、誰ですか、これを着せたのは……』
どうやら、空気というやつは予想以上にすごい力があるらしい。太古の昔は、宇宙に出る前に船外服内の気圧を下げることで、手足を曲げられるようにしてたそうだ。が、いきなり気圧を下げると、血管の中に窒素というものの泡ができて、それが元で血が詰まって死んでしまうので、宇宙に出るまでにかなり長い時間をかけて、身体を低い気圧に慣らしてたんだそうだ。
今はこのアシスト機能というもののおかげで、そんな面倒なことはしなくて良くなった。でもそのアシストのスイッチを入れ忘れると、えらいことになる。たった今、私はそれを体感した。
空気がないと困るのは、手足が伸ばされることだけではない。空気がないと声が伝わらなくなって、会話ができなくなる。それで、会話には無線を使う。今、キースさんやヒルデガルドさんと会話できるのは、無線のおかげだ。
無線のスイッチもさっきキースさんが入れてくれたおかげで、空気のないこの場所でも話ができるようになった。
『ではお2人共、これから外に参ります。慣性制御を切りますね。身体がふわっとするので、注意してください!』
そういうとキースさんは、操縦席にあるスイッチの一つを押した。
一瞬、高いところから落ちたような感触がくる。でも、落っこちているわけではない。なんだか、急に身体がふわふわとしている。
キースさんは床を蹴って、ふわっと浮きながらハッチの方に飛ぶ。そして、ハッチを開いた。
外はまったく色のない世界。黒と灰色と、少し白っぽいところがあるだけだ。空気がないと、色も無くなってしまうのか?
いや、色がないのは外だけだ。哨戒機の中の椅子や絵柄にはちゃんと色がある。ここの色がないのは、空気とは関係ないようだ。
キースさんは、外に向かって何かを打ち出す。少し離れた岩に向かって、するすると縄が伸びていく。キースさん、その縄の一端を、哨戒機のハッチのところにくくりつけている。
『じゃあ、オルガレッタさんとヒルデガルドさん、これをお腹のところにつけて下さい』
「何ですか、これは?」
『このロープにつける命綱です。微小重力の星の上ですから、これをつけないと宇宙に放り出されてしまいますよ』
そう言ってキースさんは、自分のお腹のあたりにその短い縄のようなものを取り付ける。そしてそのもう一方にあるかぎ状のものを、縄に引っ掛けた。
私もヒルデガルドさんも同じようにその縄をつける。先に外に出たキースに続いて、私は外に出た。
私はハッチに向かって歩く、というより、泳いでいるようだ。ただし、手足を動かしても前に進まない。身体がふわふわして、まるでいうことを効かない。
『普段歩くように地面を蹴ると、飛び上がっちゃいますよ!まずはゆっくり、そおっと動かしてください!』
とキースさんは言うけれど、加減がわからない。とりあえず私は哨戒機を降りる。
……なかなか地に足がつかないな、ゆーっくりと地面に向かって落ちていく。ようやく足が地に着いた瞬間、私は一歩を踏み出した。
すると突然、身体が浮かび上がる。しまった、力の入れすぎだ。そのままふわっと上に飛び上がる私。だが、さっきの命綱が私を引き止めてくれる。ピンと張った縄が、私を地面に引き戻してくれた。
なにこれ、命綱がなかったら私、あの真っ黒な宇宙に放り出されてしまうところだった。思わず、ゾッとした。さっきのヒルデガルドさんの殺してしまう宣言といい、今日の私はゾッとすることばかりだ。
ヒルデガルドさんも同じように、一度お空に向かって放り出されそうになった後、再び縄のおかげで地面に戻ってきた。こうしてみると私達はまるで、ショッピングモールで時々配られている風船のようだな。
とにかく、歩きづらい。足を出しても、なかなか地面にたどり着かない。次の一歩が踏み出せないのだ。イライラしながら歩く。
キースさんを見ると、両足を揃えて前に向かって跳んでいる。なかなか落ちないから、前に飛んでしまえば一気に遠くまで進める。なるほど、ああいう進み方もあるんだ。私もやってみたが、力の加減を間違えて、また上に飛び上がり、縄のお世話になってしまった。
こういうことをしばらく繰り返していると、だんだんと歩くことに慣れてきた。慣れると、ほんのちょっと蹴るだけで進むから、楽なものだ。こうして、キースさんのいる縄の端までたどり着く。するとキースさん、再び別の縄を向こうの岩に向かって打ち出して、フックと呼ばれるカギ状のものを付け直す。そしてその縄の方に進んでいく。
歩くことに慣れてきたので、早速仕事にかかる。この小惑星の表面から、いくつか石を拾えばいいということなので、早速石を拾い始める。
『……なんですの、ここは?灰色の砂ばかりですわ!?』
ヒルデガルドさんの言う通り、どこを見ても砂だらけだ。砂をかき分けると、ようやく小さな石が出てきた。
なにここ、大きな岩だから石だらけだと思ったら、砂ばっかりじゃない。せり出した岩もあるけれど、そっちは大きすぎて取れない。大きすぎる岩か細かい砂しかありゃしない。どうなってるの、この小惑星は?
キースさんも一緒に石探しをするが、なかなか2つ目が見つからない。せめて5つは欲しいと技術科の人が言っていたが、これじゃいつになったら5つ目が見つかるか、分かったものではない。
くそぉ~!技術科のやつらめぇ~!こんな面倒な仕事だと分かっていたから、雑用係に回してきたのかぁ~!ただの石拾いだと思っていたのに、とんでもない仕事だった。
『まったく、なかなか石が見つかりませんわ!どうなってるんです!?』
ヒルデガルドさんもイライラしている。お互い、ただの石拾いだと思って甘く見ていたから、想像以上にきつい仕事に不機嫌になり始めた。まずいな、あの調子ではまた私を殺すとか言い出しかねない。
兎にも角にも、この砂地を這いずり回って、やっと5つほどの石を拾い集めた。5つ目を袋に入れて、ようやく仕事が終わってほっと一息つく。
顔は汗が出ている。でも、船外服があるから顔が触れない。開けたら死んじゃうらしいから、開けられない。汗がツーっと頬を伝って、さっきから顔面がかゆい。
ああ、早くヘルメットだけでも脱ぎたい。ヘルメットの外から掻いても、もちろんかゆみは取れない。まったく、困った服だ。
『オルガレッタさん!ちょっと来てください!』
キースさんが私を呼ぶ声がする。まだ頬のかゆみと格闘しながら、私はキースさんのところへ向かう。
『ちょっと、見てください、これ』
キースさんが何かを持っている。それを見て私も驚く。
キースさんの大きな手よりも大きい、透明な石。なんだろうか、これは。
「キースさん、これは……」
『多分、水晶だと思うけど、もしかしたらダイヤモンドなどの宝石の原石かもしれませんよ。ほら、きれいでしょう!』
「ほんと……きれい……」
頬のかゆいのも忘れ、私はその透明な石に見とれていた。するとキースさん、私の左手を取り、その石を左手薬指に当てた。
『私の星では、婚約するときには宝石の指輪を左手薬指に差し上げるんですよ。いつか、こうやってオルガレッタさんの指に……』
なに?なんなの?婚約などと言い出すキースさんに、少しドキドキする。
私の顔が熱くなる。火照る頬を手で抑えたいが、船外服のおかげでできない。ああ、やっぱり早く脱ぎたいわ、この服。
キースさんに手を握られてドキドキしていると、怒声が聞こえてきた。
『ちょっと!そこのお2人!』
そういえば無線だから、どっちから話しかけられた声なのかがわからない、周りを見ると、私の後ろにヒルデガルドさんが仁王立ちして、こちらを睨みつけている。
『さっきから、私にもキース中尉殿の声が丸聞こえですわ!お2人の仲がよろしいのはよ~くわかりますけど、そう言うのは駆逐艦内の自室でなさって下さい!』
ああ、なんということだ。さっきのキースさんの話、ヒルデガルドさんに丸聞こえだった。少し恥ずかしいやら、もどかしいやら。
宇宙というところは、やっぱり不便だ。顔が痒くても掻けない、会話は丸聞こえ、身体がふわふわして歩くのが大変。おまけに、膨大な砂だらけの中から石探し。最悪だ。
また縄を伝って、3人は哨戒機に戻る。石を入れた袋とともに機内に入ると、キースさんは綱を切り離し、ハッチを閉じる。
ハッチを閉じてからしばらくすると、機内の音がし始める。シューっという音が聞こえてくる。空気が入る音が徐々に聞こえるようになってきた。
「もうヘルメットを開けてもいいですよ」
キースさんがヘルメットを開け、私達に言う。そしてキースさんは、船外服を脱ぎ始めた。
「あれ?キースさん、船外服脱いじゃうんですか?」
「ええ、砂まみれだし、もう必要ないですから、ここで脱いじゃいます」
キースさん、下に軍服を着ていたので、脱いだらそのまま軍服姿になった。脱いだ船外服を、哨戒機の後ろの方に置いている。
「キースさん、私達も脱いじゃっていいですか?」
「ええ、いいですよ。この服はそのまま後ろにでも置いて下さい」
と、キースさんが言うので、私達も船外服を脱ぎ始めた。
「……ちょ、ちょっと!オルガレッタさん!?あの、下に服、着てないんですか!?」
キースさんが驚いた様子で尋ねてくる。
「そりゃそうですよ。いつものワンピースだとスカートだから、この服着られないじゃないですか」
「そ、そうですよね、それは……ええーっ!?てことは、船外服の下はずっと下着姿だったんですか!?」
「見ての通りですよ。当たり前じゃないですか」
船外服を脱いだ私は、胸にはブラジャー、下にはパンツしか履いていない。着替えはさっき船外服を着せてくれたアナリタさんがカバンに入れて渡してくれた。そのカバンからいつもの制服を取りながら言う。
「でもキースさん、私のこの姿はもう見慣れてるじゃないですか。今さら、何を驚いているんです?」
「い、いや、そうですけどね……って、ヒルデガルドさん!ちょ、ちょっと!なんて格好をしてるんですか!?」
今度はヒルデガルドさんを見て驚愕するキースさん。私は、ヒルデガルドさんを見る。
「あれ?ヒルデガルドさん、ブラジャーつけてないんですか?」
「そうよ、私、あれがどうしても嫌いですから」
「ええ~っ!つけたほうがいいですよぉ!私も最初、違和感があったんですけど、慣れてくると動きやすくて便利ですよ」
「そうかしら?私はそんなに胸は大きくないので、要りませんわよ!」
そんなやりとりをしていると、キースさんが叫ぶ。
「あ、あのですね!どっちでもいいですから、早く着て下さい!」
それを聞いたヒルデガルドさん。少し微笑みながら、こう言い返す。
「あら、キース中尉殿。たかだか女子の裸を見せつけられたくらいで狼狽なさるとは、それでも帝国戦車隊を率いる教官様ですか!?」
「そんな皮肉はいいですから、早く着て下さい!お願い!」
すっかり顔が真っ赤なキースさん。こんなキースさんを見るのは、私がキースさんの部屋に初めて押しかけたあの時以来かもしれない。
『6190号艦より雑用係!機内に戻ってから随分経つが、まだ離陸しないのか!?何かアクシデントでもあったのか!?送れ!』
駆逐艦からの催促のような連絡が入る。するとキースさんは、うって変わって冷静な声で応える。
「雑用係より6190号艦、特に問題なし。現在、小惑星表面に設置した機器の再確認中、まもなく離陸する。送れ!」
『6190号艦より雑用係。了解した。離陸準備出来次第、連絡せよ』
無線のやり取りで冷静さを取り戻したかに見えたキースさん。だが、いくら冷静さを装っていても、顔がとても赤い。一生懸命、こちらを気にしないふりをしているようだ。
それを見た2人のいたずら心に、火がついてしまった。
私とヒルデガルドさんは、重力がほとんどないこの機内でプカプカと浮かびながら戯れ始める。
「いやあ、やっぱり元公爵令嬢ですよねぇ~、お胸がとても柔らか~い!」
「何を言うのです、このど平民!あんまり触ると、ぶっ殺しますよ!」
随分手汚い言葉を発するヒルデガルドさんだが、要するに私といっしょにキースさんをからかっている。顔は笑っている。
すっかり顔が真っ赤なキースさん。普段私はあまりキースさんをからかったことがないし、滅多に見られないキースさんが見られたので、楽しくなってついついはしゃぎ過ぎてしまった。
いや、本当に、はしゃぎ過ぎた。
「……慣性制御、入れますよ」
拗ねたキースさんが一言、ボソッと言って操縦席にあるスイッチの一つを入れた。
と、途端に身体が重くなる。私とヒルデガルドさんは、椅子の上に落ちた。
「イタタタ……な、何をなさるんですか!?」
ヒルデガルドさんがお怒りだが、そんな彼女を無視して、無線に話しかけるキースさん。
「雑用係より6190号艦!これより離陸する!」
「6190号艦より雑用係。周囲100キロ以内に障害物なし。進路クリア、直ちに離陸せよ」
淡々と無線でやり取りするキースさん。アンカーを切り離し、哨戒機は小惑星を離れる。
「……お2人とも、早く着ないと、その格好のまま、格納庫内で整備員の前に引きずり出しますよ……」
こちらを睨みつけながら、ボソッと私達に話しかけるキースさん。まずい、機嫌を損ねてしまった。
ひええ……ちょっとやりすぎた。このままじゃ整備員の人の前でこんな恥ずかしい格好をさらけ出す羽目になる。私とヒルデガルドさんは、焦って服を着ようとする。が、今度は身体が重くて、いうことを効かない。
さっきは重力がなくなって右往左往していたが、今度は身体が重くて動けなくなる。重力って、こんなに私を縛り付けていたのかと、今さらながら実感する。泣きそうになりながら制服を着る私達に構わず、駆逐艦に向かって快調に哨戒機を飛ばすキースさん。
なんとか、格納庫に入るまでに着替え終えた私とヒルデガルドさん。だがそのあと、キースさんはまったく口を聞いてくれなかった。
「うわぁ~ん!キースさん、ごめんなさ~い!もうしませ〜ん!」
採取した石を技術科に引き渡してすぐ、私はキースさんの部屋に押しかける。泣きながら謝ったら、優しいキースさんはすぐに許してくれた。私も今回はちょっと、やりすぎた。反省している。
それにしても、今回の仕事は大変だった。もう宇宙に出るのは、こりごりだ。




