第1話 修学旅行
僕は、雲の上にいた。
生まれて初めての飛行機だった。
窓の外には自分より遥か下に白い雲がどこまでも広がっていて、空はまた見たことがないほど濃い青色をしていた。
飛行機は日本を離陸してすでに3時間あまりたち、今は中国の上空を飛んでいるらしい。
あと二時間くらいで成都という町に着陸し、そこから一週間くらい、クラスメイトのみんなと色々見て回るのだ。
そう、僕は今高校二年生で、修学旅行で中国へ行くため、クラスメイトのみんなと飛行機に乗り込んでいる。
機体には三百人くらい乗れるらしく、座席も一列が二人、四人、二人と区切られて八人も座れるのには驚いた。新幹線の二倍座れるのだ。その上、空を飛べるという。
クラスメイトのみんなも大概が飛行機は初めてで、離陸の時なんかは後ろから横から叫び声が聞こえ、みんな男子は詰襟、女子はセーラー服のお揃いの学生服で、他のお客さんにどう思われるかと、自分のことのように恥ずかしかった。
しかし今はもうすっかり落ち着いていて、CAのお姉さんとのやり取りにどきどきしながら食事も無事に取り、ゴミも回収してもらい、みんな寝たり映画を見たり話をしたりと思い思いの時間を楽しんでいる。
僕の座席は窓側の二人席の通路側で、クラスメイトは僕と同じ列か後ろの列の席にほぼ座っている。
言い遅れていたけど、僕の名前は乾司と言って、出席簿順だと大体前の方で、飛行機の座席も出席簿順なので、みんなほとんど僕の後ろに座っているわけだ。
僕たちが向かっているのは、中国の成都という都市で、そこで昔の中国の歴史を振り返ったり、異文化に触れて人間的に成長を促されたりする。
成都と言えば僕みたいな世界史の勉強も中途半端な者には、三国志の時代に劉備が国を作った場所というくらいしか知識がない。
担任の先生が言うには、成都一帯は、黄河流域と同じくらい昔から独特の文化が栄えていて、そもそも秦の時代に大きく発展し、成都近郊にはその時代の大規模な堤防が残っているということで、そこにも行くらしい。
もちろん、三国志の時代の諸葛亮を祭った廟とか劉備の墓なんかにも行くらしく、その周囲には出店が沢山出てて食べ歩きできるみたいで、僕としてはそちらの方が楽しみだ。
食べ物と言えば、麻婆豆腐や坦々麺も食べたい。食べる前には綺麗に写真に撮りたい。
体育祭や文化祭のような学校行事はどちらかと言うと憂鬱な気分が勝ってしまうのが僕の性格だけど、修学旅行は別だった。
全然知らない土地に行くのは勇気がいるけど、クラスのみんなと一緒で、先生もいるので不安はなく、ワクワクするし冒険心をくすぐられる。
中国語だって少しは勉強し、挨拶くらいはできるし、数字だって数えられる。お店で買い物する時に日本人だってバレずに買えれば、どんなに痛快だろう。
という感じで、僕はこの修学旅行をとても楽しみにしていた。
でも普段は学校では大人しくしていて、クラスでも静かめな方だと自覚しているので、あまりはしゃぐのも恥ずかしいから、初めての飛行機で内心ドキドキしながら、大人しく座っている。
周囲の雑音に心が乱されると、内心のウキウキが顔に出てしまいそうで嫌なので、窓の外を流れる雲をながめて気をそらそうとしていた。
内気で見栄っ張りで恥ずかしがり屋、簡単に言えば僕の性格はこんな感じだった。
隣の窓側の席には、クラスメイトの青山君が座っている。背の高いひょろっとしたお調子者だ。彼とは出席簿順が近いので何かと言うと一緒に行動させられるのだが、取り立てて仲がいいわけでもない。うるさい上に話が薄っぺらいので、むしろ嫌いなくらいだ。
青山君も初めての飛行機で興奮しているらしく、ひっきりなしに話しかけてきた。
風邪をひいたとかでマスクをしているのに、それにもめげすによく話す。
離陸する前から興奮して携帯電話で機内や外の写真を撮りまくり、CAのお姉さんに、携帯電話の電源を切ることとシートベルトを締めることと二つも注意されていた。
飛行機も上昇しきって落ち着いたと思ったら、昨日のテレビ番組の話とか野球の話とかをしだして、僕は騒がしいなと思いつつ、へー、とか、そう、とか生返事で躱し、青山君の向こうの窓の外の景色を眺め、雲は白いなー、空は青いなー、などと取り留めもない考えを頭の中で流していたのだった。
しかし青山君も、それでもめげずに話しかけてきた。タイガースが好きで、もうすぐ優勝が決まるとか、マジック幾つだとか、僕にはよく分からない。
夏休みに甲子園まで見に行ったとかで、生観戦のライブ感がどうだとか、売り子のお姉さんがどうとか、七回裏の逆転劇とかその後の六甲おろしとか、色々言ってくるんだけど僕にはどうでもよいのだ。
彼みたいな人間は、相手が聞いてるか聞いてないかなんて関係なく、応援してる自分が好きなんだろう。
七回裏2アウトで1ストライク3ボールになったときにホームランの予感がしたらその通りになったとか、その話もう三回目だろ、とは心の中で思いながら、周りにもうるさがられてないかな、と気になってくる。
そして周りに目をやり、通路の向こう側に目をやると、反対側の窓側の席に座っている遠藤さんが本を開いて目を落としている姿が目に入ってくる。
遠藤さんは、綺麗で明るくてスタイルも良くて運動も勉強もできる、という完璧な娘で、今だって読んでいるのは修学旅行先の成都周辺のガイドブックか中国の歴史に関する本に違いないのだ。のんきに野球の話をしている風邪引き野郎とは違い、真面目で努力家なのだ。
去年の学園祭の時、遠藤さんのクラスがダンスをして、彼女がセンターで踊ってたのを見て、その表現力とかキレとかに圧倒され、すごく好きになってしまったのだが、今年になって運良く同じクラスになり、こうやって修学旅行に一緒に来れている。
今まで半年間同じクラスで、話したことなんかはほぼない、というか恥ずかしくて話しかけられないけど、旅行中に同じ写真の中に何枚か収まれれば、もうそれでいいや、と思っている。
僕がそんな物思いにふけっていると、反対側から頬を布か何かで叩かれた。
振り向くと、青山君がお守りだからとわざわざ修学旅行にまで持って来た、タイガースのペンケースだった。優勝祈願がどうとか言っている。
そんなに大事だったら修学旅行休めよ、風邪ひいてるんだし、そんなにうるさいと周りの人に嫌がられるよ、と思いながら聞いてると、僕の前の座席に座っている男の人が、席の横から顔を出して僕の方を向いた。
男の人は、見た目三十過ぎのおじさんで、紺のスーツを着てネクタイを締め、頭は整髪料で光って全体的に締まっていて、表情のない目でこちらを見つめてきて、何だか怖かった。
きっとうるさかったんだ、怒られる、と思って、緊張して何も反応できず、ただその人を見返した。青山君もそれに気づき、喧しい口を閉じた。
すると、その男の人が少し微笑んで、口を開いた。
「お話中のところ悪いけど、イスを倒していいかい?」
「どうぞ、どうぞ。」
僕は声を出せずに頷いただけで、隣の青山君が関係ないのに何故かどうぞと動作までつけて返事をしていた。
緊張したが、何か新鮮だった。これが飛行機の中の社交の形なんだ、と。それに先生と親以外の大人の人と話すことなんて普段ないし、何か一つ経験を積んだような気がして、印象に残った。
それから青山君も少し大人になったのか、話す声が小さくなったが、やはりお守りのペンケースを見せびらかしてくる。
そういえば入国カードに記入しないといけないんだっけ、と思って、頭の上の荷台を開けて自分の筆入れを取り出そうとシートベルトを外したところで、飛行機が激しく揺れた。
僕は驚いて急いで座り、シートベルトを締め直すと、機内アナウンスが聞こえてきた。
「只今気流の悪いところを通過中です。お座席にお戻りになり、シートベルトをお締め下さい。」
そうなんだ、と思って外を見ると、窓の外は真っ白になっていた。雲の中に入ったようだった。
怖いねー、このまま落ちたらどうしよう、という声が後ろの方からちらほら聞こえてきて、みんな怖がってるようだった。隣の青山君も流石に固まっている。
僕も怖かったが、前のおじさんも黙って座ってるし、ここは静かにじっとしているのが大人だ、と思って我慢した。
我慢したが、揺れは一向に収まる気配はなく、それどころかもっと激しく揺れ出し、飲み残された紙コップや座り遅れた人が宙を舞い、頭上の荷台の中の荷物も動かされたようで音を立てていた。
すると頭上からマスクみたいなものが目の前にぶら下がってきて、ここまできてさすがに、事故だ、危ない、墜落する、と頭の中を不安が渦巻いた。
周りの乗客たちも同じように思ったか、悲鳴や怒声が響いてきた。
遠藤さんは大丈夫か、と思い通路側を見たら、窓の外から強烈な白い光が差し込んできた。
太陽とも違う、影を作らないもっと強烈な光で、光は機内の全てを白く満たし、見える一切のものを白く包み、音までも奪い、光はやがて僕の意識まで刈り取っていった。




