第十話 新しい朝と約束
誰かの奏でる炊事の音と香りで目を覚ます朝は何時ぶりだろうか?祖父が病気になる前だから少なくとも十年近くは前だろう、酷く懐かしい感覚だと寝ぼけた意識でぼんやりと思う。
夜の終わりと朝の始まりを感じる時間、冬の空気は冷たくて部屋の中は薄暗い。
この世界の朝は日本での農家や酪農家の人たち同様に早いのだろう、俺も冬の間は罠猟の為に早く起きるので自然と目が覚めた。
眠気覚ましを兼ねて体の調子を調べてみようと思いついて、ベッドの上で上体を起こし身体の各所に意識を巡らせ確かめる、やはり相変わらず左腕は僅かに動かすだけで酷く痛みが走り使えそうもない。
足の方は両足共に昨日感じていた痺れが取れたが、左手と同じように痛みはあるので両足共にまだ自由に動かせる気がしない、熱も引いたらしく昨日ずっと感じていた気怠さも無くなっていた。
だが自分の体の中で一つだけ問題があった、普段から朝一番に感じる事、尿意を催したのだ……。
今の状態では催したと言っても一人で歩くことも叶わない、未だ決壊しそうな程ではない、だが限界の時は確実に迫っている。
もしこの年でお漏らしなどしてしまった日には、俺はきっと何か大事なモノを失ってしまう、ここはゲンゾンを呼ぶしか無い。
ロリーエみたいな若い娘におっさんを手伝わすのは流石に申し訳が立たないし、その前に彼女の華奢な体躯では俺を支える事は恐らく不可能だと思う。
「すまないゲンゾン!起きていたら俺の所へ来て欲しい、今すぐ頼みたい事があるんだ!」
こんな早朝から大きな声を出す事に少々の罪悪感を感じるが、自らの尊厳に関わる問題なので許して欲しい。
「シュウゴ?どうしたの?お父さんはまだおきてないよ~?なにかすごく困った声みたいだけど、どうかしたの?」
自分の限界と戦っている俺に掛けられた声は、期待したゲンゾンの返事ではなくロリーエの可愛らしい疑問の声だった、彼女は首を傾げて開き戸を開け問いかけてきた。
「大声を出してすまないが、ゲンゾンは起きてないのかな?どうしても今、頼みたい事があるんだ!」
彼女の細く華奢な肩を見て、やはりゲンゾンに頼むしか無いと思い、彼が起きているかを確認する。
「ん~、そういっても、お父さんはいっつも朝寝坊するから、まだ起きてこないわ。シュウゴがそんなに焦ってるなんてホント何か有ったの?」
ベッドの側までやって来て俺の焦りの意味を尋ねて来るロリーエ、優しげに微笑む彼女に自らの状態をどう説明すべきか悩む。
「あの、ほら、朝だろう?その、色々あって、なんというかお手洗いに行きたいんだが、今は身体が言うことを聞いてくれないから、手を貸して欲しいんだ、だからゲンゾンを……」
なるべく下品にならないよう言葉に気を付けて現状を語ると、言いたい事を察したロリーエが俺の発言に被せるように声を上げる。
「ああ~!そうね、ごめんね気が付かなくって!お父さんってねぼすけだから暫く起きないし、間に合わなくったら大変だわ!シュウゴ、私の肩に掴まって!」
ロリーエはベッドの隅に腰を下ろして、抱きつくような姿勢で何とか立たせようとしてくれる、だが俺は太っては居ないけど、身長が175センチで体重は70キロ程ある、この世界では俺はかなり大きめの人間だと昨晩ゲンゾンが言っていたのを思い出す。
130センチ位しか無いロリーエ手を貸してもらうと、潰れてしまいそうで怖いから無理はしないで欲しいと考えてしまう。
「待ってくれ!俺は身体が大きいから、ロリーエに肩を借りたら潰れてしまうよ!」
この世界は誕生日という概念はない、新年に一斉に年をとる数え年の考え方をしているので、12歳とロリーエは言っているが実年齢では11歳に相当する。
そんな歳の子が大の大人の男に肩を貸せるとは到底考えられないし、栄養状態のせいなのか、日本の同年齢の子供と比べてもロリーエは少し小さいと思う。
「遠慮しないでいいの!出来る事はなんでもしてあげるって言ったでしょ?お手洗いの我慢は身体に毒だから、遠慮しないでいいの!さ、いきましょ?」
言いながら何とか俺を動かそうとするロリーエの熱意に押され、俺も動こうとするがやはり予想通り無理そうだ、それでも彼女は諦めず、白い頬を染めながら健気に頑張ってくれている。
「ん~~~!早く、シュウゴをお手洗いに、連れて行かないと!駄目なの、に~~~!」
「ほら、やはり無理は良くないよ。俺は我慢できるからロリーエはゲンゾンを起こして来てくれ」
ロリーエも精一杯頑張ってくれたが、体格差は如何ともし難く俺の身体は殆ど動かない、彼女には早く諦めて貰い素直にゲンゾンを起こして欲しいと思う。
しばらく、ロリーエが俺の体を引っ張りなんとか立ち上がらせようと頑張るが、きれいな亜麻色の髪が揺れて彼女の体温が少し上がっただけだった。
「はぁ……、ごめんね、頑張ったけどちょっと無理みたい……」
三十秒以上頑張って、やっと自分では無理だと諦めが付いたロリーエが申し訳無さそうに謝る。
「頑張ってくれたのは嬉しいけど、でもやっぱり無理は良くないよ……」
彼女の頑張りを否定したくはないが、やはり非力な少女におっさんを支えたり持ち上げるのは無理だと思う。
「ごめんね、仕方ないからお父さん起こしてくるね、お父さんはとっても寝坊助だから中々起きないと思うから、もし間に合いそうに無かったら大きな声で言ってね!」
駆け足でロリーエが部屋を出ていくと、直ぐに隣の部屋から激しい金属音が鳴り響き、彼女の大きな声が聞こえてくる。
「おとーさん!おきなさーい!朝だよ~!シュウゴがよんでるよ~!起きないとご飯抜きするからね~!」
鍋を叩く金属音を派手に鳴らしているが早朝に平気なんだろうか?自分の頼んだ事と言え、ご近所に怒られたりはしないのか流石に少し心配になる。
この騒音でもゲンゾンは起きないのか、騒々しい金属音と彼女の声は益々大きさを増していく。
「起きなさいー!いい加減に起きないと、また髪の毛引っ張るからね!嫌だったら早く起きなさい~!」
ロリーエの最後通告がこちらにも聞こえてくる、ゲンゾン起きてくれ!また酷い目に合うぞ!そんな俺の祈りが通じたのか、彼の焦りの声が聞こえてくる。
「分かった!起きる!今起きた!だから髪は止めろ!」
そうしてゲンゾンがロリーエから事情を聞きながら俺の所までやってきた。かなり騒々しい朝になってしまった。
眠たそうに起きてきたゲンゾンに肩を貸してもらい、ベッドからなんとか立ち上がり手洗い場のある外へ連れて行ってもらう。
こちらでの初めての手洗いは昨日の夜に彼から聞いた通リ用水路を使った水洗で、水路の上に掘っ建て小屋があり、其処で用を足す形だった。
初めて部屋から外に出たのが手洗いと言うのも少々情けないが、山の稜線から僅かに顔を出した朝日に照らされた世界は美しかった。
朝日から少し離れた山々は僅かに雪化粧をしていて朝日を反射してまばゆく輝いて、冬支度を終えた木々は静かに眠っていて、まるで水墨画のように静謐な世界が俺の目に映り、自然と足を止めて見入ってしまう。
「シュウゴ、どうした?外はさみーし、とっとと中に入ろうぜ?」
寝起きで寒いのか部屋に戻るのを急かすゲンゾンに、俺は感じた感動を言葉に込めて語る。
「この世界はとても奇麗だ、こんな傷だらけで人の手を借りないと動けない身体だけれども、それでも朝日に照らされたこの景色は素直に美しいと思えるんだ、俺が今、この景色を見れたのはゲンゾンが助けてくれたお陰だ、本当にありがとう」
もし、彼に助けてもらえなかったらこの美しい景色は見れなかった、だから自然とゲンゾンにありがとうと伝えたくなったのだ。
「ヘっ、よせやい、恥ずかしい。そう思ったなら早く身体を治して一緒に狩りに行こうぜ?お前も狩りできるんだろ、だったら俺と二人でいっぱい獲物取ってやろうぜ!んで、その獲物で村の皆と一緒にお前の歓迎会をするんだ、俺の秘蔵の酒を出してやるから楽しみにしとけよ~?」
嬉しそうに語るゲンゾンの笑顔が眩しい、俺は彼と猟をする約束をその場で交わす。また一つこの世界で頑張る理由が出来た。
「ああ、それはすごくいいね!身体が治ったら是非やろう、約束だ」
ゲンゾンと約束の言葉を交わし、肩を借りながら二人で笑い合う。
「へへ、そうこなくっちゃな!っと、流石にマジで冷えてきた、話の続きは中に入ってからにしようぜ!」
朝の冷気に小さく身震いしたゲンゾンに連れられ部屋に戻る、肩越しにもう一度振り返り、あの静謐な世界の有り様を忘れぬよう瞳に焼き付け、感動を胸に仕舞っておいた。
俺達が冬の空気ですっかり冷えてしまった身体で部屋に戻ると、ロリーエは美味そうな料理の湯気と香りで出迎えてくれた。
「おかえり、ちょっと遅かったね~、先に手を洗って座ってて、もうちょっとでパンも焼けるからね~」
「ありがとう、ロリーエのご飯は美味しいから今日も楽しみだよ」
「ふふ、そんなに褒めても何もでてこないんだからね?」
嬉しそうに笑うロリーエの返事を聞いてから、ゲンゾンと一緒に手を洗ってから席に着く。
手を洗いが終わっったのががちょうど良いタイミングだったようで、パンの盛られた木の皿を持ってロリーエがやってくる。
「はい、お待たせ~!じゃあ食べましょ?今日は多めにパンを焼いたから、二人共しっかり食べてね?」
食卓の上には葉物野菜と根菜が幾つか浮かんだスープに漬物のような野菜、目玉焼きがある、どれもとても美味しそうだ。そして食卓の中央にはパンが殻に包まれたままの姿でテーブルに置かれる……。
そう、この世界のパンとは殻付きなのだ。
この『パンの木』と呼ばれる木に実る木の実をパンと呼び、殻を剥いで中の実を食べるのだ。
殻に包まれた実を焼くと内皮が熱で固くなり身を取り出しやすくなる、取り出した物は見た目は俺の知っているパンそっくりだった。
但し中には種があるのでその点は注意が必要だ、まぁ種も柔らかくてそのまま食べれるそうなので、そこまで神経質になる必要は無いらしい。
取り出した種は炒って子供のオヤツにしたり、軽く塩をふって酒のつまみにしたりするそうだ。
そして完全に熟すまで収穫せずに置いておくと、とても柔らかくなってこれを火に掛けると蒸しパンのような甘いオヤツになる、これは収穫祭などで振る舞われる子供達の大好物だ。
ちなみに昨日の粥に入っていたパンの種は、ロリーエが取り除いてくれていた、だから夕食で殻付きのパンが出てきてゲンゾン達に今の話を聞くまで全く気が付かなかった。
食事一つをとっても違う世界だと思う部分を感じるのは、やはり新鮮な気分になる。
「よし、んじゃ、とっとと喰うか、パンは冷えると硬くなるからな」
「そうね、じゃあ冷めない内に食べましょ」
「ああ、俺も美味しそうな香りにで腹が減って仕方ないよ」
まずゲンゾンが手を合わせる、俺もロリーエもそれぞれ同じ様に手を合わせ、三人が同じ言葉を同時に口にする。
「糧を与える全ての物に感謝します」
ここでの食事の挨拶は、まず家長が手を合わせて、他の家人や客人もそれに習って手を合わせて感謝の言葉を唱えて後は、皆で同時に食事を始めるのが作法だ。
この世界の食事の作法は、日本の風習とどことなく似ている。
三人での食事が嬉しいのかロリーエは明るく笑う、ゲンゾンもさっきの交わした俺との狩りの約束をロリーエに聞かせ笑っている。
こういう温かい食事はとても楽しい。
俺の顔も自然と笑みが溢れる日本に比べれば質素な食事だけど、それでもここの食事は美味しいと思える。
そんな楽しい食事を三人で取った後は、二人が仕事と神社での勉強会へ出掛ける時間を迎える、ゲンゾンは先に出ていった。
仕事へ向かう前に神社に寄って、昨日の話で出ていた宮司様に連絡を取ってから森の側の猟師小屋へ行くと言っていた。
そしてロリーエもそろそろ出る時間だ。
「お父さんも私もお昼には帰ってくるから、それまでは大人しくしててね?もしお手洗いが我慢できなかったらベッド横のツボを使ってね?」
「わかったよ、気を使ってくれてありがとう、行ってらっしゃいロリーエ」
慌ただしく出かけるロリーエに、感謝と出かけの挨拶を言葉を交わして見送リながら、やっぱりツボは出来れば使わないで済むようなら使わないでおこうと思ってしまう。
生前、祖父が尿瓶をあまり使いたくない、そう言っていた理由を今更ながら良く理解できてしまったからだ。
やはり出来るだけ早く動けるようになろうと改めて考える、ゲンゾンとの猟も早く行きたいからな。
その為にも今日やるべき事をやろう、後で会う宮司様に話す内容をちゃんと頭で纏めておこう、色々と聞く内容を吟味してくのも大事だ。
そうやって気持ちを切り替えて昨日の内容も思い出しながら、宮司さんに今日話すべき質問の内容を考え始めた。




