宿屋
ギィ……と耳障りな音を立てて扉が閉まる。
小躍りする狐と子羊亭。
酒場と併設されているこの場所が、今日ギルドへ行く前に確保した当面の間お世話になる宿だった。
宿泊客に快適な眠りを提供するため酒場と宿部分は分かれて、その入り口は扉によって隔てられているというのに結構な騒ぎが俺の耳まで届いてくる。
まだ夜にもなっていないっていうのに、暇な探究者が飲んだくれているみたいだった。
「はは……まったく」
気持ちは分からなくもないけど、と俺は喧騒を耳にしながら宿の受付へと向かう。
部屋だけ確保したときと同じ冴えない中年が居ることを確認して、俺は手を上げた。
「お~い、おっさん。今戻ったよ」
「ん……?あぁ、あんたか」
俺の声に、少し怪訝そうな声でおっさんがこちらを見る。
それに俺はウンウンと頷いて、受付越しにまで歩いていった。
「で、俺の部屋どこ?」
「あんたは……部屋が空いているかどうかだけ聞いて、名前も言わずに『じゃ、よろしく』とだけ言って出ていったのに、あると思うのか?」
「うん」
呆れたような声を出すおっさんに俺は間髪入れずに答える。
今更何を当たり前のことを確認しているのか?何がしたいのかまるで意味が分からなかった。
って、ああ、そうか……遠回しに名前を言わなかったことを責めているのか。中々に意地の悪いオッサンだ。
「俺、ソージ・ファーマニス。しばらく世話になるからよろしくね。あっ、そういやおっさん店長なの?」
「はいはい、ソージさんね……俺は店長じゃなくて、ただの受付だよ」
ぼやくように言いながら、おっさんは紙に名前を書いていく。
『ソージ・ファーマニス 205号室』
その文字列を受付越しに覗き見て、二階部分に目を向けた。
「へぇ……205、どこ?」
「右側の一番奥にある部屋だ、ここからは見えん」
不機嫌な声でそう言ってくるおっさんに、俺は上の方へ向けていた目を戻しておっさんと向き直る。
ちょっと不作法だったかもしれない、反省反省。
自らの行動を悔いて頭を掻いていたら、おっさんがホイと鍵を投げ渡してきた。
「……はぁ、部屋を確保しといてやったんだから俺も大概お人好しだな」
「……え」
かと思えば唐突に自画自賛をし始めた。
何を言っていいのか分からず反応に困る。
しかし、別に同意を求めているわけではないらしく、おっさんはすぐさま顔をこちらに向けて口を開いた。
「そもそもあんたな……出ていく前に金だけは渡して出ていったけど宿賃には足りなかったぞ?」
「へ?そうなの?」
「ああ、そうだよ……」
何やら疲れたように項垂れるおっさんの声に、俺は首を傾げる。
おかしいな……銀貨一枚で足りる金額だから違うはずないんだけど……?
どういうことだ?と頭を巡らせているとおっさんが一枚の鉄貨を取り出して俺に見せてくる。
「宿賃は80ゴルドだ……あんたが投げつけた1ゴルドじゃ全く足りん」
「ありゃ?」
差し出された鉄貨をジッと見て、もう一度首を傾げる。
貨幣価値は鉄貨で1ゴルド、銅貨で10ゴルド、銀貨で100ゴルド、金貨で1000ゴルドと順繰りで大きくなっていくもので……鉄貨一枚では確かに宿賃には程遠い。
差し出された1ゴルドには『俺の』と書かれており、確かに俺の金で間違いなかった。
うぅん、どうやら色が似ているから銀貨と間違えて出してしまったらしい……
冷静で頭の冴える俺にはすぐさま理解できた。
まぁ、よくある小さな間違いなので、大して気にせず俺は銅貨7枚と鉄貨9枚をおっさんの前に置いた。
「いやぁ、悪い悪い。急いでたから間違えちゃったみたい」
「……あぁ、はいはい……これでピッタリ、ね」
何かを諦めたようにおっさんは俺の出した79ゴルドをしまい、『俺の』と書いてある鉄貨だけを残す。
「で、こいつはどうすんだ?『俺の』って書いてあるけど」
「え?そのまま仕舞えばいいじゃん」
何を当たり前のことを、と呆れる俺におっさんは疲れたように溜息を吐く。
「……そもそも何でこんなこと書いたんだ?」
「あぁ、それは書いておけば戻ってきたときに金を貰ってないって誤魔化されることないからね」
「ふぅん……」
俺の言葉におっさんが何とも言い難い曖昧な返事を洩らして、目を細める。
何を考えているのか判断のつかない反応であったが、心の機微に敏い俺には分かっていた。
多分、今まで宿をやってきた中で誰一人としてやったことが無いから感心をしているのだ。
なんて頭がいいんだろう、と。
まぁ、俺からしたら無理もない反応だ。
他の人からしたら思い付きもしない、凄い策なのだから。
特に『俺の』と書いたところが凄いところで、自分の名前を書いたりして特定個人を指定しないことにより使ったあと別人の手に渡っても問題ないのだ。
気がかりとしては女の人に渡ってしまったら少し可笑しいかもしれないということだけど……まぁ、あくまでも一人称だから問題ない。ただ単に、その人が『俺の』と書いてある金を使っているというだけになるから。
我ながらよく考えたものだ。
そんな感じで悦に浸っていると、おっさんは何かを言いたげな瞳で俺の顔を見たあと緩慢な仕草で残る鉄貨を仕舞った。
「……で、あんたさっき『しばらく世話になる』って言ってたが、どれくらいウチに泊まるんだ?」
「ああ、それはまだハッキリとは分かんないね。だから、その日の宿泊賃はその日に払うよ」
「そうかい、じゃあとりあえずさっきので今日一泊分だな」
「そうそう、そういうこと……って、あれ?そういえば、パーティ申請の兼ね合いで三泊は確実だから、払っといた方がいいのか?」
「うん?そうなのか、じゃあどうするんだ?160ゴルド払っとくか?」
「う~ん……いや、やっぱいいや。その日の分はその日に払うよ」
「そうかい、じゃあとりあえず一泊分だな。飯に関しては別途料金、隣の酒場で食ってくれ。食う場合はな」
「ああ、分かった」
おっさんの言葉に頷き、俺は保存食が入っている袋を確認する。
食事が別料金なのは大して珍しいことではなかった、むしろ別で料金を取る分ちゃんとしたものを期待することが出来るため良い宿の証みたいなもの。
どんな飯か、少し気になるところではあるが……袋にこんもりと入っている保存食を確認して、少し考え込む。
入っていたものは、ユーディスの街に移動するときオーベンで買い込んだ食料だった。
少し買い込み過ぎたらしい……保存食とはいえ、もう結構な日にちが経っている。
保存食は出来る限り新しいものが良い俺としては今日の食事はこれで決まりにする他なかった。
袋を戻して、おっさんに向き直る。
「えぇと、じゃあ他になんか決まり事みたいなのは?」
「特にないな……あぁ、トイレはこの階に一つで男と女で分かれてるから、それだけ頼む」
「へぇ、めずらしい……やっぱり、結構いい宿なんだな」
おっさんの言葉に、俺はトイレの方を見てちょっと感心する。
トイレが分かれているなどあまり耳にしない話だった。
大抵の場所はトイレなど宿の中で一つしかない、扉によって隔てられた限定空間だから女だろうが男だろうが関係ないというもの。
少なくともオーベンで俺が泊まっていた宿には一つしかなかった。
「まぁ、ウチは酒場も併設でやっていて儲かっているからな。酒場の方だけで金を落としていく連中も居る」
「へぇ……」
宿を褒められて幾分か気を良くしたらしく、おっさんが少し気の緩んだ顔で言う。
その言葉に、俺は酒場の方から聞こえる騒がしさにもう一度耳を傾けて納得をする。
酒場での儲けがあるから宿に金を回せて、それで儲かった宿の儲けで酒場の方も金をかけて……と、そんなふうに正の螺旋を描いていったんだろうと。
軽く宿の今までを想像して、感心する。
中々にやり手の店長だ。
「……そういや、さっきおっさんは店長じゃないって言ってたけど、店長は誰なんだ?」
「うん?あぁ、店長、ね……さて、そろそろ戻ってくるとは思うが」
「あれ?居ないの?てっきり盛り上がってる酒場の方を切り盛りしてると思ったんだけど」
「あぁ、今の時間はそれほど盛り上がっているわけではないから、まぁ、一番忙しい時間の為の準備時間ってとこだな。いつもこの時間には外に居るんだよ」
「そう、なんだ、へぇ」
喧騒がこっちまで聞こえてきてるのにそんなに盛り上がっていないのか……
少し遠い目をしてしまう。
まるで想像できない話だった。
「まぁ、今の時間はビィナが一人で酒場をやってるな、うちの看板娘だ」
「へ?一人でやってんの?」
「あぁ、奴は大概のことはこなせるからな。と言っても、料理に関しちゃ店長程じゃねえが……で、本当に忙しい、一番盛り上がる時間になったら店長とビィナの二人でやるわけだ」
「え?二人なの?」
「ああ、で俺は受付でのんびりだ」
気楽に言い放つ、そんなおっさんの口から出た言葉に俺は驚き過ぎて何も言えなくなっていた。
今ですら騒がしいと思える酒場の一番忙しい時間を二人で回している。俄かには想像できない話だ。
やはり、あまりにもかけ離れた次元の話に思考が停止する。
一体どんな超人だっていうのか?気になって仕方がなかった。
「うぅん、とんでもないな……しばらく世話になるし、挨拶がてら後で見に行くかな……」
「いや、その必要は、ないみたいだぞ」
「え?」
俺の独り言に反応をしたおっさんの言葉に、俺はおっさんの方へ顔を向ける。
その目は、ちょうど俺のすぐ後ろへ向けられていた。
存在感。何かが後ろに居る、そんな感覚が俺の中にあった。
突如生じたその気配に、俺は警戒をしながら顔を向ける。
「…………」
「おぉっ!?」
驚愕と共に後退り、尻を受付で強打する。
エプロンとパンツ一枚のみを身に纏う、筋肉質の巨漢が俺のことを無言で見下ろしていた。
「おう、ビィナ、どうしたんだ?」
「え?この人が?看板娘?」
「……」
俺の疑問には答えず、おっさんは無言で口をパクパクと動かす巨漢の方を見る。
声は全く出ていなかった。
だというのに、おっさんは納得したような顔を浮かべた。
「酒が足りなくなったから補充にきたのか」
「……」
「ああ、そこに居るのは宿の客でソージ・ファーマニスだ。しばらく泊まるんだってよ」
「……」
分かったとばかりに頷く巨漢を見て、おっさんは俺の方へ顔を向ける。
「で、さっきも言ったが『看板娘』のビィナだ」
「……」
巨漢がペコリとお辞儀をしてくる。
それから俺に向かって口をパクパクとゆっくり動かした。
口の動きをじっと注視する。
え~と……
ビ・ィ・ナ・ち・ゃ・ん・と・呼・ん・で・ね?
………………
…………
反応に困った俺はとりあえずおっさんの方へと向き直った。
「看板、娘?」
「……言いたいことは分かる。俺もどっちかと言うと看板息子だと思うんだが、っ、そう言うとこんなふうにビィナに睨まれるんだ」
巨漢―ビィナちゃんの刺すような視線におっさんがたじろぐ。
その光景を見て俺は納得をする。
成る程、確かに恐い……その容姿も相まって、得体の知れない恐怖感が身体を駆け巡った。
これは『看板娘』にせざるを得ない……
そんなことを思っていると、何かを催促するようにビィナちゃんの視線がおっさんからこちらへと向けられる。
「…………」
相変わらずの無言。だが、俺には分かっていた。
「じゃあ、これからよろしくビィナちゃん」
「……」
満足げに頷く。
そんなビィナちゃんの姿を見て、俺は満面の笑みをさっさと崩した。
よかった、これで正解だったらしい……
確信していても実際上手くいったら安堵する。
俺はホッと胸を撫で下ろしながら、おっさんにこそこそと話しかけた。
「で、どうしてあんな格好をしているんだ?」
「あいつの趣味だ、俺も詳しくは知らん」
「じゃあ、何で声を出して喋らないんだ?」
「実は極度の恥ずかしがり屋なんだよ、見知った顔にもさっきみたいな口の動きだけで伝えてくる」
「へぇ、恥ずかしがり屋……」
あんな格好なのに、と心の中で不満を洩らしながら俺は離れる。
聞きたいことは大体おっさんが答えてくれた。
俺の中にあった疑問もほぼ消え去っていく。
が、おっさんと密談をしている最中に一つの問題が生じていた。
「あの、ビィナちゃん?何で俺のケツを擦っているの?」
「……」
無言、答えは無かった。
その代わりに、頬だけをポッと朱に染める。
手の動きは止まらなかった。
代わりに、おっさんが口を開く。
「あぁ……ビィナはさっきあんたが尻を強打していたのを見ていたからな。多分、それで擦ってるんだろう」
「えっ?そうなの?」
「……」
やはり無言。
しかし、今度は頬を赤らめたまま小さく頷いた。
手は止まらない。
すりすりと生暖かい手の感触が服越しにケツの上を這いまわる。
「まぁ、ビィナの奴は無害な変態だからな。気にしないで、ほっといてやれ」
「そんなこと言われても、気になるんだけど……」
ケツを擦られながら不満を言う俺に、『そうだよな』とおっさんが肩を竦める。
ビィナちゃんは未だに手の動きを止める気配がなかった。
別に怪我したわけでもないのに、ここまで長時間擦ってくれるのだから、優しい心の持主なのかもしれない。
とはいえ、場所が場所だけに気にせざるを得なかった。
まぁ、気にするなって言うからとりあえず気にしないことにはするけど……
「じゃあ、無害な変態ってどういう意味なんだ?おっさん」
「そりゃ特に害がないってことだよ。ああ、で、あっちに居るのは害のある変態だから気を付けろよ」
「へ?」
おっさんの声に指さす方を見る。
入り口の辺り、紙袋を両手で抱えた眼鏡の女が真っ赤な顔でこちらを見ていた。
「ハァハァハァハァ、こ、こんなところでスケベが……っ!」
ジュルッ、と吹き出た涎を手の甲で拭う。
鼻息も荒く、目も爛々と見開かれ充血をしていた。
「……おっさん、あの人は?」
「あれが店長、あんたがさっきまで随分と気にしていた当人だ」
「そんなっ!私のせいで三角関係に!?」
気にしていた、という言葉に反応して店長が驚愕の叫びを上げる。
かと思えば、次の瞬間には電光石火の勢いでこちらに迫ってきていた。
「駄目よ!考えなおして、男同士の恋愛に女なんて無粋なだけ……ビィナの想いを受け取ってあげて!」
流れるような動きでの綺麗な土下座だった。
その熱意と光景に、立ち尽くしてしまう。
頭のいい俺でも何を言っているのかさっぱり分からなかった。
こんなときは、とりあえずおっさんに助けを……
と、声を掛けようとして無言で何処かへ行こうとしているおっさんに気が付く。
「あれ?おっさん、どっか行くの?」
「んぁ?あぁ、ビィナが酒場を空けて結構経っちまったからな。ちょっと酒場に行こうかと」
「えぇ?こっちほっといて酒場なんか行かないで、店長とビィナちゃん何とかしてよ」
「こっち掘っといて、酒場なんかでイカないで⁉まさかの四角関係⁉」
俺の抗議に反応を示したのは店長だけだった。
酒場なんか『で』ってそんなこと言ってない……
おっさんは嫌そうな顔をして、俺に恨みがましい目を向けていた。
「あぁ……ほら、俺まであんたのせいで巻き込まれちまったじゃねぇか」
「俺まであんたの精でコマされちまった!?そんな、なんて複雑な関係⁉」
「んなこと言ってねぇ‼」
いち早く反応をした店長におっさんが声を張り上げる。
やばい、やっぱり俺には店長が何を言っているのか一つも理解することが出来なかった……まずい、馬鹿と勘違いされるかもしれない。とりあえず、悟られないように訳知り顔でウンウンと頷いておく。
ほどなくビィナちゃんの手がケツから離れていった。
「……」
喋らない。
その顔は時計へと向けられていた。
何だろ?
しかし、疑問に思うのも束の間、酒場の扉がバン!と開け放たれた。
全裸と見紛う姿のスキンヘッドが顔を出して、店長とビィナちゃんの姿を認識してニヨニヨと不気味な笑みを浮かべる。
「おぉう、居た居た。店長ちゃんにビィナちゃ~ん!ぬふへへ、ご飯のじっかんだよ~い!はやく、こっちきて、ちょ~だい!」
言うだけ言って、酒場へと引っ込む。
一目見るだけで分かる、明らかな酔っ払いだった。
それを合図にビィナちゃんが店長の肩へポンと手を置く。
「……」
「ん?えぇ、そうね。酒場の方を待たせるわけにもいかないから、お楽しみはこれくらいで、行きましょうか?」
パクパクと口を動かすビィナちゃんに、さっきまでは耳にしたことがないような理知的な声で店長が頷く。
それから、俺の方へ向き直って店長はお辞儀をした。
「では、お客さん。私は酒場の方がありますのでこれで失礼します、これからも小躍りする狐と子羊亭をごひいきに」
「あぁ、うん、よろしく。俺、ソージ・ファーマニス、しばらく世話になるから」
「はい!ぐふ、私はレクサ・ビジネスタ。私の栄養補給源として末永く居てくださいね?」
どこか濁った笑みを浮かべて、店長は酒場へと消えていく。
それに次いで、ビィナちゃんがペコリとお辞儀して店長に追従した。
やはり、とことんまで喋らない。
が、酒場の扉をくぐる直前ビィナちゃんは立ち止まって口をパクパクと動かして消えていった。
あ・な・た・い・い・し・り・し・て・る・ね
ビィナちゃんの口は確かにそう告げていた。
…………………
…………
いい尻って、何?
思わず首を傾げてしまう。
そんな俺を尻目におっさんは受付で気楽そうに背中を伸ばしていた。
「やっと行ったか。あいつら能力は極上なんだが、一度暴走するとキリがないからな……ったく、俺は逃げようとしたのに……はぁ」
一度、責めるような目で俺を見てから、おっさんは虚しげに溜息を吐く。
それからおっさんはもう一度俺の方を見た。
「さて、気になってた店長とビィナにも会えただろ?もう部屋に行っちまいな、用は無いだろ?」
「あぁ、行くけど……ビジネスタ……なぁ、おっさん?店長って元貴族かなんか?」
「うん?そりゃ、何でまたそう思うんだ?」
「だって、眼鏡してたし」
「ほぉ……あんた、ただの馬鹿じゃなかったんだな」
おっさんが感心したような目で俺を見る。
その目は紛れもなくこちらを称賛する意図のものだったが、俺からしたら馬鹿にしているようにしか思えなかった。
何故だかは分からないが、おっさんには今まで馬鹿だと勘違いされていたらしい……天才と馬鹿は紙一重などという言葉もあるのだから見間違えてしまっても仕方ないのかもしれないが。
まったく、ひどいな
心の中で憤懣して脱力をする。
そもそも店長が元貴族かもしれないなどというのは少し考えれば分かる話だった。
基本的に眼鏡など誰もかけないからだ。
眼鏡というのは高価で一般庶民ではとてもではないが手を出せない。
目が悪くなって少しくらい見えなくなったとしても、頑張れば普通に生活できるから誰も気にしない。それに加えて、基本的な身体能力は簡単な魔力の操作で補うことが出来るから、眼鏡などに高い金を払うくらいならその金で魔力操作のやり方でも教えてもらった方が安上がりなんだ。
そのため、眼鏡なんてかけるのは消費する魔力を少しでも抑えたい魔導士タイプの探究者か、金に余裕のある貴族くらいしかない。
「店長は、魔力を惜しむような探究者には見えなかったからね。そしたら、貴族くらいしかないよ」
「おぉ~、意外と考えてるんだな。あんたの言う通り、店長は元貴族で当たりだな。名前も元は、何だか長ったらしいよく分からん名前だったらしい。まぁ、元はといえば金持ちの道楽で始めたようなもんだな、この宿は」
おっさんはこの宿全体を見るかのように、背もたれに身体を預けて顔を上へ向ける。
俺は「へぇ」と思うが、それで終わりだった。
特に何か言うようなことは思いつかない。
もうこの場所に用は無かった。
「じゃあ、おっさん。俺、そろそろ部屋に行くから」
「んぁ?あぁ、そうか……あんた、色々聞いてくるくせに話すことなくなったらあっさりだな……まぁ、いいけどよ」
ぼやくように呟くおっさんの声を背に、俺は二階へと上がっていく。
階段にも当然のように明かりが灯っていた。
明るく柔らかい魔法の光。
それは魔道具『光灯』によるもの、普通は明かりなど火を使うものが一般的で、魔道具の中では安価であるとはいえ『光灯』は見栄えを気にする受付に置く程度で、入り口から見えない位置の……なくても誰も文句を言わない場所に幾つも配置したりするようなことは普通の宿屋ではしない。
「はぁ、すごいな……」
『光灯』の明かりにぼんやりと呟いて、受付で貰った部屋の鍵をクルクルと手で弄ぶ。
これだけの数の『光灯』。
当たり前のように鍵が付いた部屋。
それに加えて、男女と別れたトイレ。
どれもこれもが、普通の宿では見ないようなものばかりだった。
「金持ちの道楽、か……」
きっと自分に正直に生きた結果なんだろうな。
そんなことを思いながら、俺は『205』と書かれた部屋の扉を開けた。
自分で考えたものを後で見返すとありきたりだなぁ、なんて思うことありませんか?
私もそうです。この店長、没個性だなぁって改めて見返すと思います。あんまり考えないでやったこととの方がむしろ個性的なことってよくあるんですよねw