春まち金魚
こぽこぽ こぽこぽ 水の中
金魚は毎日 空を見る
赤い尾びれを たゆたせて
まだ見ぬ春を 待ち望む
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水槽のガラスを通して見上げる空は、今日もどんよりと曇った灰色でした。
揺れる水面から少しだけ口先を出してみて、その冷えた室内の温度に、金魚はパチャリと水をはじいて水中へと戻って行きます。
「ああ寒い。本当にこの寒さが優しくなるのかしら?」
夏に生まれた金魚は、日差しの強い暑さと凍えるような冬の寒さを比べて考えます。
木漏れ日が心地よい秋はとても過ごしやすかったので、もしかしたら春とは秋に似ているのかもしれません。
そんな金魚にさわりさわりと、かすかに葉擦れの音をさせて、緑に茂った植木鉢の葉のささやきが聞こえました。
「この寒さが終われば、暖かな日差しの季節になるのね。楽しみだわ」
そう言いながら少しでも日差しを受けようと葉を伸ばします。
たっぷりと肥料をもらった葉は、冬の寒さを気にしながらもおっとりとしていました。
「暖かい日差しって、どういうものかしら?」
灰色の雲のすきまから、時折漏れてくる光は、とても暖かいとは言えません。
金魚は今よりももっとたっぷりの日差しを想像してみたけれど、細い光が線のように増える様子しか思い浮かびませんでした。
次の日、生き生きと生い茂る水草の林の中で休んでいるとき、金魚は高い声を聞きました。
水槽のすぐそばの窓に、二羽の小鳥が止まっているのが見えます。
茶色い小鳥は羽根を整えながら話しています。
「ああいやだ。今日もじめじめすっきりしない! おかげで羽根が重たいわ」
「ほんとねぇ。春になれば毎日柔らかい光で羽根も軽くなるものね」
ピチピチチュンチュン。おしゃべりな小鳥は更に続けます。
「それに春になればいい出会いもあるものね」
「そうね。今年こそはすてきな相手と出会いたいわ!」
楽しそうに話す小鳥の声に、金魚は微睡みながら想像します。
「柔らかくて軽くなって、すてきな出会いもあるの?」
どうやら春というのは日差しだけではないようです。
金魚は水の中をくるりと見回して、それから昔のことを思い出しました。
金魚がいたのは、たくさんの兄弟達でひしめき合う水の中でした。
とても広い場所で、毎日エサを取り合って、静かに眠ることも少ないところでした。
今は昔よりも小さな水槽の中で、金魚はひとりぼっちでした。
とても静かで、エサを食べるのもゆっくりできますが、金魚はなんだか物足りません。
春を知らない金魚は、窓の傍に作られた雪だるまに声をかけてみました。
「ねえ雪だるまさん。あなたは春をしっているかしら?」
空から落ちてくる白い雪と共にやって来た雪だるまは、金魚の声に木の枝で作られた手を振り回しながらこたえました。
「春だって? もちろん知っているとも。あれはとても嫌なものだね!」
金魚は今まで聞いた話とは違う雪だるまの答えに驚きました。
「嫌なもの? 春は嫌なものなの?」
「ああそうとも。春が近付けばオレの体は溶けてしまう。この先ずっと春なんて来なければいいと思うね」
そう言い切ると、雪だるまは楽しそうな顔で雪の降る庭を見て歌い出しました。
その後ろ姿を見ながら、金魚は悩みました。
春は柔らかで軽くてすてきな出会いで嫌なもの。
しかも雪だるまが溶けてしまうと言うのだから、恐ろしい感じまでしてきます。
話を聞くほど、春というものが分からなくなりました。
昨日まで楽しみにしていたのに、金魚は急に春が来るのが怖くなってきました。
その日の夜、金魚はたくさんの声を思い出しながら、夢を見ました。
広い広い水の中。
柔らかな日差しを浴びた自分の体はどんどん軽くなっていき、そのままゆっくりと溶けていくのです。
怖くなってたすけてと声を出しても、ひとりぼっちの金魚の声にこたえてくれる相手はいません。
自慢の尾びれが消えて、丸いおなかも透けていき、最後に残った口だけで必死に助けを呼びました。
ついに口まで消えてしまうその瞬間。金魚ははっと目を覚まして、慌てて自分の体を見回しました。
薄く透ける尾びれもなだらかな丸い腹も、水を軽やかに掻く胸びれも、もちろん口も無事でしたが、金魚は水草の中に隠れて、ふるふると震えます。
「ああ、怖いわ。春はとても怖いものなのだわ」
昨日までは楽しいものだと思っていたのに、急に春が怖くなってしまいました。
いつも見る楽しい夢はすぐに忘れてしまうのに、怖い夢はいつまで経っても忘れられず、金魚は毎日水草の中に隠れるようになりました。
いつの間にか冬の気配は薄らいで、雪だるまはいなくなっています。
そのことがまた金魚を震えさせるのです。
春になって暖かくなったら自分も溶けて無くなってしまうのかもしれない。
美味しいはずのエサもあまり食べなくなり、元気に泳ぐこともなくなった金魚に、植木鉢の葉が声を掛けました。
「金魚さんどうしたの? 最近はずっと隠れてばかりなのね」
新しい肥料をもらった植木鉢は、元気に伸びた葉で水槽をつつきます。
少しだけ揺れる水にびくりと震えながら、金魚は水草の中からそっと顔を出しました。
「植木鉢さん。もうすぐ春が来てしまうのよ。そうしたらわたしは雪だるまさんのように溶けて消えてしまうのよ」
そう言って怖い怖いと泣く金魚に、植木鉢は自分の根元を見せました。
「春は怖いものではないわ。たしかに雪だるまは溶けてしまうけれど、私の根元には新しい芽が生えてくるのよ」
植木鉢の言葉に根元を見れば、そこには柔らかな新芽が頭をのぞかせています。
「この子は私の新しい子供よ。春になるたびに子供が増えていくの。すてきでしょう?」
まだまだ小さな芽は植木鉢のようにおしゃべりをしませんが、楽しそうに揺れているのが見えました。
金魚はその小さな芽をじっと見つめて、そうしてたくさんの言葉を思い出しました。
春は柔らかで、軽くなって、すてきな出会いがあって、でも嫌なもの。
夢の中で金魚は軽くなって消えていく自分を感じていましたが、出会いはありませんでした。
兄弟達と一緒にいた頃は、うるさい中でも金魚は確かに幸せでした。
にぎやかな夏祭りの夜にひとりぼっちになってから、金魚はずっとさみしかったのです。
「植木鉢さん」
金魚は水草から出て植木鉢の葉に言いました。
「わたしはずっとさみしかったのだわ。おしゃべりをしてくれる植木鉢さんも、さわがしい小鳥さんも大好きだけれど、それでもずっとさみしかったのよ」
金魚の言葉に植木鉢はさわさわと葉を揺らします。
「そうね、私達は友達だけれど、それでも寂しいと思う時はあるわね。自分だけの相手が欲しいと思うから寂しいと感じるのではないかしら」
植木鉢の言葉に金魚はコポリと泡をはきました。
「自分だけの相手?」
「そう。小鳥たちも言っていたでしょう? すてきな出会いが欲しいって。それは自分だけの相手が欲しいと言う事よ」
「それは……春になったら来るのかしら?」
「春は出会いの季節だもの。きっと来てくれるわ」
植木鉢はそう言って楽しそうに揺らした葉で、優しく水槽を撫でました。
金魚はその言葉を聞いて、少しだけ春が怖くなくなりました。
そうして少しずつ少しずつ、春が来るのが楽しみになりました。
怖い夢を見なくなって、小鳥たちの楽しげな声が春が来たことを歌う頃。
金魚の住む水槽に新しい金魚がやって来ました。
黒くて尾びれの小さな金魚は、赤い金魚を見て話しかけてきました。
「こんにちは赤い金魚のおじょうさん。すてきな尾びれをお持ちだね」
「こ、こんにちは。あなたはとても色が黒いのね」
「そうだろう? 夜には見えにくくなってしまうけれど、僕はこの色が気に入っているんだ」
そう言うと黒い金魚は自慢げにくるりと水槽の中を泳いで、そのあとで赤い金魚に言いました。
「ここはなかなかすてきな水槽だ。これから仲良くしておくれね」
赤い金魚はその言葉に嬉しくなって、水面をピチャリと叩いてこたえました。
「ええもちろん! これから仲良くしてくださいね」
その日から赤い金魚は怖い夢も見なくなり、暖かい日差しの中で黒い金魚と楽しく暮らすようになったのでした。
植木鉢の根元では、小さな新芽が精一杯葉先を伸ばして、二匹の金魚が楽しそうに泳ぐのを見ていました。
夏祭りでうっかり金魚すくいをやって持ち帰った金魚がなんだか元気がない?
もしや一匹なのが悪いのか!?
ちょっと仲間でも増やしておこうかな・・・
なんて、人間が思っていたりいなかったり。
読んでいただきありがとうございました。