狐編 下
蓮は「秋」に入り、たくさんの客に出会った。
狐の蓮には知らない、人間の大人の温かさと力強さを知った。
僕は、お父さんともお母さんとも生まれて1年も経たない時に別れた。狐にとってこれが普通だ。
でも、人間たちは大人になるまで一緒。正直羨ましいと思った。
「…くん、れん…、蓮君」
僕はガバッと体を起こす。眠ってしまっていたようだ。
菫は、ニコッと笑ってよく寝てましたねと言う。
…はっ、菫に寝顔見られた!! 恥ずかしい…。
窓からは、茜色の光が入ってきていて、銀之助たちはもういなくなっていた。
菫も、もう「秋」のエプロンをはずしている。菫の仕事時間は終わりだということだ。
「ご、ごめん、寝ちゃってた。もしかして、僕のせいで帰れなかった?」
酔ったからか、体がだるくて僕は片手で頭を支える。
菫は優しい笑顔を見せながら首を横に振った。
「大丈夫ですよ。今終わったところです。あ、そういえば、お父さんが次はもっと話しながら飲みたいって…」
あー、菫のお父さんがもう少し話したいって言ってくれたのか。…うん? 菫の、お父さん?
僕はガタッと勢いよく立ち上がる。だるさも眠さも全て飛んでいった。
僕ともっと飲みたいなんて言ってくれる人と言えば……。銀之助!? ぎ、銀之助が菫のお父さん!?
菫は、僕が急に立ち上がったのにとても驚いた顔を見せている。
「え、あの、菫。銀之助さんって菫のお父さんなの?」
「はい、そうですよ」
菫はニコッと笑うが、僕は呆然としてポカーンと口を開けてしまう。
あぁ、そうか。だから、あんなに菫について訊いてきたのか。そりゃそうだ。
「お父さんは、いつも昼はここで食べるんです。心配だ、とか言って」
菫は少し苦笑いを見せる。僕は、そうなんだと言ってクスクスと笑う。
すごい親ばか…。
「ほら、お2人さん。さっさと帰り―や」
秋は料理を持ってきたついでに、僕たちに声をかけた。僕たちは、はーいと返事をして店の出口に向かう。
秋は出口に向かう僕の肩を掴んでを引き止めて、僕にしか聞こえない声でありがとうねと言った。僕は菫を見てから、いいえ、とはにかみながら返した。
「じゃあ、帰りましょうか」
僕が店の戸を閉めると菫は、少し首を傾けて小さな笑顔を見せてくれる。僕は頷いてから菫の左隣を歩く。
「送るよ。暗くなってきたし」
ニコッと笑ってみせると、菫は嬉しそうにありがとうございますと言う。
…大丈夫ですよって言われるかと思った。少し受け入れてもらえたって思ってもいいのかな?
自然と口元が緩んでしまう。ちらっと菫を見ると、菫も僕を見ていて目が合ってしまった。菫はパチパチとまばたきをするとさっと目を逸らす。
!? 嫌われてる!? もしかして、受け入れてくれたとかじゃなくて、面倒くさくて断れなかったのかな。うぅ、泣きそう。
そう思ったけど、声をかけると普通に話してくれた。笑顔も見せてくれた。
銀之助の意外な一面など、菫の家族についても話してくれた。菫は、3人兄妹の末っ子ということも教えてくれた。
末っ子なんだ。お姉ちゃんなのかと思ってた。
菫と話すのは、やっぱりすごく楽しくてすぐに時間は過ぎてしまう。
「ここ、私の家です。今日は、本当にありがとうございました」
菫はペコリと頭を下げる。
僕はいえいえ、と笑いかける。上げた菫の顔は、まだ元には戻っていないけど笑顔が見えた。
ぶつかってしまった時より、いい顔してる。このまま何も言わずに帰るっていうのもいいけど、嘘をついたまま帰るのは嫌、だな。
「菫、ちょっと待って!」
家の中に入ろうとしている菫を僕が引き止めると、菫は少し驚いた顔になった。
もしかしたら傷つけてしまうかもしれない。このことを言ったら、また泣いちゃうかな?怖い、でもこれが本当の僕だから。
「ごめん、菫!僕、君に嘘をついているんだ」
首を傾げている菫を僕はしっかりと見つめる。
逸らしちゃだめだ。ちゃんと向き合わないと、きっと伝わらない。
「僕は、本当は君とは初めましてじゃない。1度だけ会ったことがあるんだ。菫にも、…健太郎にも」
僕は、菫の愛人の名前を口にする。菫はきゅっと拳を握る。
ごめん、菫。君を傷つけたいわけじゃない。僕がここに来た理由をちゃんと知ってほしくて…。
「僕と菫たちが出会ったのは1年くらい前…」
僕は約1年前、足に怪我を負って動けなくなっていた。もう2日くらい何も食べていなくて、飢え死にするんだと覚悟した。それも、運命だと思った。僕は、生きることを諦めていたんだ。
でも、そんな時に健太郎は僕の前に現れた。林の中を散歩していたらしい。健太郎は僕を見つけるとすぐに駆け寄ってきてくれて、僕を優しく抱きかかえ何処かへ走っていく。その時の僕には、ただ健太郎に支えてもらうことしかできなかった。
でも、これだけは覚えている。
『頑張れ、頑張れよ。今、助けてやるからな』
健太郎はそう言いながら走っていた。頑張ろうって思えた。
たどり着いた所が、菫の家だ。健太郎はガラッと菫の家の戸を開けて、バタバタと家の中を走って台所に向かう。
そこには菫がいた。
『菫!こいつ、足を怪我してるんだ!後、多分飯を食べてない』
健太郎がそういうと菫は慌てて台所にある生魚を僕に差し出してくれる。きっとこの魚は菫たちのご飯だったんだ。今思うと本当にこの2人は優しい。とても美味しかった。今まで食べたどんなものより。…胸が感謝でいっぱいになった。
菫は、器用な手先で足の手当てもしてくれた。まだ痛かったけど、ひょこひょこしながらも歩けるようになった。
僕は、林に帰ってもずっと2人のことを見ていた。幸せそうに笑っていて、2人が幸せそうだと僕もとても幸せだった。
でも、ある日健太郎の姿は見えなくなった。
菫の笑顔が少し減った気もしたけど、その時は気のせいかと思った。でも、健太郎は戦に行ってたんだね。じゃあ、あれはきっと気のせいじゃなかったんだ。
その時の僕はずっと信じていた。また健太郎が帰ってきて、2人で幸せそうに笑う日も帰ってくると。
でも、現実はそういうわけにもいかなくて…。
健太郎が死んだ。
次は、菫の姿も見えなくなった。僕の望んでいたこととは、真逆と言ってもよかった。胸が苦しくて、息ができなくなるかと思った。
数日後、菫の姿が見えるようになっても、僕の好きな菫の笑顔はなくなっていた。
もう一度、あの頃みたいに、健太郎と一緒にいる時みたいに笑ってほしい。
ただそう思った。
「…だから、僕は君に、菫に会いに来たんだよ」
僕は本当のことをすべて話した。菫は目を見開いている。
「待って、蓮君。それじゃあ、あなたは…」
驚いた顔の菫に僕はふぅと息を吐きながら笑顔をみせる。
PON!
僕は耳と尾だけ出すと、羽織の袖に手を入れる。菫は、混乱して何度もまばたきをしている。
まぁ、ビックリするよね。人間だと思ってた人が、狐だったなんて…。嫌われちゃうかな。理由がどうであれ、騙していたことに変わりないし…。
「ごめん、菫。ごめんね。君を騙すようなことをして。でも、僕はこれからもずっと菫のことを見守りたい。だって、菫は僕の恩人でずっと幸せでいてほしい人で、大好きな人だから…。嫌だったら言って?菫が嫌なら止めるから」
僕が首を少し傾げて菫を見ると、菫は声は出さずにブンブンと首を横に振る。
……よかった。
「ありがとう。今日はとっても楽しかった。菫を元気づけるために来たのに、僕の方がいっぱい楽しんじゃった。また、来たいな…」
僕はへなっと笑って、冗談っぽく言ってみる。
本当は冗談なく、本当に楽しかった。また、菫とも話したい。皆とご飯食べたりしたい。
でも、人間と狐とは通り越せないとても厚いガラスのような壁があって…。もう、来ることはできない。
「また、来て!またご飯食べに来て!お話しよ!次はもっと、もっと蓮君のこと教えて!!」
菫は顔を真っ赤にさせながらも、僕の両手を包み込むように握ってくれる。
すごく真剣な顔。もっと話したい。菫も同じこと考えてたんだ…。嬉しいな。
「うん、分かった。また遊びに行く。菫にこの姿で会いに行くよ」
僕の言葉で菫はパァッと表情が明るり、うん!と嬉しそうに頷く。
そういえば、初めて敬語じゃなかったな…。
ピキピキ
壁にヒビが入る音が聞こえる。
「じゃあ、今日は帰るね。バイバイ、またね」
BON!!
僕は軽く手を振ると完全に狐に戻って林の中へと入っていく。
えへへ、菫にもっとお話しよって言ってもらえた。狐っていうことを伝えたのに、言ってもらえた。
僕は笑みをこぼさずにはいられない。嬉しい。その気持ちだけでいっぱいだ。
明日、いつもの場所、菫を見に行こうかな…。
爽やかな風が吹き、温かい日の光が照り、鳥たちの綺麗な歌声が聞こえてくる。今はもうすぐ人間たちが昼食を食べる時間。
僕は、ある場所へ走っていく。「秋」という飲食店の前の草の茂み。茂みの向こうには、「秋」で働いている僕の大好きな女性「菫」がいる。
菫はいつものように店の前を箒で掃いている。
…あ、銀之助が来た。来るの早すぎでしょ。
「秋」には次々と客が来て、店に入っていく。菫も店の前の掃除が終わるといつも店に入ってしまう。菫が箒を片付け始める。
あぁ、もう入っちゃう。…って前は、ちょっと見れただけで満足してたのに何思ってんだか。
僕は、くるっと方向転換をして林の中へ戻ろうとすると、僕に人の影が差した。
うん?
首だけ振り返る。
!!?
「また明日ね、蓮君。いつも見守ってくれてありがとう」
菫はしゃがんで僕と目線を合わし、ニコッと笑うと立ち上がって仕事へと戻って行った。菫が店に入り、ピシャンと戸が閉まる音がするまで僕は動くことができなかった。
体が熱い。湯気が出そうだ。おかしい。今までこんなことなかったのに…。胸が高鳴る。
ドクンドクン
そう、これは恋の音。
恋の音と共に壁が壊れる音が聞こえた。
これで狐編は一旦終了とさせていただきます
(another story書くかも!?)