犬のように飼われたい
藍色の瞳を細めて微笑む男の人は、私が異なる世界から現れたのだと言う。
なるほど。
私はあの世だと思ってしまったけれど、私は異世界へトリップをしてしまったみたいだ。
呆気なく異世界の人間を受け入れる彼の言い様からして、珍しい現象ではないらしい。
アドレナリン放出のせいで、落ち着けないし、身体が震えてしまう。
この世界が何処かわかったことには少しだけ安心感を覚えるが、震えは止まらない。
「オレの家へ、案内しよう。ランチには遅いけれど、お腹空いただろう? パンならある。この世界について教えてあげるよ」
彼は立ち上がると、優しく笑いかけて手を差し出してくれた。
とてもいい人だと思ったけれど、すぐさまその手が引っ込められる。
この人はなんなんだ……。差し出したかと思えば、引っ込める。性悪か。
「ご、ごめ……すまない……。大変申し訳ないのだが……オレは女性が苦手で、触れることが、出来ないんだ……。無礼をすまない」
手を背に隠す彼は、青ざめてしまう。
女性と知り、さっきは手を引っ込めた。崖に宙ぶらりんでも掴めないほど、女性に対する苦手意識は強いようだ。
「ああ、そうでしたか……構いません。お気になさらないでください、大丈夫です」
それなら仕方がないと割り切って、私は自分で立ち上がる。
「お邪魔しても、大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ」
確認すると、青ざめた顔が少しだけ良くなった彼はなんとか笑みを作る。私はニコリと笑い返しておいた。
彼の案内で森を歩き出す。私より少しだけ歳上の彼は長身だ。モデルのようにスラッとしているけど、華奢とは言えない体型。
さぞモテそうなのに。でも女性が苦手で触れないだなんてもったいない。
「どうしてお腹が空いているとわかったのですか?」
「食べ跡がなかったからだよ。木の実でしのいだのだろう? ところで昨夜は流れる星を見なかったから、君がこの世界から来たのは昨日ではないのだろう。いつから森にいたんだい?」
「……一昨日です」
流れ星。一昨日にこの世界に来て、その夜に流れ星を見た。
星人と呼ばれる由来なのかと疑問を抱いたけれど、それはあとで聞くことにしよう。
「すまないね、もっと早くに見付けられていたら、保護できたのに」
そんな義務はないはずなのに、彼は申し訳なさそうに謝罪する。
「私が悪いのです。助けを求めるつもりなんてなく、自力で生活しようとしてました。水を確保して、家を建てようと」
「それは……とても積極的な星人だね」
淡々と言えば、私の発想に彼は口元をひきつらせた。
「この森に一人でいたせいか、とても穏やかな気分でいられて、生まれ変わったようにも思えてしまったのでしょう。見知らぬ場所で、森を抜けられそうにもないと思い、住むことを考えてしまいました」
あの世と思い込んだのは、そこにあるのかもしれない。生まれ変わったような清々しさを感じた。きっと空気がいいという理由だけだろうけど、私は気分がいい。
今はアドレナリンのせいで、少し走り出したいけれど。
彼は微笑むだけでなにも言わない。それで察することができた。
「星人は……元の世界には帰れないんですね」
「……残念ながらね」
彼はまた申し訳なさそうな顔をする。
異世界の人間の登場を珍しく思わないけれど、彼は一度も帰る方法について言わなかった。
優しそうな彼なら、安心させるために"すぐ帰れるよ"とそんな言葉をかけてくれそうだと思えた。でも、言わなかったから、帰れない可能性があると過っていた。
「……あまり、落ち込まないんだね」
少し気遣うように私の顔色を伺う彼は、そっと言う。
「私はあまり執着しない女なのです。元の世界には大して執着するようなものがなかったので」
「そう……」
笑ってぶっちゃける。
彼は目を逸らして前を向くと、一人言のように呟いた。
「それはよかった」
その言葉の意味は、私には予想ができずに首を傾げる。
数歩先を歩く彼の背中は、どことなく拒絶するような雰囲気を纏っているように感じて、訊くことは止めておいた。
お腹が空いているのだもの。
「……ところで。異なる世界なのに、どうして言葉が通じるのでしょうか?」
戻れないとわかったところで、この世界の事情を知ることにして問う。
よもや彼が日本語をペラペラ話しているようには思えない。
「ああ、本当だったんだ」
彼は面白そうに笑った顔で振り返った。
「?」
「オレの幼馴染みの母親が星人でね。言葉が通じることを不思議がっていたって聞いたんだ。この世界は、共通の言葉を話せる。耳にしたり口にする本人からすると母国語を話しているんだ。人間には少しならず魔力を持っていて、そのおかげで通じ合うんだ。まれに魔力を持たない人間が生まれることもあるけれど、その人間には全く違う言葉として聞こえるらしいよ。本来の言葉だろう。君のように星人も魔力を持つ。その証拠に今、喋れるんだ」
ほう。言葉を発して相槌をすることを忘れて、ただコクコクと頷いた。
さっきの岩人間の手は、魔法の類い。納得だ。ここは魔法が実在するファンタジーな世界。
魔力というものが、私にもあるという事実を聞き、少し面白さを感じて口元を緩ませる。
「魔法使いなのですか?」
「……そんな感じだよ」
彼は前を向く。
そう言えば、彼の名前を聞いてなかった。彼もまた私の名前を聞かない。
それは多分、名前を聞かないまま人助けをすることが多いからかもしれない。
私は接客業を少ししていたから、名前を知らないまま頼み事を引き受ける。大して互いの名前なんて、気にしないものだ。
でも、彼は命の恩人。そう言うわけにはいかない。彼の名前を聞くより、先に名乗るべきだ。でも名乗ることに躊躇する。
「……前の世界には戻れませんし、前の名前にも執着していません。だから拾ってくれた貴方が名前をつけてくれませんか?」
「ええ? そんな犬みたいに……」
新しい名前を名乗ることにしたいから提案した。そうすれば、彼は苦笑をする。
「犬みたいなものですよ」
「ええ? オレ、名付けるとか苦手なんだけど……そうだな……」
照れくさそうに頭を掻きながらも、彼は名付けることにしてくれた。
「星、とか?」
「……やっぱり自分で決めます」
「ええ!?」
思ったより名付けることが下手で、私は彼に身を委ねることを止める。少し考えた。
「エレナにします。エレナと呼んでください」
「エレナ? 素敵な名前だね。由来は?」
「特にありません」
「ないんだ……」
「強いて言うなら、素敵な名前だからです」
日本人らしい名前じゃなくていいだろう。響きが好きな名前で呼んでもらおうと、にこりと笑いかける。
少しスキップをして、彼の前に立つ。
「エレナです。よろしくお願いします」
彼の目を見て、自己紹介をした。そうすれば微笑んで彼は手を差し出す。
「オレは……リオウ。よろしく、エレナ」
リオウさん。
名乗ってくれたのは有り難いのだけれど、この差し出された手はどうするべきなのだろう。リオウさんは女性が苦手だから握手できないはずなのに。
「……」
「……あっ!」
見つめていたら、リオウさんは青ざめて引っ込めた。
最初からリオウさんは女性が苦手ではなかったらしい。苦手と言うわりには私には親切だ。
とても優しすぎて、女性とわかったあとでも手を差し出してしまう人。信頼できる。
クスリと笑えば、リオウさんは恥ずかしそうに俯いた。
美味しそうな香りで目を覚ます。すごい疲労感が腕から肩を中心に、のし掛かっていて辛い。
息を深く吐いたあとに、ソファーとクッションの柔らかさに喜ぶ。
昨夜は眠れなかったから、時間がわからないくらいぐっすり眠れた。
家に着くなり、リオウさんが気を遣ってくれて入浴を薦めてくれた。釜風呂で、リオウさんが外から火を調節してくれて、芯から温まりスッキリ。
リオウさんから服を借りて、そのあとに食事を用意するから少し待ってと言われて、私は座ったソファーで寝てしまった。
細身でもリオウさんの服は私にとってぶかぶかで、締め付け感がなく快適で、眠りに落ちた。
食事を用意してもらったのに。慌てて起き上がり、キッチンを見る。
リオウさんの家は、山小屋のような小さな家。ソファーが置かれたリビングの隣に壁はなくキッチンがある。
「あ、起きた? もう夜だから夕食になっちゃった。焚き火をしたから外で一緒に食べよう?」
そこに立っていたリオウさんが、振り返り微笑んだ。
長い袖に隠れてしまった袖で口を押さえて、欠伸を隠す。それからおぼつかない足取りでリオウさんの料理を覗いた。
鍋の中にはビーフシチュー。匂いの正体だ。
お風呂に入れてもらえたし、寝ている間に料理を作ってもらえた。優しいイケメンのリオウさんに、本当犬として飼われてしまいたいと思ってしまった。
20141122