32 後編 (拓真)
一之瀬の家から帰っている途中、俺は沢山の事を考えていた。それは一之瀬の事だけではなくて、神沢の事や牧下の事、斉藤一葉の事だ。
何かが動き始めるとその時間は途轍もないスピードで流れていって、気がついた時には後の祭り。そんな時間を過ごしてきてしまったからこそ、今の俺は考えなきゃいけないんだ。
斉藤の依頼。牧下と神沢の仲を取り持つ事。そして斉藤は言った。『牧下優姫を助けて欲しい』と。
だが、本当にそれで良いのだろうか。神沢ファンクラブの反牧下勢力から牧下を守って、神沢との関係を取り持つ。本当にそれが斉藤の願いなのだろうか。
もしも俺が斉藤の立場になったとしたらどう思う。きっと俺なら斉藤のような依頼はしない。その行動が自分を苦しめる結果になってしまうからだ。好きな人を目の前で他の誰かに取られてしまうなんて俺には耐えられない。
ならどうして斉藤は俺に依頼をしてきたんだ。自分が傷つくと分かってもなお、最愛の人の幸せを考えたからなのか。いや、違う。
償う為だ。
一之瀬も言っていた。斉藤の償いなのだと。それは自分で自分に罰を与え、その罪から解放される為の手段。犯してしまった過ちを清算する為の……。
いや、そんな事は既に分かっていた事だ。それでも俺は斉藤の依頼を受けようと思った。斉藤の罪は斉藤だけでは清算しきれない。自分で罰を受け止めようとすれば心が壊れてしまう。
人はそんなにタフじゃない。簡単に壊れてしまって、元に戻るのが困難になってしまう。肉体に受ける物理的な傷よりも、精神的に受ける傷の方が深くて治りづらい。
そうか。斉藤は自分で決断できないから俺等に依頼を持ってきたんだ。自分が逃げないように、その現実を受け止めて自分を苦しめるように……。
どうして俺はそれに気がつかなかった。俺は斉藤が救われる事しか考えてなくて、俺の手で斉藤を傷つける依頼を請け負ってしまった。今更出来ないなんて言えない。
だけど、俺がこのまま依頼を遂行すれば確実に斉藤一葉が傷つき悲しむ。だとすれば一之瀬の選択が正しかったのか……?この事まで予見して一之瀬は依頼を引き受けないとでも言ったっていうのかよ……。
いや違う。もっと冷静に考えるんだ。何が正しくて何が間違っていたのか。
そもそも、一之瀬が選択した未来は斉藤一葉に加担しないという事。それは牧下と神沢の件にも関与しないという事だ。その未来はきっと神沢の想いは牧下には届かず、牧下も何らかの理由で神沢を拒絶し続ける。そして依頼主の斉藤は自分の罪を償う事すら許されず想いの行き場をなくす。
なら、俺の選択した未来はどうなんだ。
俺は斉藤一葉の依頼を受けた。それは牧下を守りたいという思いと同時に神沢の気持ちも救いたいというとてもワガママな願い。それだけじゃない斉藤の願いだって叶えたいという傲慢で無責任な思い。
もしも依頼が成功しなかったら、誰も幸せにならないだけでは済まされない。何もしなかった時よりも皆が傷つき苦しむ結果になる。だが、もしも成功したとしても斉藤を救う事は出来ない。
なら、どの選択が正しかったんだ……!! 一之瀬の選択も俺の選択も、結局誰かが傷つく未来しかないじゃないか……!! 待てよ……。そうか。
どっちの選択も間違っていたんだ……。
それでも俺は依頼を引き受けた。安請け合いしたわけではないが結果的にそうなってしまっている。それを回避する方法を探すしかない。
牧下も神沢も斉藤も、皆が傷つかない結果を生み出すためにはどうすればいい。絶対に誰かが傷つく結果になる。俺はそんな時、どうしていたんだ……?
真っ先に救うカテゴリーから外していたのは誰だったんだ。あ、そうか。そんなの簡単じゃないか。傷を受け止められない奴がいるなら、受け止められる奴が傷つけばいい。ずっとそうやって来たじゃないか。
その時
ブーッブーッブーッ
俺の携帯が唸りを上げる。ポケットに入っていた携帯を取り出して、画面を見る前に自分の心を冷静にする為に一呼吸置く。そして辺りを見渡す。
夜になった駅前は賑わっていて、昼間のそれとはまた別の顔を見せてくれている。街頭の明かりやビルの明かり、煌びやかに輝き続ける人工的な光が俺の心を落ち着かせた。
そして俺は携帯の画面を見る。そこに出ていた名前は
一之瀬菊冬
菊冬から電話……? アイツは何も用がない時に連絡なんてしてこない。だとすれば俺に何か用があって電話をしてきている筈だ。でも、今の俺は考えなきゃいけない事が沢山あって、まだ答えだってしっかりと出ていない。
自分の現状も解決できていないんだ。今は菊冬の相手をしていられるほど余裕がない。そして俺は携帯を見つめ
「もしもし。どうした菊冬?」
結局出てしまうという。本当に俺のこういう性格は直した方がいいのかもしれない。
菊冬には見えていないが今の俺は苦笑を浮かべている。それが自分の不甲斐なさを物語っているようだった。
というか電話に出ているのに菊冬の声が聞こえない。確かに今の俺は外にいるが、電話越しの声が聞こえないほど騒がしい場所にいるわけではない。なのに菊冬から言葉が発せられる気配すらない。
「もしもし? おーい菊冬?」
再びの呼びかけ、それでも菊冬は何も喋ろうとしなかった。そんな菊冬の行動に俺は違和感を感じ聞き耳を立てるように電話越しの菊冬の声を聞き取ろうとした。すると
「……ぐすんっ。……ぐすんっ」
小さくだが菊冬の啜り泣くような声が聞こえた。だがそれは不確かなもので、菊冬が泣いているという断定には至らない。
「おい菊冬……? お前、泣いてるのか?」
確信を突く為の言葉。菊冬の今の状況が分からない限り、俺はどういう行動を取っていいのか分からない。そして
「拓真……。ぐすんっ……。うっ、うぅ……。拓真ぁぁ……。助けて……!!」
電話越しから聞こえていたのは菊冬の泣いている声だった。そしてそんな菊冬が絞り出すように言った言葉。
助けて。
「おい、どうしたんだ菊冬っ!?」
「助けて拓真……。私、私……」
全ての状況が読み取れたわけではない。それでも菊冬が俺に助けを求めている。その事実だけは本物だ。
「分かった。菊冬は今、どこにいるんだ?」
冷静な俺の声を聞いて少しばかり安心したのか、菊冬はゆっくりながらも自分の今の居場所を俺に教えてくれた。その場所は今俺がいる場所から然程遠くない。一之瀬の家から帰っている途中で駅前をぶらついていたのが良い結果に結びついた。
そんな俺は菊冬に今いる場所から動かずに待っているよう指示をだし、菊冬の元へと向かったのだった。
今日は厄日なのかもしれない。
菊冬の元へと向かいながら俺はそう思っていた。一之瀬には何も伝わらないし、いきなり連絡していた菊冬は泣いてるし、俺の考えは何もまとまらないし。
自分の不甲斐なさを感じながらも目の前で起こっている現状を無視できない。それが自己犠牲の精神なのだとは自分でも理解できている。それでも直せない理由は性だからである。
それに菊冬の所に行くのだって菊冬が泣いているからだ。全員が笑っていなきゃ嫌だ。なんて子供じみた願いを持ち続けている俺はきっと何も成長していない。
そんな事を考えている間に菊冬の元へと俺は辿り着く。
何の変哲もない普通の路地。住宅街のその道の端っこ、壁際で一人ぽつんと座っている菊冬を発見する。そして菊冬のほうも俺に気がついたのか、立ち上がり走って近寄ってくる菊冬。
「拓真ぁぁ……!!」
会って数秒。走ってきた菊冬は俺に抱きつき泣き始める。俺はそんな菊冬の頭を優しく撫で泣き止むのを待った。
数分の後、泣き止んだ菊冬から現状を聞き俺は自分の頭の中で整理する。
ようするに、菊冬がまた一之瀬と喧嘩をしたらしい。感情的になって一之瀬に暴言を吐いてしまった菊冬はどうしていいのか分からなくなって俺に連絡をしてきた。
泣きながら助けてなんて言うからお兄ちゃん凄く心配しちゃったんだからね。とか言いたいが、今の菊冬には冗談が通じなさそうなので自粛します。
そんな俺には気になる事がある。
一之瀬の家から飛び出してきた菊冬。凄く遅い時間と言うわけではないが、一之瀬財閥の三女の菊冬を一人にするのはおかしい。菊冬の話からすると春桜さんもいたようだ。
あの春桜さんが何も考えなしに菊冬を一人にしたりはしないだろう。だとすると
「はぁ……。どうせ近くにいるんだろ。もう面倒くさいから出てきてくれないかな後藤」
嘆息気味に俺が言うと
「やはりお気付きになられておりましたか、小枝樹様」
執事服で身を纏う初老の男。身長はやや高めで俺よりもある。髪は白髪でそれを綺麗にオールバックで固めている。そんな男の名前は後藤。一之瀬家に仕える執事だ。
後藤はニコニコと微笑みながら俺の事を見てくる。その笑顔が少しムカつく。
「はぁ……。気づくも何も菊冬を一人になんてさせないだろ。アンタがいるから春桜さんも一之瀬も安心できるんだ。本当にアンタって何者なんだよ……」
再び嘆息し、項垂れ俺は後藤へ言った。すると
「私は一之瀬家の執事で御座います。菊冬様も夏蓮様も春桜様も、皆様を見守るのが私の仕事で御座います」
「いやいや、今回ばかりは菊冬の話くらい聞いてやっても良かっただろう。なぁ菊冬」
後藤の言葉に返答をし、隣に座っている菊冬へと俺は問いかけた。すると菊冬はその首を横に振り
「拓真が良かった……」
俺の服の裾を掴みながら小さく呟いた。そんな菊冬の姿を見て俺は観念した。というか俺が好きで来ているのだから後藤を責めるのも感心できないな。
自問自答をして俺は無理矢理にも俺を納得させようとした。
「それで菊冬はこの後どうするんだ?」
泣きすぎたのか菊冬の瞳の周りは赤くなっている。それでも俺は菊冬にちゃんと聞かなきゃいけない。
「……今日は帰る」
「本当にそれで良いのか? 日を延ばしても自分でちゃんと一之瀬に謝れるか?」
まるで子供に言い聞かすように言う俺は、本当に菊冬の事を大切な妹のように思っているのだと自覚した。そんな俺の言葉を聞いた菊冬は小さく頷く。
その姿を見た俺は後藤に
「今日は帰るそうだ。まぁアンタがいるから安心はしているけど、それでも菊冬を頼むぞ」
「かしこまりました。小枝樹様」
一之瀬と関わってきてから数ヶ月。この違和感の塊みたいな存在と一緒にいることすら慣れを感じ始めている。というかもう慣れた。そう感じてしまっている俺はもう、凡人高校生ライフには戻れない。そんな事、とっくに分かってますよ。
思ったら再び溜め息が出る。
そうこうしているうちに後藤が呼んだのか、黒塗りの高級車が俺等の目の前に止まった。それは誰がどう見ても菊冬の迎えだと分かってしまう。
車が到着した菊冬は立ち上がりトボトボと覚束ない足取りで歩き出す。そんな菊冬の隣に寄り添うようにい続ける後藤。
俺は後藤の事をあまり好いてはいないが、菊冬にとっては頼りになる執事なのかもしれない。きっとそれは菊冬だけではなく春桜さんも一之瀬だって感じている事なのだろう。
だからこそ、後藤がどうして俺等にちょっかいを出してきてたのか不思議でならない。
その時、ある事を俺は思い出した。
「おい後藤。少し前に次に会った時は真実を話すとか何とか言ってなかったか?」
俺の言葉を聞いた後藤は振り返り
「申し訳御座いません小枝樹様。今回の件に関してはイレギュラーな為、そのお話はまたの機会と言う事でお願い致します」
そう言うと後藤は深々と頭を下げた。その話の内容と言うものは気になるけど、今がそのタイミングではないというのならそれで良いだろう。
素直に引き下がった俺は車に乗り込む菊冬を見つめた。そして車が出発する時、菊冬が車の窓を開けた。
「ねぇ、拓真……。なんか夏蓮姉様が少し変なの……。だから、お願い拓真。夏蓮姉様を助けてあげて……」
菊冬が感じていた一之瀬の違和感。そしてそれが自分では何をしてやれないのだと菊冬は気がついている。だからこそ俺にこんな事を言ってくるんだ。
でも今の俺には考えなきゃいけない事が山積みで、菊冬の願いを素直に受け止められない。でも
「わかったよ。俺がどうにかするから菊冬は安心しとけ」
そう言って俺は菊冬の頭を撫でた。すると菊冬は目を細め微笑み「ありがと」と小さく呟いた。そしてそのまま菊冬を乗せた車は走り出した。そして俺も家路へと向かったのだった。
やっとの思いで地元の駅に着き、俺は家路を歩いている。思ったよりも帰りが遅くなってしまったせいで、電車を待っている間にルリから連絡が来てしまった。
まぁ内容はいたって普通で「晩御飯どうするの?」みたいな奴だ。というか俺はまだ高校二年生ですよ。十代後半に入ったばかりの思春期な少年ですよ。もっと心配してくれませんかね……。
今日何度目なのか分からない溜め息を吐き、見え始めた自分の家をその瞳に入れた。だけど本当に今日は厄日なようで家の前に立っている小さなお姉様を俺は見つけてしまう。
そして俺が家の前に着くやいなや小さなお姉様は
「遅かったじゃないか拓真。私を待たせるとは良い度胸だ」
「いやいや、アポも取ってないのに待たせる待たせないは無いでしょ春桜さん」
はい。今日はもう一之瀬家三姉妹に俺は呪われています。ボーナス確定です。もう溜め息も吐き疲れましたよ。何がどうなっているんですか今日という日は……。
「それで、どうしてこんなに遅かったんだ?」
「今さっきまで菊冬といたんです。一之瀬と喧嘩したみたいで泣きながら俺に電話してきたんですよ。それにその前は俺が一之瀬と会ってました。まぁ会ってたと言ってもインターフォン越しでしか話してませんけど……。兎に角、今日の俺は疲れてるんです。くだらない用事ならまたにして下さい」
そう言い、俺はそのまま家の中へと入ろうとした。だが
「ちょっと待て拓真、夏蓮に会いに行っていたというのはどういう事だ」
春桜さんに腕を掴まれ俺は一歩も動けません。どんな力で握ってんだこの人は……。
「はぁ……。分かりましたよ……。ちゃんと話しますから家に上がってください」
もうどうにでもなれば良い。俺はそんな安易な気持ちのまま春桜さんを家へと上げた。
そして俺の部屋。何故か俺は一人です。春桜さんがいません。
なんでも俺の親に挨拶はしなきゃいけないとかで家に入るなりリビングの方へと向かっていった。俺は面倒くさいので自分の部屋。だが、一階のリビングは騒がしい。
聞き耳を立てなくても「一之瀬財閥っ!?」とか聞こえてくる。それもそうだろう。あの有名な財閥の娘がうちに来てるんだ。驚かなくなってしまった俺が異常なだけだ。
そりゃ同級生に一之瀬財閥次期当主が居てみろ、驚かなくもなるだろ。
そして、そうこうしているうちに春桜さんが俺の部屋へとやってきた。
「拓真……。貴様の父上と母上はとても元気なお方だな……」
「そりゃ一之瀬家の人が来ればどんな家庭でも驚くでしょ」
疲れきってボロボロになっている春桜さんを見ながら俺は返答した。そしてヨタヨタと歩きながら俺の部屋へと入ってきて、適当に床に座る春桜さん。そんな春桜さんの姿を見て俺は考える。
一応この人お嬢様だし、床に座らせるのは失礼な事なんじゃないのか。まぁでも春桜さんだし良いか。
頭の中で流れる疑問は一秒もしないうちに解決する。
「それで何を聞きたいんですか春桜さん」
「そうだった。今日、夏蓮にあって拓真は何を話したんだ?」
どうしてその事が気になっているのか疑問に思ったが、ここで素直に話さなければ面倒な事になるような気がしたので素直に俺は話します。暴力って怖いよね。
「えっと、今俺は学校のある生徒から依頼を受けてます。その事で一之瀬とは少し揉めて……。だから今考えられる俺の気持ちを一之瀬に伝えたんですよ。でもきっと一之瀬には伝わってなくて……」
選んだ言葉が悪かったのか、それとも単に伝わらなかったという事なのか、どういう状況に一之瀬がなったのかは分からないが、結果的に何も伝わっていないという結論に俺はなっている。
「そんな事を聞きたいのではない。貴様が夏蓮に何を言ったのかを私は聞いているのだ」
ベッドに座っている俺に少し詰め寄りながら言ってくる春桜さん。その表情を見て、春桜さんにも何かがあったのだと俺は悟る。
「ちょっと待ってください。どうしたんですか春桜さん? 今日の春桜さん何か変ですよ?」
「私が変だと……?」
「はい。なんか焦ってるって言うか、何かに怯えてるっていうか……。俺にも良く分からないですけど、今の春桜さんは変です。菊冬が一之瀬と喧嘩した事となにか関係があるんですか……?」
俺の言葉を聞いた春桜さんは刹那の時間黙り込んでしまう。だが
「そうだ。たぶん拓真が夏蓮に会った後に私と菊冬は夏蓮の所に行っている。その時の夏蓮の様子がおかしかったから、拓真と何かあったんじゃないのかと思ったのだ……。まぁ理由はそれだけではないのだと分かっているのだがな……」
俺から視線を外し、春桜さんを俯きながら話した。その表情はとても辛そうで、菊冬と同じような顔をしていると感じた。
「何かあったというか、俺もよく分からないんですよ。俺が伝えたかった事を伝えたら、いきなり帰れって言われて……」
きっと今の俺と春桜さんは状況を読み込めていない。いや、それは俺だけなのかもしれない。だって春桜さんは言った。理由はそれだけじゃないって……。だから今の春桜さんは俺の知らない何かを知っている。
だが、その部分を濁したという事は俺に知られてはいけない内容なのかもしれない。
「そうか……。それで拓真は夏蓮に何を言ったのだ……?」
「……一之瀬はもう皆にとって特別じゃないって言いました」
俺は言っていいのか考え一瞬だけ躊躇ったが、それでも春桜さんには言っておくべきだと判断し、伝えた。すると
「夏蓮に、そんな事を言ったのか……? 特別じゃないと貴様は夏蓮に言ったのか……?」
春桜さんの表情が変わった。驚きと何かが混ざったような表情。俺はどうしてそうなってしまったのか分かっていない。そして
「何故……。何故、今の夏蓮にそんな言葉を言ったんだっ!!」
春桜さんの怒号が俺の部屋で反響する。それと同時に立ち上がった春桜さんに俺は胸倉を掴まれた。
「貴様が夏蓮に言った言葉はもう必要のない人間に言う言葉だっ!! 今の状況の夏蓮によくもまぁそんな言葉を言えたなっ!!」
必要のない人間……? 今の春桜さんが言っている事を俺は理解出来ない。だが、今の春桜さんに当てられて俺の感情も噴出してしまう。
「違うっ!! 一之瀬を必要ないなんて言ってないっ!! 俺は天才少女の一之瀬じゃなくて、皆が一緒に居たいと思ってるのは等身大の一之瀬夏蓮だって伝えたかったんだっ!! 皆が皆で天才少女の一之瀬に頼って、期待されて、それに応えて……。天才の俺が嫌だと思ってきた事を俺は一之瀬にやってたんだっ!! だから伝えたかった……。もう俺等の前で天才少女でいなくていいんだって……!!」
そう。俺は一之瀬に伝えたかった。何も無くて良い、何も無いが良い。それでも一之瀬は一之瀬なんだって……。
「なら、どうしてもっと言葉を選ばなかったっ!! 今私に言ったように夏蓮に伝えれば良かっただろうっ!? どうして遠回りな言葉を貴様は選んだっ!! その言葉で夏蓮がどういう気持ちに━━」
無性に腹が立った。どうして今の俺が責められなきゃいけないのか理解できなった。きっとその感情は子供のようなくだらない感情で、大人になるにつれて制御できなきゃいけない感情。
だけど、今の俺はまだ高校生で、その年齢という現状を言い訳に俺は自分の感情の箍を外す。
「ふざけんなっ!! 一之瀬に何もしてやれなかったアンタに言われたくねぇんだよっ!! 出会った時からアンタはそうだ。一之瀬の事を考えているような素振りを見せていても、自分では何も行動には移さないで最終的には俺に頼ってくる始末だ。そんなアンタに誰が救えるんだっ!? 誰を守れるんだっ!? アンタがやってる事は出来ないと決め付けた大人の事情でしかないんだよっ!!」
最低な事を言ってしまっているのは分かっている。だけど、それでも今の俺は治まらない。だが
「分かってる……」
俺の胸倉を掴む春桜さんの手が震えていた。そして
「私が夏蓮を救えない事くらい分かってるっ!!」
俯いていた顔を上げ叫ぶ春桜さん。そんな春桜さんの瞳には大粒の涙が溜まっていた。
「私だってやれる事は全てやってきたっ!! それでも父様には……、一之瀬樹には敵わないんだっ!! どんなに私が努力をしても、考えられる全ての知恵を使ったとしても、私は夏蓮を救えなかった……!! 私には何もできない……。秋……、どうして貴様は死んでしまったのだ……」
俺の胸倉を掴みながら泣き続ける春桜さん。そんな春桜さんの口から発せられた一之瀬秋の名。その名前を聞いて嫌悪感を抱いている。
全ての元凶は一之瀬秋だ。あの男が死ななかったら誰も苦しまなくて済んだかもしれないのに……!! 春桜さんも、そして一之瀬の運命すら変えてしまった一之瀬秋が俺は憎い。
そして、それを知っても何も出来ない自分が不甲斐ない……!!
春桜さんの泣き続ける声と、今の俺の感情は正反対で、互いに自身の気持ちを完全には理解できていない状況だった。それでも俺は目の前で泣いている春桜さんも、俺に一之瀬を助けて欲しいと言った菊冬の事も助けたい。
それだけじゃない。斉藤の願いだって絶対に叶えてみせる。牧下も神沢も皆を俺は絶対に救ってみせる。だってそれだろ。俺みたいに苦しむ奴なんていなくていいんだ。
その時
「なぁ、拓真……。私は弱い……。拓真が言っていたように私には何もできない……。私には夏蓮を救えない……。だから、今度は真面目に貴様を頼る……」
身体も声も震わせながら、精一杯の力で春桜さんは俺に言ったんだ。
「頼む……。夏蓮を助けてくれ……!!」
俺は一之瀬を救う方法なんて知らない。それは一之瀬が何で苦しんでいるという明確な事を何も知らないから。だが、その理由を知ったとしてもきっと俺は一之瀬を救えないだろう。
天才だからといっても、他人の気持ちを晴らす事なんてできない。だけど俺はそれでもずっと皆を救いたいと願ってきた。
きっと俺の願いなんて叶わなくて、皆が笑っていられる世界なんて無理なのだと思っている。ならば誰かが傷つけばいい。俺はそうやって来た。
そう、俺が傷つけばいい。その傷を負って誰かが苦しいと感じても、そう思ってくれるだけで俺の傷は少し痛みを引いてくれるから……。だから俺は俺のままで在り続ける。
「春桜さん……。俺に頼られたって一之瀬の事を救うことなんて出来ませんよ? でも、一之瀬が笑っていない未来が嫌だから、俺が絶対に一之瀬を救ってみせます」
「拓真……」
俺はヒーローになりたい。ヒーローはとても孤独でずっと独りぼっちで自分の正義を貫く。成長して分かった事はヒーローも完璧ではないという事。
そんなヒーローに憧れたから、俺は馬鹿みたいに皆に手を差し伸ばすことが出来るんだ。結果的に誰からも理解されなくて、孤独になったとしても……。自分の気持ちが届かなくて辛いと感じてしまっても……。
大いに自分の力を過大評価して、大いに馬鹿げているという理想を追い続けて、俺は皆を救う。
今回の修学旅行がチャンスなんだ。全てを救う為なら自身を傷つけてでも……。
その後、春桜さんは「すまない、すまない」と泣きながら言い続けた。俺の決意を何も理解しないまま……。