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天才少女と凡人な俺。  作者: さかな
第七部 二学期 想イノ果テニ
94/134

32 中編 (夏蓮)

 

 

 

 

 

 

 小枝樹くんの言葉は私の心を深く抉った。


自分で理解はしていたし、そうならなくてはいけないと思っていた。でも、いざ小枝樹くんの言葉で聞いてしまうとどうしても胸が締め付けられてしまう。


苦しい、苦しい……。そんな感情は捨てたのに、未だに人形にはなりたくないと思ってしまっている愚かで凡人な私。


そう思っているのなら賭けをしよう。今から私は玄関の扉を開く。もしもそこに小枝樹くんがまだ居るなら私はまだ諦めない。逆に小枝樹くんが居なかったら、私はもう人には戻らない。


リビングのインターフォンの受話器の下、蹲っていた私は立ち上がり玄関へと向かう。


受話器を切ってからまだそんなに時間は経ってない。もしかしたらまだ小枝樹くんは外に居るかもしれない。


押さえなくてはいけない期待を浮かべ、私は心からそうであって欲しいと願っている。だが


ガチャッ


玄関の外には誰もいなくて、まるで広く冷たい鉄格子の中のように感じた。明かりはある、華やかな模様だって壁には描かれている。でも……。


その場で崩れ落ちる私。無駄な期待をしてしまったせいで更に自身の心を傷つける。乾いた笑みだけが今の私の表面を支えていて、心は既に冷たく閉ざし始めている。


私はもう、特別にはなれない……。もう、私は必要ない……。


小枝樹くんにとって天才少女の私も、凡人な一之瀬夏蓮も必要ないんだ……。現実を直視できなくて夢現な温かい世界にいたいと思っていたのは私だったんだ。


何度も何度も決意しては元に戻って、みんなの優しさが私を一之瀬夏蓮にしてくれて……。でも、もう誰も私の傍には居てくれない。だから今度こそ私は天才少女のままでいよう。


それが私の生きる道なんだ……。


ガチャッ


玄関先で崩れ落ちている私の耳に、閉まってしまった筈の扉が開く音が聞こえた。真っ暗な家の中を外の光が照らし出す。ゆっくりと顔を上げてみたものの逆光のせいで見えづらい。だがそこに誰か居るのだけは分かった。


「何をしているんだ夏蓮?」


聞き慣れているその声は壊れかけてしまっている私の心の逃げ場を作り上げる。だが、ここで逃げてはいけないのだと自分に言い聞かせ平静を装った。


「ごめんなさい。少し疲れていてここで休んでいたの。それで、姉さんは私に何か用でもあるのかしら」


一之瀬春桜。私の姉さん。一之瀬財閥唯一の天才少女。年齢的に少女と言っていいのかは分からないけど、見た目だけならば少女で通る。


姉さんの容姿はとても幼い。本当に成人している一人の女性なのかと疑問に思ってしまうくらい。でも、そんな容姿とは裏腹にこの人は紛れもなく天才だ。


長男の兄さんが天才だったから姉さんは自分を偽り馬鹿な子を演じ続けてきた。いわば現代の織田信長と言ったところだろう。


能ある鷹は爪を隠すと言う言葉があるが、姉さんはまさにそれだ。天才だという事を誰にも悟られず生き続ける。きっと妹の菊冬は姉さんが天才だという事を知らないであろう。


「疲れているからといって玄関で休むのは感心しないぞ。ほら、菊冬も来ているんだ。姉様としてしっかりしなさい」


菊冬も来ている? でもどこにも菊冬の姿は見当たらない。


私は立ち上がり真剣にあたりを確認するが、どこにも菊冬は居なかった。


「何を言っているんですか姉さん。菊冬なんてどこにもいなじゃないですか」


「確かに今はいないな。でもこれから来る。という事は、私の言い方が少しおかしかったのだな」


そう言い姉さんは笑った。自分のしてしまった間違いを笑ってなくしてしまったのだ。


そんな姉さんを見ている私に姉さんは


「まぁ何でもいい。取り合えず上がらせてもらうぞ」


半ば強制的に家へと上がりこんでくる姉さん。そして今の私にはそんな姉さんを止めるほどの力は残っておらず、流れるままに姉さんを家へと上げてしまったのだ。





「はい、姉さん。紅茶」


「すまないな夏蓮」


リビング。姉さんはソファーに座り、私はキッチンから飲み物を持ってきたところ。部屋の明かりを点け、少しの温かさを感じた。


そしてふと思う。私はどれくらいぶりに部屋の明かりを点けたのだろう。昼間は電気をつけないし、学校から帰ってきても明かりを点ける事はしていなかった。


それほど、家で一人でいるという事に対して無関心だったんだ。考えるのに明かりはいらない。


そんな誰もが当たり前のように使っている物すら、今の私は使いこなせていない。自分で自分が追い込まれているのだと理解する。だが、その苦しみは既に解消されていて、これから私が辿る道は一之瀬財閥の為の道。


天才少女で在り続け、私は私の心を殺す。


「それで、今日は何をしに私の所まで来たの?」


私も椅子に座り持ってきた紅茶を啜り、姉さんへと疑問をぶつけた。


「本当に今日の夏蓮は気が立っているようだな。何があったかは聞かん。それで私がここに来た理由だったな。んー、妹の顔を見に来ただけだ」


私の精神状態を的確に指摘し、それでも内容を聞いてこない。これが天才、一之瀬春桜という人なんだ。それどころか、真面目な話を茶化し笑みすら浮かべている始末。


きっと私には天才という生き物を理解できる日は来ないのかもしれないと思ってしまう。そしてその結論に至って、私はどんなに頑張っても兄さんを理解できないのかもしれないという恐怖に苛まれる。


「冗談は置いておいて、本題に入る。なぁ夏蓮、最近父様から連絡が来なかったか……?」


微笑んでいた表情から一変し、姉さんは真剣な表情で私に問いかけてきた。そしてその問いが少し怖いと思ってしまう。


確かに父は私に連絡をしてきた。だが、その時の電話はプライベートコールだった。自ら設置したセキュリティーの外からの通話。それを父が使う時は誰にも聞かれたくない話をする時。なのにどうして姉さんは知っているの……?


「はい、きましたよ」


平常心を装い、私は真実を述べる。すると姉さんは


「やはりか……。はっきり言ってどんな会話を夏蓮としたまでかは把握していない。だが、最近の父様の行動に不自然な点が稀にあったのでな。もしかしたらと思って後藤に調べさせたのだ」


従者の後藤を使ってまで父の動きを探った……!? 確かに後藤は元諜報員。その腕を買われ父の元で今は働いている。だが、それを知り尽くしている父を後藤に調べさせるなんて……。きっと既に父はその状況を把握している。だとすれば、私がここで迂闊な発言をしてしまったら姉さんにも被害が及ぶかもしれない。


「それで単刀直入に聞かせてもらうが、父様と何を話したんだ」


テーブル越しの姉さんの表情が少し怖いと感じた。だが、ここで押され続ければいづれボロが出る。


「その内容を聞いて姉さんに何があると言うのですか?」


「確かに私には何も利益はない。今更私が足掻いた所で次期当主の座が夏蓮から私に変わる事だってないだろう。だからこれは単なる姉のワガママなんだよ」


そう言った姉さんは苦笑を浮かべる。自分にはもう、何も出来ないと理解しているのに何もしないでは終わる事ができない。


そんな姉さんの気持ちがその笑みから伝わってきた。なら私はそんな姉さんに甘えても良いのか。こんな私がワガママを言っても良いのだろうか……?


気持ちが揺らいでいる。このまま私は何も感じなくなってしまいたい。そうすれば苦しくない。だから


「私が父様と話した内容は、今後の事です」


真実を話そう。


「今後の事……?」


姉さんから笑みは消え、苦という気持ちだけが残った表情。でも今の私はそんな事どうでも良いと思っていた。


「はい。私が今の学校に通っている理由を姉さんはご存知ですか?」


「い、いや知らん……」


「そうですよね。私が今の学校に通っているのは私の幼い願いが叶うと思っていたからです」


今の私に感情はない。淡々と、そして冷静に言葉を紡いでいく。


「私の願いは兄さんの思いを理解する事。私の才能がないものを探す為の行動。でもそれは初めから分かっていたんです。私は天才じゃない、本物の天才は一之瀬春桜。私には初めから何の才能もなかった……。それでも兄さんが最期に言った自分らしいというものを知りたかった……」


これが本当の私の願い。


兄さんのようになりたかったし、それを兄さんに否定されて怖くもなった。でも私は兄さんが死んでから天才という教育を受け続けてきた。それは憧れていた兄さんになる為。


でも思春期になり、思い出したくない兄さんの最期の言葉を思い出した。そして私は苦しくなった。


今の私は自分の理想を叶える為に大好きな兄さんの事を忘れて、兄さんの代わりになる為にだけ動いている人形。そんな私は兄さんの言葉を思い出し昔の純粋な私に戻っていった。


だから父にワガママを言って今の高校に通っている。でもそれはもう、意味の無いことなんだ……。


「結果的に私は今の高校に通い続ける事が無意味だと理解しました。だから、初めに父様と約束をしていた通り、二学年が終りしだい海外の学校へと編入をする。これが父様と私が話した内容です」


「夏蓮……。それっていったいどういう事だ……?」


姉さんの表情はさらに恐怖を増していた。そして疑問を私に投げかけてはいるものの、既に姉さんは私が言おうとしている答えに気がついている。


「私は次期当主として一之瀬家の……、父様の人形になります」


これでいい。こう言っておけば姉さんに被害が及ぶ事はない。初めから私の未来は一之瀬家の供物になる事だけだったのだから……。


「それは、私のせいなのか……?」


姉さんなら怒ると思っていた。その場で立ち上がり怒声を上げて私の意見を全て否定するような言葉を言い続ける。だが、今の姉さんは私の予想から大きく離れていて、少しばかり私は動揺している。


「私が夏蓮を守れなかったからなのか……? 私に力がなかったから夏蓮が人形になってしまうのか……? それか、秋が人形の夏蓮を望んだからなのか……?」


悲しみに満ちた表情。姉さんはその言葉を言い終わると近くに置いてある兄さんの写真を見つめた。


私と一緒に写っている兄さんの写真。そんな写真の中の幼い私は満面の笑みを浮かべている。それに比べて今の私は何……?


兄さんが人形の私を望んだ……? そんな事あるわけがない。それに姉さんせいでもない……。全部、私が決めた私のワガママなのだから……。


「誰のせいでもありません。私が決めた事です。だから姉さんも自分を責めるのをやめてください。貴女は天才なのだから、凡人の私を構っているような時間はない筈です。大丈夫、私が一之瀬財閥の歯車になり人形として生きていくだけなのですから」


そう言い、私は微笑んだ。その時


ガタンッ


リビングから玄関へと続く扉付近から何か音が聞こえた。私はその音のほうへと視線を動かす。そこには


綺麗な金髪を二つに結び、私とあまり変わらない背格好。中学生だとは思えないほどのスタイルの良さ。私の妹。


「今の話し、どういう事なんですか夏蓮姉様……!?」


「……菊冬」


リビングに入って来た菊冬は持っていた荷物を落とし驚きを隠せないで居るようだった。


それもその筈だ。菊冬は何も知らない。一之瀬財閥の闇も姉さんが天才である事も、私が凡人だという事も……。


「説明してください夏蓮姉様。今の話はいったいなんなんですかっ!?」


私へと詰め寄ってくる菊冬。その鬼気迫るものは私が見た事のない菊冬で、きっと聞いてしまった現実が受け止められないのであろう。


「今の話しは全て真実よ菊冬。私は凡人で姉さんは天才。そして私は一之瀬財閥の供物になる。だから、菊冬は何も心配しないでいいのよ。菊冬と姉さんは私が守るから」


そう。私はこの二人を守りたいんだ。これまでに築き上げてきた全てを失ったとしても、私はもう迷う事はない。


「守るってなんですか……? 私が守られたって夏蓮姉様が苦しんでちゃ意味がないです。それに供物ってなんですか……? 姉様が次期当主である事と何か関係あるんですか……?」


ポロポロと涙を零しながら言う菊冬。その姿はとても痛々しく、私を思ってくれている菊冬の気持ちを私は踏み躙らなきゃいけない。


私は人形。私は歯車。私は……。


「苦しむという事実は確かにあるのかもしれないわ。でもね、それを選ばない限り何も成す事なんて出来ないのよ菊冬。今の菊冬が言っている事は子供じみたワガママでしかない。全てを得ようとする事がどれほど難しいか。菊冬はもう一度、それを考えなきゃいけないわね」


何かを得る為に何を失うなんて事は当たり前な事なんだ。それが出来ない限り前には進まない。もしかしたら天才という存在ならば何も失わずに得る事が出来るのかもしれない。


だが、目の前にいる一之瀬春桜という天才はそれが出来なかった。ならば凡人の私に出来る可能性は皆無だ。だからこそ私は失わなくてはいけない。それ以外に道はないのだから……。


「分かりません……。夏蓮姉様の言ってる事が私には分かりませんっ!! 何で、どうして……? どうして夏蓮姉様はいつもいつも一人で抱え込むんですかっ……!? 何で私を頼ってくれないんですかっ!!」


悲痛な叫び。菊冬の気持ちが今の私の胸を抉る。


分かっているわ。誰かに頼って、誰かを必要として、誰かと一緒に成しえる事ができるのならそれが私にとっても良い事くらい分かってる……。でもそれは出来ないの……。それをしてしまったら私が供物になる意味がなくなってしまう。


私は誰にも必要とされていないの。もう、私は……。


「何も変わってない……。夏蓮姉様は何も変わってないっ!! 拓真が教えてくれた沢山の事を、夏蓮姉様は何も理解なんてしてないっ!!」


小枝樹くんが教えてくれた事……? そうね。分かっていないわね。私は何も……。


頭の中はとても冷静なのに、どうしてなのか菊冬の言葉を聞いて怒りを感じてしまった。止めなきゃいけない。でも、止まらない。そして


バチンッ


気がついた時、私は菊冬の頬を叩いていた。


「いい加減にしなさい菊冬っ!! 小枝樹くんが教えてくれた事を自分が理解していないなんて分かっているわよっ!! でも、しょうがないじゃない。私は凡人で小枝樹くんは天才なのっ!! 理解なんて出来ない、わかろうとする事なんて無理なのよっ!!」


感情が止められなかった。


「だから私は自分で考えて答えを出したのっ!! それが一番正しいと信じて答えを決めたのっ!! だからこれ以上、私は苦しめないで……!! 菊冬のワガママで私の心を掻き乱さないでっ!!」


子供のような事を言ってしまったと気が付いたのは全てを言い終わった後だった。そしてその単純で真っ直ぐな言葉は菊冬を傷つけた。


言い終り冷静さを取りもだとした私は愚かな感情を菊冬にぶつけてしまったのだと理解する。そして恐る恐る菊冬の顔を見た。


そこには涙を流しながら私を睨みつける菊冬の姿。そんな菊冬を見て私の身体は震えた。自分でも分かってしまうほどに、今の私は震えている。


間違った事をしたとは思わない。それでもしなくてもよかった事なのだとは思えてしまう。凡人な私は本当に愚かで救いようのない、クズ人間だ……。


「ご、ごめんなさい菊冬……。そんなつもりで言った訳じゃ━━」


謝らなきゃいけないと素直に思った。自分が悪い事を菊冬にしてしまったのだと分かっているから。そし私は菊冬に手を伸ばす。だが


「夏蓮姉様の気持ちは分かりました。もう好きにしてください」


私の手を払い除け、私の言葉を遮りながら菊冬は言った。その言葉はとても重々しく、今の私には受け止めきれないほどの重さだった。


そして菊冬は自身の涙を腕で拭い、持ってきた鞄を持ち


「感情的になってしまって申し訳ありませんでした姉様。でわ、私はこれで失礼させていただきます」


そう言い。菊冬は私の家を後にした。






 取り残される私と姉さん。


私と菊冬の言い合いを黙ってみていた姉さんは菊冬が帰ってしまってからも口を開かなかった。そして重々しい空気が部屋の中を漂い続ける。それが意味している事はなんとなく私は分かっている。


全て自分のせいだって分かっている。何かを守るとき、きっと守りたいと思っている存在ですら失わなきゃいけないのだと……。


「なぁ、夏蓮」


閉ざしていた口を開き、この静寂を姉さんが壊した。


「本当に大丈夫なのか……? 菊冬と違って私は全てを理解している。私には何もできないし、やったとしても夏蓮に迷惑をかけるだけだ。だからこそ聞かせてくれ。本当に、夏蓮は大丈夫なんだよな……?」


姉さんの優しい言葉。そう感じているはずなのに、何も沸き起こってこない。これが人形になるという事なのね。


「えぇ、私は大丈夫よ姉さん。だから心配しなくていいのよ」


きっと私の微笑みが嘘なのだと姉さんなら分かってしまっている。だって、私の言葉を聞いてこの表情を見た姉さんがとても悲しそうだったから……。


「そうか。なら安心だ」


それでも姉さんは私に合わせるように微笑んだ。眉間に皺を寄せながら……。


「よし。私も帰るとするよ」


言いたい事を全て言ったのか、姉さんは帰宅の準備を始める。特に何かを持ってきたわけではない。だからその時間はとても刹那で、私は姉さんを見送る為に玄関まで一緒に行く。


「なんか急にすまなかったな。楽しい三姉妹の会を開こうと思っていたのだが……。本当に私が何かをしようとするとことごとく失敗してしまう」


「そんな事ないわ姉さん。今日来てくれたから私の話ができたもの。結果的に良い終わり方じゃなかっただけで、私は嬉しかったわ」


本当に思っているのか思っていないのかも分からないような言葉。そして姉さんの苦笑。


私はいったい今、何をしているのだろう……?


「そうか。なら良かった。でわ、もう行くよ夏蓮。またな」


姉さんの言葉に返答を返し、私は姉さんがエレベーターに乗るまで見送った。そして姉さんがいなくなり、家の扉を閉める。


再び訪れる漆黒の闇。冷たい空気が今の私を包み込んで寒さを感じる。そんな寒さをなくす為に私は寝室へと向かった。


フカフカなベッド。温かい毛布。何も考えたくないと思ってしまっている私は布団に包まり目を閉じた。





 キラキラ輝いている幻影の世界。それが夢だと認識するまでに然程時間は掛からなかった。


夢の世界は靄が掛かっているような世界で、それでも見慣れている世界だと私は認識した。太陽の光、道路を通る車、優しい風。


今の自分が描いている気持ちとは正反対な世界。だからこそ夢でも良い。少しだけこの温かな世界を見続けていた。


そう思った私は歩み始める。音は殆ど聞こえない。流れる景色もゆっくりになったり早くなったり。その中で私は平然と歩き続ける。右を見て左を見て、上を見て下を見て。


全ての景色を感じていたと願っている私は自然と色々な場所を見続けた。


輝いている木々の緑、空を自由に飛ぶ鳥達、近代化が進んだコンクリートの建物、物凄い速さで動く鉄の塊、私の髪を悪戯するかのように靡かせる風。


その全てを感じて私は微笑んだ。そして思う。こんな世界が現実にあったのならどれ程幸せを感じる事が出来るのかと。


それはどんなに望んでも叶わない夢で、夢想の中でしか感じる事のできない儚い想いの影。陽の光も木漏れ日も、温かい優しさも全てが幻。


ならばいっその事このまま目を覚まさなきゃいいのに……。


考えてしまう愚かで幼い思い。きっとそれほどこの夢の世界が心地よくて覚めたくないのだと感じてしまっている。


そんな思考の中歩いている時、私はふと横にあった建物の大きなガラスを見つめた。


そこには私が写っていて、白のワンピースとお嬢様風な大きめな白い帽子。私には似合わない服装で、夢の世界が見せる幻に笑ってしまいそうだった。


だけど、私はどこかでこの服を知っている。だが、思い出そうとしても何も出てこない。記憶の中でそこだけがぽっかりと穴が開いてしまっている感覚。


思い出そうとすればするほど、目眩が起こりそうになって体が重くなっていくのが分かる。だから私は思い出すのをやめた。


目が覚めれば嫌でも現実が私を襲ってくる。だから夢の世界の中くらいは楽しいと思って行動してもいいだろう。何も考えずに私のしたいようにすれば良い。だってここは私の夢の世界なんだから。


そして私は再び歩き始めた。その歩みを進めれば進めるほど、どこかで見た景色という感覚が強くなってくる。


昔に見た景色。その感覚がなんなのか知りたくて、好奇心のまま私はゆっくり走り始める。


道の感覚も木々の生え方も、信号の場所も、建物の雰囲気も、全てを私は知っている。だけどここがどこなのか分からない。走りながら私は思う。


知りたい、知りたい。分かりたい、分かりたい。この夢が私に伝えたい事、この世界が私に教えたい事が知りたい。その時


「イタッ……」


ふいに足に痛みが奔った。夢の世界なのに痛いと感じてしまっている時点で現実と夢の境界がなくなってしまっているように思えたが、今の自分の足の心配をしよう。


しゃがんで自分の足を見てみると、走ってしまったせいか靴擦れを起こしてしまっている。擦れて赤くなってしまっている足を見て、私はサンダルを脱ぎ捨てた。


痛みから解放された私は立ち上がり空を見上げる。


「あの時と同じように綺麗な青空……」


走ったせいで額には汗が滲んでいて、靴も履かずに素足で立ち尽くす。あの時の空を見上げながら……。


全てを理解した。私が私に見せたかったもの、私が私に伝えたかった事。そう、後数秒で私が被っている帽子が悪戯な風のせいで飛ばされる。


そして飛ばされた帽子を見つめながらその行方を目で追いかける私。帽子は遠くまで飛ばされる事もなく数十メートル離れた道路にゆっくりと落ちるの。


それを追いかけて拾ってくれる優しい貴方。どこまでも優しくて、どこまでも強くて、どこまでも天才だった……。そして最期の瞬間が映し出される。


鉄の塊が貴方を襲って、弱々しい人間如きの身体は簡単に宙を舞うの。ゆっくり、ゆっくりとまるで時間が止まってしまったかのように貴方はゆっくり地面に落ちていく。


その二度目の光景を見た私は持っていた靴を落とし、その場から動けなくなってしまっていた。


夢の世界でも私はこの事実を忘れる事は出来ないのね。いいえ、違うわね。私は私に言い聞かせようとしている。それは


私が愛した人は皆、いなくなってしまうと……。


そしてこの後、私の真っ白なワンピースは貴方の鮮血で真っ赤に染められて、私の心は壊れてしまう。鮮明に思い出される記憶より、あの時を繰り返させる夢の方が残酷だったのね。


分かっているわ。私はもう誰も愛さない。愛してしまえば、また兄さんのようにいなくなってしまうから……。


二度目の兄さんの最期は私の心を軽くしてくれて、二度目の兄さんの最期が私を天才少女にしてくれる。


そして私は凡人としての最後の涙を流し、この夢の世界においていったのだ。

 

 

 

 

 

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