31 中編 (拓真)
B棟三階右端の教室内で響いた女子の言葉は俺と一之瀬へと持ってきた依頼であった。
俺の予想ではこの女子は神沢ファンクラブの一員であろう。というか神沢ストーカー事件の真犯人だ。なおの事ファンクラブの一員だと疑わざるおえない。
だがそんな女子生徒の依頼はファンクラブに所属する者の言葉だとは思えなかった。
依頼の内容は『牧下 優姫と神沢 司の仲を取り持つ事』
文化祭最大のイベントとも言えるミスターコンテスト中に神沢は牧下へと告白をした。その事件が起こり今や神沢が牧下の事を好きだという事実を知らない生徒の方が少ないだろう。
あの一件は俺が適当な事を言ってその場を治めたが、祭りの熱が冷め始めている今となってはどうする事も出来ない。今日という日までには何も起こらなかったかもしれないが、これから何か起こってしまうという可能性は十分にある。
だからこそ依頼を受ける前に現状を把握しておかなくてはならない。
「それで、その依頼をして欲しい理由はなんだ? はっきり言ってその依頼はアンタにとって何かしらのメリットがあるとは思えない。それに告白した、されたの関係は当人達がどうにかする事で、他者が簡単に介入して良い事象でもない」
的確に、そして明確にしたい部分を女子生徒に俺は質問をした。すると
「そうだね。小枝樹 拓真の言っている事はしっかりと伝えなきゃいけないね。でもその前に自己紹介がまだだったわ。私の名前は斉藤一葉。貴方達と同じ二学年で、クラスは門倉と同じよ」
斉藤 一葉と名乗る女子生徒。見た目は神沢ストーカー事件にあった時と何も変わっていないのに、雰囲気が全く違って見える。
あの時の斉藤はギラギラとしていて、まるで獣を狩る狩人のように見えたが、今の斉藤はとても知的でどこか一之瀬の雰囲気に似ている気がした。
だが、見た目は一之瀬なんかとは全然違っていて、清楚という言葉を使うのには相応しくないと思う。
学生らしい黒髪は短めで癖毛なのかウェーブが強い。だがそれをきちんと纏めているからこそお洒落なパーマをかけている様に見える。そして初めて会った時に感じた好戦的な瞳は、今じゃ知的な女子が魅せる少しツリ目で落ちついている。
制服は乱す事無く着ていて、生徒会長だと言われても不思議はないといった印象だ。身長は俺よりも少し低く、一之瀬と同じくらいだと言えば分かりやすいかもしれない。体躯は然程目立つ場所は無いが太っているわけではないのでスマートに見える。
そんな彼女、もとい斉藤は自己紹介を終えたところで本題を話し始めた。
「それでさっき小枝樹 拓真が言っていたように私達があの二人に干渉するのは可笑しな話しになってしまうわね。でも、事はもうそんなつまらない話しから逸脱してしまっているの」
眉間に皺を寄せ、何かとてつもない事が起こりそうになっている事を表情だけで斉藤は俺等に伝える。そして
「私は司様のファンクラブに属しているわ。そして今、ファンクラブ内が二分化してしまっている。私達、司様を応援しようとしている側と牧下 優姫を目の敵にしようとしているグループに……」
斉藤の言葉を聞いて驚きを隠せないのは俺だけではなかった。
「貴女の言っている事が本当だとするのなら、優姫さんに何らかの危害を加えようとしている集団がいるという事……?」
不安を隠しきれていない一之瀬。それに俺だって文化祭の出来事がここまで肥大化するなんて見当もしていなかった。でもまだ、牧下に何かがあったと言う事は聞いていない。だからまだ間に合う。
「そうよ一之瀬 夏蓮。少なからず十数人はいると思う。でもそれは私が確認しきれていないだけで現状はもっと多いはずよ。だから私はここへ来たの。ここに来れば願いが叶うっていう噂を聞いて……」
願いが叶うか……。それは前から俺と一之瀬がやってきた依頼を受けてそれを解決すると言う事。でも崎本がここに来た時は『悩みを解決してくれる』だったのに、そこから尾ひれが付いて願いを叶えるなんていう噂にまでなってしまったのか。
だけど俺も一之瀬も全能じゃない。天才だというレッテルは貼られているが、然程他人と変わらない。出来る範囲がある。だからこそ、俺は斉藤に聞いておかなきゃいけない。
「斉藤の依頼の内容は分かったが、どうして斉藤は神沢を応援しようって思ったんだ? こんな言い方は不謹慎かもしれないけど、牧下を敵視する側の奴等の方が正常な判断をしてるって俺は思う」
そうだよ、こいつ等は神沢が好きなんだ。ただのファンクラブ何かじゃなくて心から神沢の事を好きになっている奴等の集まりだ。だからこそ神沢に告白する時は不特定多数の前でおこなうなんていう滅茶苦茶なルールまで出来るんだ。
だからこそ、どんなに他者からおかしいと言われても正常な感情を持っているのは後者だと俺は思ってしまう。
「小枝樹くん。今貴方が何を言っているのか分かっているの? 他者に危害を加えようとしている人間を庇護する発言をしているのよ!? もしも他者へと危害を加える集団を正常と言うのなら、今の貴方が異常だと言う事になるわ」
「確かに物理的やら精神的やら危害を加えようと考えているのは俺だっておかしいって思うよ。でもさ、好きな人が誰かに取られちまうかもしれないんだぞ? 少なからず憎悪という感情が芽生えても不思議な事じゃない。だからどうして斉藤が応援するっていう答えを出したのか気になってるだけだ」
「どうして好きな人の為に憎悪が生まれるのっ!? それは他者を傷つけるという事柄を正当化しているだけだわっ!」
「正当化なんてしてないっ!! それでも好きな人が誰かに取られちまう恐怖はあんだろっ!! その気持ちをどこに向けていいのか分からないから敵だと思える人間に憎悪を向けるんだっ!!」
前と何も変わらなく一之瀬と言い合っているだけなのに心がズキリと痛む。本当はこんな言い争いなんてしたくない。俺の事を分かって欲しいと思う反面、一之瀬に苦しそうな顔をして欲しくないという気持ちが混濁している。
「ごめんなさい……。私がこんな願いを言いにこなきゃ二人が喧嘩する事なんて無いのに……」
俺と一之瀬の会話に割り込み、謝罪の意を込めた言葉を言う斉藤。その言葉を聞いて俺と一之瀬は冷静に戻ろうと努力する。そして斉藤はゆっくりと話し始めた。
「小枝樹 拓真が疑問に思っているのは、私がどうして司様を応援しようと思ったのかという事よね? 端的に言えば、私は司様が本当に好きだから。でもそれって牧下 優姫に危害を加えようとしている子達も一緒なの……」
一緒。それは同志の道が別ちあってしまっただけで、根本の気持ちは一緒だと言う事。即ち、双方共に神沢が好きだと言う事だ。
「私は前に過ちを犯してしまった……。その償いになるなんて思ってない。それでもこれまで一緒に司様を好きだと言い合えた掛け替えの無い友達なのっ!」
感情を露にし、羞恥すら忘れて強く訴えかける斉藤の瞳は真剣だった。
斉藤の気持ちは理解した。でも、ここで最後に確認しておかなきゃいけない。その答えを俺が間違いだと判断すればこの依頼を受ける事はない。後は一之瀬がどうするかだけだ。
「なぁ斉藤。お前の依頼は牧下と神沢の仲を取り持って欲しい事なんだろ? だったらそれ以外の他者が関わる感情の部分や行動の部分は関係ないって事になる。お前の本当の願いはなんだ」
上っ面で格好をつけた言葉なんて要らない。俺はそいつの本当の願いを聞いて、全力でそれに応えるだけだ。それが何も変わらず、ただただ見栄やプライドを優先した奴の願いなんて俺は知らない。
「私の本当の願い……」
俺の言葉を繰り返し少しだけ考える斉藤。そして答えが出たのか、自信という己の信念が分かる瞳の強さで俺を見た斉藤。そして
「私は司様が本当に好き。だから牧下 優姫に取られるのだって本当は嫌。でも、悔しいけど司様が好きになった人だから……。お願い、牧下 優姫を守ってっ!! そして彼女と司様が幸せになるのを私は見たい……」
気丈に振舞ってはいるが既に涙が流れているので台無しだ。本当に好きになった人の本物の幸せを願える斉藤は強い人間だ。そんな人間にお願いされて俺はどう答える。
「それが自分勝手な願いで、神沢と牧下以外の人達を傷つける事を分かって言ってるんだよな?」
「うんっ」
「その願いが傲慢で、与えるよりも奪う事の方が多いと分かってるんだよな?」
「……うんっ」
「その全ての重荷を斉藤は背負えるんだな?」
「うんっ!!」
もう、迷いは無いみたいだな。
「うっし。なら俺はその依頼を受けるぜ。俺だって牧下が誰かに苛められるのなんて嫌だ。それに神沢にだって笑っててもらいたい。それで、一之瀬はどうするんだ?」
斉藤から一之瀬へと視線を俺は移す。夕方のB棟三階右端の教室の窓からは夕日の光が入り込み、俺は少しだけ目を細めた。
真剣な表情を見せる一之瀬。その表情を見て、俺は一之瀬の答えが分かったように思えた。そして
「私は、この依頼を引き受けないわ」
時間が止まってしまったような感覚に陥った。そして頭の中で何度も何度も繰り返される「どうして」という言葉。理解が出来なかった。いや、理解をしようとも思わなかった。
何が間違っていて何が正しいとか、そんな単純な事柄ではなく、ただただ一之瀬 夏蓮の言葉に疑問を浮かべてしまっていた。
「なに言ってんだよ、一之瀬……?」
間抜けな声音だ。動揺しているとかではない。本当に何故なのかが分からないまま声を発するとその言葉は形を作らず、フワフワとしたまま俺の元から離れていくんだ。
「今の言葉の意味が分からなかったのかしら? 私は斉藤 一葉の依頼を受けないと言っているのよ。それに私が受けなくても小枝樹くんが受けるのよね? それだけで事足りるじゃない」
何も言い返せない。一之瀬の言っている言葉の意味は分かる。でも一之瀬の意図が分からない。なんで、どうして。牧下は俺等の友達なのに……、その友達が危険な目に遭うかもしれないっていうのに……。分からない、分からない。
子供のような言葉を並べ続け、その真実を受け止める事を拒否しようと俺はしている。
「それにさっき小枝樹くんが言っていたように優姫さんと神沢くんの関係に私達が介入するのは無粋だわ。きっと神沢くんならこんな状況になる事くらい見当がついていたはずよ。なのにも関わらず、集団の前で告白をした。それは神沢くんが優姫さんを守ると決意しての事、だとすればそれを解消する為の依頼を引き受けるのは道化以外の何者でもないわ」
道化……、だと……? 大切な友達を守ろうとする奴が滑稽だとでも言いたいのかよっ……!!
「ふざけんなっ!!」
この言葉を俺は一之瀬に向かって何度言ったのであろう。この今の感情を俺は何度一之瀬にぶつけてしまったのであろう。何度も何度も繰り返してしまっている俺と一之瀬には、分かり合える時なんて来ないのであろうか。
「友達を助けたいって言う気持ちが道化だとっ!? 誰かを助けたいと努力している人間が滑稽とでも言いたいのよっ!?」
「えぇそうよ。分不相応な人間が出来ると信じて起こした事象が失敗してしまったら滑稽極まりないわ。それに斉藤さんは償いという言葉を使ったわ」
斉藤 一葉の償い。それは神沢の事をストーキングという行動で苦しめた事。その行為の愚かさに気が付いたからこそ償いという言葉を言ったんだ。
「償い。それは自身が何らかしらの罪を犯してしまった事のあらわれ。斉藤さんはその償いをしたいが為に依頼をしにきた。そんな自己で犯してしまった罪の償いを他者に任せようとしているのが根本的に間違っているのよ」
睨みつけるわけでもなく。ただただ無表情で淡々と言葉を並べる一之瀬。そしてそんな一之瀬が言っている事を、全ての感情というものが無いという事になれば正論だと思ってしまっている俺がいる。
そうだよ。確かに斉藤は償う為にここに来たのかもしれないよ。俺は斉藤の罪を知ってる。斉藤が犯してしまった罪は決して消える事は無い。償いなんていうものも自己満足に浸れれば解消される。
神に懺悔すれば許しを得れるなんて全ての罪から逃れようとしているだけだ。そして斉藤は知っていた筈だ。
ここに俺がいる事を……。
それでも自分の願いを叶えて欲しいと思ってしまったんだ。それは一之瀬の言うように滑稽で、無様な姿に見えてしまうのかもしれない。でも俺は、そんな助けを求めてる奴の手が見えているのに見ないフリが出来るほど、大人じゃないんだ……。
「だったら、最後まで間違え続ければいいじゃねぇか」
俺は絞り出すように言葉を紡ぐ。そして
「自分の罪からも罰からも逃げないで、最後の最後まで地べた這い蹲って、泥水啜って、傷だらけになって……。きっとそこまでやったって願いなんて叶わなくて苦しい思いだけが残る。だから斉藤は俺等に頼ってきたんじゃねぇのかよ……」
伝えたいのに伝わらない。どんなに言葉を並べても伝わらない時なんて山ほどある。それでも言わなきゃ俺が後悔する。
「もしもそうだったとしても、私達には何の利益も無いわ。それに今回の依頼にいたっては、これまでの依頼とは全く違う。他者を巻き込み、他者を傷つけ、他者を貶める。小枝樹くんが理想としているヒーローのソレとは正反対な事なのよ」
分かってる。そんなもん全部分かってるに決まってんだろ。
「確かに誰かが絶対に傷つくし、関係のない奴を巻き込むかもしれない。それに依頼を達成させるには誰かを貶める事だって必要になってくるのも分かってる。それが正義でもなく、ましてやヒーローじゃない事だって承知してる……。それでも俺は━━」
二学年の始まった時、俺は誰かに期待されるのがとても怖かった。自分では何も出来ないのだと過去の愚かな天才が教えてくれていたから……。だから誰かに期待を持たれたり頼られたりするのが嫌だった。
なのに俺はそれでも『期待するな』という言葉を言ってはその人達を救おうと昔のように行動していた。何故なのか。きっと分かっているのに出来るかも知れないという期待を、俺は自分にしていたんだ。
だけどそれは中々上手くはいかず、結局他者の力を借りたり、誰かに背中を押してもらったりと過去の天才とは程遠い見窄らしい凡人でしかなかった。
でも俺はそんな凡人でいて沢山の事を教わったんだ。だからこそ、今の俺は強く言える。強く思える。それが一之瀬の言う分不相応だとしても……。
「友達を助けたいんだっ!!!!」
これで伝わらないなんて思ってない。一之瀬だって友達の事を一番に考えちまう阿呆なんだ。それはこのB棟三階右端の教室で出会った皆にも言える。それくらい俺等は馬鹿なんだよ。だけど
「そう。ならそれは、貴方一人でやって頂戴。今回の件に関して私は一切の関与をしないわ」
もう、何も言葉が出なかった。本当に一之瀬は斉藤の依頼を受けないのだという現実だけが俺の心に突き刺さってきて、俺は……。
「分かった。ならもういい……。いくぞ斉藤」
俺はこの場所から逃げ出したかった。だからこそ理由をつけて諦めて、斉藤の腕を掴んでB棟三階右端の教室から出て行ったのだ。
イラついていた。分かり合えないという現実よりも、己の言葉の少なさや毅然な姿を維持できない幼さにイライラする。
一之瀬は尤もな事を言っていた。それは全ての感情というものを無しにしての話だ。だけど今回の話は違うだろ。俺等の友達が苦しい思いをするかもしれないんだ。
そんな状況が想像できるのに、どうして一之瀬は依頼を受けないんだ。
「ちょ、痛い、小枝樹 拓真」
確かに神沢と牧下の恋沙汰だ。それを友達だという理由なだけで安易に関わっていいものじゃないのも分かってる。だが今回の問題はそれ以外だ。
神沢のファンクラブだからって牧下を傷つける事なんて許されない。でも、斉藤の依頼は牧下の事を守るのと、神沢と牧下の関係を取り持つという二つなんだよな。
だとすれば、この依頼を受けると言った俺は強制的に二人の恋沙汰に首を突っ込まなきゃいけなくなると言う事……。それを理解して一之瀬は依頼を断ったのか……?
確かにそう考えるとするのなら間違った答えだと言い切れなくなる。でも、牧下に何かあるかもしれないのにどうして……。
自身の思考を巡らせれば巡られるほど俺の答えと一之瀬の答えのメリットとデメリットが浮き彫りになり、どちらが正しいのかすら分からなくなっていきそうだった。
「いい加減、手を離してっ!」
凄い勢いで俺の手から何かが離れる。それは無意識のうちに掴んでしまっていた斉藤の腕であった。B棟三階右端の教室からどれくらい歩いたのだろう。辺りを見渡すとA棟とB棟を繋ぐ渡り廊下なのだと気が付く。
「ご、ごめん斉藤……。その、ごめん……」
「そんなに何度も謝らなくてもいいわ。それにちゃんと謝らなきゃいけないのは私の方だから……」
俺に強く掴まれていた腕を押さえながら、斉藤の表情は痛みと罪悪感でいっぱいになっていた。
「自分のワガママだと理解している。私の罪を知っているのは小枝樹 拓真だけなのも分かっている……。だが、何も知らない一之瀬 夏蓮にまで迷惑をかけてしまう始末。私がこの日あの時に二人の前に現れなければ必要の無い喧嘩をしなくてもよかった筈だ……」
「なに言ってんだよ……。別に斉藤に罪なんてないだろ……!! 嘘はバレなきゃ真実になる。これは俺の大切な友人から聞いた言葉だ。だから、嘘をついたって良いんだっ!! 自分を守る為についてしまう嘘を誰かが罪だと裁く事なんてできないんだよっ……!!」
佐々路が言っていた言葉。完全に受け売りだ。その言葉を用いた瞬間に理解する。今の俺には何の答えも出せないのだと……。
「そうなだ。確かにその罪を他人が裁く事は出来ないのかもしれないな……。でもな、その自身の罪を私は私で裁いたのだよ。それでも行く道が定まらず、私は再び罪を犯した。関わらなくても良い人達を巻き込み、その優しさに漬け込んで私の出来ない事を押し付けようとしていたんだ」
数分前までB棟の教室で泣いていたその瞳は赤くなっていて、今の言葉を紡ぎ終わって唇を噛み締めて、そんな斉藤の姿を見て俺は余計な事をしてしまったのかもしれないと後悔した。
「だからと言って、その優しさを今更拒否しても私に出来る事なんて何もないだ……」
罪悪感の表情が無くなり、ただただ痛みに耐え続ける斉藤の表情。自身が理解している気持ちと言動の矛盾。その天秤に人は心を壊してしまい最後には何も考えようとしなくなってしまう。
苦しみから解放されたいが為に、人間は人間でなくなる事を簡単に選んでしまうんだ。救ってくれる存在があり、その考えや思考は全てだと思えれば何も考えずに幸福感を得られるんだ。
それを知っている俺は何を選ぶ。救うのか救わないのか。救えば斉藤が思考を止めてしまう可能性があり、救わなければその罪に斉藤は押し潰されてしまう。
どちらを選んだとしても、決して人の幸せとは程遠い現実しか残らないんだ。だったら俺は
「俺は天才だ。でもそれは誰かを救う事なんて出来ない天才で、だからこそ俺はヒーローに憧れたのかもしれない。沢山の人を救う事のできる正義のヒーロー。でもそれってさ誰からも理解されないって事なんだよな……」
ゆっくりと言葉を紡ぐ俺の話を静かに聞いている斉藤。他者の話を聞くためにその表情を真剣なものにしているが、不安を隠しきれていないのが何となく分かってしまう。
「誰かの為に、弱き者の為に、苦しんでいる人の為に……。ヒーローになる為の理由を挙げれば沢山出てくるのに、俺個人がどうしてやりたいのかは分からなかった。でもこのたった数ヶ月の間に気がつけたんだ。俺は誰かの為に何かをやろうとしてるんじゃない。俺は俺の為に、俺の願いの為に行動しているんだって」
そうだ。何度も間違えた何度も苦悩した。それでも俺は言い訳を並べながらも自分のしたい事だけをやってきたんだ。自分の考えは決して間違ってなんていないって俺は俺を信じていたんだ。
だからこそ傷つけた。だからこそ苦しめてしまった。その現実を知ってるのにこの考えだけはどうしても治らないようだな。
「俺は大切な友達の為に……、いや自分の友達が笑ってなきゃ俺が嫌だから、そのワガママを押し付けて相手の事なんて何も考えずに助けるんだ」
どうしてこの言葉を一之瀬に言えなかったのかな。冷静に考えれば俺の気持ちを言葉に変換する事なんて造作でもないのに……。でも一之瀬の前だとつい感情的になってしまい、解決にまでいたらない。
この言葉を今更、一之瀬に伝えたろ頃で後の祭りだ。既に一之瀬の中にも決意があって、それを変えることなんて一之瀬のプライドに反してしまうだろう。
だから言葉はいらない。行動で俺は一之瀬に俺の事を知ってもらえばいいんだ。
きっと無感情な表情なのかもしれない。俺的には少し微笑んでいるのだけれども……。そんな俺の顔を見ている斉藤は困惑していて、きっと無表情な俺の顔を見てどうして良いのか分からないのだろう。
「どうして……」
そらみろ。俺の言葉に対する返答の第一声が「どうして」ときた。きっと何を言っているのかも分からないからこそ、俺を否定するための言葉を言おうとしているんだな。だが
「どうして小枝樹 拓真はそんなにも優しい人間なんだ……?」
斉藤の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。そして苦しそうに胸に手を当てながら斉藤は
「お前がそんなにも優しかったから私はこんな事になってしまったんだっ!! 司様を追い回していた件の時に私は警察に突き出せばよかったっ!! 私は自分の罪を咎められなかったから今こうして苦しんでいるんだっ!! お前の優しさは誰も救わない……。誰かを苦しめるだけだ……!!」
これが斉藤 一葉の本音なのだろう。でも俺はその言葉を聞いてちゃんと答えなきゃいけない。
「あぁ、そうだよ。俺は誰かを傷つけたり苦しめたりする事しかできない。でもそれが俺のやりたいと思う道の上にあるんだ。だからしょうがない事なんだよ」
俺はもう迷わない。そう決めたから。俺がやりたいと思っている事がヒーローのそれと違っていたとしても、俺は俺で在り続ける。
「ふざけるなっ! お前が私を犯人だと口外しなかったから、私はその罪に壊されそうになってしまったのだぞっ!? どうして小枝樹 拓真は私の罪を他者に言わなかったんだっ!!」
「無意味で必要の無いものだって思ったからだ」
「無意味で必要無いだと……? その行為を行ったとしてお前も共犯だと言われてしまう可能性だってあったんだぞ……!?」
「分かってる。それでも真実を他者に伝える意味が無いものだと俺は思った」
「どうしてなんだ……。何故なんだっ!! お前の立場をも危うくさせてしまう行動を何故とったんだっ!!」
「俺がやりたかった事だから」
不毛な会話だとは思わない。それでも俺の気持ちが伝わらばきゃ意味の無いものになってしまう。
自分の言葉を全て否定されている斉藤は「なんで、どうして」という言葉を小さな声で呟き理解の範疇を超えてしまっているのだと自分でも分かっているようだった。
だからこそ俺は何度も言った言葉をもう一度言う。
「俺は決めたんだ。誰かを傷つけてしまうかもしれない、誰かを苦しめてしまうかもしれない。それも俺は友達の笑っている顔が見たい。もう斉藤は俺の友達なんだよ」
俺の言葉を聞いた斉藤は完全に言葉を失ってしまう。何も言い返さずにその瞳を開き、俺の事を見つめながら涙を流し続ける。
「つかさ、もう罪なんて償えてるんじゃないの? その事象を罪だと感じて後悔して苦しんで、そんな奴をそれ以上に責めたって何も変わらないって俺は思うんだよね」
これは俺を棚に上げている言葉だ。俺だって自分の罪に押し潰させそうになって、何も出来なくて身動き取れなくて……。自分を責め続けて挙句の果てには友達だと思っている奴等に迷惑をかけて……。
でもそれを経験しているから分かるんだ。今の斉藤がどうしてその罪を償おうと思ったのかを。
「だから良いんだよ。俺は俺の好きなようにする。そんなに斉藤が罪の意識を考える事じゃないんだよ」
「本当に……。お前の優しさは人を苦しめる……。だからここでちゃんと言っておこう。司様に出会う前に小枝樹 拓真に出会っていたとするのなら、私はきっとお前を好いていたのだと思う」
涙を拭い更に赤くなってしまったその顔で笑う斉藤。
「それってイケメンから天才に乗り換えるって事ですかねー、斉藤さん」
「な、何を言っているっ!? 私の司様への愛は不変だぞっ!! お前のような天才なんていう俗物的な存在に恋などしないっ!!」
「まぁ、そうだよなー。あの時の神沢への手紙は気持ちが伝わってたからなー。そりゃ天才を俗物って言ってもおかしくないわー」
「お、お前……。その話を掘り起こす気なのか……!?」
つまらない会話をしながら言い合う俺と斉藤。これは俺が勝手に思ってしまっている事なのかもしれないが、少しだけ友達としてちゃんと分かり合えていると感じてしまう。
そして、そんな会話を続けてタイミングを見計らっていた俺は言う。
「まぁ、何でもいいけどさ。俺は斉藤が友達だから依頼を受けたんだ。それは俺のワガママ。だけど依頼の内容も斉藤のワガママだろ? 俺はそんな斉藤のワガママに乗っかっただけだ。だからさ━━」
ずっと言えなかった。それを言うのが怖かったから……。自分という存在に誰かが依存してしまったり、その存在を利用してしまったり……。
いや違う。俺は自身の可能性に恐怖しているんだ。どんなに天才だと言ってもヒーローだと自称しても、何も出来なったから……。
でも今はちゃんと言える。俺が出会ってきた皆が教えてくれた事だから。
「この天才、小枝樹 拓真に期待しろよ」
そう言った俺は、その言葉を聞いた斉藤と声を出して笑った。




