30 中編 (夏蓮)
その真実には気が付いていた。けれど、どこかで私はその真実から目を背けていた。
何故。真実を受け入れると言う事はあまりにも酷で、幻想という名の嘘の世界にいれば人間は簡単に幸せを手に入れる事が出来るから。そう、私はそんな凡人と同じ弱い人間。
いつからなのかと思い浮かべれば答えなんて簡単に出てくる。兄さんが死んでしまったあの日から……。
あの日私は人形になる事を決意し一之瀬財閥の為だけに天才少女になった。誰も助けてはくれない、私の事なんて誰も見ていてはくれない。そんな気持ちが今の私を作り上げている。
だけど、誤解したまま生きてきた私は姉さんの気持ちを聞いた。それはとても温かなモノで、私の心を少しだけ人形から人間に戻してくれたような気がした。
そして妹の想いを知り、今まで自分一人で生きてきたと思い込んでいた自分が恥ずかしくなった。そんな事を全部気が付かせてくれたのは他でもない。
小枝樹 拓真だ。
彼が天才だと知って納得してしまう私がいた。だって、どんなに困難な問題でも結果的に一人で解決してしまい、天才少女という名ばかりの私の力なんて必要とはしていなかった。
きっと彼は怯えていただけ。自分の才能のせいで他者が傷つく様を垣間見てしまったから、そこから彼は自分を否定してきたのだ。そして孤独になった。
天才とは元来、他者からの理解なんて得られる存在ではない。それは他者の思考や思想の斜め上をいってしまっているからだ。だが、天才少女の私は他者からの人気も人望だってある。それは何故なのか
私が本物の天才ではないから。私は他者の気持ちを理解する術をもっている。いや違う。理解ではなく人心を掌握する術を持っていると言えばいいだろうか。それはとても簡単な事だ。
傷ついた時の私が他者に求めた事と同じ事をすればいい。
人は誰しも己の中に苦しみを作り、思春期にもなればその気持ちは増幅させる傾向にある。そして他者に理解して欲しいという安易な気持ちから、どうでもいい苦しみを他者に吐露するのだ。
そして、それを表面上でも理解してくれた人間を友達と呼び、それ以外を軽蔑し罵倒し孤独に追い込む。それは中途半端なものだったとしてもコミュニティーに属せない人間をという事だ。
仲間意識が強くなる反面、本当の意味で他者を理解しようとなんて思っていない。それで孤独になり苦しんできた人間だどれほどいるのか、考えただけでも恐ろしい。
案外、話してみると孤独になってしまっている人間の方が他者を理解しようと努力したり、自分を分かってもらおうと最善を尽くしたりしている。だがその孤独に負けてしまった人間は自分に地位が出来るコミュニティーを探し、見つけ出しては自分を傷つけてきた存在と同じ事をする。
それとは逆にその孤独に勝てた人間はどういう行動をとるのか。それは、簡単に笑顔を作ることができ、どんなコミュニティーにも属せ、誰からも愛される存在になる。
だが、それは孤独を肯定した事になってしまう。孤独を肯定したからこそできる偽。そんな人達は沢山の人の輪の中にいる。だが誰も知らないんだ。
その人の本当の苦しみを。
本当に人を信じれなくなってしまった人間は苦しみを吐露しない。それは何故か、苦しみを吐露する意味が無いからだ。その行動を起こした所で何になる。自分の苦しみを理解できるのは自分だけで、どんなにいい言葉を並べられても他者には理解が出来ない。
そんな風に考えていたのに、私はいつの間にか大切な居場所が出来てしまった。その居場所はとても心地よく、本当に陽だまりの中にいるように優しく暖かい……。
いつの間にかそんな居場所が当たり前になってしまっていて、自分という存在がどういうものなのかを忘れてしまっていた。
だけど、その居場所をくれた貴方に私は何も返していない。そんな時、私は聞いてしまった。
『あたしの恋人になってください』
文化祭の夜。私は小枝樹くんを探していた。実行委員の集まりがあったからだ。あの文化祭で一番頑張っていたのは小枝樹くんだったから……。彼が評価されないのはおかしいと思っていたからだ。
だけど、どこを探しても小枝樹くんが見つからなくて、B棟に行っても誰かに居場所を聞いても分からなかった。もう見つからないと諦めそうな時に小枝樹くんの背中を見つけた。
いつものように声を掛けようとした時に雪菜さんの声が聞こえてしまった。その言葉は私にとっても突然な事で、咄嗟に身を隠してしまった。
気を使ったわけじゃない。ただ、私が聞いてしまった事実を隠さなきゃいけないと判断した。きっとその行動がなんの意味も無いと分かってて、私は壊れていく現実を受け入れられなかっただけだ。
私の居場所がなくなってしまう。また私は大切な存在をなくしてしまう。
そんな恐怖に押し潰されそうになってが、兄さんを失ったあの時よりも痛みは少ない。それは多分、本当に求めていたものじゃないから。苦しいと感じるし嫌だとも思う。それでもこのまま壊れてしまったとしても私にはなんの害もない。それが一之瀬 夏蓮という人形が出す冷め切ってしまった答え。
これで良いのかも知れない。このまま終わってしまった方が幸せな夢を抱いたまま未来を生きていけるのかもしれない。だとすれば、小枝樹くんには恩返しをしなきゃいけないわね。
私の私情に彼を巻き込んでしまった。自身の勝手な願いの為に、私は彼を沢山傷つけてしまった。それを償えるのだとしたら、きっと私は彼の本当の気持ちを分からせる事。
きっと今の小枝樹くんは混乱しているわ。彼は天才なのにとても不器用だから……。どうしていいのか分からなくなって、考えて苦しんで、放っておいたらまた壊れてしまう。
でも自分の中に芽生えている本当の気持ちに気が付けば、彼は簡単に答えを出して歩みだす。それくら、強い人だと私は知っているから。
だから卑怯かもしれないけど今ここで言わせてね。
「こんな私を見つけてくれて、ありがとう……」
闇に褒められた自室の世界の中、私は呟き微笑んだ。
現在、私は放課後までの時間を過ごしている。
小枝樹くんには放課後全てを話す。そしてここで全てが終わる。私の身勝手にもう誰も付き合わなくてもいいの。
そんな思考は深く時間を忘れてしまうくらいのもだった。授業の内容なんて殆ど覚えてなくて、時計の針が動いていた事すら気が付かないほど……。
そして放課後、私はB棟三階右端の教室で小枝樹 拓真を待っている。少しの緊張感が焦燥感を煽り、理性で無理矢理押さえ込んでは何度も何度も外の景色と教室の扉を私の瞳が往復した。
自分の手を見れば震えていて、その震えをもう片方の手で止めては見るが、止めている手も震えだしその手を見て私は苦笑する。怖いと感じている自分の気持ちに気が付いて他人に言えない自分の不器用さ。
でもきっとこの日が来る事は、春のあの日、ここで小枝樹くんと出会った時に決まっていたのかもしれない。もう離れる時なんだ。
ガラガラッ
「ごめん一之瀬。遅れちまった」
あの日から何も変わらない私の居場所が訪れる。小枝樹くんの顔を見て、また甘い考えが脳裏を巡る。
私はきっとまだこの関係でいたい。何も考えずにただこの穏やかな空間を小枝樹くんと共有していたい。いつもの場所にいつもの二人。それがこの数ヶ月の間に私が気が付いてしまった私の逃げ道。
とても近い距離にいるのに、貴方は本当に遠くにいる。きっといつか貴方もこんな私を置いてもっと遠くに行ってしまうのね。そんな未来が訪れるのなら、今のここで私が壊すわ。
「あーやっぱりここは落ち着くなー。それで、一之瀬の話したい事ってなんだよ?」
小枝樹くんのその言葉を聞いて、私の震えが止まった……。そして終りへと扉をゆっくりと開ける。
「そうね。その話の前に、小枝樹くんは気づいている人と気づいていない人、この二人の違いってなんなのか分かる?」
私の質問の意図を理解していない小枝樹くんの表情は間抜けなものだった。だがそれは一瞬で、すぐさま小枝樹くんは私の問いに答える。やはり彼は天才なんだ。
「んーそうだな。気が付いた事にもよるし、その二人が気が付かなきゃいけない事柄が同じかそうじゃないかにもよるけど、基本的に気が付いた奴は何かをする術を知るし、気が付かない奴は何が起こってるのかも理解できていないんじゃないか?」
何事も無かったように答えてくれる小枝樹くん。それは彼が天才だからであって、凡人には答えられない質問だ。
「ならもう一つ聞いてもいいかしら? 気が付いている人でも気が付いていない人でもない、気が付いているのに理解しようとしない人はどう思う?」
次の私の質問を聞いた小枝樹くんの顔が一瞬だけ強張ったのを私は見逃さなかった。それくらい今の彼はこの質問を聞きたくないのだと思う。それでも普段通りに私の質問に小枝樹くんは答える。
「まぁそうだな。気が付いているのに理解しようとしない人の味方になるわけじゃないが、それを知る事によって大きな出来事に発展してしまうのなら、知らないフリを続けた方が良いと思う。知ってるのに目を背けるののにきっと本人なりに意味があるし、それを何も考えていないのならソイツは大バカだ」
今の小枝樹くんは少しだけ焦っている。瞳の動きや身体の動き、その全てが今の私の質問に嫌悪感を抱いていると物語っているし、嘘と真実を混ぜる台詞を彼は簡単に言った。
切り出すのならこのタイミングしかないわね。
「そう。なら小枝樹くんも大バカなのね」
「なんだよ、それ……?」
強張った顔に不安が混ざったのが分かった。癒される場所で見たくも無い真実を見せられる恐怖。考えなくても良い場所で思考を強制させられる恐怖。全てが恐怖の連鎖であって、逃れる事は決して許されない。
「言った意味が分からなかったのかしら。貴方は今、自分で自分を大バカだと言ったのよ」
今の私に優しさなんて皆無だ。現実を付き付ける言動のさい、優しさは選択を誤る可能性がある。そして何より、今のこの姿が人形の天才少女そのものだ。
「何言ってんだよ一之瀬……? すまないが分かるように説明してくれ。この状況が俺には全然わからない」
「そう。ならちゃんと説明してあげるわね」
そう言い私は彼の瞳を強く見つめた。
「文化祭の夜。貴方が雪菜さんに告白されている現場をたまたま見てしまったわ」
その言葉を聞いた小枝樹くんは瞳を大きく開き、この現状が嘘であって欲しいと言わんばかりの苦痛な表情をしていた。それでも私は言葉を紡ぎ続ける。
「不可抗力だったと言っても言い訳に聞こえてしまうかもしれないわね。それでもあの現場を見てしまったのは故意ではないわ」
「その事を、今日俺に一之瀬は話したかったのか……?」
とても弱々しかった。細く消えてしまいそうな声。私の目を見ようともせず、少し俯き床を凝視しながら絞り出すように小枝樹くんは言った。
「そうよ。でもその現場を見てしまった事だけを言いたかったわけじゃないの。私が言いたいのはその先よ」
「その先……?」
震えていた。声も身体も……。小枝樹くんがここに来る前の私みたいに、恐怖を小枝樹くんは滲み出している。だけど止める訳にはいかない。
「えぇ、その先。貴方はもう自分の気持ちをちゃんと見なきゃいけないのよ」
「俺の気持ちって、なんだよ……?」
「貴方の本当の気持ち。さっきも言ったように貴方は大バカよ。気が付いているのに気が付かないフリをしている、ただの大バカよ」
その言葉を言った瞬間に胸が苦しくなった。ズキリと締め付けるような痛み。その痛みを感じて私は思った。
本当はもう止めたい。これ以上小枝樹くんに苦しい思いをしてもらいたくない。だけど、私にはこれくらいしか恩返しが出来ない……。
「俺の本当の気持ちってなんだよ……。どうして一之瀬にそんな事、言われなきゃいけないんだ」
その視線を床から私の瞳へと移す小枝樹くん。その瞳は、今の私を拒絶しようとしている瞳で、強く私を睨みつける。
「言わなきゃ貴方はこのまま何も無かった事にするからよ。ねぇ小枝樹くん……。どうして見ないフリをしているの……?」
「見ないフリなんてしてないっ! 俺は雪菜の気持ちなんか知らなかったっ! だからこんなに動揺してるし混乱だってしてる」
「それは嘘よ」
「嘘なんかじゃないっ!! 俺は雪菜を家族だと思ってたっ!! 雪菜だって俺の事を家族だって思ってくれてると思ってたんだっ!!」
少しずつ、互いの感情が表に出てきて、ゆっくりと言葉の応酬がはじまる。
「貴方は何を言っているのっ!? それは貴方の気持ちであって雪菜さんの気持ちじゃないわ。数ヶ月しか一緒にいない私ですら雪菜さんの気持ちに気が付けるのに、ずっと一緒にいる貴方が気が付いていない方が不自然なのよ」
「そんなの不自然なんかじゃねぇだろっ!! 俺は雪菜の気持ちなんか知らなかった。それに気がつけたのは一之瀬が天才だったからだろっ!!」
天才……?
「ふざけないでっ!!」
小枝樹くんの一言で感情の箍が外れてしまった。
「何が天才だからよっ!! 天才だって人間なのよっ!? どんなに全ての事が出来たとしても他人の気持ちなんて分かるわけ無いでしょっ!! ねぇ、小枝樹くんも天才なのよね……? なら今の私の気持ちが分かるっ……!? 分からないわよねっ!!」
「一之瀬……?」
「どんなに考えたってどんなに頑張ったって、他人の気持ちなんて分からないわよっ!! だからどんなに苦しくても辛くても、嬉しくても楽しくても、人は言葉で人に気持ちを伝えるのっ!! だけど貴方はその言葉を交わさなくても雪菜さんの気持ちに気が付いていたはずよ……」
そう、彼はそれほど長く雪菜さんと一緒にいたのだから……。気が付いていないなんて絶対に嘘なのよ……。
「貴方は自身の中で雪菜さんは家族だ幼馴染だと言い訳を並べて彼女の気持ちに気が付かないフリをしていただけでしょ……?」
「俺は……」
怒りに憑かれてしまっていた小枝樹くんの感情がゆっくりと冷静になっていくのが分かる。だけど正反対に私の感情は昂ぶってしまったままで……。
「貴方が苦しんでいる時、隣にいたのはいったい誰っ!? 貴方が悲しんでいる時、隣にいたのはいったい誰っ!? 貴方が笑った時、一緒に笑ってくれたのはいったい誰なのよっ!!」
息が切れる。喉が痛い。これだけの感情が出せるのに、私はどうして人形なんかになってしまったのだろう……。
「そう、だよな……。一之瀬は言ってる事は間違ってない」
小枝樹くん……?
「確かに俺は雪菜の気持ちに気が付いていたと思う。それでも俺は雪菜の事を家族だって思いたくて……。でも、今一之瀬が言ってくれて本当の気持ちに気がつけたよ。俺の本当の気持ちに」
そう言う彼は苦しそうに微笑んだ。
「なんか、怒鳴って悪かったな……。一之瀬はただ、俺に気がついて欲しかっただけなのにな……。あーやっぱり一之瀬は俺なんかよりも天才だ。本当に、ありがとな」
言った彼は自分の鞄を手に取り教室から出ようとしている。そんな彼の背中を見て、私はどうしてか止めてしまいたくなった。
それはきっと、このまま終わってしまうこの空間を惜しんでいるという証。前に出そうになるその腕を私は理性で押さえつけた。
そして彼はゆっくりと教室の扉を閉めた。
一人の空間。慣れている静けさ。夕日が私を照らし出してくれているのが幸いだ。
それすらなかったら、今の私はおかしくなってしまうかもしれない。だけど、おかしくなる資格すら今の私には無いのだ。なのに許されたいと願ってしまう。
床の冷たさがスカート越しに伝わってきて、指を壁に擦れば埃が付いてくるしまつ。本当に気持ちが良いほど、誰も使っていない教室。
そんな場所を私は自分の居場所にした。小枝樹くんがこの教室を自分の居場所にしたように、私も自分勝手な感情のままこの教室を居場所にしていたんだ。
その時、ふと思い出したかのように私は教室の窓から外を見る。
夕暮れの景色。何もない景色。その景色を見て、小枝樹くんの言葉を思い出す。
『何も無くて良い。何も無いが良い。それでも綺麗に見えるだろ?』
本当に小枝樹くんが言っている事は適当な事ばかりなんだから……。見えないわよ……、綺麗になんて見えないわよ……。ただの何も無い景色じゃない……。
ポタッ
自分の腕に生暖かいモノが当たるのを感じた。それは雫で、すぐに私は自分の頬へと手を当てる。そして
「どうしてよ……。どうして今の私は泣いているの……? 自分で選んだのよ……? 自分で壊そうと決意したのよ……? そんな私に泣いて良い権利なんて無いのに……」
思えば思うほど、考えれば考えるほど涙は止まらず、ついにはその場で崩れ落ちてしまう惨めな私がいた。
何でこんなに苦しいの……? どうしてこんなに胸が痛いの……? 確かに私はこの場所を大切に思っていたわ。だけど、それは一過性の逃げ道で、私はこんな場所が無くたって生きていける……。
どうして誰も私を責めないの……。どうして皆こんな私を受け入れるの……。分からない、分からない……!!
自分の身体を抱きしめ恐怖に勝てない私は震えている。その震えを止める事すら出来ない私は自身の思考で自分を追い詰める。
私は醜い大人の傀儡なの。私は一之瀬財閥の歯車なの。私は自分では何も考えられない愚かな凡人なの……!!
ねぇ、気が付いてよ……。誰でもいいから私に気が付いて……。
そして私は禁忌の言葉を呟く。
「お願い、助けて……。兄さん……」
誰にも気が付かれない場所で、誰にも届かない場所で、私は独り後悔と逃げ場の無い現実に潰されそうになっていた。
帰り道。私の気持ちをもう落ちついていて、何も感じなくなってしまっている。
落ちついているというのには少し語弊が生じるかもしれない。落ちついたのではない、全てを吐き出してしまって何も考えられなくなってしまっているだけだ。
ゆっくりと歩んでいる帰り道だったのに、気が付けば自分の家の前まで着いてしまって、どれだけ今の自分が何も考えていないと言う事に嫌でも気が付いてしまう。
マンションのいつもの扉、マンションのいつものエレベーター、そして自宅のいつもの扉を開き漆黒で孤独な空間へと足を入れる。
リビングについていつも以上に乱暴に鞄と制服の上着を脱ぎ捨てる。そしてソファーに身を預け、私は再び思考を開始する。
これで良かったのだ。これで全てが上手くいくんだ。何かを成す為には何かを失わなくてはいけない。それを理解しているからこそ、心地良い居場所よりも小枝樹くんの幸せを私は選んだんだ。だから後悔なんて許されないし、悲しむ事すら許されない。
失う恐怖を知っているから失いたくないという気持ちにさせるが、逆に言えば最大限の失う恐怖を知っているから何を失ってもそれ以上の苦しみにはならない。
自分で自分に言い聞かせ、このまま眠りにつこうと思っていたときだった。
ブーッブーッブーッ
私の携帯が鳴り響いた。
重たくなってしまった自身の身体を無理矢理起こし私は携帯を手に取る。そして画面に映っている名前は
一之瀬 樹
お父様からの電話だった。電話なんて滅多にしてこない父の着信。少し動揺しているが、取らないわけにもいかなかった。
「はい。もしもし夏蓮です」
「久しぶりだね夏蓮。誕生日以来だね」
「はい」
気が付かれないように装って、それでも単調に適当に返事を繰り返す私。この電話の意味なんてきっと何も無いのだろう。父の気まぐれな暇つぶしだ。
そして他愛も無く意味も無い会話を続けている時、父は真剣な話を持ち出した。
「それで夏蓮。君の願いは叶いそうなのかい?」
願い。それは私が今の学校に行く為に父に提示した約束。その内容は小枝樹くんしか知らない。『私の才能の無いものを探す』
だけど彼はそんな事よりも二学年を終了した時に私がいなくなる事を危惧していた。そして一緒に卒業しようって言ってくれた。だが、今の私にはそんな言葉を重く感じる程の余裕なんて無くて、父の人形でいる方が楽だと感じてしまっていた。
「そうですね。あの時の私は少しばかり幼かったようです。叶いもしない願いを口にして、凡人同様に思春期的な反抗をして。ですがもう、気がつきました。私が抱いていたモノがどれほど矮小で醜い感情だったのかと」
「そうかい。なら」
「はい。二学年が終り次第、私はお父様が推奨していた海外の学校へと編入します。それが天才少女の私の務めなのですから」
感情が削ぎ落とされていくようだった。父の声を聞けば聞くほど、私という存在は小さなものになっていき、最後には消え失せる。それがどんなに意味があるのか、簡単な事だ。私に感情など必要なく、私はただただ一之瀬 樹の言われるがままに動く傀儡で在ればいい。
きっとこの先、時間が経てば精神的な痛みを感じなくなって、他人を思う心が無くなって、最後には物理的な痛みも感じなくなってしまうのだろう。
本当に小枝樹くんに出会って良かったって思えるのは、何も感じなくなってしまう前に姉さんと菊冬に私の気持ちを言えてよかったという事。その不安が無くなって、心地の良い居場所もなくなった今、私は進んで一之瀬財閥の供物になれる。
そして頭の中で感謝の気持ちを並べる。
ありがとう姉さん。本気で私を守ろうとしてくれて……。
ありがとう菊冬。こんな私を姉だと思ってくれて……。
ありがとう楓。何があっても親友でいてくれて……。
ありがとう雪菜さん。私に本気でぶつかってくれて……。
ありがとう優姫さん。こんな私を心配してくれて……。
ありがとう神沢くん。いつも楽しい空間を作ってくれて……。
ありがとう崎本くん。どんなにふざけていても私を友達だと思っていてくれて……。
ありがとう城鐘くん。本当の小枝樹くんに出会わせてくれて……。
そして何度でも思うわ。
ありがとう小枝樹くん。こんな私を見つけてくれて……。
自身の中で全てを終わらせるつもりだった。なのに、感謝の気持ちを思っていて再び芽生えてしまった。
嫌だ、嫌だ。私はあの空間をなくしたくなんて無いっ!! このまま私だって皆と一緒にいて卒業したい。綺麗な花道を皆と涙を流しながら笑い、祝福されてこの学校を卒業したいっ!!
自分のワガママだって分かってる。それでも私はこのまま皆と一緒にいたいのよっ!! どこで間違ってしまったの……? どこで私は孤独になる未来を選んでしまったのよっ!! 私は人間よっ!! 人形なんかじゃないわっ!!
その時、父の言葉で私の残り僅かな希望と人間性が壊される。
「やっと決意してくれたんだね。その気持ちがあれば死んでしまった秋も浮かばれるというものだ」
兄さん……。
私の心が凍り付いていくのが分かった。私が今、生きている意味は兄さんの為。兄さんの思いに準ずる為。だから私は天才少女であり続けなければならない。
凡人の一之瀬 夏蓮なんて居なくて良い。天才の一之瀬 夏蓮が居ればそれでいいの。初めから間違っていたのよ。他者に希望を持つこと自体が。
私は私で何でも出来る。兄さんが死んでしまって一人になった私の部屋の扉を誰も開けてくれなかったのだから。あの時から他社に頼る事が無意味だと分かっていた。
だけどきっと皆の優しさに甘えてしまっただけで、本当の意味で救われるなんて思っていなかった。きっとこれまで感じてきた救われたという気持ちは全て私の勘違いで、結局なにも解決なんてしていない。
そうよ。今までだってこれからだって、私は一人で生きていける。天才少女の一之瀬 夏蓮なら。
「そうですね。兄さんもこんな私を望んでいたはずです」
そう言い、今日の私は居場所だけじゃなく微かに残っていた人間性も失ってしまったんだ。