30 前編 (拓真)
祭りの夜は歓声が盛大に響き渡り、誰もがその夜を忘れないくらいの盛り上がりだった。
高校生の夜。大人と子供の境目にいる俺等は子供の純粋さを忘れ、大人の汚さを覚える。だが、それと同時に子供の無知さが流れ落ち大人の知性を身に付ける。それに気が付く者は皆無に等しく、大人の甘美な妖艶さにただただ酔いしれる。
異性の手に触れ身体に触れ、その先を求めるように優しく甘い幻想の炎を見つめ続けるんだ。ユラユラ、ユラユラと気が付かないフリをして……。
「あたしの恋人になってください」
夢だと思いたい、幻だと逃げてしまいたい。だけどソレは紛れも無い現実で、潤んだ瞳で俺を見つめる雪菜に俺は何も言い返せないでいる。
きっと今この学校にいる連中の中で告白をされて喜ばない奴なんていないだろう。それくらい、祭りの熱に当たってしまっている。だけど俺はこの現実を受け止められない。
いや、違う。俺が欲していた特別な存在は雪菜だったのかもしれない。気が付かなかっただけで俺は雪菜に特別な気持ちを抱いてたんだ。
昔の子供な雪菜じゃない。もう大人になって綺麗になって、どんな男子でも選べる側の雪菜が俺を選んでくれているんだ。それは幸運な事だろう。幼馴染が恋人になる。
生活はなにも変わらない。ただ、前よりも距離が近づくだけだ。誰も傷つかないし、もしかしたらみんな祝福してくれるかもしれない。そうなんだ。俺は雪菜を選ぶべきなんだ。
綺麗なドレス、潤む瞳、瑞々しく輝く唇。秋の夜風は少し冷たく、雪菜の温もりが欲しいと思った。そして手を伸ばす……。
だけどソレが、自分のつまらない夢だと気が付くのに然程時間はかからなかった。
ベッドの上、朝日がカーテンの脇から俺の部屋へと侵入してくる。嫌な夢ではない。あの時、雪菜の手を取っていたらこんな未来があったのかもしれない。
だけど俺はそんな雪菜に何も返せず、ただただ返事を先延ばしにしたに過ぎない。自分でも思ってしまうほどの臆病者だ。それでも分からなかった。俺が雪菜をどう思っているのかを……。
佐々路に告白された時はとは全然違う。それは佐々路をどうでも良いと思っているわけではなく、雪菜が近すぎるからだ。
ずっと家族だと思っていた存在に告白され、男の子だと思われていると認識する。それがどんなに混乱を招く事なのか、きっと他人には分からない事なのだろう。だからこそ動揺を他者へと露見するわけにはいかない。
ベッドから身体を起こし、俺は気合を入れるために自分の頬を両手で叩いた。少し痛い。だが、そのお陰で自分になれる。目が覚めた俺はベッドを離れ学校へ行くための準備を始めた。
あの告白から俺と雪菜は一緒に登校していない。普段通りレイに会えば一緒に学校に行っているくらいだ。
そんな状況がレイには不信に思えたのだろう。何度か色々聞かれたが、俺は適当に受け流し、レイも何も言わない俺に聞くのをやめてくれた。
きっとレイならもう気が付いていると思う。そのくらい俺と雪菜の事になれば何でも分かる奴だ。だからこそ俺はレイを信じているし、普段通り接する事だってできる。だが、もしかしたらそれはレイだけなのかもしれない。
それでも日常というもはとても残酷で、当たり前のように全てを元に戻そうとしてくる。それはまるで、確立が合わなくなってしまった機械のように、半強制的に夢から覚めさせる。
そこまで分かっている俺でも例外ではない。普段と変わらない景色、普段と変わらない状況。それを見ているだけで何も無かったのではないのかと疑問に思ってしまう。
普通に授業を受け、普通に昼食を取り、普通に友人と話し、普通に家へと帰っていく。これが当たり前であり、熱に当たられた現実が嘘だったのかもしれないと思い込ませてしまう。
だが、そんな日常は簡単に壊れてしまい、俺に本当の現実を突きつける。
「おーい、小枝樹」
それは放課後の事だった。B棟三階右端の教室にも行かず、俺はそのまま岐路に着こうとしていた。そんな俺に声をかけてくるのは佐々路 楓。
俺はその声の方へと視線を向け、誰も何も疑わないいつもの小枝樹 拓真になる。
「どうした佐々路? 何か用か?」
「んー用って言うか、何か文化祭終わってから小枝樹の様子が変だからさ」
好意を持つというのはここまで凄いものなのかと思ってしまう。何も話してないし、きっと雪菜も話してない。なのにもかかわらず、佐々路は俺の変化に気がついていた。
俺の予想だと家族のルリですら俺の変化には気が付いていないだろう。それくらい俺は完璧に平然を装っているんだ。
「何が変なんだよ。俺なんかよりも祭りの熱が冷め切ってない奴等のほうが変だろ」
気だるさが充満している雰囲気は否めないが、それでも未だに熱が冷めていない生徒は多数存在している。その事実を言う事で俺は今の俺を隠す事が出来るんだ。
「確かにそうだけどさぁ……。まぁでも小枝樹が何でもないって言うんならそうなんだろうね。つか小枝樹、この後暇?」
納得してくれたのは良いが、その後の言葉が唐突過ぎてどう返して良いのか分からない。だが、いつも通り普通に返そう。
「ん? まぁこの後は何も用事は無いぞ?」
「ならさ、久しぶりにその辺ブラブラしようよ」
佐々路の提案が放課後デートをしたいと言っているように聞こえてしまう俺は思春期なんですかね。それとも何か欲求不満なんですかね。つーか、佐々路と放課後にブラブラした事なんて皆無に等しいぞ。
何をこの女は前まではしてましたみたいな雰囲気を醸し出しているんですかね。おかしいよ。記憶の改竄はおかしいよ。
とかなんとか思っていても今の俺は少しでも何も考えなくて良い方向を選びたくなってしまい。
「あぁ、暇だしいいぞ。つっても俺にたかるなよ?」
「たからないよっ! もう、本当に小枝樹はあたしに対して容赦ない物言いをするよね」
くだらない会話をしながら俺等は昇降口へと向かう。その途中の会話も本当にくだらないもので、ただただ俺が佐々路を馬鹿にしているだけの会話だった。
だけどやっぱり、そんな佐々路といるのが楽だと感じている俺がいる。いったい、今の俺の気持ちは何なんだ。何が正しくて何が間違ってて、そして何を求めていて何を求めていないのか全然分からない。
まるで今の自分は宙に浮いているようにフワフワとしていて、自分で自分の足場すら確保できない状況だ。だからこそ掴まる事のできる存在が頼りになって、そこに甘えを押し付けてしまう愚かな凡人な俺。
そして俺等は二人で学校を後にするのであった。
結局、アフタースクールお茶会は何も事もなく過ぎていった。
つまらない会話をし、つまらないものを見て笑い、他者の視線を気にする事も無く無邪気にはしゃぐ。きっと道行く人達は俺等をカップルだと思うのだろう。
そのくらい自然で何も偽りの無い関係。それが今の小枝樹 拓真と佐々路 楓の距離なんだ。
一緒に居て心地が良い。昔から一緒に居る雪菜と同等くらいの感覚だ。話だって合うし楽しい気持ちにもさせてくれる。そして何より佐々路は俺の事を好いていてくれて、こんな俺の傍に居ようとしてくれている。
だけど、それは雪菜も一緒なんだよな。困らせてばかりでそれでも俺を見捨てないで支えてくれて……。俺はそんな雪菜にどう答えれば良いんだよ……。
秋の夕暮れは短く、学校を離れてからまだそんなに時間は経っていないのに、もう太陽が地平線の向こう側へと姿を隠そうとしている。その時だった。
「やっぱり小枝樹おかしいよ。ねぇ、何かあったんでしょ?」
「いや、何もないよ。つーか何かあったとしても佐々路が心配するような事じゃないからさ」
不意に俺の顔を覗き込みながら言う佐々路に、俺は平然を装いながら言葉を返す。だが
「心配するよ。だって小枝樹はあたしの好きな人なんだよ? そんな人が普段と違う行動してたりしたら不安にもなるし心配だってする。あたしに何か出来るならしたいって思う。だから小枝樹、ちゃんと言ってよ。もしかして神沢とマッキーの事……?」
不安げな表情で俺を見つめ言う佐々路。どうして俺はいつもいつも誰かに心配をかけてしまうような事ばかりしてしまうんだろう……。
そんな後悔が頭をよぎり
「分かった。佐々路にはちゃんと言うよ。だから少しだけ時間あるか?」
「え、うん。あたしは大丈夫だけど」
「なら少しうちに来ないか? そこで全部話すよ」
俺の言葉を聞いた佐々路は言葉を発さず、ただ首を立てに振って俺の後ろを付いてきた。
俺の家に着くまでに会話は無かった。ただ、この後何が起こるのか分からないという不安だけが俺と佐々路の心を支配していたんだ。
そして家に着く。
「一回来てるから分かると思うけど、取り合えず俺の部屋に行っててくれ。俺は何か飲み物でも持っていくから」
「わかった」
俺の言葉に小さく返答をした佐々路。そして俺はキッチンへ佐々路は階段を上り俺の部屋へと向かっていった。
キッチンに着き、俺は一呼吸おく。きっと緊張している。そして本当に佐々路に話して良いのかと未だに疑問に思ってしまう。眉間に皺を寄せながらコップに麦茶を注ぐ俺をはたからみたら、何かの達人のように見えてしまうのかもしれない。
だが、麦茶を注いでいる感覚なんて殆ど無くて、今の俺はどう話をするのかを延々と思考し続けた。だが、そんな思考を続けていても時間は簡単に流れてしまって、すぐに二階に上がることになる。
いつも入り慣れている自分の部屋が初めて入る空間に感じた。ドアノブを握るのですら恐怖を覚え、まるで面接会場に来ているみたいだった。それでも俺は冷静にならなくてはいけない。それが佐々路に対する礼儀というものだ。
そして俺は自分の部屋へと入った。
「待たせて悪かった」
部屋に入り言う俺は床にちょこんと座っている佐々路を瞳に入れる。それと同時に疑問に思ってしまうのが部屋の明かりが点いていないと言う事だ。だが、この今の空間を壊したくないと思った俺はテーブルのスタンドライトを点し、飲み物を置いてベッドへと腰を掛けた。
佐々路が俺の家へと来るのは二回目。初めては一学期の時の勉強会だ。だが俺の部屋に入るのは初めてで、少しだけ緊張しているのが分かった。男と二人で狭い空間の中。それが好いている人なら尚更な事なのかもしれない。
「ねぇ小枝樹。なんかあたし達以外の気配がないんだけど……?」
「あー、親は二人とも仕事だしルリも今日は遅くなるって言ってた」
何の躊躇いも無く俺は言う。だがその言葉を聞いた佐々路の緊張感が増してしまったのか、再び何も話さなくなってしまった。それを察し、このままでは何も話さないで終わってしまうかもしれないと思った俺は自ら固く閉ざされている口を開いた。
「それでさっきの話しだけど……。確かに今日の俺は変だったのかもしれない。でもそれは神沢と牧下の件じゃない……。もっと他の事なんだ」
神妙な面持ちという言葉を使っていいのかは分からない。だけど今の俺は眉間に皺を寄せ少しだけ俯き、精一杯の勇気で言葉を紡ぐ。
「もしかしたら佐々路に言うような事じゃないんだと思う。きっと佐々路が辛い思いをするかもしれない……。それでも聞くか……?」
最後の選択。佐々路が選ぶもの。ここで聞きたくないと言ってくれれば俺は何も話さない。そして自分で考えて答えをだし、行動するだけだ。
だが、佐々路は何も言わずに肯定の意を示す。首を立てにっ振って。
「その、なんだ……。この間の文化祭の後夜祭の時に、雪菜に告白されたんだ……。もう、幼馴染じゃ嫌だって言われた……」
今の俺はもう佐々路の事を直視することすら出来ないでいる。そして言ってしまった事を後悔している有様だ。
本当に俺って最低だよ……。自分の苦しみを他者へと露見して、その事実から解放されたいって思っていたんだ……。佐々路を利用して、現実から目を背けたいだけなんだ……。
「そっか。それで小枝樹は何て答えたの……?」
「返事はまだ何も言ってない……。もう頭の中がグチャグチャで、わけわかんねぇんだよ……」
話を聞いている佐々路は冷静で、今の俺はもう何が何だか分からなくなっている。考えれば考えるほど、どの選択を選んで良いのか分からない。本当なら何も選びたくないしこのまま逃げ続けていたいと思う。
だけどそれは本当の意味で雪菜を傷つける事になって、俺は雪菜のヒーローなのに、俺が雪菜を守らなきゃいけないのに……。
「あたしが聞きたいって言ったのに悪いと思うんだけどさ。今、小枝樹の頭の中がグチャグチャならもっとグチャグチャになれば良いって思う」
「佐々路……?」
そう言った佐々路は立ち上がり俺に近づいてくる。そしてベッドに座っている俺の膝に座ってきた。そんな今の俺と佐々路の顔の距離は本当に近くて、佐々路が何をしているのか分からないでいる。
「どうして小枝樹は安心してたの? どうして雪菜とずっと幼馴染で居られるって思ってたの? 誰でも気がつける事を、どうして小枝樹は見ないフリをしてたの?」
「見ないフリ……?」
「そうだよ。雪菜が小枝樹を好きなんて簡単に分かる事なのに、全部が上手くいくとでも思ってた?」
違う。雪菜は俺の大切な人で家族で、俺はそれがずっと続くって本気で思ってた。気がつかないフリなんてしてない。雪菜は幼馴染の俺を心配してずっと隣に居てくれたんだ。それが好きという気持ちからなんかじゃない。
確かにそこに好きという感情はあるのかもしれないが、だけどそれはこんな好きじゃない。どうして雪菜は俺を男として見るんだよ……。なんで俺の求めない現実だけが起こり続けるんだよ……。
真剣な表情で俺を見つめながら言う佐々路に俺は何も言えない。
「だから前にも言ったよね。あたしとだったら上手くいくって。あたしと小枝樹は似たもの同士。その傷の痛みも苦しみも何だって分かってあげられる。だからさ、あたしを選んでよ。小枝樹」
そう言い佐々路は俺の手を持ち、自身の胸に当てる。その瞬間、俺の手には柔らかい感触が広がり、このまま思考を停止してしまいたいと思った。
「ねぇ、分かる小枝樹? すごく冷静に見えるかもしれないけど、今のあたしこんなにドキドキしてるんだよ? 小枝樹を感じたいって思うし、もっと小枝樹にあたしを感じて欲しいって思ってるんだよ? 苦しい事からなんて逃げれば良いんだよ。あたしが居るから、もう何も考えなくて良いんだよ」
何も考えなくて、良い……? そうだよな。俺はもうずっと考え続けてきたし選び続けてきた。だからもう、楽になっても良いんだよな……。
間接照明が佐々路を妖艶に照らし、触れている身体の熱が上昇していくのが分かった。それと同時に俺の思考も少しずつ停止していく。
「だからさ、小枝樹……」
呟いた佐々路は俺の身体を軽く押し、その力に歯向かう事をせず俺はベッドに自身の背を預けた。そして佐々路の心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
「あたしと、しよっ……? あたしの初めてを全部小枝樹のモノにして……?」
そう言いながら、佐々路は俺の手を放し制服の上着を脱ぐ。そして少し乱暴に床へと上着を落とし、制服のリボンを外しワイシャツのボタンを外す。半分くらいまでボタンを外すと、佐々路の下着が露出した。
淡い水色で佐々路からは想像もつかないような可愛らしいモノ。そしてそこから視線を佐々路の顔へと移すと、恥ずかしそうに頬を赤く染め、普段の大胆な佐々路 楓ではなく、しおらしく見えた。
そして、そのまま佐々路は俺に覆いかぶさるように身体を密着させる。俺の鼓動と佐々路の鼓動が重なり合ってさらなる安心感を生んだ。だが、その安心感とは正反対の緊張感。それが俺の心をどんどんおかしくさせていく。
「あたしはね。どんな小枝樹でも受け入れられる。天才でも凡人でも、なんでも……。だからこのまま一つになりたい。それが嘘でもいい……。今は、あたしだけを見てよ……」
嘘、でもいい……? 俺が今、佐々路と関係を持ってしまったら、それは嘘であって佐々路を利用しているだけ。だけど俺はそれでもいいと思っている。もう何も考えたくないんだ……。
俺にとって佐々路って何なんだ……?
「ねぇ、小枝樹。また前みたいにキスしよ……?」
前みたいに……? それは佐々路が俺に告白した時のやつか……? いや違う、夏休みの時の話を佐々路はしているんだ。このまま続ければ、あの時と同じように佐々路が苦しくなる。そんなの俺は嫌だ。
「ダメだ、佐々路」
俺の唇に近づく佐々路を俺は止める。傷つけないように優しく頬に触れながら
「なんで……? あたしじゃ、ダメ……?」
「良いとか、ダメとかじゃなくて……。佐々路は俺の友達だから……。俺の大切な友達だから……。ごめん……」
上手く言葉が出てこなかった。それはきっと佐々路の覚悟を否定して拒絶してしまう事だから。本当の意味で俺はまだ誰かを傷つける事を怖がっている。その中途半端な言動がもっと深く傷を付けると見ないフリをして。
俺の言葉を聞いた佐々路は俺の身体から自身の身体を離し、少し悲しげな笑みを浮かべ
「やっぱりダメか……。雪菜に告白されたって言うからこれが最後だったのにな……。ここでダメなら、もうあたしが小枝樹の恋人になる事はないんだよね……」
「どうして、勝手に決め付けるんだよ……。まだ何があるかなんてわかんねぇじゃんかよ……」
いや、わかってる。俺が佐々路を選ばないと、俺が一番良くわかってる。なのに、どうしてこんな言葉しか出てこないんだよ……。
「分かるに決まってんじゃんっ!! もうダメなことくらい分かるよ……。小枝樹は優しすぎるんだよ……」
それは故意的ではなかっただろう。言葉を紡ぐ度、佐々路はその瞳から涙を流す。俺はそんな佐々路に触れる事も出来ず、ただただそんな佐々路を瞳に焼き付ける事しか出来なかった。
「あたしは雪菜よりも小枝樹と一緒に居る時間が長くない。あたしは雪菜よりも全然可愛くだって無い。それでもあたしは雪菜よりも小枝樹が大好きっ……!! どんな人達よりも一番、小枝樹を想ってるっ!! だけど、どんなに気持ちがあっても、それが一つにならなきゃなんの意味も無いんだよね……」
「ごめん……」
何も言い返せなかった。ただただ謝る事しかできない。だってそうだろ。俺は佐々路の気持ちに応えられない。中途半端な事をしちゃダメなんだ……。
「謝らないでよ……。謝られると本当に惨めな気持ちになってくる。ごめんね小枝樹。あたしもう帰るね」
そう言い佐々路は服を整え鞄を持ち、俺の部屋から出ようとした。そして
「最後に言わせて小枝樹。きっとね、どんなに頑張ってもまだあたしは小枝樹を忘れられない。だからもう小枝樹には迷惑掛けないから、まだ好きでいてもいいかな……?」
振り向き言う佐々路の問いに俺は何も答えられなかった。声を発する事も頷く事すら、俺には出来なかったんだ。
「じゃ、また学校でね……」
問いの答えを聞く前に佐々路は俺の部屋から出て行こうとする。そして扉が開かれ、その扉を向こう側へと佐々路が行ってしまう。そんな姿を見た俺は咄嗟に
「待ってくれ、佐々路……」
カチャンッ
俺の声が佐々路に届く事はなく、俺のはその場で無様にも崩れ落ちる事しか出来なかった。後悔すら許されず、自分を責める事すら許されない。
だって俺が選んだんだ……。自分で選んでこの結果になったんだ。そんな俺に何が許される……? 何も許されない。
いつもの佐々路でいてくれよ……。馬鹿でアホな佐々路のままでいてくれよ……。それが俺の知ってる佐々路なんだよ……。
暗闇の世界で一人、俺のもがき苦しんでいる。その苦しみを感じる事が許されているのかは分からない。でも今は、その苦しみを感じて自分に罰を与えたいと思う。その反面、もう楽になりたいと願ってしまっている俺がいた。
そして見渡す自分の部屋には、さっきまでここに確かにいた佐々路に甘くほろ苦い残り香と、氷が溶けて水滴が滴り落ちるコップが二つあった。
そんなコップを見つめ、乾いた笑みを浮かべた俺の頬を暖かな雫が一筋滴り落ちたんだ。
心は晴れない。だけど空は雲ひとつ無くてダメになりそうになっている俺を照らす太陽。その熱の心地が悪くて、晴天の朝が俺には苦痛に感じてしまった。
それでも時間だけは過ぎて、学校には行かなきゃいけなくて、必然的に雪菜にも佐々路にも会わなくてはいけない。雪菜にはどんな答えを言っていいのかさえ分からなくて、佐々路にはどんな顔をすればいいのか分からなくて……。
誰にも気が付かれないように振舞って、疲れて、何も考えたくなくて……。流れる普段の風景も日常も、全てが当たり前じゃなくなっていた。
学校の教室。見慣れているクラス。変わらない現実。でも変わらないなんて無いのかもしれない。日々を過ごしていくうちに気が付かないだけで少しずつ皆変わっていく。
その変化が良いものもあれば逆に悪いものもある。変わらないで欲しいと願っていた事が、不意に変わってしまう。その恐怖を俺は乗り越えられないでいる。
だって俺は、変わらないで欲しいから。いつものように皆と笑い合えている日々を生きていたいだけだったんだ。
確かに卒業すれば別々の道に行くかもしれない。だけどそれまでは居心地の良い微温湯な関係でもいいじゃないか……。誰かが苦しんだり傷つかない現状を作り続ければいいじゃないか……。
何で誰も分かってくれないんだよ……。なんでその当たり前が素晴らしい事なんだって気が付いてくれないんだよ……。いずれ無くなってしまうのに、どうして無くなる今を大切だって思えないんだよ……!
先延ばしにしちゃダメなのか……? このまま何も無かった事にしちゃダメなのか……?
俺の心の中に生まれる邪な気持ち。それが自分のワガママだと分かってはいる。分かっているけど、どうしようもないんだ。やっと俺が天才である事を認めてくれたんだ。やっと俺が俺でいても良いんだって分からせてもらえたんだ。
やっと本気で楽しいって思える日常が始めると思ったのに……。どうして、どうしてなんだよ……。
「小枝樹くん大丈夫? 少し顔色が悪いみたいだけど」
俺の耳に声が聞こえた。それは天才少女の優しい声で、少しだけ気持ちが落ち着いていくのが分かった。
「あぁ、大丈夫だよ一之瀬。心配してくれてありがとな」
中途半端な微笑みを作るのがやっとだった。一之瀬には気が付かれたくないという思いも合ったのだろう。でもどこかで、一之瀬なら分かってくれるかもしれないという愚かな思考を再び抱いていた。
「どういたしまして。それで脈絡が無くて悪いのだけれど、今日の放課後とか時間あるかしら?」
「放課後? 空いてるぞ」
「そう、それなら放課後にB棟のいつもの教室で会いましょ。小枝樹くんに話したい事があるから」
B棟、いつもの教室。その言葉で俺は再び現実から離れようとしている。
そうだ。俺はあの場所に行けば癒されるんだ。何も無くても良いんだって思えるんだ。それに一之瀬と一緒にいるあの空間は堪らなく安心する。それがどんな意味があるかなんて分からないけど、天才少女と一緒にいる二人の空間が俺は安心するんだ。
安易な希望を抱いてしまった俺は、少しだけ放課後だ楽しみになってしまっていた。