27 前編 (拓真)
文化祭実行委員会儀は順調に進み、俺は自らの手で喫茶店をもぎ取る事に成功した。
一之瀬がいなかったのは心細かったが、過労で倒れてしまったのでしょうがない。それにたいした事がなくてよかったって思ってる。
まぁ俺が出来る事なんて些細な事しかないのだ。これくらいは一人で頑張っても良いだろう。
そして最近の放課後には文化祭準備が所々で始まっていた。それはクラスの出し物だけではなく、大きなイベントに向けての準備も同じだ。
文化祭実行委員になっているから分かる事だが、今年のメインイベントはミスコンとミスターコンテストらしい。何となく両方の優勝者が分かってしまうが、出場するかしないか分からないので、結果を予想するのはやめておこう。
つか、文化祭を楽しみたいと思っている反面、一番盛り上がりを見せるのはきっと後夜祭だろう。学校全体でおこなう打ち上げ。テンションが上がりきってしまった生徒達ははたしてどうなってしまうのだろう。
そんな事を考えながら今日も平和を望んでいる凡人な俺です。
「ねぇ、小枝樹くん」
「ん? どうした一之瀬?」
放課後の準備の最中、一之瀬が俺に話しかけてきた。
「うちのクラスの喫茶店の件なんだけど━━」
体力を取り戻した一之瀬は毎日のように仕事をこなしている。流石は天才少女、と言ったら怒られてしまうのかな。
真剣に作業をしている一之瀬。そしてクラスの奴等もやっとヤル気が出てきたみたいで、各々役割を振り分けて仕事をこなしてくれている。だが、俺に対しての疑心は未だに解決していない。
まぁそれでも大丈夫でしょ。
「あぁ、それか。それならたぶん、ここをこうすれば━━」
「小枝樹 拓真はいる?」
俺と一之瀬が話している中、委員会の先輩が教室に来て俺を名指しする。
「あ、はい。小枝樹はここにいますよー」
「ちょっと小枝樹。今日の見回りは貴方よ? クラスの仕事よりも委員会が優先」
忘れていました放課後の見回り。これも委員会が当番制でやらなくてはいけない事の一つです。
まぁ、簡単に説明すると、文化祭準備の最中何か起こらないように見回るだけだ。後は条件を満たしていない物を使っていたりとか、そのまぁ色々注意しなきゃいけない事があるんですよ。
「悪い一之瀬。後は頼んでもいいか?」
「えぇ、大丈夫よ。ちょっと、楓ー」
あれ? そんなあっさりと許してくれちゃうの? いつもの一之瀬なら「どうして貴方は仕事を忘れるの。今日の内容は貴方がいるという事前提で考えているのよ!? はぁ……、もういいわ」みたいに怒られた挙句、凄い残念そうに諦められるんですよね。
なのにどうしたんだ?
「何、夏蓮?」
「楓にお願いがあるの。今から小枝樹くんが校内の見回りに行くから、サボらないかどうか着いて行って確かめて頂戴」
前言撤回を求めます裁判長っ!! 俺を貶す事をしなかった一之瀬 夏蓮は、見張り役をつけるという人権を無視した行動を取っております。このような暴挙を許しても良いのでしょうか。
「わかったー。小枝樹、あたしがしっかり見張ってあげるから覚悟しなさい」
判決。小枝樹 拓真に実刑。
どうしてなんですか裁判長っ!! 俺が何をしたって言うんですかっ!!
そんな脳内議論を繰り広げている俺をよそに、佐々路は悪戯な笑みを浮かべながら俺の近くにまで寄ってくる。そして項垂れている俺の腕を掴みながら連行していった。
「本当に一之瀬は何を考えてるんだ」
俺は呟いた。それはもう、隣にいる佐々路に聞こえるくらいの声量で。このくらい言っても良いでしょう。俺にだって自由という権利があるはずだ。
今の俺は佐々路と一緒に校内を巡回しています。この件に関して佐々路がついてくる理由なんて何にも無いのですが、一之瀬さんの言いつけにより佐々路は俺の監視役をしています。
まぁ、そんな事は置いておいてしっかりと巡回しましょう。というかちゃんと仕事をこなさないと一之瀬に何を言われるか分からない。
そして俺は真剣に校内を回りながら目を光らせているが、クラスの作業が始まってからまだ日が浅い。そんな状態でなにかいけない事をする生徒のほうが少ないのだよ。
どんなに見ていても真面目に作業をしている生徒ばかり。こんな事をする意味が本当にあるのだろうか。まぁ、サボりと言う事にすれば楽な仕事なのかもしれない。
「ねぇ小枝樹」
腰の後ろで手を組み、俺の歩調に合わせながら隣を歩いている佐々路が不意に俺を呼ぶ。そんな佐々路のほうへと俺は顔を向けた。
「ん? どうした佐々路」
「なんかこの仕事退屈だよね」
そうですよね。俺も退屈です。というか退屈なら教室に帰ってクラスの仕事をしてくださいよ佐々路さん。
「まぁ、実行委員の仕事なんて楽しいものは一つもないぞ? 考え方を変えれば文化祭での公認雑用係だからな。何かあったら実行委員会、問題が起これば実行委員会。ってな感じで厄介ごとを押し付けられる、立場の弱い人間だ」
真実というものは時に人を傷つける。そんな事知らなければ良かったと嘆き苦しむ人間だって普通にいる。だが佐々路は
「ふぅん、そうなんだ」
興味が無いんですかねっ!? それとも俺がつまらない人間なんですかねっ!? もう、そんなに冷たい反応されると少し悲しくなってしまいますよ……。
明後日の方向を見ながら適当に答える佐々路。そんな佐々路にを見ている俺は少しだけ項垂れた。本当にどうして佐々路は俺についてきたんだか……。あぁ、一之瀬のお願いだったっけか……。
そんな風に思いながらも、俺は見回りに仕事を淡々とこなす。まぁ何か特別な事件が起こるわけでもないし、適当に見ていれば良いだけの話なんだが。
すると佐々路が
「ねぇ小枝樹。さっき実行委員は雑用係って言ったよね?」
「あぁ、うん」
「なら、どうして小枝樹はこんな事やってるの?」
真剣な顔と言えばそうなのだろう。佐々路の表情は凄く真剣と言うわけでもなく、ただ今自分が疑問に思った事を俺に聞いてきているようだった。
「どうしてって、そりゃ俺が実行委員だからだろ」
「そうじゃなくて、どうして小枝樹は実行委員をやってるの?」
この女は自分が仕出かしてしまった事を忘れているんですかね? 実行委員を決める時に佐々路が余計な事をしなければ今の俺はもっと自由に生きているんですよ。
それもしれっと聞いてくるなんて、コイツは本物のバカなんですか?
「だから、俺が実行委員になったのは佐々路が余計な事をしたからだ。お前があの時なにもしなかったら、俺は実行委員を回避できた」
「それは嘘だよ。あの時、夏蓮が何もしなかったら回避できたんじゃないの?」
少しだけ強気に、だけどどこと無く不安げに俺の顔を見ながら言ってくる佐々路。
「あのな。一之瀬が間に入ってきた時には、時既に遅しだ。というか佐々路が入ってきた瞬間に俺の策略は全て崩されたんだよ」
「それって、どういうこと?」
この女は本当にバカなんですかね。ここまで言っているのならもう俺一人でどうにでもできたって思ってくれても良いんじゃないんですかね?
「いいか良く聞けよ佐々路。お前は一之瀬が何もしてこなかったら回避できたって思ってる。だけどその真実は違う。誰かの介入が無いからこそ、俺は回避できる事が出来たんだ。それを佐々路が介入してしまった事によって何も出来なくなってしまった。結果的に一之瀬が介入してきたから、一之瀬が実行委員になってるけど、あそこで一之瀬が何も言わなかったらお前が実行委員になってたんだからな」
「どうして、あたしが実行委員になってたの?」
俺の説明が下手くそなのか、佐々路は全く理解してくれない。だからもう、遠まわしに言うのはやめよう。
「だから、佐々路が何も言わなかったら適当な理由をつけて実行委員を断るつもりだった。でも佐々路が行動を起こした。そうなったら俺が実行委員になって佐々路を巻き込まないとあの場の収拾がつかないだろ」
「なんでよ。別に小枝樹が断ったって何も起こらなかったでしょ」
「確かにあの場で俺が断っても何も無かったかもしれない。だけど、俺の次の標的が佐々路になってた筈だ。俺はそれが嫌だったんだよ」
そう、あの場で一之瀬が何もしなければ確実に佐々路が標的になっていた。そして俺がそれを治める為に実行委員になる。だがそれでもきっと全てを治めるのは難しい。だからこそ佐々路も一緒にやらせると言う事でクラスの奴等を説得するつもりだった。
まぁ一之瀬にも同じような事を話したな。ん? 待てよ? どうして一之瀬が佐々路に俺の監視なんてやらせたのか疑問に思っていたが、これが狙いだったのか。
あの時の事を佐々路に伝えろって意味だったのか。そうじゃなきゃ今回の件は意味がわからん。まぁ意図が分かれば一之瀬らしいと感じてしまう俺がいる。
そこまで理解できた俺は隣にいる佐々路を見た。すると佐々路も俺の事を見ていたのか、目が合う。そして
「それってさ、あたしの事を庇ってくれたって事……?」
少し不安げに言ってくる佐々路。そんな佐々路の頭の上に手を置いて俺は別の方向を見て答える。
「そうだよ。俺は自分の大切な奴を絶対に守る。佐々路だって例外じゃない。それでもやっぱり他の奴にも笑ってて欲しいって思っちまうんだよな。なぁ、俺ってバカかな?」
佐々路に聞いておいてなんだが、自分がバカなのは十二分に理解している。それでも聞いてしまうのは俺の弱さなのかもしれない。
そんな俺のくだらない質問に佐々路は
「本当に小枝樹はバカだよ……。でもそんなバカな小枝樹だから、あたしは好きになったんだと思う」
一瞬寂しげな表情を浮かべた後、微笑みに変わる佐々路。自然に二人とも歩みが止まっていた。
「だから、あたしにもちゃんと頼れよ。バカ小枝樹」
そう言い俺の身体へと顔を埋める佐々路。だが、良く考えて欲しい。今は誰もいない場所というわけではないのです。普通に学校の廊下なのです。と言う事で、俺はこれからの反応なんて火を見るよりも明らかですよね。
「お、おい佐々路っ! 人前でくっつくのはやめろっ! 誰かに勘違いされたらどうすんだっ!」
「別にあたしは勘違いされても問題ありませんけど? 寧ろ勘違いされた方があたし的には都合がいいんだけど?」
俺の顔を見上げながら言う佐々路は意地悪な笑みを浮かべている。そんな佐々路を見た俺はなんだか冷静になってしまって、俺の身体にくっついている佐々路を離した。
「あのな、そんな強引な手段なんかじゃ俺は落ちないぞ? というか正攻法という言葉を佐々路は知らないんですか」
佐々路を離し、俺は見回りの為に再び歩き出しながら言った。少しだけ今の状況を変えようと俺は思ったんだ。
だって、やはり近距離で見る佐々路は普通に可愛い。それも俺の事を好きだと言ってくれている女の子だ。特別な目以外で見ることの方が難しいだろう。だけど、そんなつまらない答えを佐々路はきっと望んでなんかいない。その場の感情に流されて、中途半端な答えを俺も出したくは無い。
だからこそ距離を取る。佐々路の気持ちが本気だと分かっているから。その時
「正攻法なんかじゃ、勝てないよ……」
「ん? 何か言ったか?」
歩き始めた俺の後方から佐々路の声が聞こえた。だが何を言っていたのはよく聞き取れない。周りにいる人の声がうるさかったせいなのか、はたまた俺と佐々路の距離が少し空いているからなのか。
だけど振り向き見た佐々路の顔は、一瞬だけ苦しそうにしていたんだ。なのに
「んー? 何でもないよ。つか早く見回り終わらせてクラスに戻ろうよ。早くしないと夏蓮に怒られちゃうよ」
俺の視線に気がついたのか、佐々路は普段と変わらない笑顔に戻り、小走りで俺の方へと近づいてきた。そんな佐々路に俺は
「そうだな。さっさと見回り終わらせますか」
普段と何も変わらない自分でいる事しか出来なかった。もしも佐々路の気持ちが分からなかったのなら、苦しい表情について聞いていただろう。だけど、気持ちを知ってしまった日から俺は少しだけ佐々路の事を避けているのかもしれない。
そんな事を考えながら、微笑んでいる佐々路を俺は見つめていた。
結局、見回りが終わった後は実行委員会の仕事を手伝わされる羽目になった。少しだけ佐々路は委員長に怒っていたが、そこはどうにか宥めて佐々路だけをクラスに返した。
まぁ、俺に回ってくる仕事なんて本当に面倒くさい雑用ですよ。いつもなら隣に一之瀬がいるという事もあってなのか、嫌がらせレベルの仕事は押し付けてこない。だが、一之瀬がいないと分かった瞬間に俺の目の前には大量の紙の山。
それを俺に仕分けしろとの事だったらしい。というかどうして種類の違う書類を同じにしたんですか。完全にこれって虐めですよね? 挙句の果てには「天才だったらすぐに終わるでしょ」とか言われてしまうしまつ。
もう……。やれって言われればやるけどさ、そこまで敵意を剥き出しにしなくても良いんじゃないんですかね。普通に頼まれれば普通にやりますよ。そこまで俺は捻くれていませんよ。
いや待てよ。確かに少し前までの俺は捻くれていた……。まぁ一時的なものだったんだけど……。それでも沢山の人に迷惑をかけたし、嫌われているのわかる。だからと言って天才という言葉を使わなくたっていいじゃないか。一之瀬だって天才なんだぞ。
頭の中で文句を言いながらも俺は与えられた仕事をこなす。こなしてこなして、こなしまくる……。だけどおかしいな。全然書類の量が減りません。もう、助けてください。
俺はその現状を見て溜め息を吐いた。そして再び作業に戻る。
それが見回りが終わった時の話し。そして今は疲れ果ててしまっている身体を引きずりながらB棟三階右端の教室を目指しています。どうしてなのか、それは簡単な事です。癒されたいからです。
もう俺にはあの場所しかない。あの場所に行って心を癒してから帰宅したい。そして明日にも同じような事を繰り替える日々。それでも良いんです。仕事終りの居酒屋が癒されるサラリーマンさんなんですよ。
そんな事を考えている俺はB棟の三階へと着く。そしていつものように右端の教室へと歩んでいる途中で自分の愚かさに気がついてしまった。それは
B棟三階右端の教室は一之瀬がいないと開かないという事です。その事実を思いだし俺は項垂れる。
どうして忘れていたんだ……? 俺はそんなにも疲れているのか……? 確かに今日の仕事量は異常だったけど、出来ないことはない。だがそれじゃなくてもクラスの仕事もあって……。今の俺はオーバーワークをしているのか……? もしかしてこの学校……、ブラックなのか……!?
すでに俺の思考は意味不明な事だけを考え始めている。そんな自分を自己分析した結果、普通に疲れてしまっているのだと感じた。
だが、そこまで分かっているのにも関わらず、諦めきれない俺は一応B棟三階右端の教室の扉に手をかける。
ガラガラ
……開いた。
開いたという事は天才少女さんがいるという事で、俺は教室の中へと目を向ける。
「あら、どうしたの小枝樹くん」
すでに暗くなってしまった世界の中で、電気もつけずに天才少女は教室にいた。いつものように窓際に立っている少女を月明かりが照らし出していた。
「おいおい。もう下校時間過ぎてんぞ? 大丈夫なのかよ一之瀬」
「それはお互い様でしょ。それに下校時間を過ぎていたとしてもB棟の見回りまでには時間があるわ」
一之瀬の言っている事は尤もだ。確かにB棟の見回りは遅いとアン子が言っていた。それじゃなくても今は使われていないこの教室にはたして見回りなんて来るのであろうか。もしかしたら来ないかも。
そんな事を言いながらも俺は教室の中へと入り扉を閉めた。その瞬間おとずれる俺と一之瀬の二人だけの空間。なんだが少し前の、ここで一之瀬を抱きしめてしまった時の事を思いだす。
だけど今はそんな事を鮮明に思いだせるほどの体力がない。そのまま俺は窓際の一之瀬のいつもの場所まで歩く。そして窓の縁に腕を乗せ、外の空気を吸う。
「あー。やっぱりここは落ち着くな。つか、見回りが来ないって一之瀬が思ってるって事は、ここって絶対に来ないだろ?」
「そうね。あくまでも推測の域を超えないけれど、ここに見回りに来るという労働を避ける人の方が多いわ。だって無意味でしょ? それじゃなくてもこの教室を管理しているのは如月先生になっているのだから」
振り向きながら言った俺の言葉に一之瀬が返してきた。それはいつも当たり前のように起こる。だけど、今の俺は振り向いて見た一之瀬にドキリとしていた。
どうしてそんな感情に苛まれるんだろう。何か俺は一之瀬の事を特別に思っているのか?
一瞬で色々な事を考えて俺の中に一つの答えが表れた。
一学期の時から俺は何度か一之瀬にドキリとしたりしていた。それはふいに訪れる普段見せない一之瀬がいたからだ。だから今の俺のこの状態も普段と何も変わらない当たり前な事なんだ。
つか、どうして俺が一之瀬にドキリとしなくちゃいけない。確かに綺麗だし普通に可愛いし、おまけに天才だし。一之瀬を憧れる奴なんていくらでもいる。あれ? もしかして俺もそうなれば、凡人な仲間入りできるんじゃないのか?
頭の中を一瞬だけ駆け巡る妙案。だが、今の俺はそこまでして凡人になりたいなんて思っていない。寧ろこのままの俺をこれからもずっと続けていきたいとさえ思ってしまう。天凡な俺で。
そんな事を考えながらも、俺は一之瀬に言う。
「つか、どうして電気つけないんだ?」
「あのね小枝樹くん。確かに私はここへと見回りは殆ど来ないと言ったわ。だけどね、下校時間が過ぎているのに電気がついている教室は不自然すぎるでしょ。それもB棟の三階ときらた、何か事件でもあったんじゃないかと勘ぐってしまうのが凡夫よ」
尤もな事を言われた俺は「そうだな」と頷き再び窓の外へと顔を向けた。
秋の風。いや、もう少しだけ冬の香りを纏わせた体温を冷やす風。それでも半ば軟禁状態で書類の整理をしていて、熱が溜まってしまっている俺の頭を冷やすのには丁度良い温度だった。
そして空を見上げれば星が散りばめられていて、月もニッコリと空で笑ってる。きっと俺が求めていた平凡はこんなんだったのかもしれない。
そう思うと自然と笑みがこぼれた。
「ねぇ、小枝樹くん」
不意に俺に話し掛けてくる一之瀬。その声で俺は再び一之瀬の方へと振り向いた。
「なんだ?」
俺の問いかけに口篭る一之瀬。自分で声をかけてきたのに、いったい何なんですかねこの天才少女は。
少しの間、一之瀬が話すのを俺は待った。そして
「貴方はここで私に言ったわよね。貴方がここで見ていた景色の事を……」
確かにそんな話ししたな。でもどうしていきなりそんな話しを一之瀬は言い始めたんだ?
疑問が頭の中を巡っていると分かった俺は、一之瀬の言葉を静かに聞き始めた。
「私はね、ここで貴方に出会ったの。それは一年生の今と変わらない季節だったって思う。初めてこの学校で小枝樹くんを見た時、私と同じだって感じた。でも、貴方は数ヶ月で変わってしまった。沢山の人と仲良くしていて、私が見た小枝樹 拓真はいなくなってしまったって思っていたの」
穏やかな表情で、大切な何かを思うだすように話す一之瀬。夜の静けさが透き通る一之瀬の声を強調させた。
「でも、それは間違いだった。気分を変える為に学校の裏道から帰っている時、この教室から初めて見た時の小枝樹くんがこの景色を見ていた。それで私は思ったわ。あぁ、この人は何も変わっていない。私と一緒で一人なんだって……」
俺の横を通り過ぎ一之瀬は窓の縁に手を置き、夜空を見上げながら言う。そんな一之瀬の後姿は本当に切なくて、どうしてなのか分からないが、抱きしめてしまいたいと俺は思っていた。
その感情は夜の学校という雰囲気がそうさせているのだと、自分に言い聞かせた。
「だから私は貴方に会いたくなった。貴方に会って自分の事を話して……。そうすれば私は救われるかもしれないって思ったの……。私と同じで孤独で苦しむ貴方なら」
再び俺の顔を見る一之瀬の表情は、まるで救いを求めてる人形のようだった。
私は生きてる、私はここにいると言っているような無表情。だけどそれは俺の感じているってだけの事で、それが本当に今の一之瀬なのかは分からない。
どこまで考えたとしても憶測を超えない。どんなに天才だと言われたって、人の気持ちを理解する事は出来ない。だから俺は一之瀬に問う。
「なら、春に一之瀬がこの教室に来たのは、それが理由だったのか……?」
「えぇそうよ。私は貴方を利用して自分の戒めを和らげたいと思っただけ……。貴方なら私を理解して、私の力になるって思ったわ。でも会った貴方は私の想像していた貴方じゃなくて、天才の私を嫌っていた。いつもならそれを知れば諦められるのに、どうしても私は貴方を諦められなかったの……」
無表情だった一之瀬は、記憶の中の自分とリンクして悲しげで不安げな表情へと変えていった。
「なのに、どうして……?」
「だって、貴方は私を嫌いと言ってくれた。それもはっきりと『大嫌い』って……。そんな事、生まれてから言われたことなんて無かったわ。私は一之瀬財閥の次期当主で、天才少女。誰もが自分の感情とは関係無しに私へと近づいてくる。でも、小枝樹くんは初めから本物の私を見ていてくれた……。そんな貴方を諦められないって言うのは合理的じゃない?」
ころころと変わる一之瀬の表情。初めは無表情で次は悲しみと苦しみ。そして今は天才少女の一之瀬 夏蓮の微笑みだった。
そんな一之瀬に俺は
「確かにそうだな。その考えはとても合理的だ。自分の成す事柄を叶えるのに必要な人間だって、一之瀬は俺の事を思ってくれたんだな」
今の一之瀬が何を考えているのか分からない。それでも言っている事は正しいし間違っていない。だけど何でだろう。佐々路が嘘をついてるって聞いた時よりも、胸が苦しい。
だってそうだろ。一之瀬は何も嘘なんてついていない。初めから俺を利用しようって思ってたんだ。だけど今の俺はそれでもいいって思ってしまっている。
きっと一之瀬はとても純粋な女の子だ。だから今までの俺を助けてくれた行為が嘘に思えない。だからこそ、今の一之瀬の言葉を俺は否定できない……。
もし否定してしまったら、一之瀬がどこにいるのか分からなくなる。
静かな校舎で二人きり。それはとてもロマンチックな状況で、普通の男女なら互いに見詰め合ってキスでもするのかもしれない。だけど俺と一之瀬は違う。
確かに今は見詰め合ってる。だけどそれは、どんなに繕ってもロマンチックとは言えない。感情に溺れてしまった天才少女と、困惑を隠しきれない凡人。
それでも今の俺は一之瀬だけじゃなくて他の皆も笑顔になって欲しい。レイが戻ってきて昔の俺に戻れて、皆を救えるヒーローになりたいって思ってんだ。
確かに一之瀬の気持ちだって救いたい。でも、今の俺は一之瀬の気持ちが分からない。どうしたらいいんだって頭の中で自問自答を繰り返しても答えが出てこないんだ。
なんで一之瀬はこのタイミングで吐露したんだ? どうして今の一之瀬は悲しそうなんだ……? わからない……。俺にはわからない……。
そして俺の言葉を聞いて黙ってしまっていた一之瀬は、眉間に皺を寄せながら悲しみをその表情で現しながら、苦しそうに言ったんだ。
「ねぇ、小枝樹くん。私達の関係って、いったいなんなのかしらね……?」